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November 07111996

 鵞鳥の列は川沿ひがちに冬の旅

                           寺山修司

山修司の句の特徴のひとつは、情景の大胆な位置づけにある。まさか鵞鳥が旅に出るわけはないが、そのよちよち歩きの行列を目にして、ひょいと「冬の旅」と位置づけてみせている。言われてみると、なるほど「冬の旅」に思えてくるから、読者としては嬉しくなってしまう。大胆な位置づけにもかかわらず、イメージの飛躍に無理がないのである。修司十代の作品。彼は、つまりはじめから演劇的な空間づくりの才に秀でていたのだった。『われに五月を』所収。(清水哲男)


December 06121996

 雉子鳴いて冬はしづかに軽井沢

                           野見山朱鳥

でもないような句ですが、そこがいいですね。避暑地の冬です。夏場の混雑と対比させるために、あえて「しづか」と言ったところが利いています。冬の軽井沢を、私はもちろん知りませんが、この句のとおりなのでしょう。風景は寒々としていても、読者をホッとさせてくれます。さすがはプロの腕前だと思いました。アマチュアには、できそうでできない作品のサンプルといってもよいのではないでしょうか。『荊冠』所収。(清水哲男)


December 07121996

 辞表預り冬の銀座の人混みを

                           杉本 寛

れぞ人事句。この、一年でいちばん寂しい季節に、辞表を出した人の気持ちも切ないだろうが、受け取った側にもやはり切ない思いがわいてくる。辞表を鞄の中に収めたまま、さてどうしたものかと思案しながら、華やかな銀座通りを歩いていく。大勢の通行人。きらびやかなショー・ウインドウ。擦れ違う多くの人が「懐にボーナスはあり銀座あり」(榊原秋耳)などと大平楽に、つまりまことに羨ましく見えてしまうのでもある。(清水哲男)


February 0221997

 何といふ淋しきところ宇治の冬

                           星野立子

和十四年の宇治(京都)での句。大学に入って私が宇治に下宿したのは、この句の約二十年後ということになるが、やはり同様に淋しいところであった。喫茶店ひとつなかったから、若い人間にとっては、それこそ「何といふ淋しきところ」と感じるしかなかった。とりわけて、冬は寒く寂寥感に満ちていた。宇治川の流れは、見るだけで胸にコタえた。先年亡くなった学友で詩人の佃学と、いっそのこと「大学なんてやめちまおうか」などと語りあったことを思い出す。立子は、ここでいわば通行人として宇治の感想を述べているわけだが、通行人にまで淋しさをいわれる町は、心底淋しいところなのである。現在の宇治はにぎやかだが、いま訪れると、逆に往時の淋しさが懐しい。『続立子句集第一』所収。(清水哲男)


November 19111997

 汽車の胴霧抜けくれば滴りぬ

                           飴山 實

和29年の作品。いわゆるSLである。なんとなく「生き物」という感じがしたものだ。いまの新幹線などは点から点へ素早く冷静に移動させてくれる乗り物でしかないが、昔の機関車は私たちをエッチラオッチラ一所懸命に運んでくれているという感じだった。汽笛にも「感情」がこめられているようだった。したがって、この句は客観写生句ではあるけれど、読者にはどこかでそれを越えた作者のねぎらいの心が伝わってくるのである。まだ観光旅行もままならず、乗客がみなよんどころのない事情を抱えていた時代の汽車は、いわば数々の人間ドラマを運んでいたわけで、それだけにいっそう神秘的にも見えたのだろう。同じ作者の前年の作に、敦賀湾で詠んだ「冬の汽笛海辺の峠晴れて越す」がある。『おりいぶ』(1959)所収。(清水哲男)


January 2411998

 踏切の向かふにあれば冬の顔

                           中村菊一郎

切で遮断機が上がるのを待つ。こういうときは所在ないもので、なんとなく向こう側で待つ人たちの顔を眺めていたりする。みんな寒そうな顔をしている。ただそれだけのことであるが、作者のまなざしはなかなかに鋭い。待っている人たちは所在がないのだから、ほとんどの顔は無防備なわけで、寒さの中で素直に寒い表情になってしまっている。だから、みんな同じような表情をしている。遮断機が上がって歩きだせば、それぞれの人がそれぞれの表情を再び取り戻すだろう。さりげない日常の光景をこのようにつかまえるのは、意外に難しい。この句にはどこかとぼけた味もあって、天性とでもいうべき「俳句的センス」を感じさせられる。こんな視線で町を歩ける人は、きっと楽しいでしょうね。「俳句研究年鑑・1994年版」所載。(清水哲男)


November 28111998

 梅漬の種が真赤ぞ甲斐の冬

                           飯田龍太

斐は盆地(甲府盆地)だから、夏はひどく暑く、冬の底冷えは厳しい。その意味で、私の知っている土地で言うと、京都の気候に似ている。似ているからといって、しかし、この句を「京の冬」とやっても通用しない。京都には、「真赤ぞ」の「ぞ」を受けとめるだけの地力に欠けているからである。やはり、作者のよく知る「甲斐の冬」でなければならないのだ。甲斐には、作者渾身の「ぞ」を受けとめて跳ね返すほどのパワーがある。このような「ぞ」と釣り合う土地は、少なくとも現代の大都市にはないだろう。さて、この句は何を言いたいのか。わからなくて何度も舌頭にころがしているうちに、深い郷土愛に根ざした自己激励の句だと思えてきた。「ぞ」は甲斐の国に向けられていると同時に、作者自身にも向けられている。郷土に向けて叫ばれているときの真っ赤な種は作者自身であり、作者に向けられているときのそれは郷土の守護霊のようなものだ。そしてこのとき、作者の眼前に真っ赤な種があるわけではないだろう。厳寒の郷土にあっての身震いするような志が、おのずから引き寄せた鮮やかなイメージなのである。(清水哲男)


November 29111998

 冬星照らすレグホンの胸嫁寝しや

                           香西照雄

祖「腸詰俳句」の中村草田男に師事した人ならではの作品だ。「腸詰俳句」の命名は山本健吉によるものだが、とにかく俳句という小さな詩型にいろいろなものをギュウギュウ詰め込むことをもって特長とする。この句でいえば、たいていの俳人は下五の「嫁寝しや」までを入れることは考えない。考えついたとしても、放棄する。放棄することによって、すらりとした美しい句の姿ができるからだ。そこらへんを草田男は、たとえ姿はきれいじゃなくても、言いたいことは言わなければならぬと突進した。作者もまた、同じ道を行った。戦後も六年ほど過ぎた寒い夜の句だ。レグホンは鶏の種類で、この場合は「白色レグホン」だろう。その純白の胸が冬空の下の鶏小屋にうっすらと見えている様子は、私も何度も見たことがあり、一種の寂寥感をかき立ててくる光景だった。子供だった私には、人間の女性の胸を思わせるという連想までにはいたらなかったけれど、わけもなく切ない気持ちになったことだけは覚えている。作者は、鶏も眠ってしまったこの時間に、我が妻も含めて世間の「嫁」たちは、忙しい家事から解放されて、やすらかに床につけただろうか。と、社会的な弱者でしかなかったすべての「嫁」たちに対して、ヒューマンな挨拶を送っている。『対話』(1964)所収。(清水哲男)


December 10121998

 冬の街戞々とゆき恋もなし

                           藤田湘子

て、この見慣れない漢字「戞(かつ)」とは何を意味するのだろうか。さっそく漢和辞典を引いてみたら、「戞」は「戈(ほこ)」のことであり、字解としては「戈で首を切る」意とあった。なるほど、戈の上に頭部が乗っかっている。で、「戞々」は「かつかつ」と発音する。馬のヒヅメの音などを表現するのに使われていた言葉らしく、この場合は人の足音に流用されている。このときの作者は、まだ二十代。あえて難しい漢字をもってきたのは、あながち若気のいたりからでもあるまいと読んだ。平板に「かつかつと」とやったのでは、どうにもシマラない。青年に特有の昂然たる気合いが、いまひとつ表現できない。だから「戞々と」と漢語を使用することで、そのあたりの気分を出したかったのだろう。したがって「恋もなし」とは言っているが、これはほとんどつけたりである。主眼は、ひとりの若者が孤独などものともせずに己れの信じる道を行くのだという「述志の詩」なのだ。冬の街だからこそ、寒気にさからうように昂然と眉を上げて歩いていくというわけだ。その意気込みが「戞々」に込められている。やはり「戞々」でなければならないのだった。『途上』(1955)所収。(清水哲男)


January 2011999

 らあめんのひとひら肉の冬しんしん

                           石塚友二

ーメンを「らあめん」と書き、チャーシューを「ひとひら肉」と書いて、寒い日にラーメンを食べる束の間のまろやかな至福感を表現している。作者が食べているのはどんなラーメンかと想像して、たぶん日本蕎麦屋や饂飩屋などのメニューに、ついでのように載っている種類のものだろうと思った。ホウレンソウの緑が濃く、絶対に入っているのがナルトである。麺の量は少なく、メンマも多くない。蕎麦仕立て風ラーメンとでも言うべきか。いまでも、たまにお目にかかることがあるが、これがなかなか美味いのである。味が鋭くないだけに、ほんわかとした気分が楽しめる。そんな店に座っていると、元気よくガラス戸を開けて子供が学校から帰ってきたりする。これで暖房がストーブだったら申し分ないのだが、さすがに今では望むべくもないだろう。こうした店で、もう一つ美味いのがカレーライスだ。妙に黄色かったりするけれど、あの安っぽい色彩がなんとも言えないのである。ただ、不思議に思うのは、必ずスプーンがコップの水に漬けられて出てくることだ。何故なのだろうか。この水は飲んでもよいのかと、いつも戸惑いながら、結局は飲んでしまう。(清水哲男)


