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January 2011997

 居酒屋の灯に佇める雪だるま

                           阿波野青畝

華街に近い裏小路の光景だろうか。とある居酒屋の前で、雪だるまが人待ち顔にたたずんでいる。昼間の雪かきのついでに、この店の主人がつくったのだろう。一度ものぞいたことのない店ではあるが、なんとなく主人の人柄が感じられて、微笑がこぼれてくる。雪だるまをこしらえた人はもちろんだけれど、その雪だるまを見て、こういう句をつくる俳人も、きっといい人にちがいないと思う。読後、ちょっとハッピーな気分になった。『春の鳶』所収。(清水哲男)


January 1811998

 崩れゆくああ東京の雪だるま

                           八木忠栄

の冬は例外だけれど、東京は雪の少ない土地だ。たまに雪が降ると喜んで雪だるまをつくったりするが、作者のような雪国育ちからすると、これがとても貧弱なシロモノである。だるまが小さいのは仕方がないとして、あちこちに泥がついており、はじめから汚くも惨めなのだ。そんなせっかくの苦心の雪だるまも、あっという間に溶けてしまう。いや、崩れてしまう。まさに「ああ」としか言いようはあるまい。ところで、今度の大雪では、真白で立派な雪だるまがあちこちに立てられた。ポリバケツの帽子なんかをかぶって、いまだに崩れないでいる。できれは木炭の目や口がほしいところだが、さすがにそんな古典的な雪だるまは見かけなかった。先日、デュッセルドルフ近くの町から来日した女性と話していたら、ドイツでも昔は目や口に木炭を使ったそうである。ただし、鼻はニンジン。日本では、食べられる物を子供の遊びに使うことはなかったと思う。(清水哲男)


January 2512000

 鬱としてはしかの家に雪だるま

                           辻田克巳

びに出られない子供のために、家人が作ってやったのだろう。はしかの子の家には友だちも来ないから、庭も静まりかえっている。家の窓からは、高熱の子がじいっと雪だるまを眺めている。なんだか、雪だるまの表情までが鬱々(うつうつ)としているようだ。雪だるまには明るい句が多いので、この句は異色と言ってよい。どんな歳時記にも載っているのが、松本たかしの「雪だるま星のおしゃべりぺちゃくちゃと」だ。「星のおしゃべり」という発想は、どこか西欧風のメルヘンの世界を思わせる。したがって、この場合の雪だるまは「スノーマン」のほうが似合うと思う。スヌーピーの漫画なんかに出てくる、あの鼻にニンジンを使った雪人形だ。よりリアルにというのが彼の地の発想だから、よくは知らないが、日本のように団子を二つ重ねた形状のものは作られないようだ。どうかすると、マフラーまで巻いたりしている。こんなところにも、文化の違いが出ていて面白い(外国にお住まいの読者で、もし日本的な雪だるまを見かけられたら、お知らせください)。雪だるまの名称は、もちろん達磨大師の座禅姿によっている。だから、堅いことを言えば、ホウキなどの手をつけるのは邪道だ。それだと、修業の足りない「達磨さん」になってしまうから。(清水哲男)


January 2912003

 雪兎わが家に娘なかりけり

                           岩城久治

雪兎
語は「雪兎」。盆の上に、雪でこんもりと兎の形を作ったもの。最近はあまり見かけなくなったが、単純な形なのに、とても愛らしい。目には南天などの赤い実を使い、青い葉で耳を、松葉でひげをあしらったりする。そんな雪兎を、作者が作ったのか、奥さんが作ったのか。眺めているうちに、ついに「わが家」には「娘」がいなかったことを、いまさらのように再確認したのだった。子供は、男ばかり。雪兎を作っても、何も言わない。いや、ちゃんと見たのかどうかもわからない。あ〜あ、女の子がいたら、「わあ、かわいい」と言ってくれただろうし、その様子こそが可愛らしかっただろうにと、嘆息しているのだ。逆にわが家は娘だけだから、また違った嘆息がなきにしもあらずだけれど、句はなかなかに人情の機微をよく捉えていて、地味ながら良い句だと思った。ついでに思い出したが、幼いころ、母がよく雪兎を作って小さな玄関に飾っていた。私は男の子だったから、やはり何も言わなかった。むろん、弟も。そして、父も。あのときの母もまた、やはり掲句の作者のように、喜んでくれる女の子がいてくれたらばと、ちらりと不満に思ったかもしれない。句は雑誌「俳句」に連載されている宇多喜代子「古季語と遊ぶ」に引用されていた作品。2003年2月号。図版は、菓舗「ふくおか」のHPに載っていた食べられる「雪兎」。つくね芋(関東では大和芋)をすりおろし、砂糖と上用粉(関東では上新粉)を加えて生地とし、餡を包んで蒸したものという。食べてしまうには、もったいないような……。(清水哲男)


