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January 1411997

 うしろより外套被せるわかれなり

                           川口美江子

(き)せかけている相手は、もちろん異性だろう。もう二度と会うこともないであろうその人に未練などはないはずなのに、二人の間の習慣的な仕草のうちに、ふと胸を突いてくる心残り……。たった十七音のなかに込められた万感の思いが、読者にも確実にドラマチックに手渡されてくる。ここが、俳句の凄いところだ。詩では、こういうことは書かない。書けないから、書かないのである。(清水哲男)


January 1411998

 疲れ脱ぐオーバー釦飛ばしけり

                           大串 章

い最近、私にもこういうことがあった。寒い夜を疲れて帰ってきて、コートを脱ぐ手がもどかしく、ついついやってしまったのである。もはや我が家に着いたのだから、そんなに焦ることもあるまいにと、後で苦笑した。けれども、はやく暖かい居間に入りたいという気持ちからすると、釦(ぼたん)一個が跳ね飛ぶなんぞは「メじゃない」ことも確かだ。このとき、切れ字の「けり」は「あーあ」と翻訳するのである。ところで、私たちは日本人だから、このようにオーバー・コートは玄関の上がり框で脱ぐ。客の場合には、玄関に入る前に脱ぐのが礼儀だ。そこでわいてきた疑問なのだが、靴のままで室内に入っていける国の人たちは、とくに自宅では、一般的にどこらへんでコートを脱ぐのだろうか。玄関を開ける前に脱ぐのが正解の気もするが、どなたかご教示いただければ幸甚である。『朝の舟』(1978)所収。(清水哲男)

[カリフォルニア在住の三浦勇氏よりメール]アメリカでは一般的に玄関というかドアを開けて家の中へ入った時点でコート等を脱ぎます。そこで迎えに出たホストがコートを預かり、近くのクロゼット内の衣紋掛けにかけます。パーティーなど多数の人が集まる場合で、クロゼットのスペースが足りない時は、寝室を解放して、コートはベッドの上に積み重ねます。


November 16112001

 外套を脱げば一家のお母さん

                           八木忠栄

コートの季節。「外套(がいとう)」はもはや古語と言ってよいだろうが、コートとはちょっとニュアンスが違うと思う。コートは薄手であり、外套は厚手でモコモコしているイメージだ。いずれにしても外出着には変わりなく、それを来ているときは他所行きの顔である。妻が、外出から帰ってきた。もう夕食の時間なのだろう。部屋に入ってきたときにはまだ外套を着たままなので、やはり少し他所行きの顔を残している。子供らが「おなか空いたよお」と声をあげると、「はいはい、ちょっと待っててね」と彼女は外套を脱ぐ。途端に他所行きの顔は消え、ふだんの「お母さん」の顔に戻った。早速、台所でなにやらゴトゴトやっている。すっかり「一家のお母さん」に変身している。べつに何がどうということでもないけれど、一家がホッとする時間が戻ってきたわけだ。そこで作者は、いつもの調子でぶっきらぼうに注文をつけたりする。「心憂し人参辛く煮ておくれ」などと……。まっこと、「お母さん」は太陽なんだね。そこへいくと「お父さん」なんて生き物は、単に「お父さん」にすぎないのであって、外套を脱ごうが脱ぐまいが、一家をホッとさせるようなパワーはない。やれやれ、である。『雪やまず』(2001)所収。(清水哲男)