November 24111999

 血を売って愉快な青年たちの冬

                           鈴木六林男

までは無くなったが、エイズ問題が起こる前まで、売血という仕組みがあった。血液バンクというものがあり、そこに行けばすぐ自分の血が金になるのである。これはある種の人たちにとっては恰好のアルバイトであり、最後の生活手段でもあった。この句を読むと、そうした昭和三十年代頃の東京の貧しさや、夢と希望(のようなもの)があった私の青春時代を思い出す。私は血を売ったことはなかったけれど、私の周辺にも万引きと売血で生きている若者が何人もいた。青春は暗く貧しい。だが、絶対的といえるほど愉快でもある。この句はそうした青春を振り返り、その時代の気分だけを抽出して、現在に生き生きと蘇らせている。それにしても、このような句を、七十代の作者が新作として作っているのですぞ。「俳句朝日」(1999年12月号・特集「この一年の成果」)所載。(井川博年)


January 1512000

 春巻きを揚げぬ暗黒冬を越え

                           摂津幸彦

者には「暗黒の黒まじるなり蜆汁」を含む「暗黒連作」があり、これは最後に置かれた句。引用句からもわかるように、ここで「暗黒」は単に暗闇の状態を言う言葉ではなく、物質化した実体のように扱われている。「暗黒と鶏をあひ挽く昼餉かな」では、そのことが一層はっきりする。「暗黒」は、いわば暗闇のお化けなのだ。したがって「冬を越え」の主語は「暗黒」という実体である。軽い意味ではようやく暗い冬の季節が終わりに近づいた安らぎの気持ち、重い意味では自身の内面の暗闇が晴れようとしている安堵に向かう感情。それらの心持ちが、春巻きを揚げる行為のうちにというよりも、「春巻き」という陽性な名前を持つ食べ物があることに気がついたことのなかに込められている。春巻きを揚げている厨房の窓から、すうっと「暗黒」が冬山の向こうへと遠ざかっていくのが見えるような、そんな実体感を伴う句だ。でも、句への発想はふとした思いつきからでしかない。言葉遊びの世界。下手をすれば安手で読めたものではない作品になるところを、徳俵に足をかけ、作者はぐっと踏みこたえている。この踏みこたえぶりこそが、いつだって摂津幸彦の技の見せ所であった。『姉にアネモネ』(1973)所収。(清水哲男)


March 2432000

 蒲公英のかたさや海の日も一輪

                           中村草田男

吠埼での連作「岩の濤、砂の濤」のうち。蒲公英(たんぽぽ)はもとより春の季語だが、他の句から推して春というよりも冬季の作品だ。一句目には「燈臺の冬ことごとく根なし雲」とある。一輪の蒲公英が、怒濤の海を真向かいに、地に張りつき身をちぢめるようにして咲いている。たしかに蒲公英は、それでなくとも「かたい」印象を受ける花であるが、寒さゆえに一層「かたく」見えている。生命力の強い花だ。そして曇天の空を見上げれば、そこにも「かたく」寒々とした太陽が、雲を透かして「一輪」咲くようにして浮かんでいる……。この天と地の花の照応が読みどころだ。読むだけで、読者の身もちぢこまってくるようではないか。この句を評して山本健吉は「古今のたんぽぽの句中の白眉である」と絶賛しているが、同感だ。常々「二百年は生きたい」と言っていた草田男ならではの、これは大きく張った自然観・人生観の所産である。かつて神田秀夫は、草田男を「天真の自然人」と言った。『火の島』(1939)所収。(清水哲男)


December 02122001

 冬の谷寝返る方に落ちる音

                           橋本 薫

の山は眠っている。とは、古人の見立て。「山眠る」の季語がある。眠っているからには、山だって「寝返る」こともあるだろう。とは、作者の機知。面白い。山が寝返ると、どうなるのだろう。真っ暗やみなので、その様子は見ることができない。が、音がするのだ。聞こえるのだ。谷を走る川瀬の音が急に高まったり、吹き下ろす風の音がいきなり轟いたりと。そしてまた、やがていつもの静けさがもどってくる。私は中国山脈の奥の育ちだから、夜の山の音の変化には敏感なほうだと思う。とくに雪の夜の山は、しいんとしている。と言っても、まったく音がしていないのではなくて、敢えて言えば「しいんとした音」しか聞こえてこないのだ。それが気象の変化によって、突然に山が唸りだすことがある。熟睡しているはずの子供までもが、朦朧とではあっても、気がつくほどの音。たいていは「ああ、荒れてるなあ」くらいですませてしまっていたけれど、そうなのか、実はあれは山の寝返りの音だったのか。……と、そう思うと楽しい気分になってくる。何度か書いてきたように、私は句作が安易に陥りやすいので、擬人法の使用は好まない。しかし、これほど破天荒な発想で用いいられてみると、まんざら捨てたものではないなと思ったことである。『夏の庭』(1999)所収。(清水哲男)


January 2112002

 金借りて冬本郷の坂くだる

                           佐藤鬼房

和初期、作者十九歳の句。「本郷」は東京都文京区の南東部で坂の多い町だ。句の命は、この本郷という地名にある。いまでこそ一般的なイメージは薄れてきたようだが、その昔の本郷といえば、東京帝国大学の代名詞であった。そんな最高学府のある同じ町で、作者は貧しい臨時工として働いていた。生活のために金を借りて本郷の坂道を「くだる」ときの思いには、当然のように天下の帝大への意識が働いていただろう。六歳で父親を失い、本を読むことの好きだった若者としては、家庭環境による条件の差異が、これほどまでに進路を制約するものであることを、このときに痛切に実感したのである。そんなことはどこにも書いてないけれど、「本郷の坂」と地名を具体的に書いた意味は、そこにある。のちに鬼房は「わが博徒雪山を恋ひ果てしかな」と詠んだ。「わが博徒」とは、若き日の野心を象徴している。野心のままに故郷を離れ、「雪山を恋ひ」つつもあくせくと都会で生きているうちに、いつの間にか我が野心も「果て」てしまったという自嘲句である。作者は戦後の「社会性俳句」を代表する存在と言われるが、この種の句を拾っていくと、むしろ石川啄木などに通じる抒情の人であったと言ったほうがよいように思う。一昨日(2002年1月19日)、八十二歳で亡くなられた。合掌。『名もなき日夜』(1951)所収。(清水哲男)


December 08122002

 旅にみる灯ぬくき冬よ戰あるな

                           飴山 實

後十年目に詠まれた句。旅の途次での夜景だ。車窓からの眺めかもしれない。見渡すと、あちこちに人家の「灯」が点々とともっている。外気はあくまでも冷たいが、それらの「灯」はとても「ぬく」く感じられる。この「ぬくき灯」の点在こそが、平和というものなのだ。二度と「戰」などあってはならない。と、理屈ではわかっても、この句を実感として受け止められる人は、もう国民の半分もいなくなってしまった。そう思うと、複雑な気持ちになる。戦時中の灯火管制と頻繁に起きた停電とで、往時は町中でも真っ暗だった。敗戦後に、人々がもっとも解放感を味わったことの一つは、まぎれもなく夜の「灯火」を自由に扱えるようになったことである。多くの人が、その喜びを話したり書いたりしている。掲句もまた、その喜びの余韻のなかで詠まれているわけで、だからこそ「戰あるな」が痛切な説得力を持つ。ここで思い出されるのは、かつての湾岸戦争で、イラクを一番手で空爆したアメリカ兵士のコメントだ。「バグダッドの街は、まるでクリスマス・ツリーのように輝いていた……」。そのときに、かりに彼にこの句が読めたとしても、真意はついに理解できないだろうなと思った。現代の戦争は「灯」を消そうが消すまいが関係はないのだけれど、そういうことではなくて、彼には「灯」から人間の生活を思い描く能力が欠如している。素直にキレいだと言っただけであって、正直は認めるが、この正直の浅さがとても気になった。『おりいぶ』(1959)所収。(清水哲男)