December 17122004

 天気図のみな東向く雪だるま

                           内田美紗

語は「雪だるま(雪達磨)」。正規の「天気図」ではなく、新聞などに載る天気予報図だ。天気の状態を晴天ならば太陽、曇天なら雲、雪なら「雪だるま」といった具合に、小さな絵をつけてわかりやすくしてある。その雪だるまが、みな「東」を向いているというのだ。もともとの画像が一つだから、何個並ぼうとも同じ方角を向いていて当たり前なわけだけれど、なんだかお互いが示し合わせて東を向いているように見えて可愛らしくもあり、可笑しくもある。と、ここまでの解釈で止めてもよいのだが、しかし、もう一歩進めてみるのも面白い。というのも、私の知る限り、この種の天気図で東向きの雪だるまを見たことがないからである。あらためていくつかの予報図を調べてみたが、みな正面を向くか、心持ち西を向いているものばかりだった。正面向きはよいとして、心持ち西向きなのには理由がある。日本全図で雪の多い地方は地図の東側(右側)にあるから、雪だるまマークは当然東側で多用される。したがって、雪だるまが東(右)を向いていると、みな日本各地にそっぽを向く感じになってしまう。そこでマークを描く際には、やはり秩序感覚からして西向きにしたほうが良いという意識が働くはずだ。だから私などは掲句を読んだ途端に、えっと思った。こりゃあ相当に偏屈なおじさんが作った図だなと感じたのだ。実際に東向きのマークを載せた天気図があるのだろうか、あるとすれば極めて珍しい。それとも、これは作者が素知らぬ顔で読者に仕掛けた悪戯なのだろうか。ご当人に聞いてみたい気がする。『魚眼石』(2004)所収。(清水哲男)


January 2312007

 とどのつまり置いてきぼりや雪兎

                           大木孝子

どのつまりの「とど」とは漢字で魚ヘンに老と書くそうだ。広辞苑では「鯔(ぼら)が更に成長したものの称」とある。出世魚鯔の行き着く先が「とど」という聞き慣れない名前となり、頂点を極めたはずの「とどのつまり」が、どちらかというと思わしくない方向に傾く言葉になっているとは不思議なものだ。掲句は迫力の「とどのつまり」に、悲しみのニュアンスをまとう「置いてきぼり」と続くところで、まるで童話のなかの森をさまよう子供たちのような景色となった。通学途中や旅先で、手なぐさみで作った雪うさぎを持ち歩くことはできないが、かといってそのままぎゅっと押しつぶし、雪玉にして遠くに投げつけるようなことは決してしない。雪うさぎは、手のひらの中でつぶらな瞳を持つ雪の生きものとして生まれたのだ。道中携えることの叶わぬ雪うさぎは、結局そのあたりの一番おだやかな場所にそっと置き去りにされる。そのささやかなうしろめたさが、彼らに永遠の命を灯すのだろう。持ち帰ろうとすれば「置いてけ、置いてけ」と呼ぶ声もどこからか聞こえてきそうな、無垢の世界にしか住むことができない雪の精である。ある冬の日、庭の雪をひと掬いして作った雪うさぎの、あまりの可愛らしさに室内に持ち込み、あろうことかテレビの上に置いて眺めていたら、みるみるうちに白い皿に浮く笹の葉2枚と南天の実2粒という姿となった。そのわずかな色彩がことのほか悲しかった。やはり野に置け雪うさぎ。『あやめ占』(2006)所収。(土肥あき子)