February 0122003

 明日ありやあり外套のボロちぎる

                           秋元不死男

語は「外套(がいとう)」で冬。敗戦後二年目の句だ。詩歌に「明日」が頻繁に登場したのは、戦後十数年までだろう。壊滅したこの国の人々は、とにかく「今日」よりも「明日」に希望をつないで生きるしかなかった。あのころ、澎湃(ほうはい)として沸き起こった労働争議を支える歌にも、無数の「明日」が刻み込まれている。だから、一口に「明日」と言っても、その内実、込められた思いは千差万別だった。ある人の「明日」には明るさがあり、ある人のそれには暗さしかなかった。こんなにも「明日」という言葉に、多面的な意味や情感が託された時代は、他になかったのではなかろうか。「煙草くさき国語教師が言うときに明日という語は最もかなし」(寺山修司)。掲句の作者はボロ外套を着て、街頭を歩いている。失意落胆、暗澹たる思いを打ち消すことができない。本当に、明るい「明日」はくるのだろうか。わからない。来ないかもしれない。そんな忸怩たる思いのなかで、作者はこれではならじと気を取り直した。「明日」は必ず「ある」のだ。と、外套のボロを引きちぎった。自分で自分を激励したのである。ボロを引きちぎる指先の力の込めように、激励の度合いが照応している。三段に切れた珍しい句だが、ぶつぶつと切れているからこそ、作者の心情がよく伝わってくる。『万座』(1967)所収。(清水哲男)


November 16112003

 外套の釦手ぐさにたゞならぬ世

                           中村草田男

語は「外套(がいとう)」で冬。いまで言う防寒用の「(オーバー)コート」であるが、昔のそれは色は黒などの暗色で布地も厚く、現在のような軽快感はまったくなかった。宮沢賢治が花巻農学校付近で下うつむいている有名な写真があるけれど、あれがこの季語にぴったりくる外套姿である。さぞや、肩にずしりと重かったろう。そんなずっしりとした外套の大きな「釦(ぼたん)」を無意識にもてあそぶ(手ぐさ)ようにして、作者は「たゞならぬ世」の前で立ちつくしている。その如何ともなしがたい流れに、思いをいたしている。大いに世を憂えているというのではなく、かといって傍観しているというのでもない。呆然というのともちょっと違って、結局は時の勢いに流されてゆくしかない無力感の漂う自分に苛立ちを感じている。寒さも寒し、外套のなかの身をなお縮めるようにしながら、手袋の手で釦をまさぐっている作者の肖像が浮かんでくる。暗澹と時代を見つめる孤独な姿だ。ところで外套と言えば、ドストエフスキーをして「我々はみな、ゴーゴリの『外套』から出てきた」と言わしめたロシア文学史上記念碑的な小説がある。うだつの上がらぬ小官吏が、年収の四分の一をつぎ込むという一世一代の奮発をして、外套を新調する物語。哀れなことに、彼は仕立て下ろしを着たその日の夜に、路上強盗にあい外套を剥ぎ取られてしまう。このいささか冗舌な作品の核となっているのは、ストーリーよりも時代の空気の描写だろう。厳冬のペテルブルグの街や行き交う人々の様子などに、盛りを過ぎつつあったロシア帝国の運命が明滅している。「たゞならぬ世」を鋭敏に察知してきたのは、いつだって芸術だった。『俳句歳時記・冬の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


November 23112005

 体型に合はぬ外套文語文

                           前田半月

句も収載されていることから、新刊の大岡信著『新・折々のうた8』(岩波新書)が送られてきた。パラパラと拾い読みしているうちに、この句に目がとまった。解説によれば、作者は「俳句形式の中で『言葉』についての論議をくりひろげようと試みているようだ」として、「擬態語のなかでぬくぬく竈猫」「彫像は直喩なりけり日脚伸ぶ」が引かれている。なるほど、面白い試みだ。しかし反面、こじつけ過ぎにならぬよう工夫するのが大変だろうなとも思う。掲句の季語は「外套(がいとう)」で冬。「文語文」への違和感を詠んでいる。どうも「文語文」というヤツは、(自分の)体型に合わない「外套」みたいで、しっくり来ないというわけだ。まあ、これは作者の思いだから額面通りに受け取るしかないが、古風な文語文を敬遠するのに、同じく古風な「外套」という言葉をもってきたところが微笑を誘う。「(オーバー)コート」ではなく「外套」を使ったのは、むろん意図してのことに違いない。「コート」の比喩で文語文を撃つのでは当たり前。あえて古い言葉の「外套」を持ち出して撃っているから、にやりとさせられるのである。ところで「外套」と言えば、多くの人がゴーゴリの短編を思い出すだろう。登場時の主人公が着ていた外套は、体型に合うとか合わないとかの問題以前のつぎはぎだらけのボロボロで、みんなから(平井肇訳では)「半纏(はんてん)」と呼ばれているような代物だった。そんな外套で、主人公は厳冬のペテルスブルグを歩いていた。十九世紀ロシアの悲しき外套よ……。この外套ならば、文語文にはむしろ馴染みそうだなと思ったことだった。『半雨半晴』(2004)所収。(清水哲男)