January 1312004

 ピッチャーは冬田の狼 息白し

                           天沢退二郎

作「カムフラージュ」九句のうち。季語が二つ出てくるので、当歳時記ではまとめて「冬」に分類しておく。前書に「以下の九名(ナイン)、野球チームとは世を忍ぶ仮の姿也」とあるから、男の性格や気質、ありようなどを野球のポジションになぞらえて詠んだものだろう。餌を求めて里に下りてきた孤狼一匹、吐く息はあくまでも白く、眼光炯々として獲物を求めている図である。かつての田んぼ野球派としては、投手の気概をさもありなんと感じて、懐しくも力の入る句だ。田んぼ野球からプロ野球まで、投手の性格はこうでなければ勤まらない。「お先にどうぞ」などという優しい性格は、マウンドには不向きである。本当は心優しくても、マウンド上では必死の狼になる必要がある。まだ現役のときの江夏豊に聞いた話だが、彼の肩をいからせてのっしのっしと歩く姿までが、ほとんど演出だった。「そうでもしないと、なめられてしまう」。草野球でも同じである。野球に限らず、そんな演出が必要なポジションは、世の中にいろいろとありそうだ。だから「カムフラージュ」というわけか。作者は知る人ぞ知る野球狂で、とくに少年期に親しんだ職業野球や六大学、都市対抗の選手たちの話を聞いていると、その博覧強記たるや尋常ではない。このごろでは、床についてからふと往時のある球団のセンターのことを思い出し、次に「ではライトには誰がいたか」と思い出そうとして思い出せず、それが原因で寝られなくなるというのだから、これまた尋常じゃない。そんな詩人の詠んだ句である。もう一句。「辛酸を嘗め過ぎ捕手の下痢やまず」。ははは。なにせ相棒は狼なので、気苦労が多いからね。と笑っては、全国の捕手諸君に失礼か。俳誌「蜻蛉句帳」(21号・2003年12月)所載。(清水哲男)


January 2012004

 日の冬をすかさず日雀小雀かな

                           岩下四十雀

者の四十雀(しじゅうから)という俳号からして、鳥好きを思わせる。そう言えば、「日雀(ひがら)」も「小雀(こがら)」もシジュウカラ科の鳥だ。いずれも夏の季語とするが、寒くなってくると人里近くに降りてくる。掲句は、それこそ「すかさず」その姿を詠んだものだ。寒い冬の朝、日が昇ると同時にやってきて、しきりに何かをついばみ囀っている。そんな彼らのおしゃべりが、作者には毎朝のささやかな楽しみなのだ。早朝の寒気のなかにあって、心温まる一刻である。鳥が一般的に早起きなのは、胃袋が小さくて空腹に耐えかねるからだという話を、どこかで聞いたことがある。そういうことなのだろうが、人はそんな彼らの事情には関係なくいつくしむ。おそらく、作者は餌を与えているのだろう。というのも、我が家の近所のお宅にいつも小鳥たちが囀っている庭があって、環境的には拙宅と変わらないのだけれど、とても賑やかだ。引っ越してきた当座は不思議に思ったが、どうやら鳥好きの家人が餌を与えているらしいことがわかった。腹を空かせた近所中の鳥が、毎日そこに集合して囀る様子は、さながら野鳥園のようだ。おかげで餌をやらない我が家には、めったに飛んでこない。ときおり、スズメが二羽か三羽ほど来る。そのお宅の庭の仲間たちから、いじめられてはじき出された弱者なのだろうか。などと、埒もないことを思ったりして眺めている。「俳句研究」(2003年4月号)所載。(清水哲男)


January 2512004

 マッチの軸頭そろえて冬逞し

                           金子兜太

はや必需品とは言えなくなった「マッチ」。無いお宅もありそうだ。昔は、とくに冬場は、マッチが無くては暮しがはじまらなかった。朝一番の火起こしからはじまって、夜の風呂沸かしにいたるまで、その都度マッチを必要とした。昔といっても、ガスの点火などにマッチを使ったのは、そんなに遠い日のことではない。だからどの家でも、マッチを切らさないように用心した。経済を考えて、大箱の徳用マッチを買い置きしたものだ。句のマッチも、たぶん大箱だろう。まだ開封したてなのか、箱には「軸」が「頭(あたま)そろえて」ぎっしり、みっしりと詰まっている。この「ぎっしり、みっしり」の状態が作者に充実感満足感を与え、その充実感満足感が「冬逞し」の実感を呼び寄せたのだ。マッチごときでと、若い人は首をかしげそうだが、句のマッチを生活の冬への供え、その象徴みたいなものと考えてもらえれば、多少は理解しやすいだろうか。すなわち、この冬の備えは万全ゆえ、逞しい冬にはこちらも逞しく立ち向かっていけるのだ。供えがなければ、マッチが無くなりそうになっていれば、冬を逞しいと感じる気持ちは出てこないだろう。厳しかったり刺すようだったりと、情けないことになる。冬の句は総じて陰気になりがちだけれど、作者がマッチ一箱で明るく冬と対峙できているのは、やはり若い生命力のなせる業にちがいない。この若さが、実に羨ましい。兜太、三十歳ころの作品と思われる。『金子兜太』(1993・春陽堂俳句文庫)所収。(清水哲男)


March 0732004

 凧とぶや僧きて父を失いき

                           寺田京子

語は「凧(たこ)」で春。子供たちは正月に揚げるが、これには「正月の凧」という季語が当てられる。単に「凧」という場合には、各地の年中行事で主に大人の揚げるものを指すのが一般的だ。作者は札幌生まれ。17歳のときに胸部疾患罹病、宿痾となる。「少女期より病みし顔映え冬の匙」、「未婚一生洗ひし足袋が合掌す」。しかも、より不幸なことには、杖とも柱とも頼んだ母親が早世してしまい、父親との二人暮らしの日々を余儀なくされたのだった。「雪降ればすぐに雪掻き妻なき父」。その父親が亡くなったときの句だ。このような事情を知らなくても、掲句には胸打たれる。順序としては、亡くなった人がいるから「僧」が来る。しかし、句では逆の言い方になっている。「僧」が来てから、「父」を失ったことに……。この逆順が示しているのは、あくまでも父親を失ったことを認めたくない心情である。認めたくない、夢ならば醒めてほしいと願う心は、しかし僧侶が訪れてきたことによって、無惨にも打ち砕かれてしまったのだ。父の死を現実として受け止めざるを得ない。ああ、父は本当にいなくなってしまったのだ。と、作者は呆然としている。折から、何か大きな行事のためなのだろう。よく晴れた空には「凧」が悠々と天上に舞い上がっており、世間は全て世は事も無しの風情である。作者は、いつまでも空「とぶ」凧を慟哭の思いで、しかもいわば半睡半覚の思いで見つめていたことだろう。父の非在と凧の実在。この取り合わせによる近代的抒情性が、見事に定着結晶した名句である。なお、作者は1976年に54歳で他界した。「林檎甘し八十婆まで生きること」。『日の鷹』(1967)所収。(清水哲男)


December 07122004

 ケータイのあかりが一つ冬の橋

                           坪内稔典

ましたっ。パソコンを詠んだ句は散見するようになったが、携帯電話の句はまだ珍しい。俳人には高齢者が多いので、装置そのものを持っていないか、持っていても若者のように頻繁に使ったりはしないからだろう。要するに、あまり馴染みがないのである。加えて、携帯電話を「携帯」と略すことにも抵抗がある。句に「携帯」と詠み込んだだけでは、厳密に言えば何を携帯しているのか、意味不明になってしまう。そこで作者は「携帯」とせずに、片仮名で「ケータイ」とやった。この表記だと、読者にも当今流行のアレだなと見当がつく。さて、寒くて暗くて長い「冬の橋」。人通りも少なく、閑散としている。作者は、その橋を少し遠くから眺めている恰好だ。と、そこへ「ケータイ」を持った人が通りかかった。男か女かもわからないけれど、小さな液晶画面のバックライトだけが、明滅するかのように動いてゆく様がうかがえる。いったい、こんなところでこんな時間に、誰が何のために何を発信しているのだろうか。蛍の光ほどの淡い「あかり」のゆっくりとした移動を見ているうちに、しかし作者は持ち主である人間のことを次第に忘れてしまい、なんだか「あかり」だけが生きて橋を渡っているかのように思えてくるのだった。これぞ「平成浮世絵」の一枚だなと、読んだ途端に思ったことである。『俳句年鑑・2005年版』(2004・角川書店)所載。(清水哲男)


November 20112005

 冬すでに路標にまがふ墓一基

                           中村草田男

後、一瞬の戸惑いを覚える。だが、この戸惑いこそが掲句の命だろう。戸惑うのは、「冬すでに」とあるけれど、「何が『冬すでに』どうなったのか、どうなっているのか」については何も書かれてないからだ。で、いきなり「路標とまがふ墓一基」と「冬すでに」を断ち切った光景が現れる。読者には、上五の「冬すでに」がどのように下七五にかかってゆくのかという頭があるから、「あれっ」と思うわけだ。そこでもう一度、句全体を見渡すことになる。すると、この「冬すでに」の未完結性が一種の余韻となって、句全体をつつんでいることがわかってくる。もっと言えば、漠然としていてもどかしいような「冬すでに」があるから、路傍に打ち捨てられた「墓一基」の姿がより鮮明になってくるのだ。「路標」は、たとえば「江戸まで十里」といったような道しるべのこと。よく見ないとそんな路標と「まがふ」(見まがう)ほどに、一つの小さな墓が打ち捨てられている。たぶん、墓を守るべき子孫や縁者も絶えてしまったにちがいない。しかし、この墓の下に眠っている人にも、むろん人生はあった。どんな人で,どんな生涯を送った人なのか。作者はしばし、墓の前にたたずんでいる。人の世の無常を感じている。現世の季節は「冬すでに」到来しており、どのような人であれ、その運命はいずれはこの墓と同じように、寒い季節に打ち捨てられさらされるのだと、作者は思わずにはいられなかったのだ。『合本俳句歳時記・第三版』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


