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November 29111996

 白鳥は悲しからんに黒鳥も

                           高屋窓秋

語は白鳥。もとより若山牧水の「白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」のパロディ。作者は明治34年生まれ。戦前の新興俳句運動の旗手として「山鳩よみればまはりに雪がふる」等の名作を書いている。「馬酔木」「天狼」を経て、平成の世になってから孫ほども年の違う若い世代の集う前衛誌「未定」の同人となる。この句を見てもまったく年を感じさせない。永遠の青年である。平成8年作。「未定」(68号)所載。(井川博年)


January 1111997

 雪積む家々人が居るとは限らない

                           池田澄子

景には、三好達治二十七歳のときの二行詩「雪」がある。「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。/次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。」という有名な詩だ。中村稔によれば「一語の無駄もないこの詩が語りかける世界は深沈たる抒情のひろがりをもっている」ということであり、ほとんどの日本人はそのように理解している。そんななかで「でもね……」と言ってみせたところが、この句の面白さだ。言われてみると「そりゃそうだ」ということになり、「深沈たる抒情」もカタナシである。といって、決して作者が意地悪を言っているとは受け取れない。そこが池田澄子の作品に共通する魅力である。俳句と詩。こうなると、どちらが古風なのか、わからなくなってきてしまう。『いつしか人に生まれて』所収。(清水哲男)


January 2611997

 人も子をなせり天地も雪ふれり

                           野見山朱鳥

いものの舞いはじめた夕暮れのレストランで、知り合いの若い女性に妊っていることを暗示された。急遽、結婚することにしたという。相手は私の知らない男性である。とたんにこの句を思いだし、彼女には言わなかったが、ひそやかに「おお、舞台装置も今宵は満点」と祝杯のつもりでジョッキをかかげた。もとより、この句はそのような「はしゃぎ」とは無縁のところで作られたものだ。死に近い床での自然との交感の産物である。だからこそ、逆に私は、若い彼女の出発にふさわしいと感じたのだった。妊った女性は、必然的に現実を見る目が変わる。そのときにはじめて「自然」と向き合うからだ。すなわち、みずからの身体を賭けて「自然」の意味を具体的に知るからなのである。『愁絶』所収。(清水哲男)


December 04121997

 雪雲を海に移して町ねむる

                           八木忠栄

国育ちの現代詩人の句。同じ作者に「ふるさとは降る雪の底母の声そ」という望郷の一句があり、豪雪の地であることが知れる。昼間いやというほどに雪を降らせた雲も、ようやく海上に抜けていった。いまは雪に埋もれた静寂のなかで、愛すべき小さなわが町は眠りについている……。「海に移して」というスケールの大きな表現が利いている。人が抗うことなどとても不可能な大自然への畏敬の念が、「町ねむる」にさりげなく象徴されているのだと思う。今夜も日本のどこかで、このようにねむる町があるだろう。海は出てこないけれど、にわかに『北越雪譜』(鈴木牧之)が読みたくなった。江戸期の雪国のすさまじい雪の話がいくつも出てくる。八木忠栄個人誌「いちばん寒い場所」(1997・24号)所載。(清水哲男)


January 1611998

 酒のめばいとゞ寝られぬ夜の雪

                           松尾芭蕉

書に「深川雪夜」とある。芭蕉四十三歳。芭蕉はサラリーマンではなかったから、大雪になっても、翌朝の通勤を心配することはない。だが、酒を飲んでも、飲むほどに寝る気にはなれないというのだ。降雪による興奮で、かえって頭が冴えてくるからである。「雪見酒」のような呑気な酒にはならない。つまり、この句には人間がいかにデリケートに自然と交感する存在であるかが、具体的に描かれている。台風などのときにも、こういうことはよく起きる。首都圏は、ひさかたぶりの大雪だ。自然の成り行きに逆らって出勤するサラリーマンたちのストレスは、いかばかりであろうか。かく言う私も、例外ではない。諸兄姉の安全を祈る。『勧進牒』(貞享三年・1687)所収。(清水哲男)


January 2511998

 この雪に昨日はありし声音かな

                           前田普羅

訣の句。前書に「昭和十八年一月二十三日夕妻とき死す、二十四日朝」とある。ときに普羅五十九歳。死と雪といえば、なんといっても宮沢賢治の「永訣の朝」が有名だ。「けふのうちに/とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ/みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ……」。賢治は二十七歳だった。賢治の詩がパセティックなのに比して、普羅の句は静謐な心境を写している。別れた対象の違いもあるが、やはり年輪から来る覚悟の差であろう。「家にも盛りがある」と書いたのは現代詩人の以倉紘平だが、普羅の境涯は妻の死を契機にするようにして、雪崩れのように下降していった。二年後には富山空襲で一切を失い、老いの身に漂泊の日々がつづくことになる。もとより誰にも自分を待ち受けている運命はわからぬが、家人の「声音」や物音が聞こえる状態にあれば、それをもって、まずは幸福な時期と言うべきなのであろう。『春寒浅間山』(1946)所収。(清水哲男)


January 3011998

 前略と激しく雪の降りはじむ

                           嵩 文彦

(だけ)文彦は、生まれも育ちも北海道で、現在は札幌在住の詩人。医師。この発想は、雪の多い地方の人ならではのものだろう。「雪は天からの手紙です」と言ったのは、たしかフランスの詩人だった。が、散文的な大雪はドカンと挨拶なしに「前略」で降ってくるというわけだ。それにしても「前略」とは言いえて妙。俳諧的なおかしみが生きている。自由詩では、なかなかこんな具合には書けない。伝統定型の強みだ。しかしこの魅力は、自由詩を書く人間にとっては、大いに「毒」である。最近、この「毒」にいかれた詩人がかなり増えてきた。もとより私もその一人だが、解毒剤はあるのだろうか。たぶん、安直なそれはないような気がする。もうこうなったら、「皿」までいっしょに食ってしまおうと覚悟を決めた。しからば、その先に何があるのか。それは、誰にもわからない。『実朝』(1998)所収。(清水哲男)


December 01121998

 師走何ぢや我酒飲まむ君琴弾け

                           幸田露伴

治40年(1907)12月の作。尾崎紅葉はすでに亡くなっていたが、紅葉ばりの談林体を思わせる句だ。日頃は落ち着いている僧侶(師)すらもが、町を走るというあわただしい季節。俗人は金勘定に追われ、やたらに忙しがっている。そんなものが「何ぢゃ」らほいと、作者はいささか突っ張った感じで、風狂の気のおもむくままに遊んでしまおうとしている。世間に背を向ける無理は承知で、無理を通そうというのだ。こうなると、風狂の道もラクじゃないのである。決して上手な句ではないし、はっきり言えば下手糞に近いけれど、当時の文人趣味をうかがうには貴重な資料だと思う。とにかく、現代の小説家などとはエラい違いだ。「清貧」だの「超俗」だのという精神が具体的現実的に生きていたことが、この句によって証明されている。同じような発想は漢詩にもありそうだが、露伴にしてみれば類想なんぞもヘのカッパで、実際に酒を飲む前から、かなりの上機嫌で俳諧に遊んでしまっている。すなわち「超俗」。実に、私などには羨ましい心持ちがする。「あゝ降つたる雪哉詩かな酒もがな」と、これまた当時の露伴の俳諧趣味を代表すると見てよい句であろう。(清水哲男)


December 02121998

 窓の雪女体にて湯をあふれしむ

                           桂 信子

者三十代の句。女盛りの肉体が、浴槽の湯をざあっと溢れさせている。外は雪だ。この暖寒の対比からいやでも見えてくるのは、作者の自己の肉体への執着ぶりだろう。男ならば「ああ、ゴクラク極楽……」とでも流してしまう入浴の気分を、女は身体全体でいわば本能的に流すまいと踏み止まる。男は身体を風流に流せるが、女は決して流せないと言い換えてもよい。このようなときに、女は存在するが、男は存在しないと言っても、言い過ぎではないだろう。たぶん女は、片時も自分に肉体があることを忘れては生きられないのである。かつて清岡卓行は「きみに肉体があるとはふしぎだ」というフレーズを書いたが、これなどは男の身体感を代表する詩句なのであって、この詩の美しさは女には届かないだろう。「ふしぎ」と言われるほうが不思議だと思うはずだからだ。女の肉体への執心は、自己愛と言うのとも、ちょっと違うような気がする。はじめに肉体ありき。そういう前提から、世の中との交流も自己との対話も出発するのではあるまいか。「女盛り」と書いたが、女にはおそらく自分の肉体の盛りがわかるのであり、女性の読者に伝えておきたいが、男はそれこそ不思議なことに、そういうことは皆目わからずに生きてしまうのである。『女身』(1955)所収。(清水哲男)


January 1611999

 貧乏は幕末以来雪が降る

                           京極杞陽

る雪と貧乏との取り合わせは、人間の堪える姿勢に共感が得られることから、人気句が多い。ただし、同じ貧乏とはいえ、句のように「幕末以来慣れてるよ、平気だよ」と啖呵を切られると、少しく事情は異なってくる。昭和二十年代後半の作品だから、リアル・タイムで読んだ読者は、おそらくキョトンとしたことだろう。とにかく「幕末」が利いている。怒涛のようにアメリカ仕込みの民主主義の流れが日本中を席捲しているときに、まさか「幕末」もないであろうに……。作者は、世が世であれば、豊岡藩主十四代当主であった人だ(明治四十一年生まれ)。関東大震災のときに、一人の姉を残して家族全員と死別している。そして、敗戦。したがって、この「幕末」という言葉は付け焼き刃ではない。ちゃらちゃらとアメリカに靡いていく連中に、かなわぬながらも一矢報いたいという気持ちが、血筋につながる「幕末」という、時代に遅れた刃の切っ先を閃かしたのであろう。ただ同時期の句に、いかにも家庭的な「そろばんへ四男と五男雪道を」「英語へは二男三男雪道を」が残っている。「幕末以来」という貧乏のレベルのほどがわかる。当時の庶民は、子供をそろばんや英語に通わせる家庭をさして「貧乏」とは言わなかった。でも、この句はこれでいいのである。『但馬住』(1961)所収。(清水哲男)


January 1711999

 雪の朝二の字二の字の下駄のあと

                           田 捨女

の朝。表に出てみると、誰が歩いていったのか、下駄の跡が「二の字二の字」の形にくっきりと残っている……。清新で鮮やかなスケッチだ。特別な俳句の愛好者でなくとも、誰もが知っている有名な句である。しかし、作者はと問われて答えられる人は、失礼ながらそんなに多くはないと思う。作者名はご覧のとおりだが、古来この句が有名なのは、句の中身もさることながら、作者六歳の作句だというところにあった。幼童にして、この観察眼と作句力。小さい子が大人顔負けのふるまいをすると、さても神童よともてはやすのは今の世も同じである。そして確かに、捨女は才気かんぱつの女性であったようだ。代表句に「梅がえはおもふきさまのかほり哉」などがある。六歳の句といえば、すぐに一茶の「われと来て遊べや親のない雀」を思い出すが、こちらは一茶が後年になって六歳の自分を追慕した句という説が有力だ。捨女(本名・ステ)は寛永十年(1633)に、現在の兵庫県柏原町で生まれた。芭蕉より十一年の年上であるが、ともに京都の北村季吟門で学んでいるので出会った可能性はある。彼らが話をしたとすれば、中身はどんなものだったろうか。その後、彼女は四十代で夫と死別し、七回忌を経て剃髪、出家し、俳句とは絶縁した。(清水哲男)


January 2411999

 この雪に昨日はありし声音かな

                           前田普羅

書に「昭和十八年一月二十三日夕妻とき死す、二十四日」とある。戦争中だった。当時、富山在住の作者は五十九歳。妻を亡くした翌日の吟だから、ほとんど自然に口をついて出てきた一句であろう。身構えもなければ、熟慮の跡もない。それだけに、つい昨日まで作者に話しかけていた妻の声が、私たち読者にも聞こえるような、そんな臨場感が伝わってくる。何事もなかったかのように降る雪の、昨日とかわらぬ白さが、いまさらながら目にしみるようだ。幸運なことに、私にはこの喪失感を真に味わえる体験はないのだけれど、この淡々とした句のなかに、しかし男のうろたえた気配というものだけは知覚できる気がする。句のどこにそれを感じるかと問われると困ってしまうが、一気に、しかし静かに吐き出された感慨のなかの皮膚感覚の欠落ぶりにおいて、そんな気がするということである。茫然の感覚には、生きながら死んでいるような無自覚さがあるだろうからだ。したがってこの句は、亡き妻を追悼しているというよりも、みずからの気を確かに保つためのそれのように写るのである。『定本普羅句集』(1972)所収。(清水哲男)


January 2711999

 ハンバーガーショップもなくて雪の町

                           内山邦子

間時彦『食べもの俳句館』(角川選書)で見つけた句。図書館で借りた本だが、返すのがもったいないくらいに面白い。選句の妙を見せつけられる思いがするからである。掲句の句意は平易なので、解説は不要だろう。ただ、草間氏も書いているように「私はそんなことを全然、気が付かなかったが、ハンバーガーショップの在る、無しが、町の格を決めるものになるのだろうか」。ここが、私も気になった。ちなみに、作者が住むのは新潟県中頚城(なかくびき)郡大潟町。直江津から北東へ十数キロの日本海に面した町だという。私の体験からすると、かつて住んだ町や村に不満だったのは、たとえば書店がないということであった。「町の格」までは意識しなかったけれど、都会との差を測るバロメーターとしては食べ物屋よりも、書店や映画館などの食べられない物を扱う店の存在だったような気がする。大潟町に書店があるかどうかは知らないが、本屋なんかはなくても現代の都会との差を明瞭に意識させられるのは、ハンバーガーショップなのだと作者は言っている。いまや都市化を測る物差しは、「知的」ファッションよりもファッション的な「食物」に移行してしまったということなのだろうか。(清水哲男)


February 1121999

 雪の夜長き「武蔵」を終わりけり

                           徳川夢声

川夢声というひとがいた。ラジオがまだ娯楽の王座にあった時代、夢声の朗読は「話術の至芸」として日本国中知らないものはなかった。特に有名だったのが吉川英治の『宮本武蔵』の朗読で、その本物を聞いたことがない田舎の子供でも口真似ができたほどである。ラジオではNHKで昭和14年から15年まで続き、その後戦時国民意識高揚に18年から20年1月15日まで続いた。この句はその最後の日に作られたものである。夢声は俳句好きで久保田万太郎の「いとう句会」に所属し、句歴三十年に及んだ。日記代わりに作ったので膨大な凡作の山であるが、そこがいかにも夢声らしい。俳号・夢諦軒。「武蔵」の朗読は戦後復活し、昭和36年から38年に「ラジオ関東」で放送され、レコードになった。私達が聞いたのはそれかもしれない。句日誌『雑記・雑俳二十五年』(オリオン書房)所収。(井川博年)


February 1521999

 雪降るとラジオが告げている酒場

                           清水哲男

に一度の自句自解。といって、解説するに足るような句ではない。読んだまま、そのまんま。なあんだ、で終わりです。新宿駅のごく近く(徒歩3分ほど)に「柚子」という酒場がある。「天麩羅」と難しい漢字で書いてある看板を見ると、物凄く高そうな店だ。正常な神経の持ち主ならば、ヤバイと敬遠するロケーションにある。が、ある夜とつぜんに、無謀にも辻征夫が(酔った勢いで)踏み込んで、めちゃくちゃに安いことを発見してきた。以来、この店は私たちの新宿での巣となった(みんな、安いなかでも高い売り物の天麩羅は食べずに、もっぱら鰯の丸干しを食べている)。その店で思いついた句だ。めちゃくちゃに安い店だけに、有線放送などという洒落れたメディアとは縁がない。開店中は、ずっとラジオをかけている。要するに、トランジスター・ラジオが出回りはじめたころの酒場と同じ雰囲気なのだ。飲んでいるうちにラジオなぞ耳に入らなくなるが、はたと音楽が止んでニュースや天気予報の時間になると、半分は職業病から、私の耳はそちらに引き寄せられる。で、句のような場面となり、別になんというわけでもないのだけれど、不意に昔の山陰の雪景色が明日にでも見られそうな気分になったという次第。『今はじめる人のための俳句歳時記・冬』(角川ミニ文庫・1997)所載(と、実は当ページの読者の方から教えていただいたのですが、本人は呑気にも未確認です)。(清水哲男)


February 2321999

 東京の雪ををかしく観て篭る

                           山形龍生

前市から出ている日刊紙「陸奥新報」に、藤田晴央君の詩集『森の星』(思潮社)の書評を書いた。掲載紙(2月16日付)が送られてきて、一面の記事で津軽の雪の凄さに驚いていたら、片隅に俳句のコラム(福士光生「日々燦句」)があって、この句が載っていた。以下、福士氏の解説を引用しておく。「映像は、雪に襲われた都民の醜態・不様。「観て」を--対岸の火事を囃す群衆のように--と解せば「をかし」は不様に向けたものだが、それでは雪国に住む者の狭量。雪に対して用心深い津軽人の作者には、不様の原因である無防備が不思議でならないのだ」。「都民の醜態・不様」とはいささかケンのある物言いだが、なるほど、雪国の人からこのように言われても仕方のないところは、たしかにある。ただし、この句は「無防備が不思議」などとおためごかしを言っているのではなくて、わずかの雪に滑ったり転んだりとあわてふためく都民の姿が、単純に可笑しいと笑っているのである。この笑いには皮肉も風刺も、そしてなんらの敵意も含まれてはいない。素直で素朴な笑いなのだ。そう読まないと、句がかわいそうである。「篭る」は「こもる」。新聞記事に戻れば、2月15日の青森市の積雪132センチは「平成で最高」とあった。(清水哲男)


September 0191999

 九月来箸をつかんでまた生きる

                           橋本多佳子

佳子は生来の病弱で、とくに夏の暑さには弱かったという。したがって、秋到来の九月は待ちかねた月であった。涼しくなれば、食欲もわいてくる。「さあ、また元気に生きぬくぞ」の気概に溢れた句だ。それにしても「箸をつかんで」は、女性の表現としては荒々しい。気性の激しさが、飛んで出ている。なにしろこの人には、有名な「雪はげし抱かれて息のつまりしこと」がある。この句を得たのは五十一歳。「箸をつかんで」くらいは、へっちゃらだったろう。しかも、この荒々しさには少しも嫌みがなく、読者もまた作者とともに、九月が来たことに嬉しさを覚えてしまうのである。九月来の句には感傷に流れるものが多いなかで、この句は断然異彩を放っている。ちなみに、若き日の多佳子は、これまた感情の起伏の激しかった杉田久女に俳句の手ほどきを受けている。「橋本多佳子さんは、男の道を歩く稀な女流作家の一人」と言ったのは、山口誓子である。(清水哲男)


December 13121999

 雪夜子は泣く父母よりはるかなものを呼び

                           加藤楸邨

閑たる雪の夜。ひとり寝ていた子供が、急に泣き出した。夢でも見たのだろう。じきに泣きやむさ、立っていくこともない。だが、なかなか泣きやまない。気になって、泣き声を聞いているうちに、なんだかいつもと違う声に感じられてきた。それは父や母に来てくれとうながしているのではなく、そんな日常性を越えて、もっと原初的な「はるかなもの」を呼んでいるかのような声だった。泣いているのは自分の子供には違いないけれど、その子供の声は「類としての人間」を体現しているようなそれであったと言うのである。ここで楸邨は、人が人としてあることの根源的な寂しさを語ろうとしている。それを、人間の大人が組み立てた社会には無縁な子供の泣き声を梃子にして、このように書き上げたというわけだ。生物として本能的に生きている子供の、いや「類としての人間」の、その本能に触れた衝撃。静かな雪の夜ならではの「発見」と言うべきだろう。破調にして字余り。「はるかなもの」を提示するためには、定型のなかでちんまりと座っているわけにはいかなかったのである。『起伏』(1949)所収。(清水哲男)


December 21121999

 山ごーごー不安な龍がうしろに居り

                           阿部完市

季ではあるが、「山ごーごー」は荒れる冬山に通じる。しかも「不安な龍」とくれば、ちょうど1999年の年末期にも通じる。二十年以上も前に作られた句だから、もちろん2000年問題が意識されていたわけではない。が、なんだか今日の事態を予言したような句に見えてきてしまう。その意味でも、怖い作品だ。明けて2000年。何が起きるのか、何も起こらないのか。誰にも予測はつきかねるが、一つ言えることは、この「不安」の種は人がみずから蒔いたものであるということだ。この事実だけは動かない。したがって「山」も「龍」も、その責を負うわけにはまいらない。「自己疎外」という懐しい哲学用語が、極めて具体的によみがえってきた世紀末。単なる数字の行列を横切るだけで、過去これほどまでに社会的な不安が際立ったことはない。人間もたいしたことはないなと、いまごろは「山」も「龍」もがあざ笑っていることだろう。関連で、同じ作者の句をもう一つ。「いま憂季とや雪雲と何十の歌謡」。こちらは大晦日恒例の番組「紅白歌合戦」に通じていると読める。2000年まで、あと11日。『春日朝歌』(1978)所収。(清水哲男)


December 23121999

 思惟すでに失せ渺渺と額の雪

                           深谷雄大

者は北海道在住。「雪の雄大」と称されるほどに、雪に取材した句が多く、優れた句も多い。吹雪の道を行く感慨だ。猛烈な吹雪のなかを歩いていると、考えることなど何もできなくなり、ただひたすらに前進あるのみ。額(ぬか)にかかる雪も、渺渺(びょうびょう)と果てしない感じになってくる。これほどまでの吹雪の体験はないけれど、私が育った山陰地方の雪も昔はけっこう降ったので(学校が休みになることも度々だった)、多少とも雰囲気はわかる。一面の銀世界、というよりも灰色の世界を歩いていると、思惟(しい)などはたちまち蒸発してしまい、妙なことを言うようだが、やけに自分の身体だけが身近に感じられたものだ。吐く息の熱さが意識され、こらす目の不可視性が頼りなく意識される……。日ごろは抽象性を帯びている身体が、自然の働きのなかで、にわかに具体的に生々しいものとなるわけだ。その生々しさが、句では「額」に象徴されている。若き日の深谷雄大は、詩人でもあった。したがって、この句が収められている第一句集『裸天』(1968)は、詩書出版社の思潮社から刊行された。現在は『定本裸天』(1998)として、邑書林により文庫化されている。(清水哲男)


December 30121999

 水仙が捩れて女はしりをり

                           小川双々子

月用の花として、いま盛んに売られている水仙。可憐な雰囲気だが、切り花として持ち歩くには少々厄介だ。すぐにポキッと折れそうな感じだし、「水仙やたばねし花のそむきあひ」(星野立子)と、あまりお行儀がよろしくない。それがこともあろうに、水仙の花束を持って走っている女性がいるとなったら、これはもうただならぬ気配だ。師も走るという季節(句は年末を指してはいないが)ではあるけれど、いつにせよ、花を持った人の走る姿は確実に異様に写るだろう。このときに作者は、捩(ねじ)れている水仙の姿を、その女性と一体化している。実際は花が捩れているのだが、女性その人もまた水仙のように捩れていると……。双々子には他に「女体捩れ捩れる雪の降る天は」があり、女性の身体と「捩れ」は感覚的に自然に結びついているようだ。もちろん、女性を貶しているのでもなく蔑視しているのでもない、念のため。キリスト者だから、おそらくは聖母マリア像にも、同様な「捩れ」を感じているはずである。誰にでもそれぞれに固有に備わっている特殊な感覚の世界があり、そのなかから私たちは一生抜け出すことはできない。『小川双々子全句集』(1991)所収。(清水哲男)


January 2112000

 うつくしき日和となりぬ雪のうへ

                           炭 太祇

国というほどではないけれど、でも、一冬に一度か二度は深い雪のために学校が休みになった。そんな土地で育ったから、この句の味わいはよくわかる。降雪の後の晴天の景色は、たしかに「うつくしき」としか言いようがない。目を開けていられないほどの眩しさ。うかつに軒下などに立っていると、ドサリと雪が落ちてきたり……。そんななかを登校するのは、楽しかった。一里の道のりなど、苦にならなかった。多田道太郎さんの新著『新選俳句歳時記』(潮出版社)に、この句が引かれている。「『うつくしきひより』とはいいことばだな。『うつくしい』『ひより』って忘れられた良い日本語」と書かれている。多田さん、同感です。「うつくしい」は「きれい」とは違いますからね。私が学生時代を過ごしたころの京都では、まだ「うつくしい」という言葉が日常的に生きて使われていた。とくに女性たちは、よく使っていた。「きれい」というとんがった言葉では表現できない「うつくしさ」が、当の女性たちにも備わっていた。いまでも使っている「京女」はいるだろうか。いるような気はする。(清水哲男)


January 3012000

 狼の声そろふなり雪のくれ

                           内藤丈草

藤丈草(1662-1704)は尾張犬山藩士、のちに出家した人。蕉門。もう一度、心をしずめて読み返していただきたい。げにも恐ろしき光景。心胆が縮み上がるようだ。狼の姿は見えないが、見えないだけに、恐怖感がつのる。しかも、外はふりしきる雪。そして、日没も間近い薄暗さ。あちらこちらから間遠に聞こえてきていた鳴き声が、ほぼ一所にそろった。「さあ、里にやってくるぞ」と、作者は恐怖のうちに身構えている。三百数十年前のこの国では、狼がこのように出没していたことが知れる。冬場にエサを求めて里にやってくるのは、カラスなどと一緒だ。句は、柴田宵曲『新編・俳諧博物誌』(岩波文庫・緑106-4)で知った。宵曲は「狼の声の何たるかを知らぬわれわれでも、この句を読むと、丈艸の実感を通して寒気を感ずるほど、身に迫る内容を持っている」と、書いている。「声そろふ」で、きっちりと焦点が定まっているからだ。このように、昔は人と狼との距離は近かった。「送り狼」という言葉が残されているほどに……。「日本における人と狼との間には、慥(たしか)に他の野獣と異ったものがあるので、人対獣の交渉というよりもむしろ人対人の交渉に近い」と、宵曲は書いている。(清水哲男)


January 3112000

 雪の海底紅花積り蟹となるや

                           金子兜太

面を眺めているだけで、一気にゴージャスな気分になってくる。華麗な句だ。そしてよく読み込むと、繊細な感覚の生きた世界でもある。作者は「海底」を「うみそこ」と読ませている。自註が『兜太のつれづれ歳時記』(1992・創拓社)に載っているので、全文を引いておこう。「北陸海岸の宿に泊まって、蟹を食べた。夕方からまた雪がきて、私は雪降りそそぐ日本海の蒼暗を思いやっていた。すると、その昔、奥羽の地に花開いた紅花(べにばな)を積んで、木造船がこの海原を走っていたことを思い出したのである。紅花は船からこぼれ、海底に積もり、やがて蟹になった。いや、そうにちがいない、とまで思いつつ」。私が、これ以上、つけくわえることは何もない。このイリュージョンは壮大で、実に美しい。今夜の夢に、すぐにでも出てきそうな幻想の世界。金子兜太というと、なんとなく武骨で大振りな俳人と思っているムキもあるようだが、その見方はひどく一面的でしかない。彼の作品を初期から子細に見てくると、根底に一つあるのは、まごうかたなきリリシズムへの純粋な没頭だ。そこに誤解される要素があるとすれば、抒情のスケールが並外れて大きいことからだろう。ガラス細工じゃないということ。『早春展墓』(1974)所収。(清水哲男)


February 1622000

 山に雪どかつとパスタ茹でてをり

                           松永典子

日の「夏にしあれば」から、季節は一転して真冬へと……。実は、昨日の天気予報で「川鋭し」の故郷近辺に大雪警報が出ていたので、ぱっと掲句を思い出したという次第。もちろん私が子供だったころにパスタなんて洒落た食べ物はなかったけれど、饂飩(うどん)だっていいわけだし、作者の思いは時間を逆転しても十分に通用する。「どかつと」は雪とパスタの両方の量にかけられており、それだけでも作者の非凡な才能を認めざるをえない。加えて、素朴でのびやかな感覚が素敵だ。外の寒さと厨房の暖かさとの対比までは、少し俳句を齧った人には思いの至る発想だが、たいていはちまちまとした句になってしまいがち。ところが見られるように、作者は堂々としている。してやったりの小賢しさがない。内心では「してやったり」なのではあろうけれど(失礼)、それをオクビにも表に出さないという、いわば秘めたる力技の妙。きっと、この「どかつと」茹でられたアツアツのパスタは美味しかったでしょうね。と、思わずも作者に話しかけたくなるところに、真面目に言って、俳句的表現の必然不可欠性が存在する。私たちが俳句をないがしろにできない根拠が、質量ともにここに「どかつと」例証されている。『木の言葉から』(1999)所収。(清水哲男)


June 1462000

 百合の花超然として低からず

                           高屋窓秋

て、窓秋晩年の一句をどう読めばよいのか。表層的な意味ならば、中学生にだって理解できる。凛乎とした百合の花讃歌だ。この百合の姿かたちに、誰も異存はないと思う。「低からず」とわざわざ述べているのは、丈の高低を問題にしているからではなく、「超然とし」た花のすがたを、なお鮮やかなイメージに補強するためである。普通に読むと「超然」に「低からず」は潜在的なイメージとして浮き上がってくるはずだが、窓秋は念には念を入れている。もっと言えば、下手くそな句になることがわかっていながらの、あえての念押しなのだ。なぜだろうかと、私は立ち止まってしまった。考えてみて、以下は私の暴論に等しいかもしれぬ結論である。すなわち、このときに窓秋は、もはや読者のイメージを喚起することに空しさを覚え、みずからが築いてきた喚起装置にも疑念を抱き、逆にそれらを封印する句を作ってみたかったのではあるまいか。誰が読んでも読み間違えのない句。言葉の通り以上でも以下でもない句。つまりは、表層的にしか読みようのない句。そんな句を作りたかった……。だからこその「念押し」だったのではないか。かつて「山鳩よみればまはりに雪がふる」と書き、天下を酔わせた俳人のこの文学的帰着は、個人的作法を越えた俳句全体の問題として、なお考えてみる必要がありそうだ。『花の悲歌』(1993)所収。(清水哲男)


December 07122000

 考へず読まず見ず炬燵に土不踏

                           伊藤松風

五中七までは、どうということもない。また老人の境涯句のようなものかと読み下してきて、下五でぴりっとしっぺ返しをくった。「考へず読まず見ず」は作者の意志によるものだが、「土不踏(つちふまず)」だけは意志の及ばないところだ。生まれたときから(正確に言えば歩きはじめてから)、土を踏まないようにできている。かたくなに「考へず読まず見ず」などと思い決めても、「土不踏」の長年の頑固にはとてもかなわんなあと、作者は気がつき、苦笑している。前段がどうということもないだけに、炬燵に隠れた「土不踏」がひょっこり登場したことで、笑いと軽みが飛び出してきた。軽妙にして洒脱。思わずも、シャッポを脱ぎました。同じ作者に「どこまでが鬱どこまでが騒雪霏々と」がある。「霏々」は「ひひ」。これまた「鬱」に対して「躁」ではなく、さりげなく「騒」と配したあたりが卓抜だ。たしかに「躁」は「騒」にちがいない。と、ここまでは種明かしをせずに紹介してきたが、実はこれらの句は、自分のことを詠んだのではない。連作の模様から想像するに、主人公は病身の妻である。「ひひ」の音感に、作者の戦きをいくばくか感じられた読者もおられるだろうが、そういうことのようだ。そこで、もう一度掲句に帰ってみると、にわかに滑稽の色は薄れ、作者の悲しみの念が色濃くなる。しかし、この悲しみの思いも作者の軽妙洒脱な手つきが呼び寄せるのであって、事情を知る知らずに関わらず、句の自立にゆらぎはないだろう。悲しみと滑稽は、ときに隣り同士になる。『現代俳句年鑑2001』(2000・現代俳句協会)所載。(清水哲男)


December 22122000

 父と娘に煤まじる雪朝の岐路

                           飴山 實

書に「尼崎にて二句」とあり、うちの一句。工業地帯だ。今では改善されているのだろうが、句の作られた戦後間もなくのころには、煤煙がひどかったろう。三十年ほど前に、私も四日市で体験したことがある。あれでは、降る雪も白銀色というわけにはいかない。そんな朝の道を、父親と娘が連れ立って出かけていく。テレビ・コマーシャルの一場面のようだが、汚れた雪では絵にもならない。二人とも、大いに仏頂面であるに違いない。やがて、父親と娘がそれぞれの方向に別れて行く「岐路」にさしかかったというわけだ。いつものように「じゃあね」と別れるだけのことだが、そこに着目して作者は、このなんでもない「岐路」にさまざまな人生のそれを読み取っている。年譜を見たら、父親は作者ではないとわかった。父娘は、単に通りすがりの人だった。この父親は煤煙を排出している工場の従業員かもしれず、娘もまた、そうかもしれぬ。だとすれば、父親は生涯この町で過ごすのだろうし、若い娘はいずれ出ていくのだろう。あるいはまた、父親のほうが汚い雪の降る町なんぞから早く出ていきたいという願望を持っていて、そろそろ決断の「岐路」に来ているのかもしれぬ。等々、揚句から浮かんでくる思いは、読者にとっていろいろだろう。が、いろいろな思いの底に流れるものは共通だ。すなわち、作者の静かなる憤怒の心である。人は、自分の力だけではどうにもならない理不尽を生きていく。煤煙まじりの雪が降ろうと、それはそれとして甘受せざるを得ない。どうにも動かせない劣悪な環境のなかで、とりあえず用意されている「岐路」は、むなしくもただ「じゃあね」と別れる程度のものでしかないのである。はやくから環境問題に取り組んだ作者の、これは哀感を越えた怒りの詩だ。『おりいぶ』(1959)所収。(清水哲男)


January 0912001

 猟夫伏せ一羽より目を離さざる

                           後藤雅夫

語は「猟夫(さつお)」で冬、多くの歳時記で「狩」の項目に分類されている。ねらっているのは、雉などの山鳥か、鴨などの水鳥だろうか。精神を集中し、伏せてねらうハンターの眼光炯々たる姿が彷彿としてくる。私のささやかな空気銃体験からしても、ねらいは「一羽」に定めないと必ず失敗する。あれもこれもでは、絶対に撃ち損ずる。猟の世界は、まさに「二兎を追う者は一兎をも得ず」なのだ。農村にいたころは、農閑期となる冬に猟をする男たちが多かった。犬を連れて、山奥に入っていく姿をよく見かけた。たまさか聞こえてくる猟銃音に、どうだったかと期待したものだ。獲物はたいていが雉か兎で、帰ってきた男たちが火を焚き、それらを手早く捌いていく様子に見ほれていた。ところで揚句とは逆に、ねらわれる鳥の様子を詠んだのが、飯田蛇笏の「みだるるや箙のそらの雪の雁」である。「箙(えびら)」は、矢を入れるための容器。空飛ぶ雁には地上の猟師たちが持つ「箙」の無数の矢数が見えており、いまにもそれらが飛んでくる気配に恐怖を感じているのであり、したがって飛列も大いに乱れることになる。雁からすれば、恐怖感で地上の「箙」しか眼中にはないだろうから、作者は「箙のそら」と単純化した。力強くも、雁の哀れを描いて見事と言うほかはない。このとき、蛇笏二十七歳。若くして、完成された句界を持っていたことがわかる。『冒険』(2000)所収。(清水哲男)


January 1312001

 戸口より日暮が見えて雪の国

                           櫛原希伊子

の演出もないから、外連味(けれんみ)もない。こういう句もいい。雪国というほどではなかったが、ときに休校になるほどは降った故郷を思い出す。何も考えずに、戸口からぼおっと暮れてゆく雪景色を見ていた。土間の冷えは厳しいが、それよりも周辺が暗くなりはじめ、やがて風景が真っ白な幻想の世界一色へと変わっていく様子に魅かれていた。奥の囲炉裏で盛んにぱちぱちと火のはねている音も、懐かしい。だいたいが「夕暮れ」好きで、春も「あけぼの」ではなくて「夕暮れ」だ。性格がたそがれているのかもしれないけれど、たぶん「夕暮れ」からは、義務としての何かをしなくてもよい時間になるからなのだろう。とくに子供の頃は、夜になると、何もすることがなかった。テレビもラジオも、ついでに宿題もなかったので、ご飯がすんだら寝るだけだった。ランプ生活ゆえ、本も読めない。布団にもぐり込んでから、いろんなことを空想しているうちに、眠りに落ちてしまった。考えてみれば、「夕暮れ」以降の私は、鳥や獣とほとんど同じ生活をしていたわけだ。そうした無為の時間を引き寄せる合図が、長い間、私の「夕暮れ」だったので、いつしか身体に染みついたようである。大人になったいまも、夜に抗して何かをする気にはならないままだ。原稿も、夜には書かない。だから「夕暮れ」になると、一日はおしまいだ。大げさに言えば、その時間で社会とは切れてしまう。そんな気になる。ずっと以前に、その名も「夕暮れ族」なる売春組織が摘発されたことがある。新聞で読んで、ネーミングだけは悪くないなと思った。『櫛原希伊子集』(2000)所収。(清水哲男)


January 1512001

 雪降りつもる電話魔は寝ている

                           辻貨物船

夜、しんしんと冷え込んできた。表は雪だ。雪国育ちとは違って、作者のような東京の下町っ子は、たまに積もるほどの雪が降ると興奮する。嬉しくなる。といって、子供のようにはしゃぐわけではない。はしゃぎたい気持ちを抑えて、静かに瞑目するように雪の気配をいつまでも楽しむのだ。当然、お銚子一本くらいはついているだろう。この静かな雰囲気をぶち壊す者がいるとすれば、娘だろうか、とにかく話しだしたら止まらない「電話魔」だ。日ごろでも、うるさくてかなわない。そのことにふっと思いがいたり、幸いにも「寝ている」なと安堵している。雪の夜の静寂を詠んだ句は数あれど、こんなに奇抜な発想によるものは見たことがない。一読吹き出したが、たしかに言い得て妙だ。そしてこの妙は、単に雪の夜の静謐を表現しているばかりではなく、寝ている「電話魔」を含めての家族の平穏なありようにまで届いている。そこが、揚句の魅力なのである。詩人・辻征夫の暖かくも鋭い感受性の所産だ。ところで雪の夜の静寂を描いた詩では、三好達治の「雪」が有名だ。「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。/ 次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ」。数年前にある大学の教室で解釈させたら、かなりの数の学生が「眠らせ」を「殺して」と説明したそうだ。新聞で読んだ。吹き出すよりも、「電話魔」世代の荒涼たる言語感覚をいたましく思った。『貨物船句集』(2001)所収。(清水哲男)


January 2112001

 おうおうといへど敲くや雪の門

                           向井去来

蕉が「関西の俳諧奉行」と言った去来の代表作。「敲く」は「たたく」。門をたたく者があるので、なかから「おうおう」と応えたが、聞こえないのか気が急いているのか、まだたたきつづけている。「雪の門」の「雪」の降りしきる様子が、何も書かれてはいないが、目に見えるようだ。さらには、「おうおう」と応える作者の声までもが聞こえてくる。家のなかをゆったりと戸口に出ていく作者と、表をドンドンとたたく訪問者との息遣いの対比が絶妙だ。ドアチャイムやドアホンなどなかった時代には、訪問者はみなこのように門をたたいた。あるいは、大声で来訪を告げた。元禄の昔はもちろんだが、戦後しばらくまでも同様だった。子供の頃、友人宅に遊びに出かけたときは、たいてい大声で名前を呼んだものである。「○○ちゃん、アソぼうよ」と、まことに直截な挨拶を送っていた。何度呼んでも応えがないときもあり、玄関の扉に耳をくっつけるようにしてナカの様子をうかがったりした。他家を訪問するときだけではなく、商店に入るときも挨拶が必要だった。山口の田舎では「ごめんさんせ」と入ったが、「ごめんください」の地方語だ。「ごめんさんせ」と言うのが、最初はなんとなく大人ぶっているようで、気恥ずかしかったことを覚えている。いまでは、たたくことも声を出すこともない。誰もがヌーッと、どこにでも入っていく。便利な世の中になったものだが、「ごめんさんせ」の世代にはどこか不気味だ。このところ我が家のチャイムは不調で、ボタンを押しても鳴らなかったりする。そんなときに必ず扉をたたくのは、宅配便の人。きっと「原点に戻れ」と、マニュアルに書いてあるのだろう。「おうおう」と応えても聞こえないので、扉を開けるまでたたいてくれる。ご苦労様です。(清水哲男)


January 2712001

 独り碁や笹に粉雪のつもる日に

                           中 勘助

の祖父も囲碁好きで、よく「独り碁」を打っていた。囲碁は長考を伴うゲームだから、そんな祖父の周辺には、いつも静寂の気があった。作者は『銀の匙』などで知られる作家。詩集もあり、短歌俳句もよくした。粉雪(作者は「こゆき」と読ませている)の降る日は、とくに寒い。出かける気にもならず、ひとり静かに碁石を並べているのである。考えあぐねて、ふと窓外に目をやると、庭の笹には雪が積もっている。しばし笹の雪に目を楽しませて、また作者は碁盤に向かう。小さな碁石の冷たさが、小さな笹の葉の上の雪に通いあい、抒情味の深い句になった。私の気質からすれば、ついに到達できそうもない憧れの世界だ。短気ゆえ、囲碁は下手くそ。相手をねじり倒すことばかりに執して、結局はずたずたにされてしまう。粘り強くないのである。ひとりでじっくりと碁に取り組むなんてことは、金輪際できそうもない。だからこそ、逆に憧れる。閑居して「独り碁」を楽しみ、そのゆったりとした時間が味わえたら、どんなに人間が大きくなった気がするだろうか。いや、実際に大きくなるのだろうか。学生時代に祖父に囲碁を教えてくれと言ったら、「こんなに時間がかかる遊びを、若いうちからやるもんじゃない」と叱られた。恨めしかったが、教えてもらっても駄目だったろう。祖父は、おそらく私の気性を見抜いていたのだ。どうせ、モノにはなるまいと……。雪の日の「独り碁」か。カッコいいなあ。溜め息が出る。『中勘助全集』所収。(清水哲男)


February 0522001

 雪国の言葉の母に夫奪はる

                           中嶋秀子

い夫婦を訪ねてきたのは、作者自身の母親だろう。義母だとしたら、わざわざ俳句にするまでもない。夫と彼の母親が仲良く話していても当たり前で、「奪はる」とまでの感情はわいてこないはずだからだ。「奪はる」というのは大袈裟なようだが、作者が思いもしなかった展開になったことを示している。いまどきの軽い言葉を使うと、「ええっ、そんなのあり……」に近いだろうか。「夫」と「母」の間には、社交辞令的な会話しか成立しないと思っていたのが、意外や意外、よく通じ合う共通の話題があったのだ。つまり、母親の育った土地と夫のそれとが合致した。そこでたちまち二人は意気投合して、お国言葉(雪国の言葉)で盛んに何か話し合っている。別の土地で育った作者には、悲しいかな、入っていけない世界である。嬉々として話し合う二人を前にして、作者は母親に嫉妬し、憎らしいとさえ思っているのだ。第三者からすれば、なんとも可憐で可愛らしい悋気(りんき)である。ここで興味深いのは、作者の嫉妬が母親に向けられているところだ。話に夢中になっている夫だって同罪(!?)なのに、嫉妬の刃はなぜか彼には向いていない。私のか細い見聞による物言いでしかないが、男女の三角関係においては、どういうわけか女の刃は同性に向くことが一般的なようである。新聞の社会面に登場する事件などでも、女性が女性を恨むというケースが目立つ。たとえ男の側に非があっても、とりあえず男は脇にどけておいて、女性は女性に向かって真一文字に突進する。何故なのだろう。本能なのだろうか……。いけねえっ、またまた脱線してしまったようだ(反省)。『花響』(1974)所収。(清水哲男)


December 20122001

 魚眠るふる雪のかげ背にかさね

                           金尾梅の門

しい句だ。実景を詠んだと思われるが、となれば「魚(うお)」は、人が雪中の地上からでも認められる、たとえば池の大きな鯉あたりだろうか。鯉でなくともかまわないけれど、水中でじいっと動かない魚の「背」に、雪がこんこんと降りかかっている。雪は水面にまでは達するが、決して水中の魚にまで、そのまま届くことはない。魚は、常に「雪のかげ」を「背にかさね」て眠っているだけなのである。この情景は、いま直接に肌で雪を感じている作者にしてみれば、眼前の具象を越えて抽象的にまで高められたような美しいそれに写った。もとより人と魚とでは、寒暖に対しての生理は同じではない。でも、そんな理屈を掲句に押しつけるのは野暮というものだろう。作者は若き日に、父親の職業を継いでの売薬行商人であった。いわゆる「富山の薬売り」だった。「背」に風呂敷で包んだ大きな荷を文字通りに「背」負って、諸国をめぐり歩く商売である。だからこそ、こういう「背」の観察ができたのではあるまいか。たいていの人は「背」を意識しないで生きていく。「親の背を見て子は育つ」などという箴言は、人が「背」に無意識であるからこそ生まれてきた言葉である。作者名は「かなお・うめのかど」と読み、なんだか大昔の月並俳人のようであるが、1980年に八十歳で没した、れっきとした現代俳人である。『鴉』所収。(清水哲男)


December 26122001

 雪くれて昭和彷う黒マント

                           浅井愼平

門俳人は、採らないかもしれない。季重なり(「雪」と「マント」は両方冬季)でもあり、「雪くれて」と「行きくれて」の掛け具合も、単なる思いつきといえばそうとも言えるからだ。しかし私には、こういう句はもっと作られるほうがよいと思われた。時代全体のありようを、心象風景的に視覚化してみせたところが実に新鮮だ。時代を詠むにしても、現実の視覚から時代を捉えて仕立て上げるのが多く従来の俳句だとすれば、掲句は時代の持つ漠たる観念性や雰囲気を先につかまえてから作句している。逆方向から、アプローチしている。もとより、従来の句も掲句の場合も、作者はそのあたりのことを截然と方法的に意識しているわけではないだろう。ないけれど、強いて誇張して考えれば、そういうことだと思える。この「黒マント」の人は、何者だかわからない。雪の日の夕暮れにどこからともなく現れ、「行きくれ」たような足取りで、たそがれてゆく「昭和」という時代を彷(さまよ)っているのである。夕暮れの「雪」の灰色がかった白と「マント」の黒とが、やがては夜の闇に同化していくことを想像すれば、読者には「黒マント」の人それ自体が「昭和」のように思えてくるだろう。いわば「昭和の亡霊」か。そして、今の平成の世にもなお、この人は彷いつづけているのだろうとも。『二十世紀最終汽笛』(2001)所収。(清水哲男)


December 27122001

 心からしなのの雪に降られけり

                           小林一茶

代の帰省子にも通じる句だろう。ひさしぶりに故郷に戻った実感は、家族の顔を見ることからも得られるが、もう一つ。幼いころから慣れ親しんだ自然に接したときに、いやがうえにも「ああ、帰ってきたんだ」という感慨がわいてくる。物理的には同じ雪でも、地方によって降り方は微妙に、あるときは大いに異なる。これは江戸の雪じゃない。「しなの(信濃)の雪」なのだと「心から」降られている一茶の感は無量である。「心から」に一片の嘘もなく、だからこそ見事に美しい言葉として印象深い。ときに一茶、四十五歳。父の遺産について異母弟の仙六と交渉すべく、文化四年(1807年)の初冬に帰郷したときの句だ。「雪の日やふるさと人のぶあしらい」。家族や村人は冷たかったが、冷たい雪だけが暖かく迎えてくれたのだった。このときの交渉はうまくいかず、一茶は寂しく江戸に戻っている。遺産争いが決着するまでには、なお五年の歳月を要している。さて、この週末から、ひところほど過密ではないにしても、東京あたりでは帰省ラッシュがはじまる。故郷に戻られる読者諸兄姉には、どうか懐かしい自然を「心から」満喫してきてください。楽しいお正月となりますように。(清水哲男)


December 03122002

 雪の降る町といふ唄ありし忘れたり

                           安住 敦

に雪がちらついている。歩きながら作者は、そういえば「雪の降る町といふ唄」があったなと思い出した。遠い日に流行した唄だ。何度か小声で口ずさんでみようとするのだが、断片的にしか浮かんでこない。すぐに、あっさり「忘れたり」と、思い出すのをあきらめてしまった。それだけの句ながら、この軽い諦念は心に沁みる。かくし味のように、句には老いの精神的な生理のありようが仕込まれているからだ。すなわち「忘れたり」は、単に一つの流行り唄を忘れたことにとどまらず、その他のいろいろなことをも「忘れたり」とあきらめる心につながっている。若いうちならば、どんなに些細なことでも「忘れたり」ではすまさなかったものを、だんだん「忘れたり」と早々にあきらめてしまうようになった。そういうことを、読者に暗示しているのだ。そうでなければ、句にはならない。唄の題名は、正確には「雪の降る街を」(内村直也作詞・中田喜直作曲・高英男歌)だけれど、忘れたのだから誤記とは言えないだろう。歌詞よし、曲よし。私の好きな冬の唄の一つだ。しかし長生きすれば、きっとこの私にも、逃れようもなく「忘れたり」の日が訪れるのだろう。せめてその日まで、この句のほうはちゃんと覚えていたいものだと思った。『柿の木坂雑唱以後』(1990)所収。(清水哲男)


January 0512003

 門松に結晶体の雪刺さる

                           林 翔

月三が日の東京は、ことのほか寒かった。元日には、気がつかない人もいたくらいにわずかではあったが、四十四年ぶりの雪。二日の未明にも降り、三日の昼間にはうっすらと積もるほどに降った。過去百年以上の気象統計からしても、だいたい東京の三が日は「晴れて風なし」の年がほとんどなので、余計に寒さが身にしみた。とくに三日の晴天率は八割を越えていて、文化の日をはるかにしのぐ晴れの特異日なのである。「この天気ではねえ……」と、商店街のおやじさんも嘆いていた。掲句の「雪」の情景は、今年の三日のそれにぴったりだと感じた。昼頃から霙(みぞれ)が降りはじめ、やがてちゃんとした雪に変わったのだが、その変わり目ころの雪の様子は、まさに「結晶体」が「刺さる」ように落ちてくるという感じだった。雪が水の結晶体だという理科の教室での理屈を越えて、どうしても「結晶体の雪」としか体感的に表現しようがない「雪」というものがある。と、句を読んで大いに納得。それが「門松」のとんがった竹や松の葉に「刺さる」のだから、寒さも寒し、読むだけでぶるぶるっときてしまう。巧みな表現だと感服しながら、一方で、雪国のみなさんには、案外こういう句はわからないかもしれないとも思った。めったに降雪のない地方ならではの「雪」であり「結晶体」であり、寒さなのだから。「俳句」(2003年1月号)所載。(清水哲男)


January 0912003

 本買へば表紙が匂ふ雪の暮

                           大野林火

火、若き日の一句。本好きの人には、解説はいらないだろう。以前から欲しいと思っていた本を、ようやく買うことができた嬉しさは、格別だ。「表紙」をさするようにして店を出ると、外は小雪のちらつく夕暮れである。いま買ったばかりの本の表紙から、新しいインクの香りがほのかにたちのぼって、また嬉しさが込み上げてくる。ちらつく雪に、ひそやかに良い香りが滲んでいくような幸福感。この抒情は、若者のものだ。掲句に接して、私も本が好きでたまらなかった高校大学時代のことを思い出した。あの頃は、本を買うのにも一大決心が必要だった。欲しい本は、たいていが高価だったので、そう簡単には手に入らない。わずかな小遣いをやりくりして、買った。やりくりしている間に、目的の本が売れてしまうのではないかと心配で、毎日書店の棚を確かめに通ったものだ。おかげで、出入りした本屋の棚の品揃えは、諳(そら)んじてしまっていた。ついでに思い出したのは、生まれてはじめて求めた単行本のことだ。忘れもしない、田舎にいた小学校六年生のときである。貧乏だったので、修学旅行には行かせてもらえなかった。が、父はさすがに哀れと思ったのだろう。そのかわりに、好きな本を一冊買ってやるからと、交換条件を出してくれたのだ。で、その日から、新聞一面下の八つ割り広告を舐めるように調べ上げ(なにしろ、村には本屋がなかったので)、絞りに絞った単行本を、東京の出版社まで郵便振替で注文してもらった。修学旅行もとっくに終わってしまったころに、ようやく東京から分厚い本が届いた。私はその分厚さにも感動して、何日かは抱いて寝た。どういう本だったか。それは単なる、教科書の問題の答えが全部書いてある「アンチョコ」でしかなかった。でも、高校のころまでは大事にしていたのだが、何度目かの引っ越しで紛れてしまった。いまでも、届いたときのあの本の「表紙」の匂いや手触りは、鮮かによみがえってくる。『海門』(1939)所収。(清水哲男)


January 1512003

 雪にとめて袖打はらふ駄賃かな

                           西山宗因

因は江戸前期の人で、元来は肥後八代の武家であったが、浪人して連歌師となり、のち俳諧に転じた。談林派の祖で、門下には西鶴もいた。現代の俳句から、まったくと言ってよいほどに影をひそめたのが、このような詠み方だろう。前書に「古歌なをしの発句にとてつかうまつりしに」とある。いわゆる「本歌取り」という手法で、意識的に先人の作の用語や語句などを取り入れて作る方法だ。掲句は、有名な藤原定家の「駒とめて袖打ち払ふ蔭もなし佐野の渡の雪の夕暮」を踏まえて作られている。宗因はこれを、旅の途中で激しい雪にあい、折りよく通りかかった馬子を「とめて」、「袖打はらふ」ほどのなけなしの銭で、高い「駄賃(だちん)」を支払ったと換骨奪胎した。定家の雅を俗に転じた機知と滑稽。「く〜だらねえっ」と、いまどきの俳人はソッポを向きそうだけれど、なかなかどうして、したたかで面白い句だ。遊びには違いないが、貴人定家の上品趣味をからかうと同時に、庶民の自嘲的哀感がよく出ているし、俗に生きなければ生きられない庶民の土性骨も感じられる。ところで、この定家の歌そのものが『万葉集』の「苦しくも降りくる雨か三輪が崎佐野の渡に家もあらなくに」の本歌取りであることは、よく知られている。定家は万葉の俗を雅にひっくり返し、それをまた宗因がひっくり返してみせた。凡手のよくするところではあるまい。(清水哲男)


January 3012003

 美しき鳥来といへど障子内

                           原 石鼎

語は「障子(しょうじ)」で冬。どうして、障子が冬なのだろうか。第一義的には、防寒のために発明された建具ということからのようだ。さて、俳句に多少とも詳しい人ならば、石鼎のこの句を採り上げるのだったら、なぜ、あの句を採り上げないのかと、不審に思われるかもしれない。あの句とは、この句のことだ。「雪に来て美事な鳥のだまり居る」。おそらくは、どんな歳時記にでも載っているであろう、よく知られた句である。「美事(みごと)な」という形容が、それこそ美事。嫌いな句ではないけれど、しかし、この句はどこか胡散臭い感じがする。石鼎の句集を持っていないので、掲句とこの句とが同じ時期に詠まれたものかどうかは知らない。知らないだけに、掲句を知ってしまうと、美事句の胡散臭さが、ますます募ってくる。はっきり言えば、石鼎は実は「美事な鳥」を見ていないのではないか。頭の中でこね上げた句ではないのか。そんな疑心が、掲句によって引きだされてくるのだ。句を頭でこね上げたっていっこうに構わないとは思うけれど、いかにも「写生句」ですよと匂わせているところが、その企みが、鼻につく。事実は、正真正銘の写生句なのかもしれないし、だとしたら私は失礼千万なことを言っていることになるのだが、そうだとしても、掲句を詠んだ以上は、美事句の価値は減殺されざるを得ないだろう。どちらかを、作者は捨てるべきだったと思う。私としては、掲句の無精な人間臭さのほうが好きだ。「美しき鳥」が来てますよと家人に言われても、寒さをこらえてまで障子を開けることをしなかった石鼎に、一票を投じておきたい。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


December 07122003

 福助のお辞儀は永遠に雪がふる

                           鳥居真里子

しかに「福助」は、いつもお辞儀の姿勢でいる。多くの人が福助を知っているのは、人形そのものとしてよりも、関西の足袋屋から出発した下着メーカーの商標としてだろう。だから作者が福助を見ていて、(足袋から)雪を連想したのは心の自然の動きである。句はアダモのシャンソン「雪がふる」にも似て、私たちの漠然とした郷愁を誘う語り口だ。静かに降る雪を見ていると「永遠に」ふりつづけるようであり、目の当たりにしている福助のお辞儀も、また変わることなく永遠に繰り返されていくことだろう。このときに、読者は雑念からしばし解放され、真っ白な無音の世界へと誘われてゆく。福助といういわば俗っぽいキャラクターが、かえって静謐な時間を際立たせているところに注目。ところで、福助とはいったい何者なのだろうか。むろん足袋屋さんが作ったのではなく、江戸は吉宗時代からのキャラクターらしい。頭が大きく背の低い異形だが、実は大変な幸運をもたらす人物として創出されている。人は見かけによらぬもの。そうした教訓を含んでもいるので、あやかろうとする人々にも、濡れ手で粟のような後ろめたさがなかったと思われる。荒俣宏によれば彼は子供なのだそうだが、一方では女房子供のいるれっきとした大人だとする説もある。他にちゃんと愛人もいて、その名が「お多福」。ついでに母親の名が「おかめ」ときては、眉に唾をつけるよりも前に笑ってしまう。ちなみに、姓は「叶(かのう)」だそうな。願いが「かのう」というわけか。それからこれは本当の話だが、今年の梅雨のころに、福助が消えて無くなるかもしれない出来事があった。「福助」株式会社が、大阪地方裁判所に民事再生の適用を申請したからだ。商標が消えたからといって掲句の魅力に影響はないけれど、やっぱり消えるよりは存在していたほうがよい。ここで、ちらっと福助の動くお辞儀が見られます。『鼬の姉妹』(2002)所収。(清水哲男)


January 1612004

 夜目に追ふ雪山は我が帰る方

                           深谷雄大

日本の猛吹雪はおさまっただろうか。テレビで見ていても足がすくむ思いだから、いくら雪に慣れているとはいえ、あの猛烈な雪嵐には現地の人もたじたじだったにちがいない。お見舞い申し上げます。ところで当たり前のことを言うのだが、雪国に暮らしているからといって、きちんと雪を詠めるとは限らない。その土地ならではの雪の様子を読者に伝えることは、雪が目の前にあるだけに、かえって難しいのだと思う。作者は旭川在住で、「雪の雄大」と異名をとるほどに雪の句の多い人だ。むろん佳句もたくさんあるが、初期の句を読んでみると、雪に観念の負荷をかけすぎていると言おうか、若さゆえの気負いが勝っていて、意外に雪そのものは伝わってこない気がする。たとえば「雪深く拒絶の闇に立てる樹樹」と、青春の抒情はわかるし悪くないのだが、雪の深さはあまり迫ってこない。そこへいくと同じ句集にある掲句は、過剰な観念性を廃しているがゆえに、逆に詠まれている雪(山)が身に沁みる。雪国の人にとっては、ごく日常的で、なんでもない情景だろう。雪の少ない街場の喫茶店あたりで、友人と談笑している。あるいは、仕事が長引いているのかもしれない。家路を急ぎながらの解釈もできるが、むしろ作者は止まっているほうが効果的だ。そんな間にも、ときおり気になって「我が帰る方(かた)」を「夜目に」追っている。何度も、そうしてしまう。夜だから、追っても何かが見えるわけではない。つまりこの言い方は、作者がそうせざるを得ない行為の無意識性を表現している。すなわち、旭川の雪と人との日常的なありようが鮮やかに捉えられている。地味な句だけれど、心に残った。『定本裸天』(1998・邑書林)所収。(清水哲男)


