G黷ェ句

December 15121996

 をとめ今たべし蜜柑の香をまとひ

                           日野草城

女であろうが「おっさん」であろうが、蜜柑を食べたあとにはその香りが残るものだが、「おっさん」ではなかなか句にならない。この句は、あげて乙女の賛歌として構成されている。賛歌のほどは、微妙な字配りとして現れていて、「乙女」はやわらかく「をとめ」と表現され、「食べし」も「たべし」と、情景を抒情的に再現している。したがって、よまれているのは単に蜜柑を食べたあとの女の香りだけではない。若い女の精気がかもしだす自然な色気に、たまさかの蜜柑の香りに託したかたちで、俳人は目を細めているのである。ふっと、淡い欲情のようなものを覚えた瞬間のスケッチ。(清水哲男)


November 20112001

 ねむさうにむけるみかんが匂ふなり

                           長谷川春草

れからは、炬燵(こたつ)で蜜柑の季節。句の「みかん」は、いかにももぎたてで新鮮といった感じの蜜柑ではなく、買ってきて少々日数を経た「みかん」だろう。ちょっと皮がくたびれてきているので、なるほど、しなしなと「ねむさうにむける」のである。平仮名表記がそんな皮の状態につり合っていて、実に的確だ。で、「ねむさうに」むけていくうちに、思いもかけないほどの新鮮な芳香が立ちのぼってきたのだった。This is THE MIKAN. と、作者は感に入っている。私に蜜柑の種類などの知識は皆無だが、食べるときは句のような「ねむさうにむける」もののほうが好きだ。贈答用に使う立派な姿のものよりも、八百屋でも雑の部類に入る「ヒトヤマなんぼ」のちっぽけな蜜柑ども。そのほうが、甘味も濃いようである。食べ方にもいろいろあって、むいた後の実に付いている、あれは何と言うのか、白い部分をていねいに取り除かないと気のすまない人がいる。どんなに小さい蜜柑でも、房をひとつひとつ切り離してから食べる人もいる。私は無造作に幾房かをまとめて口に放り込んでしまうが、そういう人たちはまた、魚料理なども見事にきれいに食べるのである。なお、掲句は田中裕明・森賀まり『癒しの一句』(2000・ふらんす堂)に引用句として掲載されていたもの。(清水哲男)


November 28112001

 路上に蜜柑轢かれて今日をつつがなし

                           原子公平

刻。車に轢(ひ)かれた「蜜柑」が、路上にぐしゃりと貼り付いていた。飛び散った果汁の黒いしみも、見えている。そこで作者は今日の自分を「つつがなし」、何事もなく無事でよかったと感じたというのである。健康な人であれば、日常が「つつがなく」過ぎていくのが普通のことだから、毎日その日を振り返って「つつがなし」と安心したりはしない。ただ、こんな場面に偶然に出くわすと、あらためて我が身の息災を思うことはある。そういうことを、寸感として述べた句だろう。しかし、もしも轢かれているのが猫や犬だったとしたら、こうはいくまい。作者は自分の息災を思うよりも前に、同じ動物として、轢死した猫や犬の痛みを我が身に引き込んでしまうからだ。ああ、あんなふうにならなくてよかった。とは、とても思えないし、思わない。掲句を眺めていると、自然にそういう思いにもとらわれてしまう。それと「つつがなし」という思いは、絶対的な根拠からではなく、相対的な視点から出てくることがよくわかる。もとより、作者はそんなことを言っているわけではないのだが、そういうことも思わせてしまうところが、俳句の俳句たる所以の一つであろうか。読者諸兄姉には、本日も「つつがなく」あられますように。『海は恋人』(1987)所収。(清水哲男)


December 11122002

 手にみかんひとつにぎって子が転ぶ

                           多田道太郎

語は「みかん(蜜柑)」で冬。まだ幼い「子」が「みかん」を握ったまま転んじゃった。そのまんまと言えば、そのまんまの句だ。ただ、それだけのこと。あらためて句景を説明する必要もないが、しかし、観賞する必要はあるだろう。というのも、転んだ子にとっての「みかん」は単なる「みかん」ではなく、とても大切なものの象徴と、自然に読めるからだ。転んで泣いても、この子はきっと「みかん」を握って放さなかったろう。そのことは「手にみかんひとつにぎって」というくどいほどの描写から、必然的に浮き上がってくるイメージだ。こんなときには「アホやなあ」と抱き起こし、微笑するのが周囲の大人の常だけれど、作者は微笑しつつも、ちらりとこの子に羨望の念のようなものを覚えたのではあるまいか。大切なものを握っているがゆえに転ぶということなどは、世故にたけた大人の世界ではなかなか見られない。たいていが転ばぬ先に、大切なものを手放してしまう。自分もまた、そうしてきた。でも、誰にだって、この子のように後先考えずにふるまった過去はあったのだ……。むろん理屈としてではなく、とっさにそうした感情が作者の胸をよぎった。掲句が心に響くのは、転んだ子の無垢への羨望もあるが、同時にみずからの幼少期に対する羨望の念が込められているからだと思える。『多田道太郎句集』(2002・芸林書房)所収。(清水哲男)