January 1312006

 襖絵の虎の動きや冬の寺

                           斎藤洋子

の句を矢島渚男が「単純な形がいい」と評していて、私も同感だ。がらんとした「冬の寺」。想像しただけで寒そうだが、ものみな寒さの内に固く沈むなかで、ふと目にとめた襖絵の虎だけには動きがあって、生気にみなぎっていると言うのである。この生気が、いやが上にも周辺の寒くて冷たい事物を際立たせ、ひいては寺ぜんたいの静けさを浮き上がらせているのだ。襖絵の虎といえば、誰もが知っている一休和尚のエピソードがある。彼がまだ子供で周建という名前だったころ、その知恵者ぶりを足利義満に試される話だ。義満が聞いた。「周建よ、そこの屏風の絵の虎が毎晩抜け出して往生しているのだ。その虎を縛ってはくれないか」。「よろしゅうございます」と縄を持った周建が、平気な顔で「これから虎を捕まえます。ついては、どなたか裏に回って虎を追い出していただきたい」と叫んだという話である。少年時代にこの話を何かの雑誌で読んだときに、文章の傍らに虎を描いた立派な襖のイラストレーションがそえられていた。何の変哲もない挿絵だったけれど、それまで襖絵というと模様化された浪と千鳥の絵くらいしか知らなかった私には、衝撃的であった。こんな絵が自分の家の襖に描いてあれば、どんなに楽しいだろうか。虎の絵が寺や城の襖につきものとは露知らず、一般家庭の襖にも描かれていると思ってしまったわけだ。以来、襖の虎は我が憧れの対象になっていて、いまだにそんな絵があるとしみじみと見入ってしまう。掲句が目に飛び込んできたのも、そのことと無縁ではないのであった。俳誌「梟」(2006年1月号)所載。(清水哲男)


November 07112006

 拭ひても残る顔あり今朝の冬

                           藤田直子

と自分がここにいる不思議を思う瞬間がある。鏡を覗き込む顔も見知らぬ者のように映り、水にくぐらせた皮膚に冬の空気が通りすぎる感触さえ、どこかよそよそしく感じる。句集は作者が配偶者に先立たれた時間のなかで作られたものであり、掲句からは愛する者を亡くしたのちも実体のある自身を持て余すようなやりきれなさが伝わってくる。しかし、残された者には望むと望まざるに関わらず、連綿と日常が控えている。今日から冬が始まることは、同時に作者の新しい日々が始まることでもある。エジプトの王ツタンカーメンの棺には、妻アンケセナーメンが摘んだ矢車草の花が添えられていたという。暗殺説もある複雑な人間関係のなかで、夫婦の愛情だけは確かに育まれていたのだ。残された若きエジプト王妃もまた、悲しみを拭うように朝を迎えていたことだろう。「秋麗の棺に凭れ眠りけり」「そぞろ寒供花ふやしてもふやしても」「がらんどうの冬畳より立ち上がる」、途方もない虚無感がごつごつと胸を乱暴に駆け抜ける。長い長い時間をかけてようやく悲しみは、かけがえのない思い出となる。『秋麗』(2006)所収。(土肥あき子)


December 18122006

 肉体のかくもミケランジェロ冬へ

                           松田ひろむ

ダビデ像
ケランジェロは、言うまでもなく盛期ルネッサンスの三大巨匠の一人だ。有名なダビデ像をはじめとして、彼の創出した「肉体」は、その一筋一筋の筋肉描写までもが正確なことで知られる。さらに顕著なのは、その肉体の隅々にまで力がみなぎり、その力に魂がやどって輝いて見えるところだろう。単なる肉体美とは違う美しさだ。「かくも」肉体の信じられた時代があり、「かくも」肉体が雄弁に語った時代があった。現代人からすると、ほとんど信じられない肉体へのこだわりが、しかし無理なく私たちの心に沁み入ってくるのは、何故だろうか。揚句は「かくも」の内容には、いっさい触れていない。そこが良い。「かくも」の中身は、句を読んで、読者のなかに一瞬去来するものなのであり、その去来するものは、読者によってそんなに差の無いなにものかであるだろう。そのなにものかを素手で引っ掴むようにして、読者は作者とともに、寒くつめたく長い暗鬱な季節に立ち向かう勇気を得るのである。雄渾にして健康的な句だ。高村光太郎の「冬が来た」の一節を思い出す。「……冬よ/僕に来い、僕に来い/僕は冬の力、冬は僕の餌食だ」。「俳句研究」(2007年1月号)所載。(清水哲男)


January 1212007

 奥歯あり喉あり冬の陸奥の闇

                           高野ムツオ

安時代に征夷大将軍坂上田村麻呂に攻められた東国の夷(えびす)の首領悪路王は、岩手県の平泉から厳美渓に通じる途上にある達谷窟(たっこくのいわや)に籠って最後まで屈せずに戦い遂に討たれる。悪路王などというおどろおどろしい名を付けたのも錦の御旗を掲げた側。本当は、気は優しくて力持ちの美男子だったかも知れぬ。ドラマの中のキムタクやブラピのように。皇軍の名のもとにマイノリティを「征伐」していった歴史の暗部が陸奥(みちのく)には充満しているのだ。夷やアイヌやインディアンや、その他多くの被征服者の苦しみや哀しみを、「大東亜戦争」に敗れた僕等日本人はようやく痛切に感じることができるようになったのではないか。それまでは世界の「征夷大将軍」たらんとしていたのに。権力の合法的暴力や大国の偽善的エゴは今も世界に満ち満ちている。世界中の「みちのく」の冬の闇の中で、顔を失った口の中の奥歯が呪詛を呟き、頭を吹き飛ばされた喉が今日も叫んでいる。「別冊俳句・現代秀句選集」(1998・角川書店)所載。(今井 聖)


January 2812007

 回りつづけて落とすものなし冬の地球

                           桑原三郎

と星が引き合う力を、孤独と孤独が引き合っていると言ったのは、谷川俊太郎です。地球が回っているのに、自身の表面から何もはがれてゆかないのは、たしかに引力というさびしさによるものなのかもしれません。生きるということは、大地に引っ張り続けられることです。この句の視線はあきらかに、大空を見上げるものではなく、地球を側面から、あるいは鳥の目で見下ろしています。このような乾いた視線を、ためらいもなく作品に提示できるのは、俳句だからの事のような気がします。どんな世界を描いていても、有無を言わさず言葉を切り落としてしまう俳句だからこそ、可能なのではないでしょうか。詠まれている空間の大きさにもかかわらず、わたしはこの句に、なぜかミニチュアの、部屋の中に作られた宇宙のような印象を持ちます。目の前に広がる空間に、地球が浮かび、ガラガラ音をたてながら回っています。目を近づければ、細かな町並みが通っており、しがみつくようにして小さな人々が歩いています。むろん部屋の外は冬。窓をあければ、地球全体に北風が吹き込みます。『生と死の歳時記』(1999・法研)所載。(松下育男)


March 3032007

 きびしい荷揚げの荷に頬ずり冬の汗して投票に行かない人ら

                           橋本夢道

句や文学の名に「プロレタリア」の形容を冠する意味はあきらかである。文学に対する政治の優位をはっきりと言っていて、後者の「正しかるべき在り方」の遂行のために前者が存在するという明解な価値観である。これはつまらないと僕は思う。方法としてのリアリズムの効果は認めるが、社会底辺の労働が「必ず美しく正しく」描かれるのは、これはリアリズムというよりは労働ということの「意味」を社会的解説的に問うているということではないか。政治スローガンの戯画化にどれほどの文学性があろうか。「橋本夢道」の一般的評価は別にして、この句は特定の党に投票しなさいと声を張り上げているわけではない。投票日が来ても、その日の日銭を稼ぐのに切羽詰っていて投票所に行く時間がない人たちがたくさんいる。社会変革に踏み出す前にその日のパンをどうするかの問題。ストライキで電車を動かさない現場の人たちを働く仲間として支援できるか。職場に行けない自分が迷惑を蒙ったとしてストを非難するのか。デモ隊と現場で対峙する警官への憎悪と、彼らの個々の「人間性」への理解をどう折り合いをつけるのか。この句のリアルは「荷に頬ずり」と、この人たちを正しいとも間違っているとも言わないところ。現実の瞬間を動的に把握している点において特定の党派の意図など入り込む隙もない。この句の持つ意味をもうひとつ。自由律とは大正期はこんな自由なバリエーションが存在した。尾崎放哉の出現があって、それ以降はみんな放哉調をまねて行く。放哉調が自由律の代名詞になるのである。初期のこういうオリジナルな自由律と比較すれば、山頭火ですら放哉のものまねに見えてくる。谷山花猿『闘う俳句』(2007)所載。(今井 聖)


