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November 14111996

 暖炉昏し壷の椿を投げ入れよ

                           三橋鷹女

炉とは縁がないままに来た。これから先もそうだろう。ホテルなどの暖炉も、いまは装飾用に切ってあるだけだ。だから、句意はわかるような気がするけれど、実感的には知らない世界だ。ちょっと謡曲の「鉢の木」を思いださせる句でもある。そんななかで、私の知っている唯一のちゃんとした暖炉は、安岡章太郎邸の客間のそれだ。燃えていると、ほろほろと実に暖かい。豪勢な気分になる。「最近は、薪がなくてねえ…」。何年かぶりに仕事で訪れた私に、作家はふんだんに火のご馳走をしてくださった。今夜あたりも、あの暖炉はあかあかと、そしてほろほろと燃えていることだろう。(清水哲男)


December 11121996

 一片のパセリ掃かるゝ暖炉かな

                           芝不器男

かあかと暖炉の燃えるレストラン。清潔を旨とするこの店では、床に落ちた一片のパセリでも、たちまちにしてさっと掃きとられてしまう。炎の赤とパセリの緑。この対比が印象的だ。至福感に溢れたこの句は、実は作者が瀕死の床でよんだもの。昭和四年(1929)の暮、病床の作者を励まそうと、横山白虹らが不器男の枕元で開いた句会での作品である。このときの作品には、他に「大舷の窓被ふある暖炉かな」「ストーブや黒奴給仕の銭ボタン」の二句。年が明けて二月二十四日、不器男は二十六歳の若さで力尽き、絶筆となった。(清水哲男)


January 1011999

 抵抗を感ずる熱き煖炉あり

                           後藤夜半

のもてなしとは難しいものだ。寒い日に作者を迎えたので、この家では暖炉に盛大に薪を投じてもてなしたのだろう。ところが、作者は熱くてかなわないと抵抗を感じている。かといって、せっかくの好意なので口に出すわけにもいかず、小さな苛立ちを覚えている。いまや暖炉でのもてなしは贅沢な感じになってしまったが、ガスや電気器具での暖房でも、こういうことはちょくちょく起きる。困ってしまう。ところで、句の「抵抗を感ずる」という表現に、それこそ抵抗を感じる読者もいるにちがいない。あまりにもナマな言葉だからだ。はじめて読んだときには、私もそう感じたけれど、だんだんこのほうが面白いと思うようになってきた。ナマな言葉でズバリと不快感をあらわしているだけに、かえってそのことを口に出せない作者の焦燥が、客観的にユーモラスに読者に伝わってくると思えるからである。内心で大いに怒り力んでいるわりには、表面は懸命にとりつくろっている。この本音とたてまえの落差を導きだしているのは、やはり「抵抗を感ずる」というナマな言葉の力であろう。『底紅』(1978)所収。(清水哲男)


November 27112000

 団交の静寂だん炉のよく燃えて

                           鈴木精一郎

寂に「しじま」の振り仮名。戦後も間もなくの句である。寒い季節の「団交(団体交渉)」だ。「春闘」かもしれないが、春の季語に「春闘」はあるので、ここは冬のボーナス闘争と読んでおきたい。作者は山形在住の八十歳、このときは炭坑に勤めていた。敗戦後、この種の組合運動は全国に燎原の火のように広がったが、都会の大企業ならばともかく、土地っ子が地元の会社に就職しての「団交」は難しかったろう。相手が社長だ専務だといっても、子供のころから顔なじみのおじさんだったりしたからだ。なかには、親戚の人までがいたりする。なかなか「闘争」と叫んで、拳を振り上げる心境にはなれない。しかし、かといって何も言わなければ、出るものも出ないわけで、ここらあたりが組合幹部の辛いところであった。受けて立つ会社側にしても、事はほぼ似たようなもの。「団交」とはいいながら、しばしば気まずい沈黙のときが訪れる。手詰まり状態のなかで活気があるのは、燃え盛る「だん炉」の火のみだ。「よく燃え」ている「だん炉」の火の音までが、聞こえてくるような佳句である。句集のあとがきによれば、この炭坑山も1965年(昭和四十年)に閉山になったという。「みんな仲間だ、炭掘る仲間」と歌って団結していた三池炭鉱労働者のみなさんも、いまや散り散りに……。労働組合のありようも形骸化の一途をたどりつつあるようで、すっかり気が抜けてしまった。『青』(2000)所収。(清水哲男)