November 10112005

 蜜柑山の中に村あり海もあり

                           藤後左右

語は「蜜柑(みかん)」で冬。近所の農家の畑に、数本の蜜柑の木がある。東京郊外で、昔は畑ばかりだった土地柄とはいえ、蜜柑の栽培は珍しい。通りかかると、今年もよく実っている。やわらかい初冬の日差しを受けて、黄色い実が濃緑の葉影にきらきらと輝いてい見える様子は、まことに美しい。「全て世は事もなし」、そんな平和な雰囲気に満ちている。心が落ち着く。掲句のように本格的な密柑山は見たことがないのだが、そんなわけで、ある程度の想像はつく。全山の蜜柑に囲まれて「村」があり、しかも「海も」あるというのだから、まるで一幅の絵のようである。この句に篠田悌二郎の「死後も日向たのしむ墓か蜜柑山」を合わせて読むと、それぞれの密柑山は別の場所のものだけれど、そのたたずまいが目に沁みてくる。ところで、我が家の近所に実った蜜柑を一度だけ食べたことがある。昨年の冬だったか。この農家では収穫後に即売をするらしく、ちょうどいま買ってきたところだと言って、近所の煙草屋のおばさんにいくつかもらった。おそらく、紀州蜜柑の系統なのだろう。小ぶりではあったが、とても甘くて美味しかった。今年も即売があるのなら、ぜひ買いたいとは思うのだが、その日については昔からのつきあいのある人にだけ教えるらしい。そりゃそうだ。たいした量が収穫できるわけでなし、即売とはいえ、ほとんどお裾分けに近い値段のようだし……。ま、余所者は黙って指をくわえているしかないだろう。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


December 18122011

 みかん黄にふと人生はあたたかし

                           高田風人子

更とは思うものの、黄色というのは実に色らしい色だなと思うのです。見ていて決していやな感じはしないし、この句にあるように、あたたかなものを与えてもらったような気持ちになります。冬の夜に、ゆったりとコタツに入ってしまったら、ついミカンに手が伸びてしまうし、ひとつ食べたらきりもなく食べてしまいます。生きてゆくための食物とは違ったところで、精神のすみずみまで水分を補給してくれているような果物。あるいは、日々の諸事に目減りしてくる幸せを、いくばくかは回復してくれそうな、とてもありがたいものなのだなと、この句を読んで実感するわけです。『日本大歳時記 冬』(1971・講談社)所載。(松下育男)


February 1222012

 これ以上進まぬ二人蜜柑むく

                           関根優光

滞している二人がいて、二人しかいなくて、言葉も尽きて、目も合わせられず、手もちぶさたにやおら蜜柑を手にとり、男は少しもてあそんでからむき、女はちらりと男を見てから蜜柑をとりむく。もし、この句がこの情景を詠んでいるならば、男に脈がある。がんばれ男。停滞している二人がいて、二人しかいなくて、言葉も尽きて、目も合わせられず、手もちぶさたにやおら蜜柑を手にとり、女は少しもてあそんでからむき、男はちらりと女を見てから蜜柑をとりむく。もし、この句が、この情景を詠んでいるならば、女に脈がある。がんばれ女。けれども、二人、脈絡もなく蜜柑をむいているならば、互いに脈はないのかもしれない。作者関根優光さんは、昨年喜寿を迎えられた俳友で、成蹊高校時代に は同校教諭・中村草田男の薫陶(くんとう)を受けた。掲句は、今年1月21日、「蛮愚句会」で提出された作。よって、「蜜柑」は冬の季語。ご本人云わく、最初は炬燵に執着してしまって、一週間、うんうんうなって出来た句、とのこと。「みかん」という語感はかわいらしく、「蜜柑」という漢語は、ひそやかにあまい。蜜柑は二人を結びつけられるだろうか。二人は蜜柑に導かれることがあるだろうか。私の師匠、赤塚不二夫なら、「それは未完なのだ!」とおっしゃるでしょう。(小笠原高志)


December 01122013

 蜜柑捥ぎ終へてありけり蜜柑山

                           齋藤春雄

柑狩りの句でしょう。晴天の昼間、たわわに実る蜜柑畑の中に入って、はさみ片手に一つずつ捥(も)ぎ取り、かごに入れていきます。年譜によると作者61歳の句で、背よりも少し高い所にも手を伸ばし、シャンとした気分になっています。帰り道、かご一杯に盛られた蜜柑はずっしり重く、今日の収穫を喜びながらふり返ると、青空の中、蜜柑山は健在で、作者たちがかご一杯に取り尽くそうが蜜柑山は蜜柑山のままです。心地よい敗北感。捥ぎ取っても捥ぎ取っても蜜柑はたわわに陽光を受け、陽光そのものの色彩と香りを恵み続けています。掲句では「ありけり」が二重に効いていて、かごの中の蜜柑の存在を示す過去の「けり」と、今、距離を置いてふり返った蜜柑山への詠嘆の「けり」です。「蜜柑」という語もふくめて巧妙に一句の中で反復をくり返して、鈴なりの蜜柑を表出しているように読みました。『櫻館』(2122)所収。(小笠原高志)


December 29122015

 一日の終ひの寝息蜜柑剥く

                           富樫 均

息はもちろん作者のものではなく、家族の誰かのもの。おそらく、子どもの健やかな寝息を確認したあとの、夫婦におとずれた心休まる時間だろう。蜜柑の清冽な香りと、元気や活気を感じさせる色彩が、家族とともに今、幸せなひとこまを過ごしていることを実感する。今年もあと数日。一日のおしまいが、一年のおしまいとなる日も近い。おだやかな一年を過ごせたことに感謝しつつ、またひとつ蜜柑に爪を立て、幸せな時間を堪能する。『風に鹿』(2006)所収。(土肥あき子)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます