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November 17111996

 熱燗うまい父は学費にこれを削りき

                           宇都宮和良

音の連なりで、俳句というよりも短歌の味わいである。破調というのでもない。作者には、ここまで言わずに、同じ中身をなんとか五七五のなかで踏ん張って欲しい気がするが、文体からして、そういうことには無頓着な人かもしれないとも思った。いずれにしても、心情はよく伝わってくる。日本酒が苦手な私にも、もちろんよくわかる。(清水哲男)


December 12121999

 熱燗や忘れるはずの社歌ぽろり

                           朝日彩湖

いなことに、社歌のある会社に勤めたことはない。朝礼のある会社には勤めたが、それだけでも苦痛なのに、社歌まで歌わされてはかなわない。誰だって(本音をたたけば経営陣だって)、作者のように忘れてしまいたいと思うだろう。しかし、これから「忘れるはず」の社歌が、酒の席で「ぽろり」と口をついて出てしまった。軽い自嘲。小さな風刺。さもありなんと、読者は苦笑いするしかないのである。と言いながら、社歌ではないけれど、私は昔、準社歌みたいな歌を書いたことがある。従業員のレクリエーションの集いなどにふさわしい歌詞をという依頼があり、当方は純粋な詩売人(!?)となって真面目に書き上げた。けっこう難産だった。タイトルは「風となる」(作曲・すぎやまこういち)。依頼人は「宝酒造株式会社」。でも、社内でこの歌が歌われているのかどうかは知らない。一度だけ、同社主催のゴルフ・コンペで流されていたという情報を聞いたことがあるきりだ。そのときに自分の歌詞を読み返してみて、なるほどゴルフ場には似合うかもしれないとは思った。だが、選りによって私の嫌いなゴルフの場で流されたのかと、ため息も出た。「チェッ」だった。俳誌「船団」(43号・1999年12月)所載。(清水哲男)


January 2812004

 手配写真あり熱燗の販売機

                           泉田秋硯

語は「熱燗(あつかん)」で冬。日本酒は飲まないから、熱燗の販売機があるとは知らなかった。面白いもので、人は自分に関心の無いものだと、目の前にあっても気がつかない。毎朝の新聞を読むときなどは、その典型的な縮図みたいなものであって、たとえばいかに巨大なカラー広告が載っていようとも、興味の無いジャンルの商品だと、ぱっと見てはいるのだが何も残らないものである。寒夜、作者は熱燗を買うべく販売機に近づいた。数種類あるうちのどれを買おうかと眺め渡したときに、はじめてそこに「手配写真」が張られていることに気づいたのだろう。でも、たぶんしげしげと見つめたりはしなかった。こんなときに私だったら、逃亡者に同情するのでもないが、この寒空に逃げ回るのも大変だなと、ぼんやりそんなことを思うような気がする。むろん作者がどう思ったかは知る由もないけれど、しかし句の要諦はそこにあるわけじゃない。ささやかな楽しみのために熱燗を買おうとしているのに、イヤな感じを目の前に突き出してくれるなということである。逃亡者の存在がイヤなのではなく、そういうところにまで張り出す警察の姿勢がイヤな感じなのだ。手配写真は密告のそそのかしだから、いかに社会正義のためという大義名分が背景にあるにせよ、あれを晴れやかな気持ちで眺められる人はいないだろう。「せっかくの酒がまずくなる」とは、こういうときに使う言葉だ。『月に逢ふ』(2001)所収。(清水哲男)