January 2912004

 パソコンに並べて軍手雪来るか

                           水上孤城

近、パソコンを素材にした句が散見されるようになってきた。だいぶ普及してきた様子がうかがえる。ある調査によれば、家庭への普及率は60バーセントを越えたという。私がはじめて触った二十年前に比べると、まさに隔世の感ありだ。間もなく、テレビ並に行き渡るのだろう。さて、掲句。雪が降ってきそうな気配なので、用心のために(たぶん)雪掻き用の「軍手(ぐんて)」を用意し、「パソコン」の隣りにちょっと置いた図だ。パソコンは室内で使うもの、軍手は戸外で使うもの。何でもない取り合わせのようでいて、これらが実際に並んだ様子には、かなりの違和感がある。机の上にもそれなりに秩序というものがあるから、パソコンや筆記具や本などだと秩序は乱れない。ところが軍手に限らず、机の上では使わないものを置くと、途端に机上の世界の秩序が乱れ、なんとも落ち着かない気分にさせられてしまう。どなたにも経験があるだろうが、これは買ってきた新品の靴を畳の上で試しにはいてみるようなもので、なんとなく気分にぴったり来ないのだ。そこらへんの感覚の微妙な揺れをとらえていて、面白いと思った。その揺れが、雪に身構える姿勢と重なり合って伝わってくる。知らず知らずのうちに、私たちはあちこちに秩序世界を形成し、そのなかで暮らしているのである。俳誌「梟」(2004年1月号)所載。(清水哲男)


December 16122004

 ゆきひらに粥噴く大雪注意報

                           大森 藍

行平鍋
日も北国のどこかでは、こういう情景がありそうだ。「ゆきひら」といっても、実物を使っている人ですら、もう名前を知らない人のほうが多いかもしれない。「行平鍋」の略。在原行平が須磨で、海女に潮をくませて塩を焼いた故事にちなむという。陶製の平鍋で、把手(とって)、注口があり、蓋をそなえたもの。金属製のものもある。子供が風邪でも引いたのだろう。何か食べやすく暖かいものをと、手早くゆきひらで「粥」を作ってやっている。煮えてきて威勢良く噴き上がる様子を見ている作者に、テレビからかラジオからか、「大雪注意報」が聞こえてきた。大雪でも大雨でも、避けようもない自然現象に閉じ込められようとするとき、人と人との親和力は増してくるようである。自然の猛威のなかでは人は無力に近いから、お互いに寄り添う気持ちが高まってくるのだ。大人であれば保護者意識が高まり、子供は逆に被保護への気持ちが強くなるとでも言うべきか。見知らぬ人同士でさえ、なんとなく親しみを覚えたりする。作者の場合には、粥を食べさせる相手が病人だから、なおさらだ。といって、こうした意識には悲壮感はあまり無く、むしろ身近に保護すべき人がいることに安らぎの念すら湧いてきたりするものだ。粥は、そろそろ出来上がる。早く子供に出してやって、美味しそうに食べる顔を見てみたい。『遠くに馬』(2004)所収。(清水哲男)


December 20122004

 集乳缶深雪を運び来て冷めず

                           中川忠治

人協会会員を対象にした「第11回俳句大賞」で、最高点を得た句。選考委員のなかで、この句を最も推したと思われる鈴木貞雄の選評は次のようだ。「山の牧場であろう。決まった時間に搾乳室で牛の乳を搾り、大きな集乳缶に入れて運んでくる。深雪をきしませ、白い息を吐きながら運んでくるのだ。しかし、集乳缶の中の乳は、搾った時のままの温さを保っている。深雪の中に生きる乳牛の命の温みが、伝わってくるようである」。解釈としては、この通りだろう。が、この句のいちばんのチャーム・ポイントを言うとすれば、もう少し付け加える必要がある。それは、句に二つの主体が出てくる点だ。すなわち「集乳缶」を運んでくる主体と「冷めず」と断定している主体とは、明らかに違う。前者の主体は牧場の人であり、後者のそれは作者である。もとよりこうした主体入れ替えの手法はさして珍しくはないけれど、一句のどのあたりで入れ替えるかがポイントだ。作者の、いわばセンスの見せどころとなる。掲句では、それが最後の三文字「冷めず」で適用されており、その唐突さによって読者への衝撃力が高まった。つまり内容的にはあくまでも暖かい句なのだが、手法的にはクールそのものである。この段差が、句を引き締めている。俳人協会機関紙「俳句文学館」(第404号・2004年12月5日付)所載。(清水哲男)


January 2912005

 遊び降りにたちまち力山の雪

                           矢島渚男

語はもちろん「雪」であるが、「遊び降り」という言い方にははじめて接した。作者は長野の人だから、信州あたりでは普通に使われている言葉なのだろう。はじめての言葉だが、だいたい察しはついたつもりだ。ちらりちらりと降るともなく降ってくる雪。その様子が、いかにも悪戯っぽく「遊び」めかしたような降り方に思えることからの言い方だと思う。味のある言葉だ。しかし遊び降りだからといって、「山の雪」をあなどってはいけない。東京あたりだと、ちらちらはちらちらのままに終わってしまうことが多いけれど、雪国の山中ではまさに句にあるごとく、ちらちらに「力」を得たかのように「たちまち」視界を遮るほどの本降りに変わっていく。雪国とまでは言えなくとも、我が故郷での少年時代には何度も同じような降り方を体験した。下校時にちらちらっと来たら、一里の道を一目散に家をめがけたものだ。掲句にそんなことも思い出したが、この「力」の使い方が実に巧みだ。なんでもないようだけれど、この「力」は情景的な雪のそれにとどまらず、句全体を引き締める力としても働いている。妙な言い方になるが、句のいわばフンドシとして機能している。であるがゆえに、読む側にもキリリとした力が渡されるというわけだ。『翼の上に』(1999)所収。(清水哲男)


March 0332005

 地の涯に倖せありと来しが雪

                           細谷源二

者は1941年(昭和十六年)の新興俳句弾圧事件で逮捕、二年間投獄され、敗戦の直前に東京からの開拓移民として一家をあげて北海道に渡った。北海道史をひもといてみる。「来れ、沃土北海道へ、戦災を転じて産業の再編成」というスローガンの下、拓北農民隊と呼ばれた応募者は東京都1719戸、大阪府583戸、神奈川県343戸、京都府257戸という具合に大都市圏からの移住者が多かった。しかし彼らに与えられたのは、沃土どころか大部分が泥炭地や火山灰地であり、ましてや農業経験もない人たちにはあまりにも過酷な現実であった。掲句には過酷とも苦しみとも何も書かれてはいないけれど、最後に置かれた「雪」の一文字で全てが語られている。同じように「幸せ」を求めたカール・ブッセの「山のあなた」の主人公は「涙さしぐみ、かへりきぬ」(上田敏訳)と戻ってくることができたが、開拓移民にはそれもならない。見渡す限りの大地を覆い尽くし、なお降りしきる雪のなかに、胸ふくらませた「倖せ(しあわせ)」などは完全に飲み尽くされてしまった。全てを失った者の茫然自失とは、こういうことを言うのだろう。今年は敗戦後60年にあたる。もはや北海道でも語られることの少ないであろう歴史の一齣だ。今日も北海道は雪のなか、雪のなかの雛祭り……。『砂金帯』(1949)所収。(清水哲男)


December 04122005

 天を発つはじめの雪の群れ必死

                           大原テルカズ

語は「雪」。私は擬人化をあまり好まないが、掲句の場合は必然性が感じられる。というのも、この「雪の群れ」のどこかには作者自身も存在するからだ。「はじめの雪」とあるが、いわゆる初雪ではあるまい。降りはじめる最初の「雪の群れ」だと思う。これから地上に降りて行かねばならぬわけだが、そこがどんな所なのかの情報もないし、それよりも前に途中で何が起きるのかもわからない。条件によっては、地上に到達する前に我が身が溶けて消滅する危険性もある。しかし、もはや躊躇は許されない。仲間も揃った。機は熟したのだ。瞑目して、「天を発(た)つ」しか道はないのである。昔の人間たちの落下傘部隊もかくやと思われる「必死」の様が、よく伝わってくる。このときに地上の人間たちは、呑気にも「雪催(ゆきもよい)」の句なんぞをひねっているかもしれない。そう連想すると、なおさらに「必死」度が際立つ。作者がどんな状況で発想した句なのかは、何も知らない。だが、きっと仲間たちといっしょに、何か新しいことをはじめようと決意したときの作品ではなかろうか。前途には一筋の光明すらも見えないが、しかし、発たねばならぬ。発たなければ,何もはじまらない。どうせ「残るも地獄」であるのなら、我が身はか弱い雪のひとひらでしかないけれど、ここを出発することで生きる希みを掴みたい。この「必死」にして、この「俳句」なのだ。『黒い星』(1959)所収。(清水哲男)


December 15122005

 降る雪や玉のごとくにランプ拭く

                           飯田蛇笏

語は「雪」。表では、しんしんと雪が降りつづいている。暗くならないうちにと、作者がランプの火屋(ほや)を掃除している図だ。火屋の形状も物理的には一種の「玉」ではあるが、句の「玉」は夜中に光り輝く珠玉のようなものとして詠まれている。息を吹きかけながら、キュッキュッとていねいに拭いている。深い雪に閉じ込められる身にとっては、夜の灯りはなによりの慰めだから、ていねいさにも身が入るのだ。押し寄せる白魔にはあらがう術もないけれど、このときに最後の希望のように火屋を扱っている作者の自然な感情は美しい。子供のころ、我が家もランプ生活だったので、この感情のいくばくかは理解できる。私は火屋の掃除係みたいなものだったので、やはり「玉のごとくに」拭いていた。ただ、作者の拭いた時代は戦前のようだから、「玉」もしっかりしていただろう。句全体から、なんとなくそれが感じられる。ひるがえって私の時代は敗戦直後という悪条件があり、火屋のガラスはみな粗悪品だった。なにかの拍子に、すぐに割れてしまった。これが、実に怖かった。我が家には火屋を買い置きしておく経済的な余裕がなかったので、割れたとなると、一里の雪の道を歩いて村に一軒のよろず屋まで買いにいかねばならない。慎重に拭いてはいたのだが、それでも割れることは何度もあった。親には叱られ,暗くなりかけた雪道に出て行くあの哀しさは忘れられない。生活のための「玉」の貴重さを、掲句から久しぶりに思い出されたのだった。私の暮らしていた山陰地方は,今日も雪の予報である。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


December 18122005

 門々や子供呼込雪のくれ

                           野 童

こ半世紀ほどで大きく変わったことの一つに、こうした子供の情景がある。江戸は元禄期の句だが、この情景には、私の世代以前から十年ほど後の世代くらいの者であれば、みなシンパシーを覚えるだろう。懐かしい情景だ。雪の日とは限らないけれど、夕方になるとあちこちから表で遊び呆けている子供たちを「呼(び)込(む)」声が聞こえてきたものだった。「ご飯ですよーっ」、「もう暗いから帰っておいで」など。ところが、遊びに夢中になっていると、呼び込む声は聞こえても、そう簡単には帰りたくない。「おい、お前。帰って来いってさ」と仲間から言われても、「まだ大丈夫だよ、平気だよ」と愚図愚図している。そのうちに渋々と一人が帰り、また別の一人が遊びの輪を離れていきと、毎夕が同じことの繰り返しであった。句の場合も同様の情景であるが、ことに「雪のくれ」だから、戸外の寒さと子供の元気さとが想起されて微笑ましい。そしてさらには、それぞれの家で子供を待っている暖かい食卓にも思いが及び、句の「雪のくれ」という設定がいっそう生きてくるのである。この句を紹介している柴田宵曲も、このことを頭においてか、次のように書いている。「平凡な句のようでもある。しかし一概にそういい去るわけにも行かないのは、必ずしも少年の日の連想があるためばかりとも思われぬ」。寒い雪の日の夕ぐれと暖かい家庭との暗黙の取り合わせによる、庶民的幸福の情景。句の主題は、ここにあるような気がする。『古句を観る』(1984・岩波文庫)所載。(清水哲男)


January 0712006

 限りなく降る雪何をもたらすや

                           西東三鬼

測史上、未曾有の豪雪だという。カラカラ天気の東京にあっては、新潟津南町の4メートルに近い積雪の様子などは想像を絶する。テレビが映像を送ってくるけれど、あんな画面では何もわからない。車が埋まる程度くらいまではわかるとしても、それ以上になると地上はただ真っ白なだけで、深さを示す比較物が見えないからだ。「雪との闘いですよ、他のことは何もできない」という住民の声のほうが、まだしも深刻な深さを指し示してくれる。映像も無力のときがあるというわけだ。掲句はおそらく戦後二年目の作と思われるが、「限りなく降る」というのは一種の比喩であって、とりわけて豪雪を詠んだ句ではあるまい。降り続く雪を見ながら、作者はその雪に敗戦による絶望的な状況を象徴させ、これから自分は、あるいは世の中はどうなっていくのかと暗澹とした気持ちになっているのだ。「何をもたらすや」の問いに、しかし答えは何もないだろう。問いが問いのままに、いわば茫然と突っ立っている格好だ。そしてこの句を昨今の豪雪のなかで思い出すとき、やはりこの問いは問いのままにあるしかないという実感がわいてくる。「実感」と言ったように、作句時の掲句はむしろ観念が勝っていたのとは違い、いまの大雪の状況のなかでは具体も具体、ほとんど写生句のように読み取れてしまう。といって私は、状況や時代が変われば句意も変わるなどとしたり顔をしたいわけじゃない。こういう句もまた、写生句としか言わざるを得ないときがあることに、ふと気がついたというだけの話である。『夜の桃』(1948)所収。(清水哲男)


January 1112006

 観覧車雪のかたちに消えにけり

                           五島高資

が降っている。それでも動いている「観覧車」を、作者は離れた場所から見上げているのだろう。こんな日に、乗ってる人がいるのだろうか。そのうちにだんだん降りが激しくなってきて、とうとう見えなくなってしまった。その様子を、迷うことなく「雪のかたちに」消えたと詠んだところに、作者のリリシズムが光っている。消えたとはいっても、遠くのほうでまだぼおっと霞んでいて、観覧車のかたちは残っているのだ。つまり、あくまでも観覧車はおのれの「かたち」を保っているわけだが、時間が経つにつれて降る雪と混然となっていく様子を指して、作者は「雪のかたちに消えにけり」と情景に決着をつけたのである。「雪」に「かたち」はない。しかし、このように「ある」のだ。そう言い切っているところに、句としての鮮やかさを感じた。観覧車といえば、高所恐怖症にもかかわらず、私が一度乗ってみたいのは映画『第三の男』に出てきたウイーンの大観覧車だ。オーソン・ウェルズとジョセフ・コットンが、これに乗って話し合う有名な場面がある。だから乗らないまでも見てはおきたいと長年思っていたのだが、実は十数年前に一度、スケジュール的に少し無理をすればチャンスはあったのである。所用でせっかくウイーンの駅で降りたのに、しかし疲れていたこともあって、またの機会にと断念してしまった。でも私には、もはやまたの機会はないだろう。あのときに行っておけばよかったと、何度くやんだことか。だいたいが私は「またの機会に」と思うことが多い人間で、大観覧車にかぎらず、けっこう見るべきものを見ないままに今日まで来てしまっている。要するに、勤勉でない性格なのである。『蓬莱紀行』(2005)所収。(清水哲男)


January 2512006

 雪しづか碁盤に黒の勝ちてあり

                           澁谷 道

方の祖父が囲碁好きで、ことにリタイアしてからは近所の碁敵と毎日のように打っていた。お互いの家を行ったり来たりしていたので、掲句のような情景は懐かしい。対局が終わると、たいがい碁盤の上は片づけられていたが、どうかするとそのまま石が残っていることもあった。句は、そのような情景を詠んでいる。主客ともに、たぶんあわただしく出て行ったあとの客間に、作者は片づけのために入ったのだろう。窓外には雪がしんしんと降りつづいており、碁盤の上には熱戦のあとが残されている。これだけでも十分に「雪しづか」の雰囲気は出てくるのだが、作者はもう一歩踏み込んで、黒石の勝ちまでを詠み込んだ。この「黒」が、降る雪の「白」を際立たせていることは言うまでもない。と同時に、ついさっきまで打っていた二人のやりとりも想起され、それがまた「しづか」を強調する効果をあげている。溜め息がでるほどの良いセンスだ。ここで話は脱線するが、しかも一度書いたような記憶もあるが、大学生になったときに、祖父に囲碁を教えてほしいと頼んだことがある。ルールくらいは知っていたけれど、友人とのヘボ同士の対局ではさっぱり上達しなかったからだ。と、祖父曰く。「大学生が、こんなに時間を食う遊びをするもんじゃない。そんな時間があるのだったら、勉強しなさい」。で、そのときに「はい」と素直に答えたおかげで、ついに囲碁とは疎遠のままになってしまった。「俳句」(2006年2月号)所載。(清水哲男)


October 14102006

 林檎掌にとはにほろびぬものを信ず

                           國弘賢治

弘賢治の名前は、〈みつ豆はジャズのごとくに美しき〉の句の透明感と共に記憶の隅に。最近、彼が八歳の時に脊髄カリエスを発病し、四十七年間の生涯を病と共に過ごしたと知ったが、みつ豆の句の印象は明るい。『賢治句集』を開くと、下駄の裏を大きく見せてぶらんこを漕ぐ写真に〈佝僂(くる)の背に翅生えてをりぶらんここぐ〉の一句が添えられている。うれしそうな笑顔である。みつ豆の句は、句作を始めて間もない昭和二十四年、三十七歳の作。〈繪をかいてゐる子の虹の匂ひかな〉〈雪の日のポストが好きや見てをりぬ〉自由でやわらかい句が続く。宗教を頼んでいた時よりも俳句を始めてからの方が、解放された安らかさを得ている、という意の一文を残しているというが、身ほとりを詠み病を詠んだ句からは、作意や暗さはもちろん、健気さや、達観の匂いさえしない。昭和二十二年から亡くなる昭和三十四年まで、虚子選三百九十一句を収めたこの遺句集の、三百九十句目が掲句である。とは、は永遠(とわ)。林檎は紅玉、小ぶりでつややかな紅色と甘酸っぱさが、当時は最も親しい果物のひとつであったろう。その結実した生命を掌に包んだ時、滅びようとする肉体の中から、自らをも含む全ての生に対する慈しみがあふれ、それが一筋の静かな涙と共に一句をなした気がしてならない。病と共にある人生を、自然に、淡々と詠んだ数々の句の中に、國弘賢治は確かに生き続けている。『賢治句集』(1991)所収。(今井肖子)


November 28112006

 どれとなく彼方のものを鶴と指す

                           谷口智行

国大陸より渡ってくる鶴は「鶴来る」として秋の季題となり、丹頂鶴は北海道の湿原で留鳥として暮らす。しかし、単に「鶴」といえば冬の季題となる。言われてみれば、鶴ほど冷たい空気が似合う鳥もないだろう。その気高い姿を日本人は昔から愛してきた。それは吉兆の象徴となり、祝いごとの図案や装飾などに使われ、現在もっとも多く触れる機会としては、千円札の夏目漱石氏の裏側にある丹頂鶴「鶴の舞」だろうか。しかし、その象徴の偉大さは実物を大きく超えて存在する。掲句においても、鶴の姿がことさら眼前になくとも、指さし「鶴」と呟いた瞬間、その遥か彼方にあるものは鶴以外のなにものでもなくなる。その景色は指さすことで完結し、まるで鶴がいた風景に永遠に閉じ込められてしまったようである。句集名『藁嬶(わらかか)』は、藁屑にまみれて働く農家の主婦のことだそうで、「身じろぎもせざる藁嬶初神楽」から取られている。「ぶらんこに座つてゐるよ滑瓢(ぬらりひょん)」「縫へと言ふ猟犬の腹裂けたるを」「雪降るか歌よむやうに猿啼きて」など、作者の暮らす土地が匂うように立ち現れる。その風土のなかで「鶴とは、よそ者の目には決して見えない生きものなのですよ」と静かに言われれば、そうであったのか、と思わず納得してしまうような気になるのである。『藁嬶』(2004)所収。(土肥あき子)