December 16122008

 いつ見ても駆けてるこども冬休み

                           前田倫子

よいよ12月も半ば。大人の年末への気の焦りや荷の重さなどとは一切関係なしに、クリスマスやお年玉などお楽しみ満載の冬休みを前に胸をおどらせている子どもたちを心からうらやましく思うこの頃である。ひたすら走ったり、ジャンプしたり、ぐるぐる回ったりして費やされる子どもの無尽蔵のパワーは一体どこから湧いてくるのだろう。2008年の流行語に「アラフォー(アラウンドフォーティー=40歳前後)」があった。従来女性の年齢に対しての微妙な言い回しは、24歳までの商品価値を「クリスマスケーキ」、31歳の未婚を「大晦日」など、すべて上限を使用することで、孤立した崖っぷち感を強調していたが、今回のアラウンドには上下もろともに含んでいるという曖昧さにより、俄然現代風の語感を与えた。30代後半から40代前半まで約10年という大きな幅は、過ぎていく日々が年々加速されていくのを直視することなく、当分同じ時間が繰り返されるように思わせる心地よさも備えている。子どものいつまでも駆けることのできるエネルギーを、擬似的に体験させているような言葉である。〈教室に三十匹の雪兎〉〈山茶花や無口の人とゐて無口〉『翡翠』(2008)所収。(土肥あき子)


January 2712011

 白髪やこれほどの雪になろうとは

                           本村弘一

髪になるのは個人差があるようで、はや三十歳過ぎから目立ちはじめる人もいれば六十、七十になっても染める必要もなく豊かに黒い髪の人もいる。加齢ばかりでなく苦労が続くと髪が白くなるとはよく言われることだけど、どうして髪が白くなるのかそのメカニズムはよくわかっていないようだ。掲句は「白髪や」で大きく切れているが、「これほどの雪」が暗い空を見上げての嘆息ともとれるし人生の来し方行く先への感慨のようにもとれる。降りしきる雪の激しさと白髪との取り合わせが近いようで、軽く通り過ぎるにはひっかかりを感じる。俳句の言葉とはすっかり忘れ果てたときに日常の底から浮上してきて読み手に働きかけるものだが、この句のフレーズにもそんな言葉の力を感じる。「ゆきのままかたまりのまま雪兎」「ひたひたと生きてとぷりと海鼠かな」『ぼうふり』(2006)所収。(三宅やよい)


January 3112014

 雪うさぎ柔かづくり固づくり

                           波多野爽波

うさぎとは、盆の上に雪の塊をのせ、目は南天の赤い実をつけ、兎の形にしたもの。その雪うさぎに、柔らかく固めたものと、かたく固めたものとがあるというのだ。雪うさぎを実際に作っている触覚が蘇ってくる。一句は巧まず、イメージを素直に詠んでいる。爽波には、シャープでシュールな感覚の句が多いが、こんな繊細でメルヘンチックな句もあるのだ。『骰子』(1986)所収。(中岡毅雄)


February 0922016

 形なきものにぶつかりしやぼん玉

                           市川 葉

に浮いたしゃぼん玉がぱちんと割れる。それは単に埃がぶつかったのか、重力によって上部が薄くなって割れたのか、なにか理由があるはずだが、人はそこに不思議ななにかを求めてしまう。それはガラスなどのワレモノとは異なり、しゃぼん玉が一滴の液体から生まれた実体のおぼつかないものであることが大きい。今年は凍っていくしゃぼん玉の映像が評判となった。美しくはあったが、それに違和感を覚えたのはしゃぼん玉に形を与えてしまうことへの不自然さなのだと気づいた。しゃぼん玉は、無にもっとも近い存在でなければいけないのだと思う。空に放たれ、震えるようにはじけていく。それらはまるで壊れやすさまでもが美の一端となっている。〈雪兎勝手に溶けてしまひたる〉〈生ビールいつも地球のどこか夜〉『市川葉俳句集成』(2016)所収。(土肥あき子)




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