November 11112007

 温めるも冷ますも息や日々の冬

                           岡本 眸

句に限らず、日々の、なにげない所作の意味を新しい視点でとらえなおすことは、創作の喜びのひとつです。作者自身が、「そうか、そんな見方があったのか」と、書いて後に気づくこともあります。掲句を読んで最初に感じたのは、なるほど「息を吐く」ことは、ものを温めもし冷ましもするのだったという発見でした。そしてこういった句を読むたびに、どうしてそんなあたりまえのことに今まで気づかなかったのかと、自分の鈍感さを思い知らされるのです。「温める」は、冬の寒さの中で頬を膨らませて、自分の体の中の温かみを掌に吹きあてる動作を言っているのでしょう。一方「冷ます」は、たとえばテーブルに載ったコーヒーカップの水面へ、横から冷たい息を送ることでしょうか。でも、いったんは冷ましたコーヒーも、結局は体の中に流れ込んで、人を温めることに結びついてゆきます。全体が、人の動作のやさしさを感じさせてくれる、てのひらで包み込むような句になっています。ところで、「冬の日々」ではなく、なぜ「日々の冬」という言い方をしているのでしょうか。理由はともかく、小さく日々に区切られた冬が想像されて、わたしはこの方が好きです。『角川俳句大歳時記 冬』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


November 12112007

 忘られし田河水泡いくたび冬

                           小林洸人

者は大正九年生まれだから、昭和六年から「少年倶楽部」に連載された田河水泡の漫画「のらくろ」にはリアルタイムで出会っていることになる。まさに熱狂的に受け入れられた漫画だったと聞くが、昭和十三年生まれの私の子供時代にも多少はその残響のようなものが感じられた。今日でも「のらくろ」のキャラクターを知る人は少なくないと思うが、その作者名は句の言うようにほとんど忘れられてしまっていると言ってよいだろう。冗談ではなく、掲句を読んで「田河水泡」を人の名前ではなく、自然の一部だと受け止める人もいるはずだ。すなわち、失われた自然を詠んだ句だと……。いかに一世を風靡した人の名前だとはいっても、よほどの名前でないかぎり、やがては忘れられてしまうのが運命だ。そのことに作者は、「のらくろ」を愛読した自分の少年期の日々が重なり、もろともに忘れられたという喪失感を味わっているようである。「冬いくたび」は、水泡の命日(1989年12月12日)が冬だったので、とりわけ冬になるとそのことを思い出すというのであろう。水泡ばかりではなく、いまや「冒険ダン吉」の島田啓三や「タンク・タンクロー」の坂本牙城も忘れられ、ずっと新しい「赤胴鈴之助」の武内つなよしですらあやしいものだ。それが世の常であるとしても、なんだか口惜しい。『塔』(2007)所収。(清水哲男)


November 13112007

 靴と靴叩いて冬の空青し

                           和田耕三郎

の空はどこまでも青い。右足と左足の靴を両手に持って、ぽんと叩いて泥を落とす。この日常のなにげない行為の背景には、晴天、散歩、健康、平和と、どこまでも安らかなイメージが湧いてくる。童謡では「おててつないで野道を行けば(中略)晴れた御空に靴が鳴る」と跳ねるような楽しさで歌われ、「オズの魔法使い」ではドロシーが靴のかかとを三回鳴らしてカンザスの自宅に無事帰る。どちらも靴が音を立てる時は「お家に帰る」健やかなサインであった。本書のあとがきで、作者は2004年に脳腫瘍のため手術、翌年再発のため再手術とあり、二度の大病を経て、現在の日々があることを読者は知ってしまう。青空から散歩や健康が、乾いたペンキのようにめくれ上がり、はがれ落ち、まだらになった空の穴から、もっと静かな、献身的な青がにじみ出てくる。作者は靴を脱ぎ、そこに戻ってきた。真実の青空はほろ苦く、深い。〈拳骨の中は青空しぐれ去る〉〈空青し冬には冬のもの食べて〉『青空』(2007)所収。(土肥あき子)


January 2512008

 わが掌からはじまる黄河冬の梨

                           四ッ谷龍

解したり組み立てたり、言葉の要素である意味とイメージのジグゾーパズルを楽しめる作品。「掌」から手相はすぐ出る。手相の中心に走る生命線や運命線から、俯瞰した河の流れが浮かぶ。河から「黄河」が連想される。アマゾン川やインダス川でなくて黄河なのは三音の韻の問題が主である。「はじまる」で映像的シーンを重ねる手法が思われる。手相に接近したカメラはやがて滔滔たる黄河を映し出す。「冬」は「わが」とつながる。「冬」は内部世界の暗部を象徴する。「梨」は「黄河」とつながる。梨、水、流れ、河、黄河の連想つながりである。整理すると、「わが」は「冬」と、「黄河」は「掌」と、「梨」は「黄河」とそれぞれつながる。それらの関係を一度絶ってバラバラにして今度は別の組み合わせにしてみる。なぜか。意味を分断して視覚的なシーンを固定せず、イメージのふくらみをもたせるためである。一度つながった言葉は相手を引き離されて別の相手と組まされる。強引に別の相手と組まされた組み合わせは意外なイメージを形成する。その意外さが「視覚」を超えることを作者は意図している。そうやって一度バラバラにして「意外性」を意図したあと、うまくいかなければ、もう一度バラして現実の「写生」にもどす手もある。言葉はどうにでも組み立て可能だ。作品の成否は別にして。別冊俳句『平成俳句選集』(2007)所載。(今井 聖)


January 2712008

 書物の起源冬のてのひら閉じひらき

                           寺山修司

味はそれほどに複雑ではありません。てのひらを閉じたり開いたりしていたら、なんだかこれが、書物のできあがった発想の元だったんじゃないかと、感じたのです。では、てのひらの何が、書物に結びついたのでしょうか。大きさでしょうか、厚さでしょうか、あるいは視線を向けるその角度でしょうか。また、てのひらを開いたり閉じたりするたびに違う思いがわいてくる。そのことが、本のページを繰る動作につながったのでしょうか。それとも、てのひらに刻まれた皺のどこかが、知らない国の不思議な文字として、意味をもって見えたのでしょうか。「冬の」という語が示しているように、このてのひらは、寒さにかじかんで、ゆっくりと開かれたようです。その動きのゆるやかさが、思考の流れに似ていたのかもしれません。ともかく、書物はなぜできたのかという発想自体が、寺山修司らしい素直さと美しさに満ちています。そんな感傷的な思いにならべて、具体的な身体の動きを置くという行為の見事さに、わたしはころりと参ってしまうのです。『新選俳句歳時記』(1999・潮出版社)所載。(松下育男)


February 2722008

 古書市にまぎれて無口二月尽

                           小沢信男

年は閏年(うるうどし)ゆえ二月は二十九日まである。とはいえ、二月の終わり、つまり二月尽である。まだ寒い時季に開催されている古書市であろう。身をすくめるようにして古書を覗いてあるく。汗だくの暑い時季よりも、古書市は寒いときのほうがふさわしい。買う本の目当てがあるにせよ、特にないにせよ、古書探しは真剣そのものとなってしまう。連れ立ってワイワイしゃべくりながら巡るものではあるまい。黙々と・・・・。運よく稀購本を探し当てても声はあげず、表情を少しだけそっとゆるめる程度だが、心は小躍りしている。リュックを背負ったりして、無口居士を決めこみ、時間をたっぷりかけて入念に探しまわる。そんな無口居士がひしめくなかに、自分もどことなくひそかに期待を抱いてまぎれこんでいるのだ。お宝探しにも似た、緊張とスリルがないまぜになったひとときであるにちがいない。ほしい本にはなかなか出くわさない。いっぽうで、もう二月が終わってしまうという、何となくせかされるような一種の切迫感もあるのだろう。ゆったりしたなかにも張りつめた様子が目に見えるようだ。歴史ものや調べものの著作が多い信男ならではの、思いと実感が凝縮されていながらスッと覚めている。無口といえば、信男には「冬の河無口に冬の海に入る」という句もある。掲出句は当初、ほんの62句だけ収めた句集『昨日少年』(1996)に収められた。句集と言っても、一枚のしゃれた紙の表裏に刷りこんで四つに畳んだもので、掲出句は〈春〉の部の二句目にならぶ。全句集『んの字』(2000)所収。(八木忠栄)


December 01122008

 谷内六郎のおかつぱ冬夕焼

                           山田富士夫

かっぱ頭でいちばん有名なのは、サザエさん家のワカメちゃんだろう。戦後すぐに登場したこの女の子の髪形は、現在まで一度も変わっていない。漫画ならではの特権だが、作者や私が子供だったころの女の子は、ほぼ全員が同様におかっぱだった。学校での集合写真が、そのことを証明している。谷内六郎が好んで描いたのも、おかっぱや三つ編みの少女である。そして、誰もが同じ顔をしている。ノスタルジーにとって重要なのは、このようなキャラクターや周辺の風景などの単純化だろう。むろん実際にはやんちゃな子、内気な子などいろいろいたのだけれど、振り返ってみればそのようなキャラクターなどはどうでもよくて、みんな同じに幼かったという一点で、郷愁の焦点は絞られるものなのだ。長い歳月が、過去の細々とした現実を洗い流してしまうとでも言うべきか。このときに冬の夕焼けは、ノスタルジーの深度をより増幅させるのに効果的だ。時刻も早く、すぐに消えてしまう冬の夕焼け。作者は谷内六郎の絵を見ながら、思い出しているのは実は女の子のだれかれのことではなくて、おかっぱの女の子たちと一緒だったそのころの自分のことなのだと思う。その自分のありようからしてもはや単純であるという思いが、歳月茫々の観を深め、ふたたび三度おかっぱの絵に戻っては、ここまで生きてきた人生の不思議を思っていると読んだ。そう言えば天野忠に『単純な生涯』という凄い詩集がある。『砂丘まで一粁』(2008)所収。(清水哲男)