December 07122006

 雪降ってコーヒー組と紅茶組

                           中原幸子

いと思ったら、この街ではめったにお目にかかれない雪が舞いはじめた。外の情景をさっと描写したところで視点は喫茶店の内側へと切り替る。どっと入ってきてようやく席に落ち着いた一行。注文をとりに来たウェイトレスを前に幹事役の人が「コーヒーの人」「紅茶の人」と賑やかに声をかけ、手を挙げてもらっている。たくさん人が集まればよく見かける光景であるが、いい大人が「はい、はい」と、素直に手を挙げる様子もどこか子供じみて可愛げがある。幹事のとっさの問いかけであったが、この時は他の注文もなく、きれいにコーヒー組と紅茶組に分かれたのだろう。そんな偶然をきっかけにちょっと堅かった座の雰囲気も自然にほぐれる。「そういえば、あなた朝食はごはんそれともパン?」「猫が好き?犬が好き?」よく話題にのぼる二分法についてコーヒー組と紅茶組との間で会話が弾み始めたかもしれない。暖かな飲物もゆきわたり、ほっと落ち着いた気分で窓に眼をやれば雪はちらちらと降り続いている。白く細やかな雪が楽しげな室内の空気をいっそう引き立てるようである。幸子の句には都会で暮らす日常のなにげない出来事が季節を感受する喜びとともに生き生きと書きとめられている。それは今の暮しの原風景であるように思える。『以上、西陣から』(2006)所収。(三宅やよい)


December 11122006

 昼の雪どこかが違ふ写真のかほ

                           谷さやん

者は四国の松山市在住。めったに雪の降らない温暖の地だから、降ってくると、そぞろ気持ちがざわめいてくる。雪国の人とは裏腹に、なんだか嬉しいようなそわそわするような、どこか明るいざわめきである。句のシチュエーションは二通りに読め、一つは「昼の雪」が写真に写りこんでいる場合と、もう一つはいま外で実際に雪が降っていて、誰かの写真を見ている場合だ。私は後者と読んでおく。この写真は、見慣れた写真だ。いささか観光案内めくが、たとえば松山市にある子規記念館の子規の肖像写真である(むろん、そうと決まったわけじゃないけれど)。誰でも知っている有名なあの写真の前を通りかかって、ふと足が止まった。平生なら見るともなく見て通り過ぎる写真なのだが、「おや」と気になり、しげしげと見つめてみると、「かほ」が「どこか違って」いるように見えたというのだ。こんな「かほ」だったかなあ、どこか違うなあと、もう一度見つめ直している。理屈をこねれば、違っているのは写真ではなくて、雪による作者の気分と、物理的には館内に注ぐ外光とだ。この二つの要素が重なって、見慣れた写真がそうではないように思えてくる。すなわち揚句は、暖国の雪の日の気持ちのざわめきようを「写真のかほ」の見え方を通して間接的に表現しているのであり、こういうことは俳句でしか言えないという意味でも、なかなかの佳句だと思う。『逢ひに行く』(2006)所収。(清水哲男)


December 26122006

 雪原の黒きが水の湧くところ

                           三上冬華

面の銀世界にぽつんと黒。一読ののち、はっとするのは、黒が闇や死を連想させるためか、おおむね凶事に傾くものが多いなかで、清らかな湧き水と結びつける違和感からであろう。しかし、銀世界のなかでは、黒点こそがこんこんと水が湧く場所なのだ。黒は雪を分けた大地の色だ。黒は凍結された空気のなかで、一点の瑞々しい命であり、大地があたたかく呼吸している場所なのである。何年か前になるが、年末年始を長野県栄村で過ごした。平家の谷と異名をとる秘境である。その谷底の村から見る景色は、まさに白い壷の底から見上げるような白一色の世界であった。色彩の一切許されないような雪原のなかで、一本の川の流れだけが黒々と輝いていた。雪原に記される動物たちの足跡は、水を飲むための川へと集まり、唐突に途絶えているものは、そこから飛び立った鳥たちであろう。鳥たちが落とす影など、普段意識したこともなかったが、雪の上ではあからさまにその姿を映していた。銀世界では、黒こそが命そのものとなり、豊かに刻印されているのであった。『松前帰る』(2006)所収。(土肥あき子)


December 29122006

 大寒や転びて諸手つく悲しさ

                           西東三鬼

十年ほど前の「俳句研究」で西東三鬼の特集があって、そこで三鬼の代表句一句をあげよという欄に加藤楸邨がこの句を選んでいた。ちなみに山口誓子選の「三鬼の一句」は「薄氷の裏を舐めては金魚沈む」だった。「人間」詠の楸邨、「写生構成」の誓子。二人の俳人としての特徴も選句に現れていて興味深い。一読、三鬼らしくない句である。三鬼作品は、斬新、モダニズム、二物衝撃が特徴。逆の言い方で言えば、奇矯、偽悪、近代詩模倣とでも言えようか。その三鬼が自らの格好悪い瞬間を自嘲気味に詠う。往来で転んで身を衆目にさらしたときの気恥ずかしさと惨めさ。きらきらした言葉のイメージの躍動とは正反対に、人間の愚かさのようなものが示される。三鬼門の俳人三橋敏雄に「雪ふればころんで双手つきにけり」がある。どこかの雑誌の依頼で、師から受け継ぐものの見方があるというような内容の文章を書き、これら二句を並べて鑑賞したら、早速敏雄さんから葉書が届いた。「あの句は僕の方が先です」とあった。作家意識をきちんと持った上で「師事」している一個の俳人の矜持を見た思いであった。『夜の桃』(1948)所収。(今井 聖)


January 1912007

 にはとりを叱りつつ雪掃きゐたる

                           友岡子郷

を採るために飼われ家の周辺に放たれる鶏の風景は少なくなった。卵の価格が安値安定しているためである。戦後の物価の推移の中でもっとも値上がり幅が少ないものに卵と牛乳が入っている。鶏は放牧されると木の上で眠る。ちゃんと空を飛ぶし、個性もある。昔家で飼っていた鶏を手乗りにした。腕を差し出すとちゃんと飛び乗ってくる。もっとも乗られるたびに爪を立てられるので布を巻かないと痛い。最新式のオートメーション化した養鶏場は餌も水も電動で巡ってくる。身動きのできない檻の中で採卵の機械と化し短い一生を終える鶏は悲しい。この句、連体形で止めてあるので、句の意味が上句へと循環する。主語である「誰か」または「我」が省略されているから「ゐたる」はそこに戻るわけである。仮に「掃きゐたり」の終止形で止めると画像の強調度は増すが、「叱る」という動詞の焦点と「掃く」という動詞の焦点のうちの後者が強調されることになる。連体形で止めることによって、作者はふたつの動作の対等な連携と反復性を意図したのである。うっすら積もった雪晴れの朝の鶏は鮮やか。鶏冠の朱が印象的である。叱られながら餌を啄ばむ鶏は幸せである。『葉風夕風』(2000)所収。(今井 聖)


February 0222007

 雪の夜の波立つ運河働き甲斐

                           藤田湘子

の夜、都市部を流れる人工の水路をぼうっと見つめる。運河は別に都市部でなくてもいいが、「労働者」のイメージには或る程度の喧騒が必要だ。この句、働き甲斐があるとも無いとも言っていない。そもそも働くということ、そこに甲斐を求めるということはどういうことなのかと、ぼうっと考えている句のように僕には思える。労働が、権力への奉仕でも、搾取のお先棒でもなく、「生の具現」としてある社会を目指せとマルクスは言ったけど、今はそんな図式はもうひからびた発想ということになっている。本当にそうだろうか。資本家とプロレタリアートの対立図式がカムフラージュされても、世界中に貧困や戦争は満ちている。この句、湘子さんが三十代の頃の作品らしい。だとすると、高度経済成長の波の只中で労働が善であり美徳であった時代。そこから思うと「働き甲斐」は、働き甲斐が「ある」と取った方が良さそうだが、ニートや引き籠りや鬱病や自殺や高齢者切り捨ての現状に当てはめると「働き甲斐」自体の意味を問うているというふうに読んでみるのも意義なしとしない。「ああ、働き甲斐って何なんだろう」自分なりの答も出せないまま虚ろな目が運河に降り込む雪を見つめる。生きること、働くことへの懐疑、疲労、諦観。「ぼうっと」がこの句のテーマだ。平畑静塔『戦後秀句2』(1963・春秋社)所載。(今井 聖)


May 3052007

 骨までもをんなのかたち多佳子の忌

                           阿部知代

のう五月二十九日は多佳子忌だった。多佳子に師事していた津田清子は「対象を真正面に引据え、揺さぶり、炎え、ときに突放した」と多佳子句を簡明に評している。多佳子の句の情感の濃さ激しさは、改めて言うまでもない。妙な言い方だが、頭のてっぺんから爪先まで「をんな」そのものであった。もちろん甘口の「をんな」ではなく、辛口の「をんな」のなかに、匂い立つような「をんな」の芳醇さが凛として炎え立っていた。その句や生き方のみならず、亡くなってなお骨までも「をんなのかたち」と、骨で多佳子をずばりとらえて見せた知代の感性もあっぱれ、只者ではない。かの「雪はげし抱かれて息のつまりしこと」の句が、女性ならではの句と言われるように、掲出句もまた女性ならではの傑作と言ってよかろう。女の鋭さが女の鋭さの究極をとらえて見せた。思わずドキッとさせられるような尖った熱さを突きつけている。多佳子の忌が、単に故人を愛惜し偲ぶだけにとどまらず、「をんな」の骨として今なお知代にはなまなましく感じられるのだろう。「骨までをんなのかたち」である「をんな」などざらにいるとは思われない。それにしても何ともエロティックな視点ではある。骨までが多佳子の意思であるかのように、今なお「をんな」として生きているようだ。知代には「添ふごとに独りは冴えて太宰の忌」という句もある。テレビ局のアナウンサーとして活躍し、「かいぶつ句会」「面」に所属している。『日本語あそび「俳句の一撃」』(2003)所収。(八木忠栄)


January 0412008

 雪の岳空を真青き玻璃とする

                           水原秋桜子

年の加藤楸邨先生をドライブで一の倉沢にお連れしたのは確か十四年前の晩秋だった。足腰が弱られていたために車を降りてからは車椅子。岩場を縫っての「吟行」になった。この前後の頃に何度先生をさまざまなところへお連れしたことだろう。「歩行的感動」という言葉を出して句作の機微を説明されたほど、実際にものに触れてつくることを旨とされていたので、外に出ることがかなわぬようになると、句が固定的な観念に頼り痩せてくることを避けようとされていたのだった。一の倉沢のてっぺんは雪を被っていたような気がする。覆いかぶさるように上空を囲った岩場の絶巓から木の葉がはらはらと落ちてきた。先生は句帖を開いて太字の鉛筆を持ち、ときおり何かを書き付けておられた。車椅子を押していた僕は上から覗き込んで手帖の中を見た。そこには上句として一の倉沢。行を変えて一の倉沢。次もまた。一の倉沢が三行並んでいた。この「一の倉沢」を、先生はその後推敲して句にされ発表されたような記憶があるが、どんな句だったか覚えていない。没後編まれた句集『望岳』には載っていない。秋桜子のこの句も谷川岳で詠まれた。おそらく一の倉沢だろう。ガラスのような青空から降ってきた木の葉を忘れられない。河出文庫『俳枕(東日本)』(1991)所載。(今井 聖)


January 2212008

 いきいきと雪の雫の竹箒

                           菊田一平

年の東京は積もるような雪はまだ降っていないが、油断していると慣れない雪に往生することになる。門までの踏み石や、家の前のわずかな通り道だけでも、降り積もり固く凍りつかない前に雪を払っておくことは、なかなかの大仕事だ。ひと仕事が済んで、下げられた竹箒から働く人が流す汗のようにぽたぽたと雫がしたたり落ちている。「いきいきと」の形容を命ないものに結びつけるとき、過剰な主観に辟易することも多いが、竹箒にはついさきほどまで握られていた持ち主の体温がありありと残っているように感じられるためか、無理なく受け入れることができる。箒は利き腕や使い方によって、微妙な具合に癖もつくものだ。こうなると箒という道具は単なる掃除用具ではなく、ごく個人的な、気に入りの万年筆のペン先などに感じる、減り具合まで愛おしむことができる特別なもの、自分の分身のように思えてくる。ところで、「竹箒」で検索すると上位に表示される「天才バカボン」で登場するレレレのおじさんだが、彼が電気店の社長であり、妻は既に他界、五つ子が五組で25人の独立した子供がいるという克明な背景に思わず仰天したことも今回の竹箒検索のおまけである。〈なやらひの鬼の寝てゐる控への間〉〈仏蘭西に行きたし鳥の巣を仰ぎ〉『百物語』(2007)所収。(土肥あき子)


January 2612008

 雪片のつれ立ちてくる深空かな

                           高野素十

週、火曜日の夜。冷え冷えとした夜道で、深い藍色の空に白々と冴える寒満月を仰ぎながら、これは予報どおり雪になるかもしれない、と思った。翌朝五時に窓を開けると、予想に反していつもの景色。少しがっかりして窓を閉めようとすると、ふわと何かが落ちてきた。あ、と思って見ていると、ひとつ、またひとつ、分厚く鈍い灰色の雲のかけらが零れるように、雪が落ち始めたのだった。すこし大きめの雪のひとひらひとひらが、ベランダに、お隣の瓦屋根に、ゆっくり着地しては消えていく。それをぼんやり眺めながら、「雪片」という言葉と、この句を思い出した。その後、東京にしては雪らしい雪となったが、都心では積もるというほどでもなく、霙に変わっていった。長く新潟にいた作者であり、この句、雪国のイメージと、つれ立ちて、の言葉に、雪がたくさん降っているような気がしていたが、違うのかもしれない。雨とは違って、その一片ずつの動きが見える雪。降り始めたばかりの雪は、降る、というより確かに、いっせいにおりてくる、という感じだ。やがて、すべてのものを沈黙の中に覆いつくす遙かな雪雲を見上げ、長い冬が始まったことを実感しているのだろうか。『雪片』(1952)所収。(今井肖子)


February 0822008

 雪の橋をヤマ去る一張羅の家族

                           野宮猛夫

宮猛夫。一九二三年北海道浜益村に八人兄弟の末っ子として生まれる。子供の頃は浜辺の昆布引きに加わり、尋常高等小学校卒業後、鰊船に乗る。鰊の不漁にともない、炭鉱に入る。炭鉱の落盤事故で死線をさまよい、脊椎を痛めたため川崎に出て、ダンプカーの運転に従事。俳句は、「青玄」、「寒雷」「道標」に拠り現在は「街」。一九五六年に「寒雷」に初投句で巻頭。そのときの句に「蛙けろけろ鉱夫ほら吹き三太の忌」「眉に闘志おうと五月の橋を来る」。これらは楸邨激賞の評を得た。生活の中から体ごと詩型にぶつけて作る態度である。労働のエネルギーはこの作家の場合は決してイデオロギーの主張にいかない。党派的なアジテーションや定番の宣伝画にはならない。原初のエネルギーで詩型が完結し昇華する。ヤマを去るときの家族の一張羅が切なくも美しい。上句の字余りがそのまま心情の屈折を映し出す。時代の真実も個人の真実もそこに刻印される。『地吹雪』(1959)所収。(今井 聖)


April 1542008

 戸袋に啼いて巣立の近きらし

                           まついひろこ

会の生活を続けていると、雨戸や戸袋という言葉さえ遠い昔のものに思える。幼い頃暮らしていた家では、南側の座敷を通して六枚のがたつく木製の雨戸を朝な夕なに開け閉てしていた。雨戸当番は子供にできる家庭の手伝いのひとつだったが、戸袋から一枚ずつ引き出す作業はともかく、収納するにはいささかのコツが必要だった。いい加減な調子で最初の何枚かが斜めに入ってしまうと、最後の一枚がどうしてもぴたりとうまく収まらず、また一枚ずつ引き出しては入れ直した泣きそうな気分が今でもよみがえる。一方、掲句の啼き声は思い切り健やかなものだ。毎日使用しない部屋の戸袋に隙を見て巣をかけられてしまったのだろう。普段使わないとはいえ、雛が無事巣立つまで、決して雨戸を開けることができないというのは、どれほど厄介なことか。しかし、やがて親鳥が頻繁に戸袋を出入りし始めると、どうやら卵は無事孵ったらしいことがわかり、そのうち元気な雛の声も聞こえてくる。雨戸に閉ざされた薄暗い一室は、雛たちのにぎやかな声によってほのぼのと明るい光が差し込んでいるようだ。年代順に並ぶ句集のなかで掲句は平成12年作、そして平成15年には〈戸袋の雛に朝寝を奪はれし〉が見られ、鳥は作者の住居を毎年のように選んでは、巣立っていることがわかる。鳥仲間のネットワークでは「おすすめ子育てスポット」として、毎年上位ランキングされているに違いない。〈ふるさとは菫の中に置いて来し〉〈歩かねばたちまち雪の餌食なる〉『谷日和』(2008)所収。(土肥あき子)


December 02122008

 ひよめきや雪生のままのけものみち

                           恩田侑布子

句は「生」に「き」のルビ。上五の「ひよめき」とは見慣れぬ言葉だが、「顋門」と表記し、広辞苑によると「幼児の頭蓋骨がまだ完全に縫合し終らない時、脈拍につれて動いて見える前頭および後頭の一部」とある。身体の一部とはいえ、「思」という漢字が使われていることや、大人になれば消滅してしまうものでもあり、幼児期だけに見られる、思考が開閉する場所のように思えるのだ。掲句では、雪野原のなかで踏み固められた一筋のけものみちに、ひよめきをそっと沿わせた。乱暴に続く雪の窪みが幼児の骨の形態を連想させるだけでなく、ただ食べるために雪原を往復するけものの呼吸が、熱く伝わるような、ひよめきである。〈刃凍ててやはらかき首集まり来〉〈ひらがなの地獄草紙を花の昼〉『空塵秘抄』(2008)所収。(土肥あき子)


January 1712009

 冬満月枯野の色をして上がる

                           菊田一平

週の金曜日、東京に初雪という予報。結局少しみぞれが落ちただけだった。少しの雪でも東京はあれこれ混乱する。一日外出していたのでほっとしたような、やや残念で物足りないような気分のまま夜に。すっかり雨もあがった空に、十四日の月がくっきりとあり、雫のようなその月を見ながら、掲出句を思い出していた。枯野は荒漠としているけれど、日が当たると、突き抜けたようなからりとした明るさを持つ。凩に洗われた凍て月のしんとした光には、枯野本来のイメージも重ね合わせることができるが、どちらかといえばぱっと目に入る明るさが脳裏に浮かんだのではないか、それも瞬時に。〈城山に城がぽつんと雪の果〉〈煉瓦より寒き首出し煉瓦積む〉など、目の前にあるさまざまな景色を、ぐっとつかんで詠むこの作者なら、枯野の色、という表現にも、凝った理屈は無いに違いない、と思いつつ、細りゆく月を見上げた一週間だった。『百物語』(2007)所収。(今井肖子)


January 2112009

 雪竹のばさとおきたる日向かな

                           中 勘助

きたる、は「起きたる」。竹は冬なお青い葉をつけているが、ある量の雪が降ると、その重さに耐えきれず、枝に雪をのせたまま撓い弓なりになって、先端のほうの枝葉が雪に埋もれて凍りついてしまう。陽が高くなって暖気になると、竹は溶けだした雪をはね飛ばしてビーンと起きあがることがある。雪竹が時折「ばさ」と音立てて起きあがったのち、竹林にはいっそうの静寂が広がる。勘助はその瞬間を「ばさとおきたる」ととらえた。私にも実際にこんな経験がある。――子どもの頃、雪がかなり積もると裏山にあるわが家の竹林へ出かける。何本もの竹が雪をのせて弓なりになっている。耐えきれずにすでに折れている小竹もある。子ども心にも可哀相だから、片っ端から竹の先端を埋めた雪を除けてやる。すると竹は生き返ったように、まさに「ばさ」と雪をあたりに散らし、身震いするようにビーンと起きあがる。それがうれしくておもしろくて、心をワクワクさせながら次々に竹を起こしてあるいた。親に言いつけられたわけではなく、たまたま雪で弓なりになっている竹を目にしてからは、雪が積もると裏山へ出かけて行った。起きあがる竹の喜びの声が聞こえるようだった。起きあがった竹の青々とした樹皮を、溶けた雪が雫になって伝わり落ちる。そうして初夏に生え出るタケノコには格別な味わいを感じた。――今は昔のものがたり。勘助は太平洋戦争で疎開した頃から俳句を作りはじめ、多くの俳句を残している。「ひとり碁や笹に粉雪のつもる日に」という一句もある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