January 1412005

 熱燗や子の耳朶をちょとつまむ

                           辻貨物船

語は「熱燗(あつかん)」で冬。今日は五年前に逝った辻征夫の命日、私は彼の俳号から勝手に「貨物船忌」と呼んでいる。彼の詩にもよく子供が出てくるが、問わず語りに娘さんの話をすることも多かった。子煩悩だったと言ってよいだろう。最後になった写真には、亡くなる直前に成人式を迎えた晴れ着の娘さんと並んで写っている。成人式がそれまでの一月十五日ではなく、第二月曜日に移動したおかげで、彼は「耳朶(みみたぶ)を」つまんだ「子」の晴れ姿を見ることができたのだった。世の中、何がどう幸いするかわからない。以下に少し長くなりますが、没後二年目の命日に出た『ゴーシュの肖像』(書肆山田)への私の感想を載せておきます。・・・「二年前に急逝した詩人が、折りに触れて書いた散文を集めた本だ。めったにやらなかった講演の記録も、いくつか納められている。/早すぎた詩人の晩年を、私は共に飲み、句会などで共に遊んだ仲である。読んでいると、いろいろなことが思い出される。けれども、不思議に悲しくはならない。おそらく、それは辻征夫の文体の持つ力によるものだろう。そう、合点できた。文体は生き方の反映だ。/詳しくは書かないが、彼は治癒不可能といわれた難病にとりつかれていたのに、文章の上でも日常でも、一言も弱音を吐くことはなかった。だんだん身はひょろひょろと立ちゆかないのに、ひょうひょうとしていた。いつだって、微笑していた。本書を読んでわかったことは、それが単なるやせ我慢から来ているものでは、断固としてないということだ。/集中に「手にてなすこと」と題された短文がある。中原中也の名篇「朝の歌」の冒頭の詩に触れ、「みな何ごとかに従事して、生計を立てている」ことへの思いを述べた一文だ。辻は中也のように親からの仕送りで生きるわけにもいかず、「私は手を使いどおしだった」と書く。ここには、ごく普通の生活者の生き方がある。辻のような才能溢れる詩人でも、満員電車に揺られて生きていかねばならない。それが、世間というものではないか。誰だって、仕方ないなとあきらめている……。/しかし、満員電車に揺られながらも、次のように言えるのが、辻征夫なのだ。「では労働と詩は両立するのか。私は根本のところでしないと考えている。私の全作品を眼の前に置かれても、首を横に振る」。/この一言が、辻征夫の真骨頂である。かくのごとき過激な物言いは、生半可な詩への愛情から生まれるものではない。十五歳にして詩の魅力にとりつかれ、詩を心から愛した男の、これは真実の苦しみの告白と言ってよい。文体の強さ明るさの秘密は、この生涯の苦しみの土台の上にある」。合掌。句は『貨物船句集』(2001・書肆山田)所収。(清水哲男)


December 21122005

 熱燗やきよしこの夜の仏教徒

                           小倉耕之助

語は「熱燗(あつかん)」で冬。なんとも皮肉の効いた句だ。聖夜、ワインだシャンパンだと、多くの日本人が西洋風な飲み物を楽しんでいるであろうときに、ひとり「てやんでえ」とばかり「熱燗」をやっている。まあ、この人が本物の仏教徒かどうかは知らないが、形としては日本人の大半が仏教徒だから、真正面から考えると、いまのように多くの人がクリスマスを祝うのは筋が通らない。私が子供だった頃には、こんなにクリスマスが盛んになるとは夢にも思えなかった。翌朝の新聞には、銀座のキャバレーあたりで騒いでいる男たちの写真が載っていたほどだから、どんな形にせよ,聖夜を祝うこと自体が珍しかったわけだ。それなのに、いつしか現在のような活況を呈するにいたり、日本人は器用と言えば器用、無神経と言えば無神経だと、世界中から好奇の目を向けられることになってしまった。十年ほど前になるか、あるアメリカ人に「メリー・クリスマス」と気を利かしたつもりで挨拶したら、「あ、僕はクリスチャンじゃありませんから」と返事されたことがある。知らなかったのだけれど、彼はユダヤ系だった。そのときに赤面しながら切実に感じたのは、まぎれもなく私はクリスマスに浮かれる日本人の一人なのであり、そんな軽いノリで生きているのであるということだった。とは言うものの、ここまで高まってきた日本のクリスマス上澄み掬いの風潮は、なかなか静まることはないだろう。せめて句の人のように熱燗で「てやんでえ」くらい気取ってみたいものだが、日本酒が苦手ときては、それもままならない。なんだかなあ。『航標・季語別俳句集』(2005)所載。(清水哲男)


November 22112007

 風冴ゆる熱燗少し溢れ出る

                           江渡華子

曜日、東京では木枯らし1号が吹いた。気象庁のホームページによると、まず期間は10月半ばから11月末日まで。気圧配置が西高東低の冬型であること。関東地方(東京地方)に吹く強い季節風であることなど。これらの条件を満たすものが木枯らし1号と認定されるらしい。木枯らしが吹いたあと風は刺すように冷たくなってゆく。いよいよ本格的な冬の到来。熱燗、鍋のおいしい時期を迎える。居酒屋で継いでもらった酒が勢いあまっておちょこをつうと溢れでる。ときおり店の引き戸を揺する風の音が外の寒さを感じさせる。継いで継がれて話を重ねていくうちに、互いの言葉がお酒にぬくもった胸に少しずつ溶け出してゆく。透明にあふれ出る熱い酒と凍るほど冷たい風との取り合わせがよく効いている。そんな情景を考えてみると世情に通じた年齢の俳人が作ったように思えるが、作者は1984年生まれ。「布団干す故郷は雪が深いころ」「歯ブラシを変えた冬の風香る」これらの句からは遠くふるさとを離れてひとり都会で暮らす若い女性の気持ちがじかに伝わってくる。句集にはどこか老成した句と初々しい感性の句が混在しているが、どの句からも対象を見つめる作者のまっすぐな視線が感じられる。『光陰』(2007)所収。(三宅やよい)