December 13122008

 冬と云ふ口笛を吹くやうにフユ

                           川崎展宏

、言われて、フユ、と云ってみる。ほんとうに口笛を吹くように口が少し尖って、何度も繰り返すと、ヒュウ、と音もする。ハル、ナツ、アキ、とついでに声に出してみると、いずれも二音がはっきりとしていて、くり返してもただただ続くだけだ。ヒュウ、は口笛と同時に、風の音も連想させる。北風はピープー吹くけれど、ヒュウ、は隙間風や、落ち葉を舞い上がらせる一陣の風を思わせる。云う、の方が、言う、より、口ごもるニュアンスらしい。はっきり意味を伝えようとしているわけではなく、ふとつぶやいている感じ。少し悴んだ両手をこすり合わせながら、フユ、とぽつりと言葉にした時、それはため息のように小さい白い息となって、かちんかちんの空気を一瞬見せて消えてしまうだろう。ほらね、という作者の微笑んだ顔が見えるようであたたかい。『俳句歳時記 第四版・冬』(2007・角川学芸出版)所載。(今井肖子)


December 18122008

 やはらかに鳩ゐて冬の屋根瓦

                           中里夏彦

き締まった空気と屋根瓦の堅さ、冷たさ。その感触は鳩がいてこそだろう。屋根にきている鳩は冬毛をぷわぷわふくらませ、霜の降りた瓦をいっそう冷たく感じさせる。むかし屋根に鳩小屋をしつらえ、朝などにいっせいに飛ばして訓練している様子があちこちで見られたものだ。メールが飛び交う現在、伝書鳩を使うこともないし競技用に飼われる鳩もめっきり少なくなったことだろう。町のあちこちで迷惑がられている土鳩の先祖は役目から解放された伝書鳩かもしれない。いったん鳩が棲みつくと屋根やベランダが糞で真っ白にされて大変だと聞く。「餌をやらないでください」といった貼り紙も目にする。冬の瓦に乗る鳩もそれを眺める人間も離れているうちはいいが、密集した都会で共に暮らすには難しくなってきている。『俳句の現在 3』(1983)所載。(三宅やよい)


December 20122008

 駅の鏡明るし冬の旅うつす

                           桂 信子

の鏡にうつっているのは、一面の雪景色なのだろうか。いずれにしてもよく晴れている。そんな風景を背にして、着ぶくれて、頬がちょっと赤くて、白い息を吐きながらも、どこかわくわくしている旅人の顔。非日常の風景の中の自分を、現実の自分が見つめている。冬の旅という言葉を、ありきたりな旅情と結びつけるのではなく、冬の旅うつす、としたことがひとつの発見。出典から見て、昭和三十年より前に作られた句である。こんなさりげない句にも、この作者の自由な詩心が感じられる。さほど大きくはないこの駅で降り立った作者は、ずっと握りしめていた旅の証である切符を駅員に渡して、見知らぬ街へ歩き出したことだろう。なんだか懐かしい、小さくて少し硬めの切符だ。〈それぞれの切符の数字冬銀河〉(坂石佳音)切符に刻まれた数字の数だけ旅人がいて、それぞれの夜空を仰ぐ。『図説俳句大歳時記 冬』(1965・角川書店)所載。(今井肖子)


January 2012009

 自転車を嘶く形にそろへ冬

                           小林貴子

の多い東京の町を自転車で走るとき、ときおり人馬一体という言葉が頭をよぎる。上り坂でがんばっているのは自分ひとりのはずなのに「がんばれがんばれ」と自転車に言い聞かせている。その中にすとんと体を収める自動車は移動する自室という感覚になるが、サドルにまたがりペダルを漕ぐという肉体的な動作を伴い、外気と触れ続ける自転車は、歩くや走るの延長線上にあり、尚かつ愛着のあるものともなると愛馬に抱く感情に近い。掲句もきれいに並べられた自転車置き場に自分の一台を加えたとき、ふとつながれた馬の姿を重ねたのだろう。人間の足音が遠ざかったのち、ほうぼうの自転車は嘶きの白息をこぼすのかもしれない。今回ネットサーフィンのなかで「サイクルポロ」という競技を見つけた。その名の通り自転車を使ったポロ競技で、馬を飼うのが大変だったことが起源という。しかし、さすがに流鏑馬のかわりに自転車で、という競技は今のところないようだ。〈マント羽織るときに体を半回転〉〈遠き冬針焼いて棘抜きしこと〉『紅娘』(2008)所収。書名「紅娘」はてんとうむし。(土肥あき子)


February 0222009

 罵声もろとも鉄剪り冬は意地で越す

                           安藤しげる

ょうど半世紀前の作。当時の作者は二十代半ばで、日本鋼管鶴見製鉄所で働いていた。まだま敗戦の傷跡が残り、この国は貧しかった。労働条件も劣悪であったに違いない。加えて、作者は労組の中央闘争委員であったから、当然のように会社からは睨まれていただろう。上司の理不尽な「罵声」も飛んでくる。しかし、そこでかっとなって反抗したらお終いだ。湧き上がる憤怒の思いを、鉄を剪る作業に向けるしかなかった。こうなってくると、働きつづけるためにはもはや「意地」しかないのである。叩きつけるような句から見えてくるのは、当時の作者の姿ばかりではなく、作者の仲間たちや多くの工場労働者の生き方である。その頃の私は、父が勤めていた花火工場の寮にいたので、いかに工場での仕事が辛いかは、少しくらいはわかっていた。逃げ場など、ない。喧嘩して止めれば、路頭に迷うだけなのである。その意味では、現代と状況が似ている。いまは派遣社員の扱いがクローズアップされているけれど、どんな時代にも、資本のあがきは弱者に襲いかかるものなのだ。ただ現在、人々の表現に、往時に言われたような社会性俳句の片鱗すら見えてこないのが、とても不気味である。いつしか個々人の憤怒の思いは、社会的に拡散されるような仕組みが作られてしまったということだろう。いまこそ叩きつけるような表現があってしかるべきなのに、みんな黙っている。職場俳句すら、ほとんど詠まれない。みんながみんな利口なのか、馬鹿なのか。掲句を含む句集を読んでいて、そんなことを考えさせられた。『胸に東風』(2005)所収。(清水哲男)


February 1122009

 冬の坂のぼりつくして何もなし

                           木下夕爾

な坂道をくだるとき、前方はよく見えている。けれども、坂道をのぼるときはもちろん前方は遠くまで見えているとはかぎらない。坂のむこうには空だけ、あるいは山だけしか見えていないかもしれない。その坂をのぼりきったところで、冬は何もないかもしれないのだ。いや、枯れ尽くした風景か冬の風物が、忘れ物のようにそこにあったとしても、まるで何もないように感じられるのだろう。春、夏、秋では「何もなし」とはならない。もっとも掲出句の場合は、現実の風景そのものというよりも、心象的な空虚感も詠みこまれているのではあるまいか。冬の寒々とした風景は、場合によってはもはや風景たり得ていないこともある。そこには作者の心の状態が、色濃く影を落としているにちがいない。懸命に坂をのぼってきてようやくのぼりきったのに、達成感よりもむしろ空虚感がぽっかり広がるのみで、作者の心に満たされるものとてない。ここに一つの人生論的教訓みたいなものまで読みとりたいと、私は思わないけれど、何やらそのようなものが感じられないこともない。寒々しい冬にふと感じられた、風景と心のがらんどう「何もなし」を、素直に受けとめておこう。夕爾には「樹には樹の哀しみのありもがり笛」という句もある。『菜の花集』(1994)所収。(八木忠栄)


April 1542009

 甕埋めむ陽炎くらき土の中

                           多田智満子

ゆえに甕を土のなかに埋めるのか――と、この場合、余計な詮索をする必要はあるまい。「何ゆえに」に意味があるのではなく、甕を埋めるそのこと自体に意味があるのだ。しかし、土を掘り起こして甕をとり出すというのではなく、逆に甕を埋めるという行為、これは尋常な行為とは言いがたい。何かしら有形無形のものを秘蔵した甕であろう。あやしい胡散臭さが漂う。陽炎そのものが暗いというわけではあるまいが、もしかして陽炎が暗く感じられるかもしれないところに、どうやら胡散臭さは濃厚に感じられるとも言える。陽炎ははかなくて頼りないもの。そんな陽炎がゆらめく土を、無心に掘り起こしている人影が見えてくる。春とはいえ、土のなかは暗い。この句をくり返し眺めていると、幽鬼のような句姿が見えてくる。智満子はサン=ジョン・ペルスの詩のすぐれた訳でも知られた詩人で、短歌も作った。俳句は死に到る病床で書かれたもので、死の影と向き合う詩魂が感じられる。それは決して悲愴というよりも、持ち前の“知”によって貫かれている。157句が遺句集『風のかたみ』としてまとめられ、2003年1月の告別式の際に配られた。ほかに「身の内に死はやはらかき冬の疣」「流れ星我より我の脱け落つる」など、テンションの高い句が多い。詩集『封を切ると』付録(2004)所収。(八木忠栄)