January 3112009

 雪積むや嘴美しき折鶴に

                           津高里永子

り紙で鶴を折る時、最後に折るのがくちばし、嘴(はし)だ。そして羽を広げると完成。いつ誰に教わったのか、確かな記憶のないまま、鶴の折り方は手が記憶している。私が勤めている学校では、中学一年数学の立体の授業で折り紙を使う。糊もはさみも使わずに、正方形の折り紙を折り込むだけで、正三角形や正五角形のユニットができ、それを組み立てると、さまざまな正多面体と呼ばれる立体ができあがる。余った折り紙で、器用にあれこれ折っている子もいれば、最近は、鶴を折ったことがない、という子もいてさまざま。この句の折鶴は、屋外に置かれた千羽鶴だ。願いをこめて、あるいは祈りをこめて、ささげられた千羽鶴。目の前の千羽鶴に雪が降っているのかもしれないが、千羽鶴の置かれた地を、遠く離れて思っているような気がする。雪は、もののかたちに積もり、やがてすべてを覆いつくす。美し、は、限りなく、悲し、に近いけれど、尖った折鶴の嘴の先に美しい雪解雫の光る春が、かならずめぐって来る。『地球の日』(2007)所収。(今井肖子)


February 1822009

 つみ上げし白き髑ろか雪の峯

                           会津八一

るほど冬の山間部に踏みこめば、雪に覆われた峯々は確かに「白き髑(どく)ろ」を重ねたように見える。大きくふくらんで盛りあがっている髑髏もあれば、小さくちぢこまっている髑髏もある。さまざまな表情をした髑髏が、身を寄せ合い重なり合っているようであり、峯々はまさしく「つみ上げ」たようにも眺めることができる。上五「つみ上げし」が、見あげるような峯の高さを表現している。凝ったむずかしい表現を避けて、さりげなく「つみ上げし」としたところにかえって存在感がある。特に雪の詠み方は、妙な技巧をほどこさないほうが生き生きとした力を発揮する。雪の峯を「髑ろ」ととらえてみせたところに、モノの姿かたちを厳密に見つめる書家・秋艸道人らしい視線が感じられる。その「白き髑ろ」の表情も、天候や時間の経緯によって刻々と変化して見えてくるはずである。髑髏とはいえ、ここには少々親しげな滑稽味も読みとれる。雪山はある時は峨々として、ある時はたおやかにも眺められよう。但し、八一が「髑ろ」である、と断定しきらずに、一語「・・・か」という疑問含みのニュアンスを残したことによって、句の奥行きが増したと言える。八一の俳号は八朔郎。ほかに雪を詠んだ句に「あさ寒や妙高の雪みな動く」「俳居士の高き笑や夜の雪」などがある。『会津八一全集第六巻 俳句・俳論』(1982)所収。(八木忠栄)


September 1692009

 生きてあることのうれしき新酒哉

                           吉井 勇

米で作られた酒は新酒と呼ばれ、「今年酒」とも「新走(あらばしり)」とも呼ばれる。初ものや新しいものが好きなのは人の常。酒好きの御仁にとって新酒はとりわけたまらない。酒造元の軒先に、昔も今も新酒ができた合図に吊るされる青々とした真新しい杉玉(酒林)は、うれしくも廃れてほしくない風習である。暑さ寒さにかかわりなく年中酒杯を口に運んでいる者にとって、香りの高い新酒はまた格別の逸品である。そのうまさはまさに「生きてあることのうれし」さを、改めて実感させてくれることだろうし、今年もまた新酒を口にできることの感激を味わうことにもなる。勇が掲出句を詠んだ時代は、現在のようにやたらに酒が手に入る時代とはちがっていたはずである。それだけに新酒のうれしさは一入だったにちがいない。逆に現在は、新酒との出会いの感激はそれほどでもなくなったかもしれない。勇は短歌のほかに俳句もたくさん詠んだ。酒を愛した人らしい句に「 またしても尻長酒や雪の客 」もある。中村草田男の新酒の句に「 肘張りて新酒をかばふかに飲むよ 」があって、その様子は目に見えるようだ。10月1日は「日本酒の日」。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


November 06112009

 雪の降る町といふ唄ありし忘れたり

                           安住 敦

現というものが事実をそのまま写すことは有り得ないことで、俳句もまたノンフィクションであることは自明の理だという一見正しい論法で入ると「写生」蔑視に通じる。水原秋桜子以降の流れはそういう「自明の理」を持ち出す方向だった。「新興俳句」の流れはノンフィクション説を奉じて今日に至っている。ほんとうにそうだろうか。ものを写す、現実、事実をまるごと写せるはずもないのに写そうとすること。それが俳句という詩形を最大限に生かす方法であると子規は直感したのではなかったか。もうひとつ、表現の持つエネルギーに対していわば負のエネルギーが俳句にある。これも詩形から来る俳句の固有のものだ。それは枯淡とか俳諧の笑いとか神社仏閣詠ではなくて、こういう句だ。「忘れたり」の真剣さは大上段の青春性に対抗して、正調「老人文学」の要だろう。技術の確かな、感覚の鋭敏な、博学の若手がどんなに頑張っても及ばない世界だ。作者最晩年の作品。『現代俳句』(1993)所収。(今井 聖)


December 06122009

 降るをさへわするる雪のしづかさよ

                           藤森素檗

浜では、冬になったからといって毎年必ず雪が降るというものではありません。通勤準備をする朝に、天気予報のテレビ画面の雪ダルマの絵を見ながら、ああもう北海道には雪が降っているのだなと、うっとりと風景を想像するくらいなものです。来る日も来る日も、乾ききった関東の空の下を、遠くを見つめながら電車に乗っているだけです。そのせいかどうか、雪のやっかいな面はなかなか意識にはのぼらず、きれいなところだけに目が向いてしまいます。雨と対比して、心がより雪のほうに傾くのは、見た目の美しさや、触れたときの感触だけではなく、音の大小にも関係があるのかもしれません。今日の句も、小細工することなく、正面から雪の音を詠んでいます。降っているのを忘れてしまうのは、もちろん降られているヒトのほうですが、おそらく雪自身も、同じように忘れているのです。『日本名句集成』(1992・學燈社)所載。(松下育男)


December 18122009

 天の贅地の贅雪に日が射して

                           津田清子

みぶりがからっとしていて、俳句の臭みのようなものが感じられない。こういう句が誓子文体本流の句である。雪は積雪のこと。一切が雪に覆われた世界に日が射している。空は青空。まさに天の贅地の贅だ。ひいてはこの世の贅、生きて在ることの贅に通じる。誓子が切れ字を嫌ったのは、古い俳句的情緒の臭みを嫌ったから。切れ字を排する代わりに五七五のリズムを一度壊した上で自己にひきつけて新鮮なリズムを構築する。誓子文体の中に、作者によって内容のオリジナルが盛られている。「角川俳句年鑑」(2009)所載。(今井 聖)


December 24122009

 雪が来るコントラバスに君はなれ

                           坪内稔典

ントラバスはチェロよりも大きく、ジャズの演奏にはベースとして登場する。低音の暖かい音色が魅力の楽器である。チェロよりはややロマンチックでないかもしれないが、ボンボンと響くその音が楽曲の全体をおおらかにひき締める大切な役柄を担っている。真っ黒な雪催いの空が西から近づいてきて、今夜は吹雪くかもしれない。その時は僕がしっかり両腕で受けとめてあげるから君はコントラバスになりなさい。やさしい言葉だけどしっかりした命令形が頼もしい。これは最高に素敵な求愛の言葉。二人だけの夜にこんな言葉をささやかれたら女性はすぐに頷いてしまうだろう。世の男性たちも自分の心持ちをお洒落に表現する言葉の使い手になってひそかに思いを寄せる女性たちを口説いてほしい。今夜はクリスマスイブ、雪と求愛が一年で一番似合う夜が訪れる。『水のかたまり』(2009)所収。(三宅やよい)


January 1412010

 屋根のびてきて屋根の雪落ちにけり

                           しなだしん

が珍しい瀬戸内海と太平洋岸の冬しかしらないので、一年の三分の一を雪に封じ込められる生活は想像するしかない。豪雪地帯である新潟県上越地方を舞台にした鈴木牧之の『北越雪譜』には以下のような記述がある。「雪ふること盛んなるときは積もる雪家をうづめて雪と屋根と等しく平らになり、明りのとるべき処なく、昼も暗夜のごとく燈火を照して家の内は夜昼をわかたず」雪囲いをしてほとんど塞いでしまった窓からは灰色に垂れこめた空と軒の黒い影しか見えないだろう。その影がすうっと伸びる心地がして、雪が滑り落ちる。そんな情景を外から見れば「屋根のびてきて」ということになろうか。「リアル」とは自分の内側の体験を掴みとって、他の誰もが出来ない表現で読み手に感銘を呼び起こすことだとすれば、雪国での生活経験のない私にもその瞬間がいきいきと想像される一句である。『夜明』(2008)所収。 (三宅やよい)


January 2412010

 武蔵野の雪ころばしか富士の山

                           斉藤徳元

ころばしというのは雪ダルマのことです。たしかに雪ダルマを作るためには、雪を転がして少しずつ大きくしてゆくわけですから、「雪ころばし」というかわいらしい言葉は、適切な名前と言えます。関東地方南部に長年暮らしているわたしは、雪ダルマを作るほどの積雪はめったに経験したことがなく、だからきちんとした雪ダルマなど作った記憶がありません。いつも中途半端にでこぼこで、泥のついた情けないものでした。江戸期の「雪ころばし」は、単に雪を転がして大きくしたもので、目鼻をつけることもなかったようです。だから余計に、遠方にぬっくと立ち尽くす富士山を、雪ダルマに見立てるなどという発想が出てきたのでしょう。冬の富士の気候は厳しく、武蔵野平野に作られた雪ダルマなどという暢気なものではありません。でもそれを言うならもちろん、雪に覆われた冬の生活そのものが日々過酷なものであり、だからこそこのような句で、心だけはほっとしたかったのかもしれません。『俳句大観』(1971・明治書院)所載。(松下育男)


January 2612010

 雪だるま手足出さうな日和なり

                           大沼遊魚

を明けてからの天気予報の日本地図にはずらりと雪だるまのマークが並んでいるが、日は確実に伸びてきた。日常に雪の降る生活をほとんど経験していないことから、雪だるまを作ることは憧れのひとつでもある。「雪だるまの作り方」なるマニュアルによれば「まず手のひらで雪玉を作り、やわらかい雪の上で転がす。まんべんなく雪が付くように転がしていくと、雪玉はどんどん大きくなるので、ほどよい大きさを二つ作り、ひとつにもうひとつを重ねる。」のだそうだ。手のひらほどの雪玉が、みるみる大きくなっていくことが醍醐味のこの遊び、日本でどれほど昔から親しまれていたのかと調べてみると、源氏物語と江戸期の浮世絵に見つけることができた。源氏物語では「朝顔」の段に「童女を庭へおろして雪まろげをさせた」とあり、「雪まろげ」とは雪玉を転がし大きくする遊びとあるから、雪だるまの原形と考えてもよさそうだ。浮世絵は鈴木春信の「雪転がし」で、こちらは三人の男の子が着物の裾をからげて(一人はなんと素足である)、寒さをものともせず大きな雪玉を転がしている。掲句にも、また遊びの本質を見届ける視線がある。雪だるまが次第に溶け、形がなくなってしまうことへの悲しみや切なさという従来の詠みぶりを捨て、最後まで明るくとらえていることに注目した。ところで歌川広重『江戸名所道戯尽』の「廿二御蔵前の雪」では、正真正銘の達磨さんを模したものが描かれており、これにぬっと手足が出たらちょっと怖い。〈雪原の吾を一片の芥とも〉〈山眠る熱きマグマを懐に〉『倭彩』(2009)所収。(土肥あき子)


January 2712010

 大雪となりて果てたる楽屋口

                           安藤鶴夫

席が始まる頃から、すでに雪は降っていたのだろう。番組が進んで最後のトリが終わる頃には、すっかり大雪になってしまった。楽屋に詰めていた鶴夫は、帰ろうとした楽屋口で雪に驚いているのだ。出演者たちは出番が終われば、それぞれすぐに楽屋を出て帰って行く。いっぽう木戸口から帰りを急ぐ客たちも、大雪になってしまったことに慌てながら散って行く。その表の様子には一切ふれていないにもかかわらず、句の裏にはその様子もはっきり見えている。今はなき人形町末広か、新宿末広亭あたりだろうか。いずれにせよ東京にある寄席での大雪である。東京では10cmも降れば大雪。これから贔屓の落語家と、近所の居酒屋へ雪見酒としゃれこもうとしているのかもしれない。からっぽになった客席も楽屋も、冷えこんできて寂しさがいや増す。寄席では、雪の日は高座に雪の噺がかかったりする。雪を舞台にした落語には「鰍沢」「夢金」「除夜の雪」「雪てん」……などがあるが、多くはない。癖の強かった「アンツル」こと安藤鶴夫の業績はすばらしかったけれど、敵も少なくなかったことで知られる。多くの演芸評論だけでなく、小説『巷談本牧亭』で直木賞を受賞した。久保田万太郎に師事した。ほかに「とどのつまりは電車に乗って日短か」の句がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


January 2912010

 降り切つて雪のあけぼのおのづから

                           蝦名石藏

雪の地の感慨が出ている。雪がこれでもかと連日降り続いてようやく止む。まさに「おのづから」止む体である。そして朝日が顔を出す。冬来りなば春遠からじ。朝の来ない夜はない。人生の寓意の類にどこかで転じていく働きもある。「氷結の上上雪の降り積もる」山口誓子はこの自作の色紙を企業経営者などに請われることが多いと自解に書いていた。ちりも積もれば山となるを肝に銘ぜよと社員に示すためだろう。そういう鑑賞が悪いとか良いとかいうのは当たらない。ただ、現実描写、即物把握の意図があってこその、結果としての寓意だとこういう句を見て思う。『遠望』(2009)所収。(今井 聖)


January 3112010

 雪の夜の紅茶の色を愛しけり

                           日野草城

茶を詠った句は、どれも読んでいてあたたかな気持ちになります。特に、ことさら赤い「色」に注目したのは、つめたい雪の「白」や、部屋をつつむ夜の「黒」と対比したもので、たしかに紅茶というのは、その熱を色にまで素直に表しているものなのだなと、あらためて感心してしまいます。かつてこの欄で、三宅さんが採り上げた「雪降ってコーヒー組と紅茶組」(中原幸子)の句にも感じたことですが、この世には、わたしたちをそっと支えてくれるものが、あらかじめきちんと用意されているものだなと、つくづく感じるわけです。わたしが紅茶を飲むのは、この句とは違って通勤前のあわただしい朝の数分です。トーストを頬張った後に、砂糖もなにも入れない紅茶を流し込むように飲んでから、気合を入れて会社に向かうわけです。この句のように、ゆったりとした言い方はできませんが、日々のはじまりに背中を押してくれるこの飲み物を、わたしだって深く愛しています。『俳句大観』(1971・明治書院)所載。(松下育男)


October 19102010

 アクセル全開秋愁を振り切りぬ

                           能村研三

つもはごく温厚な人がハンドルを握ると、とたんに性格が変貌し大胆になるというタイプがあるらしい。常にないスピード感やひとりだけの空間が心を解放させるのだろう。掲句が荒っぽい運転とは限らないが、どこかいつもとは違う攻めの姿勢を感じさせる。秋の心と書く「愁」が嘆きや悲しみを意味させるのに対し、春の心と書く「惷」には乱れや愚かという意味となる。それぞれの季節に芽生える鬱々とした気分ではあるが、春は軽はずみなあやまちを招くような心を感じさせ、一方、秋の気鬱は全身に覆いかぶさるような憂いを思わせる。常にない向こう見ずなことをしなければ、到底振り切ることなどできない秋愁である。猛スピードで振り切った秋愁のかたまりをバックミラーの片隅に確認したのちは、わずかにスピードをゆるめ軽快な音楽に包まれている作者の姿が浮かぶのだった。〈男には肩の稜線雪来るか〉〈里に降りる熊を促へし稲びかり〉『肩の稜線』(2010)所収。(土肥あき子)


December 10122010

 時を違へてみな逝きましぬ今日は雪

                           中村草田男

つ生まれようと生ある者は例外なく死ぬ。過去から果てしもなく生まれたら必ず死んで今日に至る。そして今日空から雪が降りてくる。限りない死者のように。草田男しか出来ない句。生と死と永遠を見ている。「人間探求派」としてよく比較される草田男と加藤楸邨の違いを考えてみると、作品の中に一貫して流れる強靭なひとつの思想が草田男には感じられるのに対して楸邨は一句一句いつも白紙から出発する。型の確立や技術の熟達を楸邨は意識的に嫌った。それはほんとうに言いたいことがなくても、ほど良い季語の斡旋や取り合わせで作品が作れてしまうことの怖さを言っているのだ。草田男はどの句も確信的思想の土台の上に置かれている。観念が土台にある場合は通常は解説的になり、啓蒙的色彩が濃くなる。草田男は季節感を日本的なものの在り処として捉えて生々しい把握をこころがけている。だから観念が浮き立つことがない。この句で言えば「今日は雪」。限りなく空から降りてくる雪片に限りない死者を重ねて見ている。この生々しい実感的把握は草田男、楸邨に共通する部分である。『大虚鳥』(2003)所収。(今井 聖)


January 1212011

 打ちあげて笑顔のならぶ初芝居

                           松本幸四郎

年の「壽初春大歌舞伎」(初芝居)は1月2日に幕があいた。東京では歌舞伎座が改築中なので、新橋演舞場や浅草公会堂などで26日まで。演し物は「御摂勧進帳」「妹背山婦女庭訓」他。大阪は大阪松竹座で上演中である。もう早々にご覧になった方もいらっしゃるでしょう。毎年のこととはいえ、初芝居は出演者それぞれに新鮮な緊張感があるものらしい。千龝楽まで無事に終わって打ちあげともなれば、出演者はもとよりスタッフ一同ホッとして笑顔笑顔の打ちあげであろう。他の興行でも同様だろうと思われるが、大所帯で初芝居を終えての達成感・安堵感は格別のもがあるのは当然。幸四郎は八代目幸四郎(白鸚)の長男として生まれ、三歳の時に初舞台を踏んだ。幸四郎がかつて「俳句朝日」に連載していた俳句に、私は親しんだことがあるけれど、虚子に学んだ祖父中村吉右衛門(初代)の一句「雪の日や雪のせりふを口ずさむ」が、自分を俳句の世界に誘ってくれたと述懐しており、「ひょっとしたら俳句は、神からの短い『言葉の贈り物』なのかもしれない」とも書いている。掲句は『松本幸四郎の俳遊俳談』(1998)に収めた句と、その後の句を併せて編集された句集『仙翁花』(2009)に収められたなかの一句。他に「神々の心づくしの雪の山」がある。初芝居と言えば、宇多喜代子に「厄介なひとも来てをり初芝居」がある。(八木忠栄)


January 2612011

 音もなく雪の重みにしなう竹

                           アビゲール・フリードマン

文は〈heavy with snow the bamboo bends in silence/Abigail Friedman〉。竹林にどっさり雪が降ると、竹は枝葉に積もった雪の重みでそれぞれ弧を描いてしなってしまう。なかには耐えきれずに、途中から割れて折れてしまう若い竹もある。しかし、他の樹木とちがって、竹はポッキリ折れてしまうことはない。この句で思い出すのは(私事になるが)、中学生の頃、雪がどっさり降った翌朝裏山の竹林に行って、雪の重みで弧を描いて大きくしなっている竹を、一本一本ゆさぶって雪を落としてやったことである。誰に頼まれたのでもない。竹はうれしそうに雪をビューンと跳ね返して高く伸びあがる。散り落ちてくる雪をあびながら、そんな作業がおもしろくもうれしかった。雪がたくさん降った後そんな作業をしに、よく裏山の竹林へ出かけた思い出が懐かしい。フリードマンはアメリカの女性外交官で、駐日アメリカ大使館勤務時代、俳句に興味を抱いて黒田杏子に師事し、句会にも参加したという。俳句を学んでいて、「子どものころ未来について夢見たのと同じ畏れと神秘さを味わった」と記している。掲句は彼女の俳句体験記『私の俳句修行』(中野利子訳/2010)巻末の「アビゲール不二句集」に収められている。他に「雪が舞ふ刻(とき)の流れをおしとどめ」などがある。俳句訳=中野利子・黒田杏子。(八木忠栄)