November 29112005

 アカーキイ・アカーキエヴィチの外套が雪の上

                           中田 剛

語は「外套(がいとう)」とも「雪」ともとれるが、メインとしての「外套」に分類しておく。さて、ついに出ました「アカーキイ・アカーキエヴィチ」。数日前にも触れたゴーゴリの小説「外套」の主人公だ。したがって、この作品を読んでいないと句意はわからないことになる。アカーキイ・アカーキエヴィチ。この特長のある名前は、私の若かったころには多くの人にお馴染みだったけれど、現在ではどうだろうか。19世紀のロシア小説などは、もう若い人は読まないような気がする。ストーリーはいたって単純で、うだつの上がらぬ小官吏であるアカーキイ・アカーキエヴィチが、一大決心のもとに外套を新調する。やっとの思いで作った外套だったのに、追いはぎにあって盗られてしまう。被害届を出したり、その筋のツテを頼って必死に取り戻そうとするが上手く行かず、そうこうするうちに悲嘆が嵩じて死んでしまうといったような物語だ。小説はもう少しつづくのだが、読み終えた読者が気になるのは、ついに見つからなかった彼の外套が、ではいったい何処にあるのかということである。おそらく句の作者もずっと気にしていて、とりあえずの結論を詠んでみたというところだろう。長年探していた外套が、なあんだ、ほらそこの「雪の上」にそのままであるじゃないか、と。そう言いきってみて、作者は少し安堵し、私のような読者もちょっぴりホッとする。厳寒のペテルブルグと往時の社会環境が、ひとりのしがない男を不幸に追いやっていく「外套」が日本人にも共感を生んだのは、やはり多くの人が理不尽にも貧しかったせいだろう。誰もそんな時代を望まないけれど、なんだかまた、そんな時代が新しい形でやってきそうな兆しは十分にある。「俳句」(2005年12月号)所載。(清水哲男)


November 30112006

 外套のなかの生ま身が水をのむ

                           桂 信子

和30年代の冬は今より寒かった気がする。家では火鉢や練炭炬燵で暖をとり、今では当たり前のようになっている電車や屋舎での空調設備も整っていなかったように思う。時間のかかる通勤、通学にオーバーは欠かせない防寒衣。父が着ていた外套は毛布のようにずっしり重く、そびえる背中が暗い壁のようだった。厳しい寒さから身を守る厚手の外套は同時に柔らかな女の身体を無遠慮な世間の視線から守ってくれるもの。夫を病気で亡くし、戦争で家を焼失したのち長らく職にあった信子にとって、女である自分を鎧っていないと押し潰されそうになる時もあったのではないか。重い外套に心と身体を覆い隠して出勤する日々、口にした一杯の水の冷たさが外套のなかの生ま身のからだの隅々にまでしみ通ってゆく。その感触は外套に包み隠した肉体の輪郭を呼び起こすようでもある。逆に言えば透明な水には無防備であるしかないから厚い外套を着たまま水を飲んでいるのかもしれない。「生身」ではなく「生ま身」とひらがなを余しての表記に、外套からなまみの身体がのぞく痛さを感じさせる。彼女の俳句には緊張した日常の中でふっとほころびる女の心と身体が描かれていて、せつなくなる時がある。『女身』(1955)所収。(三宅やよい)