January 1112001

 目隠しの闇に母ゐる福笑ひ

                           丹沢亜郎

集には、つづけて「ストーブの油こくんと母はなし」とあるから、亡き母を偲ぶ句だ。「福笑ひ」は、目隠しをしてお多福の面の輪郭だけが描かれた紙の上に、目鼻や口などの部品を置いていく正月の遊び。珍妙な顔に仕上がるほうが喜ばれる。最近は、さっぱり見かけなくなった。ほんの戯れ事ながら、お多福は女性なので、作者は「目隠しの闇」のなかで不意に母の面影を思い出したのだろう。となれば、珍妙に仕上げるどころか、逆にちゃんとした顔を作りたいと真剣になっている。そんな作者の気持ちはわからないから、周囲ははやし立てる。ストーブの句でもそうだが、死しても「母」は、いつでもどこからでも子供の前に立ち現れるのだ。句はさておいて、私はこの遊びが好きではなかった。変な顔、珍妙な顔を笑うということがイヤだったからだ。博愛主義者でもなんでもないけれど、人並みではないからといって、それを笑いの対象にする心根が嫌いだった。いまでも身体的なことにかぎらず、そういう笑いは嫌いだ。だから、珍妙な顔をしてみせて笑いをとる芸人も大嫌いで、テレビを見て最初に嫌いになったのは柳家金語楼という落語家だった。自虐的だからよい、というものではない。この自虐は、他人の欠陥を笑うという下卑た感覚におもねっているから駄目なのである。ましてや、いまどきのテレビにやたら髭などを描いて出てくるお笑いるタレントどもは、最低だ。あさましい。みずからの芸無しを天下に告白しているようなもので、見てはいられない。『盲人シネマ』(1997)所収。(清水哲男)


January 2212002

 ストーブにビール天国疑はず

                           石塚友二

しさを開けっぴろげにした句。「ビール天国」ではなくて、「ビール」と「天国」は切れている。句意は、入浴の際に「ああ、ゴクラク、ゴクラク」と言うが如し。天国ってのは、きっとこんな楽しいところなんだろうと、勝手に無邪気に納得している。作者のはしゃぎぶりがよく伝わってきて、ビール党の私には嬉しい句だ。ただし、こういう句は、句会などでの評価は低いでしょうね。「ひねり」がない。屈託がない。ついでに言えば、馬鹿みたい……と。とくに近代以降の日本の文芸社会では、こうした明るい表現には点が辛いのだ。むろん、それなりの必然性はあるわけだが、ために喜怒哀楽の「怒哀」ばかりが肥大して、人間の捉え方が異常なほどにちぢこまってしまっている。表現技術のレベルも「怒哀」に特化されて高められてきたと言っても過言ではあるまい。べつに掲句を名句だとは思わないけれど、このあたりから鬱屈した文芸表現の優位性を、少しでも切り崩せないものだろうか。もっともっと野放図に放胆に明るい句はたくさん作られるべきで、その積み重ねから「喜楽」に対する表現技術も磨かれてくるだろう。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


January 1512006

 ペチカ燃ゆタイプライター鳴りやまず

                           伊藤香洋

語は「ペチカ」で冬、「ストーブ」に分類。厳寒の地に生まれたロシア風の暖房装置のこと。本体は煉瓦や粘土などで作られており、接続して据え付けられた円筒に通う熱気の余熱で室内を暖める仕掛けだ。句はオフイスの情景だが、新聞社だろうか、あるいは商社かもしれない。ほどよい暖かさのなかで、タイプライターを打つ音がなりやまず、いかにも活気のみなぎった職場風景だ。みんなが、ペチカの暖かさに上機嫌なのである。……と解釈はしてみたものの、私にペチカ体験はない。実は、見たこともない。読者諸兄姉にも、そういう方のほうが圧倒的に多いのではなかろうか。しかし、見たことがなくても、誰もが「ペチカ」を知っている。だいたい、どんなものかの想像もつく。何故なのか。それはおそらく、北原白秋の童謡「ペチカ」のおかげなのだと思う。「♪雪の降る夜は たのしいペチカ/ペチカ燃えろよ お話しましょ……」。この詩情に惹かれて、私たちは実際には知らないペチカを、いつしか知っているように思ってきたのである。そういうふうに考えると、詩の力には凄いものがある。実際のペチカは明治期にロシアから北海道に入ってきたという記録もあるが、高価なために普及はしなかったようだ。そんなわけで、多くの日本人が実際に体験したのは満州においてであった。白秋のこの歌も、満州での見聞が下敷きになっている。独立した俳句の季語になったのも、たぶんこの時期だろう。言うならば中国大陸進出の国策が産み落とした珍しい季語というわけで、さすがに近年の歳時記からは姿を消しつつある。掲句の舞台もまた、国内ではなく満州だったのかもしれない。『俳句歳時記・冬の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