July 1472009

 黒猫は黒のかたまり麦の秋

                           坪内稔典

の秋とは、秋の麦のことではなく、ものの実る秋のように麦が黄金色になる夏の時期を呼ぶのだから、俳句の言葉はややこしい。麦の収穫は梅雨入り前に行わなければならないこともあり、関東地域では6月上旬あたりだが、北海道ではちょうど今頃が、地平線まで続く一面の麦畑が黄金色となって、軽やかな音を立てていることだろう。掲句の「黒のかたまり」とは、まさしく漆黒の猫そのものの形容であろう。猫の約束でもあるような、しなやかな肢体のなかでも、もっとも流麗な黒ずくめの猫に、麦の秋を取り合せることで、唯一の色彩である金色の瞳を思わせている。また、同句集には他にも〈ふきげんというかたまりの冬の犀〉〈カバというかたまりがおり十二月〉〈七月の水のかたまりだろうカバ〉などが登場する。かたまりとは、ものごとの集合体をあらわすと同時に、「欲望のかたまり」や「誠実のかたまり」など、性質の極端な状態にも使用される。かたまりこそ、何かであることの存在の証明なのだ。かたまり句の一群は「そして、お前は何のかたまりなのか」と、静かに問われているようにも思える。『水のかたまり』(2009)所収。(土肥あき子)


November 24112009

 地下鉄に息つぎありぬ冬銀河

                           小嶋洋子

下鉄というものは新しいものほど深いという。一番最近開通した近所を走る「副都心線雑司が谷駅」など、地上から約35mとあり、その深さをビルに換算すると…。想像するだに息苦しくなる。ここまで深いと、始発駅から終点まで地上に出ることなく黙々と地下を行き来するのみだが、古株の「丸ノ内線」になると時折地上駅がある。ことに東京ドームを横目にする後楽園駅のあたりは、どこか遊園地の続きめいた気持ちにさせる区間だ。おそらく電車も地下から地上へ視界が開ける瞬間に息つぎをして、また地下へと潜っているのではないか、という掲句の気分もよく分かる。東京の地下鉄の深さを比較するのにたいへん便利な東京地下鉄深度図を見つけた。まだ副都心線が網羅されていないのが惜しいが、前述の「雑司が谷駅」付近はほとんど「永田町駅」クラスの深海ならぬ深都市層を走っていることとなる。眺めているうちに、息つぎを知らない不憫な副都心線の一台一台をつまみあげて、冬の夜空を走らせてあげたい気持ちになってきた。〈跳箱の布の手ざはり冬旱〉〈地球史の先端にゐる寒さかな〉『泡の音色』(2009)所収。(土肥あき子)


December 01122009

 やくそくの数だけ落ちる冬の星

                           塩野谷仁

空が漆黒に深まり、月や星に輝きを増してくると、冬も本番である。先月のしし座流星群は、月明かりの影響がない最高の条件で見ることができたという。天体観測に特別な興味がなくても、今夜、どこかでたくさんの星が流れているのだろうと思うのは、なんとなく気持ちを波立たせる。それは、願いごとを三回繰り返せば叶うおまじないや、マッチ売りの少女の「星が落ちるたびに誰かが神さまに召される」という場面を思い出させ、流れ星に対して誰もがどこかで持っている感情に触れることで、掲句の「約束」が響いてくる。約束とは誰かと誰かの間の個人的な決めごとから、運命やさだめというめぐりあわせまでも含む言葉だ。平仮名で書かれた「やくそく」には、ゆっくり噛んで含める優しさと、反面どうにもあらがえないかたくなさを併せ持つ。それは、流れ星が持つ美しいだけではない予兆を引き連れ、心に染み込んでいく。鋭すぎる冬の星が、ことのほか切なく感じられる夜である。〈一人遊びの男あつまる冬の家〉〈着膨れて水の地球を脱けられず〉『全景』(2009)所収。(土肥あき子)


December 04122009

 テレビに映る無人飛行機父なき冬

                           寺山修司

画「網走番外地」は1965年が第一作。この映画が流行った当時世間では学生運動が真っ盛り。高倉健が悪の巣窟に殴りこむ場面では観客から拍手が沸いた。世をすねたやくざ者が義理と人情のしがらみから命を捨てて殴りこむ姿に全共闘の学生たちは自分たちの姿を重ねて共感し熱狂したのである。この映画はシリーズになり18作も撮られた。数年前、監督の石井輝男さんにお話をうかがう機会があった。監督自身の反権力の思いがこの作品に反映している点はありませんかという問に監督はキョトンとした顔で、まったくありません、映画を面白くしようと思っただけですという答が返ってきた。実は「豚と軍艦」の山内久さんや「復讐するは我にあり」の馬場當さんからも同じ質問に同じ答が返ってきた。文学、芸術、自己投影、自己主張というところから離れての娯楽性(エンターテインメント)。良いも悪いもこれを商業性というのか。寺山修司の俳句にも同じ匂いがする。ここにあるのは「演出」の見事さ。作者の「私」を完全に密閉した場所でそれが成功するのは俳句ジャンルでは珍しい。『寺山修司俳句全集』(1986)所収。(今井 聖)


December 14122009

 ライオンが検査でゐない冬日向

                           北大路翼

物園でのそのまんま句。しかも、この作者にしてはいやに古風な詠みぶりにも写る。しかし、よく考えてみると、やはりこの句はすこぶる現代的なのであった。一言で言えば、それは対象への関心の希薄性にある。ライオンが詠まれているけれど、べつに作者はライオンを見物する目的で、ここにいるのではないだろう。なんとなくぶらりと入った動物園なのだ。だから、たぶん「検査のため不在」という張り紙を見ても「ああ、そうか」と思っただけなのであり、それ以上の関心は示していない。そのことよりも、暖かい「冬日向」にいられることのほうが、よほどラッキーと思えている。いまや、世の中はイベントだらけだ。早い話がそもそも家庭でのテレビがイベントの倉庫であるし、一歩表に出れば商店街の大安売りなども同類である。つまり好むと好まざるとに関わらず、現代の生活にイベントはつきものとなってしまった。なかでも動物園などは、昔からイベントの常設会場だ。でも昔は珍しい動物に会えるのを楽しみにドキドキしながら入園したものだが、最近は三歳の幼児でも昔の子ほど興奮しているようには見られない。つまり、国民総イベント慣れの時代となったわけだ。このようにイベントに慣らされた感受性には、そこに何かが欠落していたとしても、すぐにテレビのチャンネルを切り替えるがごとく、欠落そのものを忘れてしまう。と言うか、あきらめてしまう。どんどんチャンネルを切り替えてゆく。少しく大げさに言えば、そうしなければ身が持たないからである。この句は作者が意識しているのかどうかは別にして、そうした極めて現代的な感受性が働いた結果の産物なのであり、ここに切り取られている時空間は、昔の俳人ではとても意識できないそれであることだけは間違いのないところだろう。ちっとも古風ではなく、実は新しいのである。『セレクション俳人・新撰21』(2009)所載。(清水哲男)


December 29122009

 熱燗や無頼の記憶うすれたる

                           大竹多可志

事納めもとともに、忘年会続きのハードな日々も落ち着き、29日は年末とはいえ、ぎりぎりの普通の日。押し詰まる今年と、迫り来る来年に挟まれた不思議な一日である。ぽかんと空いたひとりの夜に、熱燗の盃を手にすれば、湧きあがるように昔のことなども甦ってくるものだろう。作者は昭和23年生まれ。一般に「団塊の世代」と呼ばれるこの世代といえば「戦後復興経済とともに成長し、大学紛争で大暴れ」といったステレオタイプが強調されることもあり、掲句の「無頼の記憶」もまた、すごぶる武勇伝が潜んでいそうだが、その向こう見ずな時代を熱く語る頃を過ぎたのだという。しかし「うすれた」と「忘れた」とは大きく違う。忘れたくない気持ちが「うすれた」ことを悲しませているのだ。分別を身につけた現在のおのれにわずかに違和を感じつつ、まぎれもなく自分そのものであった無頼時代の無茶のあれこれが、他人事のように浮かんでは消えていく冬の夜である。〈冬の午後会話つまれば眼鏡拭く〉〈団塊の世代はいつも冬帽子〉『水母の骨』(2009)所収。(土肥あき子)


February 0222010

 人間を信じて冬を静かな象

                           小久保佳世子

という動物はどうしてこうも詩的なのだろうか。地上最大の身体を持ちながら、草食動物特有のやさしげな面差しのせいだろうか。もし、「人間にだまされたあげく、やたら疑い深くなり、最後には暴れる」という大型動物の寓話があるとしたら、主役には虎や熊といったところが採用され、どうしたって象には無理だろう。ついてこいと命令すれば、どんなときでもついてくる賢く、従順で温和というのが象に付けられたイメージだ。掲句は「冬を」で唐突に切れて、「静かな象」へと続く。この不意の静けさが、安らかとも穏やかとも違う感情を引き出している。ここには、あきらめに通じる覚悟や、悟ったような厳粛さはなく、ただひたすらそこにいる動物の姿がある。食べることをやめた象はわずか一日で死に至るのだそうだ。今日も象は人間を信じて黙々と食べ、不慣れな冬を過ごしている。〈太陽は血の色億年後の冬も〉〈また梅が咲いてざらめは綿菓子に〉『アングル』(2010)所収。(土肥あき子)