December 20122009

 一年早く辞める話も出て熱燗

                           柏倉ただを

の句を読んで感慨にふけってしまったのは、わたしの個人的な理由によるものなのかもしれません。というのも、今年でわたしは59歳になり、あと一年で定年を迎えることになっています。「一年早く」というのは、定年を迎えようとするその一年前ということなので、まさにわたしの年齢を指しています。この厳しい経済状況の中で、定年近くの勤め人は、多かれ少なかれ会社の中でつらい立場に追い込まれています。この句の人は、早期退職を勧められでもしているのでしょうか。あるいは、わたしの同僚にも何人かいましたが、30年以上も働き続けてきたものの、あと一年がどうにも辛抱がならず、みずから辞めてゆくということもあるようです。ゴールが見えてきて、年金の額もおおよそ決まってしまえば、さらにあと一年を早起きして、毎日へいこらすることが耐えられなくなってくるというのは、心情としてはよくわかります。この句では、同僚と熱燗を酌み交わして、しみじみとそんな愚痴をこぼしあっているようです。わたしにはそんな仲の同僚はいませんので、一人さびしくビールを注ぎながら、自分にむかってつぶやくだけです。『朝日俳壇』(朝日新聞・2009年12月13日付)所載。(松下育男)


December 29122009

 熱燗や無頼の記憶うすれたる

                           大竹多可志

事納めもとともに、忘年会続きのハードな日々も落ち着き、29日は年末とはいえ、ぎりぎりの普通の日。押し詰まる今年と、迫り来る来年に挟まれた不思議な一日である。ぽかんと空いたひとりの夜に、熱燗の盃を手にすれば、湧きあがるように昔のことなども甦ってくるものだろう。作者は昭和23年生まれ。一般に「団塊の世代」と呼ばれるこの世代といえば「戦後復興経済とともに成長し、大学紛争で大暴れ」といったステレオタイプが強調されることもあり、掲句の「無頼の記憶」もまた、すごぶる武勇伝が潜んでいそうだが、その向こう見ずな時代を熱く語る頃を過ぎたのだという。しかし「うすれた」と「忘れた」とは大きく違う。忘れたくない気持ちが「うすれた」ことを悲しませているのだ。分別を身につけた現在のおのれにわずかに違和を感じつつ、まぎれもなく自分そのものであった無頼時代の無茶のあれこれが、他人事のように浮かんでは消えていく冬の夜である。〈冬の午後会話つまれば眼鏡拭く〉〈団塊の世代はいつも冬帽子〉『水母の骨』(2009)所収。(土肥あき子)


October 30102014

 おひとつと熱燗つまむ薬師仏

                           高橋 龍

はビール、秋には冷酒と楽しんできたが、そろそろ熱燗が恋しい季節になってきた。「まあおひとつ」と、とっくりの首をつまみ上げる動作を薬師如来が左手に薬瓶を持つ姿に重ね合わせるとは、ケッサクだ。薬師如来は「衆生の病苦を救い、無明の痼疾を癒すという如来」と広辞苑にはある。有難い薬師如来をそば近く侍らせて飲む酒は旨いか、まずいか。日頃の節操のない行動の説教をくらいそうで落ち着いて熱燗を楽しめそうもない。吹く風が冷たさを増す夜の熱燗は独酌で楽しむのが良さそうだ。ちなみに句集名『二合半』とは酒の量ではなく、「にがうはん」と読み、江戸川近くの土地を表す呼び名、作者の原風景がそこにあるのだろう。『二合半』(2014)所収。(三宅やよい)


September 0492015

 早ミサへ急げば鵙の高鳴けり

                           景山筍吉

虔なクリスチャンのある日の一こま。一日世に塗れれば一日教えに背いた反省が募る。昨夜悶々と悩んだ身の汚れを一刻も早く払拭せんと早朝ミサへと急ぐ。ご自身の何人かの娘さんも全員も修院へ送ることとなる。神へ捧げた娘達へ、嫁がせて子を為すという幸せを捨てさせたのではないか。心臓の鼓動の高鳴りに呼応して鵙が耳をつんざく様な鋭い声で鳴いた。彼は中村草田男の奥様にクリスチャンの直子氏を推挙し媒酌を務めた。閑話休題、彼が唯一民間の株式会社の社長をされた時の新入社員が小生であった。「勤め人は毎日会社へ来る事が仕事だよ」「運転手君、暑いから日陰を通って呉れたまえ」の語録が記憶に残っている。筍吉句<熱燗や性相反し相許す><薔薇に雨使徒聖霊に降臨す><修院へ入る娘と仰ぐ天の川>は教徒としての真摯な日常が滲み出ている。万感の思いを込めて成した著作マリア讃歌にはちゃらちゃらした感傷的な場面はない。その「マリア讃歌」(1937)所収。(藤嶋 務)




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