January 1412012

 智慧の糸もつるゝ勿かれ大試験

                           京極昭子

試験は、進級試験、卒業試験のことを言い、本来春季なのだが、今は一月第二の土日が大学入試センター試験、本格的な入学試験シーズンの始まりである。そんな時、「花鳥諷詠」(2012年1月号)に、京極杞陽夫人、昭子についての寄稿(田丸千種氏)があり、その中に、母ならではの句、としてこの句が掲載されていた。頑張れ頑張れと、お尻を叩くのでもなく、やみくもに心配するのでもない母。智恵の糸がもつれないように、というこの言葉に惹かれ、春を待たずに書くこととした。時間をかけて頭の中に紡いだ智恵の糸を一本一本たぐり寄せ、それをゆっくりと織ってゆく、考える、とはまさにそういうことだろう。もつれかけても必ずほぐれるから、焦ってはいけない、諦めてはいけない、見切ってはいけない、言葉にすると押しつけがましくもなるあれこれが、こう詠まれるとすっと入る。妻昭子を杞陽は〈妻いつもわれに幼し吹雪く夜も〉と詠んでいるというが、記事の筆者は俳人としての昭子を「豊かな感受性と教養と好奇心をもって特殊な環境をいきいきと自立した心で生きた女性」と評して記事を締めくくっている。ほかに〈暖炉より生れしグリム童話かな 〉〈杞陽忌の熱燗なればなみなみと〉(今井肖子)


December 13122012

 ジーンズに雲の斑のある暖炉かな

                           興梠 隆

の昔、ぱちぱちと燃え上がる暖炉の火を前に寝転んで本を読む。そんなスタイルにあこがれた。薪をくべるという行為はせせこましい都会暮らしでは考えられない贅沢だが、雪深い山荘や北海道あたりでは現役で働いている「暖炉」があることだろう。その暖炉にところどころ白く色の抜けたジーンズが干してある。水色のジーンズに白く抜けた部分を「雲の斑」と表現したことで、句のイメージが空全体へ広がってゆくようで素敵だ。知的な見立てに終わってしまいがちな比喩が豊かな世界への回路になっている。ここから思い出すのは高橋順子さんの「ジーンズ」の詩の一節「このジーンズは/川のほとりに立っていたこともあるし/明けがたの石段に座っていたこともある/瑠璃色が好きなジーンズだ/だから乾いたら/また遊びにつれていってくれるさ」。「暖炉」が醸し出す室内の親和的な暖かさと、屋外の活動着であるジーンズの解放感との取り合わせが絶妙に効いている。つまり言葉の取り合わせにジーンズが伝えてくる昼間の楽しさと夜の暖炉まで時間的、空間的広がりが畳み込まれているのだ。『背番号』(2011)所収。(三宅やよい)


November 10112014

 ストーブを部分解禁する朝

                           森泉理文

業した高校(都立立川高)では、例年十一月一日が、スチーム暖房の解禁日だった。朝礼で校長が「都内の高校多しといえどもこんなに早く暖房をはじめるのは本校のみである」と威張ったものだった。公的な施設ではこのように暖房が解禁されるが、これが個人の家庭ともなれば、むろんこうはいかない。肌寒くなってきても、「まだ大丈夫、我慢できる」と、解禁を一日延ばしにするのが普通だろう。燃料費も馬鹿にならないし、一度暖房を入れてしまえばわずかな気温の差で止めたり点けたりするのは不可能に近いからだ。一度点けてしまえばそのまま春まで継続することになる。したがって、寒い部屋から「部分解禁する」のにも慎重にならざるをえない。作者は長野県佐久市に在住。東京などよりよほど寒い地方だから、もう「部分解禁」をされたころだろうか。『春風』(2014)所収。(清水哲男)




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