December 07122007

 吾子の四肢しかと外套のわれにからむ

                           沢木欣一

子は(あこ)。自分の記憶の中で一番古いものは四歳の時の保育園。ひとりの先生とみんなで相撲をとった。みんな易々と持ち上げられ土俵から出されたが、僕は先生の長いスカートの中にもぐりこんで足にしがみついた。先生は笑いながらふりほどこうとしたが、僕はしっかりと足に四肢をからめて離れず、ついに先生は降参した。このときの奮戦を先生は後に母に話したため、僕はしばらくこの話題で何度も笑われるはめになった。あのときしがみついた先生の足の感じをまだ覚えている。加藤楸邨の「外套を脱がずどこまでも考へみる」森澄雄の「外套どこか煉炭にほひ風邪ならむ」そして、この句。外套の句はどこか内省的で心温かい。澄雄も欣一も楸邨門で「寒雷」初期からの仲間。二人とも昔はこんなヒューマンな句を作っていたのだった。「寒雷」は「花鳥諷詠」の古い情趣や「新興俳句」の借り物のモダニズムの両者をよしとせずに創刊された。「人間探求」の名で呼ばれる「人間」という言葉が「ヒューマニズム」に限定されるのは楸邨「寒雷」の本意ではないが、それもまた両者へのアンチ・テーゼのひとつであったことは確かである。講談社版『日本大歳時記』(1981)所載。(今井 聖)


November 25112008

 枇杷咲くや針山に針ひしめける

                           大野朱香

語は枇杷の花。今頃が盛りといえば盛りの花だが、夕焼け色の美しい果実に引きかえ、人間に愛でられる可能性を完全に否定しているような花群は、本当にこれがあの枇杷になるのか、と悲しくなるほど地味な姿だ。一方、針山に針が刺されていることに別段不思議はないのだが、先の尖った針がびっしりと刺さっている様子もなにかと心を騒がせる。これらのふたつは「ひしめける」ことによって、まったく違う質感であるにも関わらず、お互いに触れ合っている。群れ咲く枇杷の花は決して奥ゆかしくもなく陰気で、どちらかというと貪欲な生命力さえも感じられる。針山という文字から地獄を連想される掲句によって、それは地獄に生える木なのだと言われれば、なんとなく似合う風情もあるように思えてしまう。と、ここまで書いて、これでは枇杷の木に対してあんまりな誹謗をしているようだが、そのじつ枇杷の実は大好物である。果実が好ましいあまり、花も美しくあって欲しかったという詮無い気持ちが本日の鑑賞の目を曇らせている。〈ダッフルコートダックスフンドを連れ歩き〉〈年の湯や両の乳房のそつぽむき〉『一雫』(2008)所収。(土肥あき子)


January 2312010

 ガラス戸の遠き夜火事に触れにけり

                           村上鞆彦

事は一年中起きてしまうものだが、空気が乾燥して風が強い冬に多いということで冬季。とはいえ、火事そのものは惨事であり、兼題に出たりすると、火事がどこかであったかしら、と思うのもなにやら後ろめたく、また季感もうすい。「この句はいかにも火事らしい」などと言っても言われても、なんだかなあという気も。その点この句にはまず冬の匂いがある。ひんやりと黒いガラス戸の向こうに見える小さく赤い炎に、思わず指を重ねたのだろうか。平凡な沈黙を破るかのような一点の火。見慣れた夜景が生々しく動きだし、その中に急に人の息づかいを感じてしまう。そして、ガラスから伝わってくる冷たさを指先で共有する時、読み手はまた作者の内なる熱さに触れるような心持ちになるのかもしれない。他に〈コート払ふ手の肌色の動きけり〉〈浮寝鳥よりも静かに画架置かれ〉など、衒わず新鮮な印象。「新撰21」(2009・邑書林)所載。(今井肖子)


August 0482012

 素晴らしき夕焼よ飛んでゆく時間

                           嶋田摩耶子

和三十四年、作者三十一歳の時の作。星野立子を囲む若手句会、笹子会の合同句集『笹子句集 第二』(1971)の摩耶子作品五十句の最初の一句である。時間が飛んでゆくとは、と考えてしまうとわからなくなる、圧倒的な夕焼けを前にして何も言えない、でも何か言いたい、そう思いながら思わず両手を広げて叫んでしまったようなそんな印象である。さらに若い頃には〈月見草開くところを見なかつた〉〈地震かやお風呂場にゐて裸なり〉など、いずれも夏の稽古会での作。そしてその後も自由な発想を持ち続けていた作者だが先月、生まれ育った北海道の地で療養の末帰らぬ人となった。華やかな笑顔が思い出される。〈子を寝かし摩耶子となりてオーバー著る〉(今井肖子)


November 26112014

 凩に襟を立てれば戦後かな

                           阿部恭久

年の凩一号は、関西・関東地方とも10月27日に記録されている。日増しに寒さはつのるばかり。ワイシャツでもコートでも、襟を立てている若者がいるし、普段はオシャレでなくとも凩が強い日だと、人は思わず襟を立てたくなってしまう。あの襟にはそういう機能も果たしているのだ。思い出すのは、寺山修司は凩や寒さに関係なく、普段から意識的にコートの襟を立てていることが多かった。それがまたカッコ良かったよなあ。カッコ良くない人は、どうか気取って襟など立てませんように。襟が汚れるだけですよ。襟を立てることによって戦後がはじまったわけではない。けれども「襟を立て」るという、ちょっと気取った様子と「戦後」のうそ寒さが妙な具合に呼応して感じられ、どこかホッとさせられるような、懐かしいような……。敗戦で精神的に落ち込んでいた日本人の、やり場のない淋しさ、悔しさ、窮乏感と寒さが、凩と向き合った際、せめて襟を立てるという行為が凛と身を起こしてくるように、私には感じられる。この句に「外套は二十世紀も擦切れて」がならんでいる。「生き事」9号(2014)所載。(八木忠栄)


December 18122014

 コート払ふ手の肌色の動きけり

                           村上鞆彦

か紺色が深い色のコートの袖から出ている手の動きが生々しく感じられる。「コート払う」とあるので肩や裾あたりを手で払う動作が想像されるが、冬物の濃いコートの色を背景に遠くからでもその動きは目立つことだろう。句の着目はあくまでも手の「肌色」である。クレオンの肌色という色がオレンジベージュという言葉に変わったというニュースを聞いた。確かに人種によって「肌色」は違うし、あくまで黄色人種の日本人の示す範囲の概念だからだろう。この句で連想させる色もその肌色なのだけど、「肌色の動きけり」と即物的に書かれているだけに、コートからむき出しになっている手の動きと、その手がさらされている冷たい空気を想像させる。防寒用のコートや外套そのものを句の中心に置いた句を多いが、コートから露出した手でコートの色や質感を際立たせるような掲句の視点は新鮮に思える。『新撰21』(2009)所載。(三宅やよい)


February 0322015

 エンドロール膝の外套照らし出す

                           柘植史子

画の本編が終わり、キャストやスタッフの名が延々と流れるエンドロール。これが出た途端、席を立つせっかちな人もいるようだが、おおかたは映画の余韻に身を置きながら、日常へと戻っていく「次の間」のような時間を過ごす。少し明るくなった館内で丁寧に折りたたまれた外套に目を落としたとき、彼女は普段を取り戻す。そのあたりに浮遊したままの気持ちをかき集め、外套に押し込めるようにして席を立つ。それはほんの少し残念なような、それともほっとするような、映画を見終わったあとの独特の気分である。それにしても、最近のエンドロールは凝っていて、日常への入口にならない場合も多い。第60回角川俳句賞受賞。受賞作50句には〈受付の私語をさまよふ熱帯魚〉〈蜜豆や話す前から笑ひをる〉など。「俳句」(2014年11月号)所載。(土肥あき子)


February 2022015

 生き延びろ目白の尾羽雪まとう

                           小林 凜

れは2001年生れの凜くん11歳の作品。自然界に生きる野鳥まして小さな目白の生きる厳しさを知っての応援歌。虚弱体質に生まれいじめをかいくぐりつつ小学校生活を生き延びた。尾羽に雪をまとったこの目白は凜くん自身の投影でもある。人生平均寿命が2013年の日本人男性が80.21歳、女性86.61歳でざっくり言えば80歳台となった。これは平均だから86歳まで来た女性はこれからいったい幾つまで生きる勘定になるのか。健康であればもう半分もう半分と生きて見たい欲がでる。贅沢にも程があるのが人間の性と言うもの。他に8歳で<枯れ薄百尾の狐何処行った>。9歳で<秋の雲天使の翼羽ばたいて>10歳で<春嵐賢治のコートなびかせて>などあり。「ランドセル俳人の五・七・五」(2013)所収。(藤嶋 務)




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