January 2712011

 白髪やこれほどの雪になろうとは

                           本村弘一

髪になるのは個人差があるようで、はや三十歳過ぎから目立ちはじめる人もいれば六十、七十になっても染める必要もなく豊かに黒い髪の人もいる。加齢ばかりでなく苦労が続くと髪が白くなるとはよく言われることだけど、どうして髪が白くなるのかそのメカニズムはよくわかっていないようだ。掲句は「白髪や」で大きく切れているが、「これほどの雪」が暗い空を見上げての嘆息ともとれるし人生の来し方行く先への感慨のようにもとれる。降りしきる雪の激しさと白髪との取り合わせが近いようで、軽く通り過ぎるにはひっかかりを感じる。俳句の言葉とはすっかり忘れ果てたときに日常の底から浮上してきて読み手に働きかけるものだが、この句のフレーズにもそんな言葉の力を感じる。「ゆきのままかたまりのまま雪兎」「ひたひたと生きてとぷりと海鼠かな」『ぼうふり』(2006)所収。(三宅やよい)


February 1622011

 雪の上に/回転木馬をめぐって/馬の歩いた跡

                           ヴィンセント・トリピ

文は〈in the snow/around the carousel/tracks of a horse vincent tripi〉。雪が降った朝の公園だろうか。来てみると回転木馬の周囲に、馬が歩いたひづめの跡が残っているーーまあ、句そのままの意味合いだが、もしかして夜中に回転木馬たちのなかの一頭(a horse)が所定の場所を離れて、周囲を回転するように自由にのびのびと歩いたのかもしれない。そう考えるとファンタスティックな絵とイメージが加わる。それはしっかり固定されている木馬たちの見果てぬ夢なのかもしれない。閉園した真夜中の回転木馬のファンタスティックなドラマ、その入口を思わせるような俳句である。あるいは、どこかからお茶目な馬がやってきて、自由がきかない木馬たちにこれ見よがしに、その周囲を歩きまわって見せたと想定してみるのも楽しい。海外での俳句がさかんであることは、以前から言われている。北米でも、最も大きいアメリカ・ハイク協会が一九六八年に創設された。句会も定期的に開催され、同人誌も発行されているという。広大な北米大陸では、雪深いニューイングランドと雪のないロサンゼルスとでは、季節感に当然大きなへだたりがある。掲句はボストン・ハイク協会が主催したコンテストでの受賞作。上田真訳『俳句とハイク』(1994)所収。(八木忠栄)


March 0132011

 啓蟄のとぐろを卷いてゐる風よ

                           島田牙城

だ冬のコートをしまいきれないが、今日から3月。そして来週には啓蟄。地底深くぬくぬくと冬ごもりしていた虫たちが土のなかから出てくるには、まだちょっと早いんじゃないの、といらぬ心配をしたくなる。それでもひと雨ごとに春の陽気となっているのはたしかで、花はその身を外気にさらしているのだから花の時期を見極めているのだろうと推量できるが、土のなかにいる虫たちはどうしてそれを知るのだろう。ちょうど今時分、今年最初の雷が鳴り、これが合図になっていたと考えられて「虫出しの雷」という言葉もあるが、まさか聞こえているとは思えず、なんとも不思議な限りである。掲句がいう風は強くあたたかな南風かもしれないが、「とぐろ」と称したことでどこか邪悪な獣めいた匂いをもった。目が覚めてのんびり土から出た蛙が、一番最初に吹かれる風がこれでないことを祈っている。〈汗のをばさん汗のおぢさんと話す〉〈土までが地球紅葉は地球を吸ふ〉〈ひるまずに降る雪さては雪の戀〉『誤植』(2011)所収。(土肥あき子)


December 15122011

 雪晴の額にもうひとつのまなこ

                           しなだしん

読んだ手塚治虫のマンガ『三つ目がとおる』を思い出した。普段はぼんやりして泣き虫、額に大きなばんそうこうを貼った主人公がばりっとばんそうこうをはがしてもう一つの目が出現するや、不思議な魔力を発揮する話だった。どんよりと雲が垂れこめて降り続いた雪がやむと青く晴れ渡った天気になる。真っ白な雪に覆われた景色のただ中にいると普段は見えないものが遠くまで見通せるような気持ちになる。目はもともと脳の一部が変質したものという説があるが、視覚的な景色をとらえる目とは異質なものを感知する目が額にあるのかもしれない。「もうひとつのまなこ」は雪晴の冷たく透き通った空気を額に感知しての比喩的表現だろうが、そんな日には前髪でかくされた眼が現れる非現実も違和感なく受け取れる。『隼の胸』(2011)所収。(三宅やよい)


December 21122011

 眼薬さしてねむる大雪になろう

                           小林銀汀

は音もなく不気味な静けさのなかで、もさもさと降り積もり、一夜にして大雪になることがある。いつもと何かしらちがう静けさのなかにいて、雪国の人にはそんな予感がする冬の夜があるのだ。「嵐の前の静けさ」ではないけれど、毎夜寝る前にさしている眼薬を、今夜もいつもと変わらずさすという何気ない日課。なぜか降る雪のごとく、冷たく澄んだ眼薬がまなこにしたたり広がって行くような錯覚も読みとれる。一段と寒さが厳しく感じられる夜なのだろう。もちろん「ねむる」で切れる。銀汀(ぎんてい)は越後長岡の写真師だが、俳句も作って井泉水の「層雲」に拠ったこともある。掲句は心酔していた山頭火調が感じられる。山頭火は昭和十一年五月から六月にかけて、一茶から良寛へとめぐる旅の途中、銀汀宅に三日間滞在したという。よく知られている山頭火の旅装束の写真は、長岡に滞在中に銀汀が撮影したものであることは、知る人ぞ知る。他に「星のある月のある雪を歩いてゐる」がある。『荒海』(1971)所収。(八木忠栄)


January 2512012

 雪降れば佃はふるき江戸の島

                           北條秀司

京にはめったに雪は降らないけれど、それでも一冬に二、三回は降る。10センチも降れば交通が麻痺してしまう。東京は雪に対する備えが不十分だから、大変なことになる。雪国に住んでいた亡くなった母が、突然の雪に難渋してすべって転ぶ東京の人たちをテレビで観て、「バアカめ!」と笑っていたことがある。備えがないのだから仕方がない。それはともかく、雪が降ると都会の過剰な装飾や汚れが隠蔽されて、景色が一変する。高層ビルの街にも、冬らしい風情が加わってホッとさせられる。まして古い時代の風情を残していた頃の佃島に雪が降ったら、「ふるき江戸」に一変したにちがいない。そういう時代に作られた句である。今や佃島にも高層マンションが林立してしまい、とても「江戸」というわけにはいかない。住吉大社に詣でてみると、背景に屏風のようにめぐらされた高層ビル群が、どうしようもなく情緒をぶちこわしている。佃島はもともと名もない小島だった。徳川家康の時代、摂津の佃村から漁父30余名が移住してできた漁村。それでも銀座から近いわりには、まだ古い情緒がいくぶん残っていると言っていいだろう。秀司は「王将」など大劇場演劇の劇作家として第一人者だった。残された俳句は少ないけれど、他に「山門の煤おとしをり雪の上」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


January 2812012

 いつさいの音のはてなり雪ふるおと

                           奥坂まや

週月曜日の夜九時過ぎ位か、障子を開けると雪になっていた。雪の予報は出ていたのでやっぱりと思ったが、それにしても久しぶりに見る霏霏と降る雪だった。また大げさなと、忠栄様の母上に叱られそうだが、つぎつぎに落ちる雪に、つい口を開けて見とれてしまった。雨音が聞こえなくなると雪になっている、というのがふつうだけれど、降る雪を見ているといつも、雪を聞いている、という気分になる。その、おと、は確かに、耳に届く音ではなく、全身で感じる静かで賑やかな気配のようなものなのかもしれない。その夜の雪はすぐにまばらになり、それでも我が家のベランダには数センチ積もった。そして静かに眠ったまま、朝日に光りながら消えてしまった。『妣の国』(2011)所収。(今井肖子)


February 0122012

 夜の雪わらじもぬがで子を思ふ

                           勝 海舟

の降る夜に外出から海舟は帰って来た。離れて暮らす吾子のことをふと思い出し、「しばらく会っていないが、この雪のなかでどうしているだろう?」と、わらじを脱いであがるのも忘れて、そのまま玄関で、しばし吾子のことをあれこれ気にかけている。子を思う親の心である。あるいは、もしかすると吾子のところから今帰って来たばかりで、何かしらフッと気にかかっている、ということなのかもしれない。「わらじもぬがで」だから、よほど強く気にかかることがあったものと思われる。雪降る夜の静けさが、吾子のことをいつになく思い出させてしまったのだろう。親は幾つになっても、何につけ子のことを思うものである。海舟は「政治家や医者とちがって、俳諧は金を捨てて楽しむからいい」と語ったことがあると言われている。俳諧とは本来そういうものだったはずであろう。他に「梅盛り枝は横たて十文字」がある。高橋康雄『風雅のひとびと』(1999)所載。(八木忠栄)


March 2332012

 雪すべてやみて宙より一二片

                           山口誓子

空を思う。昼だと日差しで雪が溶けるイメージがあるから。すべて止んだのにどうして一二片降りてくるのか。これは空から降ってくる雪ではない。完全に雪が止んだあとのしずかさの中、高みに積った粉雪が風のせいなどで自然に落ちて来るのだ。すべて止んだあと降りてくる雪、そんな難しいところをどうしてこんなに平明に詠めるのだろう。僕など同じ発想をしたらおそらく苦しまぎれに季語「風花」を用いるような気がする。風花は空から降ってくる雪だから趣旨が違うのに。そもそも止んだあとに落ちて来る雪なんて難しいところは諦めるしかないのだ。細かいことだが、一二片も最近の俳人は使えない。一、二片と書くだろう。じゅうにへんと誤読されるのが恐いからだ。読者が信頼できなくなっているということと自分と向き合うモノローグ性が弱くなって他者による理解を優先させる考え方が強くなっているからだ。だから「、」を多用したり名詞を並べるときに「・」を用いたりする。「、」も「・」も俳句の立姿を損ねる。読者を信頼するということと自分に向き合うこと。これは矛盾しない。『青女』(1950)所収。(今井 聖)


June 0862012

 雪よりも白き雲来て雪かくす

                           山口青邨

のう、個人的なことなのですが、勝手ながらこれまでこの欄にはその折の季節に合わせて俳句を取り上げて鑑賞して参りましたが、これからはタイムリーな季節の句に関りなく取り上げていきたいと思います。この句「アルプス行」の前書きあり。この作者の句に感じるのは情緒の安定。感情の揺れをそのまま詩型に叩きつけたりしない落ち着きぶりです。それが大人の風格のようで若い頃は嫌味に見えたのですが、このごろはその魅力も少しわかってきたように思います。感情が安定していると風景もブレない。正面から大きな景に堂々と立ち向かう。横綱相撲というべきか。『現代の俳句』(1993)所載。(今井 聖)


June 1562012

 鮭食う旅へ空の肛門となる夕陽

                           金子兜太

きな景を自身の旅への期待感で纏めた作品だ。加藤楸邨は隠岐への旅の直前に「さえざえと雪後の天の怒濤かな」と詠んだ。楸邨の句はまだ東京にあってこれから行く隠岐への期待感に満ちている。兜太の句も北海道に鮭を食いに行く旅への期待と欲望に満ちている。雪後の天に怒濤を感じるダイナミズムと夕焼け空の色と形に肛門を感じる兜太のそれにはやはり師弟の共通点を感じる。言うまでもなく肛門はシモネタとしての笑いや俳諧の味ではない。食うがあって肛門が出てくる。体全体で旅への憧れを詠った句だ。こういうのをほんとうの挨拶句というのではないか。『蜿蜿』(1968)所収。(今井 聖)


December 01122012

 冬薔薇を揺らしてゐたり未婚の指

                           日下野由季

の薔薇が真紅の大輪の薔薇だとすれば、未婚の指、には凛とした意志の強さが感じられる。やや紅を帯びた淡く静かな一輪だとすれば、その花にふれるともなくふれた自らの左手に視線を向けた作者の、仄かな心のゆらめきや迷いのようなものが感じられる。二十代後半の同年の作に〈降る雪のほのかに青し逢はざる日〉とある。雪を見つめ続けている作者の中に、逢いたい気持ちと共にひたすらほの青い雪が降り積もってゆくようだ。そう考えると、雪のように清らかな白薔薇なのかもしれない、と思ったりもするが、いずれにしても掲出句の、未婚の指、にはっとさせられ、冬の澄んだ気配がその余韻を深めている。『祈りの天』(2007)所収。(今井肖子)


December 21122012

 雪二日馬も偽装の白衣着ぬ

                           須合軍曹

号は軍隊の階級のまま。「寒雷集」次巻頭三句の中の一句。投句地は営口とある。営口は中国遼寧省の遼河河口の港湾都市。従軍地からの投句である。そうか、雪中では馬に偽装のための白衣を着せたんだなと軍の装備の細やかさにあらためて驚く。この句、表現に無駄のない良い句である。ヒューマニズムや反戦意識の押し付けは「正義」ばかりが表に出て今ふうにいうと「どや顔」の俳句になる。こういう淡々と事実を見据えた表現にこそ時代の真実が浮き彫りになる。軍曹は下士官。僕らの世代は人気テレビ映画「コンバット」のヴィック・モロー扮するサンダース軍曹を思い出す。最前線に張り付いて部下を愛し叱咤しながら敵を粉砕してゆく「現場監督」だ。須合軍曹は果たして生還できたのかどうか。「寒雷・昭和17年3月号」(1942)所載。(今井 聖)


January 0812013

 寒立馬雪横なぐり横なぐり

                           小圷健水

立馬(かんだちめ)は、青森県下北半島で放牧されている比較的小柄な馬である。南部馬を祖とした農耕馬で、気候と痩せた土地に順応する種として改良されてきた。「寒立」とは野生のカモシカなどが雪上を数日じっと動かぬ姿を呼ぶという。ずんぐりとした体躯に足元の安定した素朴な馬が、白い息のかたまりを吐きながら立つ群れはいかにも雄々しく、風土に適合している。しかし、どんなに厳寒のなかでも平気だと聞いても、寒風にたてがみをなぶらせ、たっぷりとしたまつげに雪を乗せている姿は、見るものに哀れを誘う。横なぐりの雪のなかで、身を隠す場所もなく、馬たちはひたすら立ち続け、春を待つのだ。同集には仔馬の姿も見られる。厳しい自然のなかの親子の情はひときわ熱く胸を打つ。〈風上の母に添ひゐる寒立馬 篠原 然〉、〈乳をのむ仔馬も雪にまみれをり 原田桂子〉「青林檎」(2012年冬号・19号)所載。(土肥あき子)


January 2212013

 雪景色女を岸と思ひをり

                           小川軽舟

に縁遠い地に生まれたせいか、降り積もった雪の表情が不思議でならない。川にぽつんぽつんと雪玉が置かれているように見えたものが石のひとつひとつに積もった雪であることや、くっきりと雪原に記された鳥の足跡が飛び立ったときふつりと途絶えているのさえ、神秘に思えていつまでも見飽きない。女を岸と思うという掲句は、ともすると「男は船、女は港」のような常套句に惑わされるが、上五の雪景色がひたすら具象へと引き寄せている。村上春樹が太った女を「まるで夜のあいだに大量の無音の雪が降ったみたいに」と描写したように、川へとうっとりと身を寄せるように積もる純白の雪の岸には、景色そのものに女性美が備わっている。一面の雪景色のなかで、なにもかもまろやかな曲線に囲まれた岸と、そこに滔々と流れる冷たい水。雪景色のなかの岸こそ、女という生きものそのものであるように思えてくる。〈木偶は足浮いて歩めり燭寒く〉〈河馬見んと乗る木の根つこ春近し〉『呼鈴』(2012)所収。(土肥あき子)


January 3112013

 グリム読む天井に出し雪の染み

                           石井薔子

の頃は「青空文庫」で昔懐かしい童話が手軽に見つけられる。この句に触発され、さっそくグリム童話の「白雪姫」を電子書籍版でダウンロードしてみた。何と日本語訳は菊池寛になっている。「むかしむかし、冬のさなかのことでした。雪が鳥の羽のようにヒラヒラと天からふっていましたときに、ひとりの女王さまがこくたんのわくのはまった窓のところにすわってぬいものをしておいでになりました」と物語は始まる。寝床に入って暗い天井を見ながら母親に読んでもらった童話の数々。天井にしみ出した雪の染みが動物に見えたり、魔法使いの顔になったり、ぼんやりと見つめるうちに深い眠りに引き込まれてゆく。絶え間なく降り積もり雪は雪国では死活問題だろうが、東京に住む私にとっては別世界の象徴でもある。雨の染みではなく「雪の染み」なればこそグリム童話が似つかわしいのだろう。『夏の谿』(2012)所収。(三宅やよい)


March 0132013

 雪国やしずくのごとき夜と対す

                           櫻井博道

喩は詩の核だ。喩えこそ詩だ。しずくのごとき夜。絞られた一滴の輝く塊り。「対す」は向き合っているということ。耐えているんだな、雪国の冬に。この「や」は今の俳人はなかなか使えない。「や」があると意味が切れると教えられているから「の」にする人が多いだろうな、今の人なら。「の」にするとリズムの流れはいいけど「対す」に呼応しての重みが失われる。そういう一見不器用な表現で重みを出すってのを嫌うよね、このところは。こういうのを下手とカン違いする人がいる。そうじゃないんだな。武骨な言い方でしか出せない野太さってのがある。やっぱり巧いんだな、博道さん。「寒雷・昭和38年7月号」(1963)所載。(今井 聖)


December 10122013

 やがて地に還る身をもて受ける雪

                           赤坂恒子

を愛してやまなかった研究者中谷宇吉郎は「雪は天から送られた手紙である」と書いた。同じ生い立ちでありながら、地面に叩きつけられるのが雨なら、雪はゆらりゆらりと軽やかに宙をさまよう。空から舞い降りる雪に触れると、清らかなものに生まれ変わることができるような気持ちがわきあがる。それは純白の雪の美しさとともに、すべてを白一色に覆い尽くしてしまう自然の力を畏れ、崇める心が働くからだろう。「雪ぐ」は「すすぐ」と読み、祓い清めるという意味を持つことを思うと、掲句の「やがて地に還る」とは、生物の逃れることのできない運命であるが、聖なるものの前でつぶやく懺悔の姿にも見えてくる。『トロンプ・ルイユ』(2013)所収。(土肥あき子)


December 15122013

 ことごとく雪に省略されし町

                           鳥居三太

の町の実景です。一つの町の実景でありながら、隣の町にもその隣の町にも「ことごとく」雪が降り積もって、町の輪郭がどんどん消されて「省略」されていきます。作者が目の前で見ていた町は、積雪とともに単純な雪景色へと抽象化されていき、現実から離れたこころもちになります。でこぼこ道も、茶色く枯れた雑草も、公園の三輪車も、屋根の三角もじょじょにその姿を雪に消され一様に白くなっていきます。同時に、雪は音を吸収し、降る雪の結晶が落下する姿に音を錯覚するほどの静寂。カンディンスキーは「デッサンの能力は省略だ」と言いました。画家は、消しゴムやパンで線と面を消しますが、地球は雪でそれをおこなう美術家です。「太郎冠者」(1995年)所収。(小笠原高志)


January 1812014

 雪月夜わが心音を抱き眠る

                           本宮哲郎

月夜、静けさに満ちた美しい言葉だ。高々と在る冬の月の白と一面に広がる雪の白、どちらも輝くというほどではない光を湛えている。そしてそれは、目を閉じて自らの鼓動を確かめながら、来し方に思いをめぐらせている作者の心の中にある光景なのだろう。句集『鯰』(2013)のあとがきに「これからも命ある限り一句初心の志で、自然を通しての生活をより豊かに、より深く詠んでゆきたいと思っております」と書かれた作者だが、昨年十二月十八日に亡くなられた。その言葉どおり、特に掲出句を含む平成二十五年の句はいずれも平明で淡々としていて深い。合掌。(今井肖子)


January 1912014

 市振や雪にとりつく波がしら

                           高橋睦郎

振(いちぶり)は、新潟県糸魚川市の市振海岸。芭蕉の「奥の細道」では、ここの旅籠に一泊し、「一家に遊女もねたり萩と月」の句が残されています。冬の日本海の空は鉛色で、海も暗い灰色です。モノトーンの中の風雪は荒々しく、雪は縦に、横に、斜めに、左右に、錯綜しながら降り続けています。冬の海の全景は、一つの大きな波の音にまとめることができ、上五のbu、下五のgaといった濁音で構成された音でしょう。それは、初めのうちは襲いかかってくるような恐ろしい音ですが、そのような恐怖もしばらく佇んでいると慣れてきて、心を洗い流す禊ぎのように作用します。波の音に全身を没入しているうちに、詩人は「波がしら」を凝視し始めます。これが、「雪にとりつく」獰猛な生き物に見えてくる。波がしらは、雪にとりつくゆえ、それをのみ込み一瞬白いのか。実相観入。なお、「市振」の「ふる」と「雪」が縁語的につながっているのも、短歌をよくする詩人の技です。また、「とりつく」という擬人法によって、無生物の叙景の中に生き物が立ち現れています。他に、「面白う雪に暮れたる一日かな」。『稽古飲食』(1988)。(小笠原高志)


February 0122014

 雪が来る耳のきれいな子どもたち

                           大島雄作

の句を読んでふと浮かんだのは、バレエや体操などをしている少女のお団子ヘア、正式に何と呼ぶのかわからないが、近くの駅でよく見かける少女たちの姿だ。練習の行き帰り、彼女らの服装はまちまちだが、このヘアスタイルはおそろいである。時折笑い声をあげながら電車を待っているその声も表情もあどけない彼女たちがふと見せるきりりとした横顔。てっぺんのお団子に向かう髪の直線と、細い首から顎にかけての曲線、そのシンプルなラインの真ん中にある複雑な形の耳の存在をあらためて認識した。雪催の灰色の空の下、白い息を吐きながら笑い合う少女たちのむき出しの耳の清々しさとヒトらしいうつくしさはまさに、きれい、なのだろう。『春風』(2013)所収。(今井肖子)


March 3132014

 日陰雪待伏せのごと残りをり

                           矢島渚男

の陽光が降り注ぐ道を気持ちよく歩いているうちに、その辺の角を曲がると、いきなり日陰に消え残った雪にぶち当たったりする。たいていは薄汚れている。そんなときの気持ちは人さまざまであろうが、私はなんだか腹立たしくなる。子供のときからだ。消え残った雪に何の責任もないとはわかっていても、むかっとくる。せっかくの春の気分が台無しになるような気がするからだ。このときに「待伏せのごと」という措辞は、私の気持ちを代弁してくれている。「待伏せ」という行為は、まず何を目論むにせよ、人の気持ちの裏をかき意表をつくことに主眼がある。しかも執念深く、春の陽気とは裏腹の陰険なふるまいである。だから、待伏せをされた側ははっとする。はっとして、それまでの気分をかき乱される。いやな気分に落しこまれる。「日陰雪」ごときで何を大げさなと言われるかもしれないが、句の「待伏せ」は、そんな大げさをも十分に許容する力を持っている。説得力がある。『延年』(2002)所収。(清水哲男)


December 02122014

 花八手むかし日暮れに糸電話

                           七田谷まりうす

コップふたつと数メートルの糸さえあれば糸電話はできあがる。コップをつなぐ糸をぴんと張ることがもっとも大切な約束ごとだが、たったそれだけのことで声が運ばれるとはなんだか不思議な気持ちになる。「じゃあ、始めるよ」と、糸を張るためわざわざ遠くに離れ、話し終わればコップを手渡すためにまた顔を合わせるのだから、結局聞こえたか、聞こえないか、程度の会話が続く。それでも糸を伝わる声は、どこか秘密めいていて、他愛ない言葉のひとつひとつが幼い心を刺激した。全神経を耳に集中して、あの階段、この路地と試してみれば、冬の日はたちまち暮れてしまう。路地や庭先に生えていた無愛想なヤツデの花が、まるで通信基地のように薄暗がりにぬっと突き出ていた。〈折鶴の折り方忘れ雪の暮〉〈枯葦に分け入りて日の匂ひけり〉『通奏低音』(2014)所収。(土肥あき子)


December 19122014

 うつくしき骨軋ませて雪は降る

                           月野ぽぽな

を歩くときゅっきゅっと靴が鳴り、静かに降りしきる雪が重たく積ってその幹や枝を軋ませている。これをうつくしい骨が軋んでいると観る感性がある。このシューリアリズムの表現を敢てこの世の景観に変換する必要もなかろう。ここにあるのはただ軋む骨、降る雪、白い美しさ、それ以上のものでない方がよい。他に<これはまだ幼い鎌鼬だろう><冬霧の膝を崩して夜の底へ><陽のままでいる綿虫に出会うまで>などあり。「俳句」(2012年1月号)所載。(藤嶋 務)


January 2212015

 雪の教室壁一面に習字の雪

                           榮 猿丸

庭一面に降り積もった雪、体育館も渡り廊下の屋根も雪で覆われている。人いきれで曇った窓を手で拭って見ると普段の学校とは全然違う景色が広がっている。そして、教室の後ろの壁一面には生徒たちが習字の課題で書いた「雪」が黒々と張り出されている。40枚近く連続した「雪」「雪」「雪」の文字が様々な書きぶりで踊っているのだ。生徒たちでにぎわう教室より、授業が終わって閑散とした薄暗い教室で降る雪と壁面いっぱいに張り出されている「雪」に囲まれている情景を想像するとより印象的で、映画のワンシーンのようだ。「雪の教室」という出だしと結語の「習字の雪」というリズムも響きも良くて一読忘れがたい句である。『点滅』(2013)所収。(三宅やよい)


February 0422015

 母逝くや雪泣く道は骨の音

                           金原亭世之介

まれている「道」は二つ考えられる。母の訃報を聞いて急いで駆けつける雪道と、もう一つは母の葬列が進む雪道である。「骨」が詠まれているところから、後者・葬列の雪道の可能性が強いと考えて、以下解釈する。葬列は静かに雪道を進む。踏みしめる雪のギュッギュッと鳴る音がする。その音は母を送りつつ心で泣いている自分(あるいは自分たち一同)の悲しみとも重なる音である。せつないようなその音はまた、亡くなった母の衰えてなお軋む骨の音のようにも聞こえる。火葬場へと送られて行く母の骨の音であるばかりでなく、送って行く人たちの悲しみで骨が軋むような音でもあるのだろう。長い列をつらねて野辺送りをする光景は、現在では見られなくなった。霊柩車が悲しみを吹き消すかのように死者をさっさと運んで行くが、雪道を進む霊柩車であっても、「雪泣く道」や「骨の音」の悲しみに変わりはない。世之介は落語協会の中堅真打で、高座姿がきれいだ。俳句も熱心である。他に「母よまだ修羅を押すのか年の暮」がある。『全季俳句歳時記』(2013)所収。(八木忠栄)


February 2022015

 生き延びろ目白の尾羽雪まとう

                           小林 凜

れは2001年生れの凜くん11歳の作品。自然界に生きる野鳥まして小さな目白の生きる厳しさを知っての応援歌。虚弱体質に生まれいじめをかいくぐりつつ小学校生活を生き延びた。尾羽に雪をまとったこの目白は凜くん自身の投影でもある。人生平均寿命が2013年の日本人男性が80.21歳、女性86.61歳でざっくり言えば80歳台となった。これは平均だから86歳まで来た女性はこれからいったい幾つまで生きる勘定になるのか。健康であればもう半分もう半分と生きて見たい欲がでる。贅沢にも程があるのが人間の性と言うもの。他に8歳で<枯れ薄百尾の狐何処行った>。9歳で<秋の雲天使の翼羽ばたいて>10歳で<春嵐賢治のコートなびかせて>などあり。「ランドセル俳人の五・七・五」(2013)所収。(藤嶋 務)


February 2622015

 東京に変あり雪の橋閉す

                           高橋 龍

和11年2月26日、東京で一部青年将校によるクーデターがあった。歴史の教科書や三島由紀夫の小説などで読んだ乏しい知識しかないが、東京は雪で戒厳令下の状態だったという。この句の前書きには「小学校入学前の身体検査雪深く父に背負われて行く。帰路知り合いの巡査にあう、東京に大事件発生、東京に通ずる橋を閉鎖すると」とある。いつもと同じように登校や出勤をしてきたものの真っ白に雪の降り積もった橋は誰一人渡ることなく通行止めされているのだろう。物々しい警戒の中、住民たちは時代が変わりつつある不吉な予感を抱いたのではないか。普段の日常が突然閉ざされる事件の突発はフランスでのテロ事件を引くまでもなく今の日本でも日常が激変する事件が容易に起こり得るかもしれない。『十余二』(2013)所収。(三宅やよい)


March 2332015

 日陰雪待伏せのごと残りをり

                           矢島渚男

の陽光が降り注ぐ道を気持ちよく歩いているうちに、その辺の角を曲がると、いきなり日陰に消え残った雪にぶち当たったりする。たいていは薄汚れている。そんなときの気持ちは人さまざまであろうが、私はなんだか腹立たしくなる。子供のときからだ。消え残った雪に何の責任もないとはわかっていても、むかっとくる。せっかくの春の気分が台無しになるような気がするからだ。このときに「待伏せのごと」という措辞は、私の気持ちを代弁してくれている。「待伏せ」という行為は、まず何を目論むにせよ、人の気持ちの裏をかき意表をつくことに主眼がある。しかも執念深く、春の陽気とは裏腹の陰険なふるまいである。だから、待伏せをされた側ははっとする。はっとして、それまでの気分をかき乱される。いやな気分に落しこまれる。「日陰雪」ごときで何を大げさなと言われるかもしれないが、句の「待伏せ」は、そんな大げさをも十分に許容する力を持っている。説得力がある。『延年』所収。(清水哲男)


June 1262015

 翼あるものみな飛べり夏の夕

                           井上弘美

類は空中を飛ぶために前足を発達させ翼を得たと言われる。翼あるものみな飛ぶ、飛行機だって両翼を持っている。ギリシャ神話のイカロスは鳥の羽を集めて、大きな翼を造った。高く、高く飛んでしまったため太陽に近づくと、羽をとめた蝋(ろう)が溶けてしまったそうだ。とある夏の夕暮れにねぐらへ帰る鴉を飽きることなく見送って妄想を燻らせる。わが人体を如何に浮遊させんか、、、さてそれからの吾が夢は一体どこへ羽ばたくのやら、夜が短い。他に<母の死のととのつてゆく夜の雪><月の夜は母来て唄へででれこでん><花食つて鳥は頭を濡らしけり>などあり。『井上弘美句集』(2012)所収。(藤嶋 務)


November 20112015

 雪の野の鵟の止まる古木かな

                           大島英昭

の仲間の猛禽類である鵟(ノスリ)。大きさはトビよりも小さくハシブトガラス位いである。農耕地や草原に棲み、両翼を浅いV字形に保って羽ばたかずに飛ぶことが多い。低空飛翔をしながらノネズミなどの獲物を見つけると急降下して捕獲する。枯枝、杭、電柱に長い時間とまって休む。折しも雪の野原に一際高い古木があってよく見るとノスリが休んでいる。野生の動物たちは冷たくとも餌が乏しくともその厳しさに耐えて生き延びねばならぬ。食べる事、生殖することに太古からの知恵が引き継がれてゆく。他に<留守の家に目覚ましの音日脚伸ぶ><日陰から径は日向へゐのこづち><無住寺の地蔵に菊とマッチ箱>などなど。『ゐのこづち』(2008)所収。(藤嶋 務)


January 0512016

 子の声が転がつて来る雪の上

                           山崎祐子

中学校の冬休みは地域によってまちまち。それでも今日はまだどこも冬休みである。三ヶ日やお年始というおとなしくしていなければならない大人の行事への付き合いも終わり、普段通りに思いっきり遊べる日がやってきた。子どもというのは遊べる日というだけで心は躍る。おまけに雪が積もっているとなれば、大喜びで飛び出していくことだろう。掲句の遊びはソリなのか、雪合戦なのか。どちらにしても、いつもよりスピードを感じさせ、通り過ぎてゆく声である。子どもの声の高さや笑い声を「転がつて来る」としたところで、雪玉がだんだんふくらんでいくような楽しさにつながった。〈形見とは黴に好かれてしまふもの〉〈風鈴を百年同じ釘に吊る〉『葉脈図』(2015)所収。(土肥あき子)


January 2412016

 雪の肌なめらか富士は女体なり

                           山口誓子

年、初詣に富士を拝みます。今年の正月は雪不足のため、富士の山容には黒い縦の筋が幾つか通っていました。その姿はどこか険があって厳しいものでしたが、先週の降雪によって、富士は白い美肌美人になりました。作者同様、私もそんな富士に女体を見ます。富士は万葉集に詠まれ、竹取物語に描かれて、上代から日本人に親しまれてきましたが、信仰の対象としての富士は上代をはるかに遡った時代に起源があると思われ、神話では「木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)」という美しい娘とされて います。作者はこれを踏まえ、この民族的な擬人化をごく自然な写生句のように仕立てています。ところで、たをやめぶりの富士に対してますらをぶりの富士はないかといえば、太宰治「富嶽百景」で、御坂峠の茶屋の二階から、自動車五台で年一度の旅行に連れて来られている遊女の一団を見ている太宰がそれを見ていられなくなり、「そうだ、、富士に頼もう、、おい、、こいつらをよろしく頼むぜ、、その時の富士はどてらを着た大親分のようにさえ見えた」という一節がありました。この大親分は、男気がありなおかつ苦界に生きる女のあわれに身を重ねられる、そんな義侠でしょう。女神にも、任侠にもなれる富士こそ景勝です。『山口誓子集』(朝日文庫・1984)所収。(小笠原高志)


January 3112016

 から鮭も空也の痩も寒の内

                           松尾芭蕉

蕉は、乾燥させた鮭を好んで食べたようです。「雪の朝独リ干鮭(からざけ)を噛得(かみえ)タリ」が『東日記』にあります。一方、掲句の「から鮭」は食べ物としてよりも、内臓や脂分が削ぎ落とされた物体として提示されていて、市の聖と言われた空也上人の雑念の無い痩身に重なります。日本史の教科書の口絵には、念仏を唱える空也上人の木像彫刻が掲載されていますが、この実物は京都・六波羅蜜寺の境内のガラスケースの中で無造作に鎮座しており、今も市井の存在です。史実としての空也を 検証する資料がほとんどない代わりに、各地に残されている木像彫刻からその足跡を推測できます。上人は、首から鉦(かね)を下げ、鐘を叩くための撞木(しゅもく)を手にしています。一昨年、淡路島で発見された銅鐸の中から撞木が出てきたことによって、長年その使用法が謎だった銅鐸は、祭事に叩いてその金属音を聴くための祭器であることがわかりました。それから時を経て、空也が生きた平安時代も、鉦の金属音は非日常的な音響であり、人々の内奥までその響きが届いたことでしょう。空也の木像彫刻は、開いた口元から六体の阿弥陀仏が吐き出されていて、念仏と鉦の交響という音の視覚化に特徴があります。およそ平安中期までの仏教は、文字が読める貴族階層のみに浸透していたでしょうから 、空也は、そのほとんどが文盲であった市井の民に福音を届ける宗教の革新者でした。これは、マルティン・ルターが、ラテン語のみしか認められていなかった新約聖書の表記をドイツ語で読めるように翻訳して民衆に広めた改革に比肩すると思われます。なお、掲句の前書には「都に旅寝して、鉢扣のあはれなるつとめを夜ごとに聞き侍りて」とあり、空也忌(旧暦十一月十三日)から行なう四十八夜の「鉢叩」の行に触発された句であることがわかります。その金属音は、K音の頭韻として句中に響いています。『芭蕉全句集』(角川ソフィア文庫・2010)所収。(小笠原高志)


February 0722016

 春林の遠空を見つ帯を解く

                           飯田龍太

書に、四万温泉三句とある一句目です。男の句だなと思います。それは、「春林」に漢詩っぽい語感があり、「遠空」に青年的な眼差しがあり、「見つ」「解く」にきっぱりとした切れ味があるからです。いまだ寒き早春の空の下で、素っ裸になっていざ湯に入らんとする無邪気な意気込みがあります。それは、二句目につながります。「娼婦らも溶けゆく雪の中に棲み」。昭和三十年の作で、売春防止法が施行される二年前なので、娼婦という言葉も存在も、とくに温泉地ではふつうのことだったのでしょう。娼婦たちが雪の中の温泉で浄化されているであろう様を、男目線で描いています。三句目は、「男湯女湯の唄睦み合ふ雪解川」です。板塀で仕切られた露天も、女湯からは娼婦らの唄が聞こえてきて、そのうちに睦み合うように声が重なり合います。湯は仕切られていても、唄で混浴している風流。これが、戦後十年のこの時代のきれいな遊びだったのでしょう。うらやましい。『飯田龍太集』(朝日文庫・1984)所収。(小笠原高志)


February 1022016

 子も葱も容れて膨るる雪マント

                           高島 茂

どもを背負い、葱を買って、雪のなかを帰るお母さんのふくれたマント姿である。雪の降る寒い景色のはずだけれど、「子」「葱」「膨るる」で、むしろほのかにやさしい光景として感じられないだろうか。昔の雪国ではよく目にしたものである。近年のメディアによるうるさい大雪報道は、雪害を前面に強調するばかりで、ギスギスしていてかなわない。大雪を嘆く気持ちは理解できないではないが、現代人は雪に対しても暑さに対しても、かくも自分本位で傲慢になってしまったか――と嘆かわしい。加藤楸邨にこんな句がある、「粉雪ふるマントの子等のまはりかな」。こういう視点。新宿西口にある焼鳥屋「ぼるが」には、若いころよく通った。文学青年や物書きがよく集まっていた。当時、入口で焼鳥を焼いていた主人が高島茂。俳人であることはうすうす耳にしていたが、ただ「へえー」てなものであった。焼鳥は絶品だった。主人は今はもちろん代わったが、お店は健在である。私は近年足が遠のいてしまった。ネットを開くと、「昭和レトロな世界にタイムスリップしたかのよう」という書きこみがある。当時からそんな雰囲気が濃厚だった。茂には他に「飯どきは飯食ひにくる冬仏」がある。平井照敏編『新歳時記・冬』(1996)所収。(八木忠栄)


July 1772016

 蛍火や女の道をふみはづし

                           鈴木真砂女

れ字はこのように使うのか。自然界と人間界を截然と切っています。蛍火は求愛。これと同様、作者の恋の本情も天然自然のリビドーです。蛍火に、人倫の道はありません。あるのは闇の自由の三次元。そこでは恋情が蛍光しています。真砂女には蛍の句が多く、手元の季題別全句集には、じつに48句が所収されています。「死なうかと囁かれしは蛍の夜」「蛍火や仏に問ひてみたきこと」「蛍の水と恋の涙は甘しとか」。ところで、真砂女よりはるか昔、和泉式部は「物思へば沢の蛍も我が身よりあくがれ出づるたまかとぞ見る」と詠み、蛍火に、恋する自身のさまよう魂を見ていました。両者は、似た心情のようにも思えますが、和泉式部は蛍と魂がつながっているのに対して、真砂女は蛍をいったん切り離したうえで自己を投影しているように思います。平安時代の和歌と、現代の俳句との違いでもあるのでしょう。さて、クイズです。真砂女が詠んだ季語の第二位は「蛍」ですが、第一位は何でしょうか。正解は、「雪」で67句ありました。蛍も雪も空間を舞い、やがて消えゆく儚い存在です。だから、句にとどめようとしたのかもしれません。「恋に身を焼きしも遠し雪無韻」。過去の熱い日々と雪積もる静かな今。時の経過が身を浄化しているようです。蛍雪の俳人真砂女は、夏に蛍を、冬に雪を詠みました。『季題別 鈴木真砂女全句集』(2010)所収。(小笠原高志)




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