August 1082010

 桐の実や子とろ子とろと遊ぶこゑ

                           千田佳代

は天上に向かうような薄紫色の美しい花を付け、その実は巫女が持つ神楽鈴のようなかたちとなる。日盛りには緑陰を、雨が降れば雨宿りを提供してきた桐の樹下は、子どもたちの集合場所でもあっただろう。先日の新聞に今どきの小学生の4人に3人は「缶けり」をしたことがないという記事があった。20代以上の92%が「経験がある」という数字と比べると、あまりの低さに驚くが、周囲を見回してみればたしかに見かけない。理由は「時間がない」などを挙げるが、もはや放課後に集団で遊ぶという形態自体がまれなのだろう。掲句の「子とろ鬼」も、今はほとんど見られない遊びのひとつだろう。子とろ鬼は鬼ごっこの一種で、じゃんけんで鬼を決めたら、他の子どもは前の子の腰に手を回して一列になる。一番前にいる子が親となり、鬼が最後尾の子をつかまえようとするのを、親は両手を広げて阻止をする。親を先頭にした一列は、腰に回した手が離れないように逃げなければならず、足をもつれさせながら、蛇行を重ね逃げていく。太い幹を囲み、「子をとろ、子とろ」とはやしながら子を追う鬼の声が聞こえなくなってから、桐は幾度花を咲かせ、実を付けたことだろう。〈あれで狐か捕はれて襤褸のやう〉〈冬と思ふひとりや椀を拭くときに〉『樹下』(2010)所収。(土肥あき子)


November 07112010

 予備校の百の自転車冬に入る

                           長島八千代

は今年とうとう60歳になってしまいましたが、若いころに想像していた60歳とはずいぶん感じが違います。言うまでもなく時は切れ目なく流れてきており、しかし古いものから過去が遠ざかってゆくというわけではありません。未だに何十年も昔の、学生のころの夢をみてうなされることがあります。一生の体験のうち、記憶に残りそうなことは、ほとんど成人前にかたよっているように思われます。あるいは、若いころは生きることにまだ新鮮な精神を持っており、それゆえにちょっとしたことでも鮮明に覚えてしまうのかもしれません。本日は立冬。この歳になってみれば単に季節の変わり目に過ぎませんが、来年受験をひかえている学生にとっては、特別な意味を持っています。ああもう冬になってしまったか、まだ受験の準備は進んでいないのにと、ほとんどの受験生はあせりを感じるころです。予備校にとめられている自転車の数だけ、そんなあせりを運んできたものと思えば、なんだかサドルの群れに、小声でエールを送ってあげたくもなります。『角川俳句大歳時記 冬』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


November 21112010

 柔道着で歩む四五人神田に冬

                           草間時彦

とさら作者のことを調べなくても、句を読んでいれば、草間さんはサラリーマンをしていたのだろうなということが想像されます。俳人にしろ、詩人にしろ、作品からその人のことが思い浮かべられる場合と、そうでない場合があります。つまり、作品を人生に添わせている人と、引き離している人の2種類。もちろんどちらがいいとか悪いとかの問題ではなく、でも、僕は年をとってくるにつれ、前者の作品に心が動かされる場合が多くなってきたように感じます。本日の句は、まさに俳句でしか作品になりえない内容になっています。神田という地名から、やはり柔道着を着ているのは大学生なのかなと、感じます。ランニング練習のあとで、ほっとして校舎にもどる途中ででもあるのでしょうか。四五人分の汗のにおいと呼吸の白い色が、すぐそばに感じられる、そんな句になっています。『合本 俳句歳時記 第三版』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


November 26112010

 冬の鹿に赤き包を見せてゆく

                           長谷川かな女

覚の句。冬から連想されるモノクロのイメージに実際の色である赤を合わせた。つまり白と赤の対照である。食いしん坊の鹿の興味を引くような包みをみせるという「意味」ももちろん内容としてのテーマだが、それ以上に色調に対するセンスを感じさせる。70年以上も前の句なのに古さを感じさせないのは俳諧風流や花鳥諷詠的情緒といったツボに執心することなく目の前の「日常」を写し取ったからだ。そのときその瞬間の「現実」こそが普遍に到る入口である。『雨月』(1939)所収。(今井 聖)


December 02122010

 わが家の二階に上る冬の旅

                           高橋 龍

ばしば雨戸で閉ざされた二階を見かけることがある。夜になると一部屋に灯りがともるので誰かが暮らしていることはわかるが、家族が減り二階へ上がることもなくなっているのだろう。掲句はシューベルトの歌曲『冬の旅』が踏まえられているように思う。『冬の旅』は失意の青年がさすらう孤独な旅がテーマだが、その響きには灰色に塗り込められた暗いイメージが漂う。遠くへ行かなくとも我が家の二階に上るのに寒々とした旅を感じるのは、そこが日々の暮らしからは遠い場所になっているからではないか。小さい頃人気のない二階にあがるのは昼でも怖かったけれど、家族がいれば平気だった。そう思えば誰も住まない二階では障子や机も人の生気に触れられることなく冬枯れてしまうのかもしれない。『異論』(2010)所収。(三宅やよい)


December 15122010

 鮒釣れば生まれ故郷の寒さかな

                           佐々木安美

して楽しい釣りではなく、寒さのなかで一人じっと釣糸を垂れている図であろう。首尾よく鮒を釣りあげたことによって、なぜか故郷の寒さが忍ばれる。うん、納得できる。この場合、生まれ故郷で釣っているのではあるまい。安美の「生まれ故郷」は山形県。この寒さは故郷だけでなく、わが身わが心境の寒さでもあるのだと思われる。故郷とは、ある意味で寒いもの。鮒を釣りあげた喜びにまさる、身の引き締まるような一句ではないか。「釣りは鮒に始まって鮒に終わる」と言われる。新刊詩集『新しい浮子 古い浮子』(2010・栗売社)の冒頭の詩「十二月田」の第一行は「詩を書くのをやめてから/フナを釣り始めた」と始まり、「フナが/新しい友だちということではないのだが/フナを/釣らないではいられない」「無言で/フナを釣っている」といったフレーズがある。この詩のパート3は、掲句と「長竿の底より遠い冬の鮒」など俳句四句のみで構成されている。理由はわからないが、安美はしばらく詩を離れていて、これが二十年ぶりに刊行した詩集である。抑えられたトーンで、忘れがたい世界が展開されている。詩人が十年やそれ以上沈黙する例はある。(私も十年間、個人詩誌を出さなかったことがあった。)短詩型の場合は結社があるから、毎月必ず作品を出さなければならないから、出来は悪くても書きつづけるーーと岡井隆が最近の某誌で語っていた。そのあたりにも、詩と短詩型の相違があるかもしれない。(八木忠栄)


January 1612011

 夢に見れば死もなつかしや冬木風

                           富田木歩

木風はそのまま「ふゆきかぜ」と読みます。日本語らしい、よい言葉です。ところで、ここで懐かしがっているのは、だれの死なのだろうと思います。普通に考えれば親でしょうか。でも、私も亡くなった父親の夢を時折に見ることはありますが、たいていは若いころの、元気の良かった姿ばかりです。親父の死んだときの夢なんて、見たことはありません。それに、夢に見ているときというのは、つらいことは現実よりもさらにつらく感じるので、人の死の夢を見るなんて、想像するだけでも胸が苦しくなってきます。あんまりつらい夢を見ているときには、そのつらさに耐えられずに目が覚めてしまうことがあります。ああ夢でよかったと、布団の中で安堵したことがこれまで幾度もあります。でも、この句はそうではなく、もっと素直に、死んだ人たちに夢の中で会えて懐かしかったと、まっすぐに受け止めればよいのかもしれません。死も、一生という夢の中の、一部なのだから。『作句歳時記 冬』(1989・講談社)所載。(松下育男)


February 0222011

 憶い出にもたれて錆びる冬の斧

                           高岡 修

かなる「憶い出」なのだろうか。それは知る由もないけれど、句全体の表情から推察するに明るく楽しいという内容ではあるまい。その「憶い出」に、まがまがしくもひんやりとした重たい斧がドタリともたれたまま、使われることなく錆びつつある。それは作者の心のありようか、あるときの姿かもしれない。さらに、この「憶い出」は斧自身の憶い出でもあろう。錆びる斧も錆びるナイフも本来の用をなさない。「錆びた」ではなく、「錆びる」という進行形に留意したい。ここでは思うように時は刻まれていない。いや、意に反して「錆びる」という逆行した時のみが刻まれているのである。詩人でもある修は、句集のあとがきで「詩・短歌・俳句・小説という文学ジャンルにおいて俳句はもっとも新しい文学形式である」と断言している。そうかもしれない。いちばん古い(旧弊な)文学形式は小説ではあるまいか、と私は考えている。掲句とならんで「愛のあと野に立ちくらむ冬の虹」がある。斧と言えば、誰しも佐藤鬼房の「切株があり愚直の斧があり」を想起するだろう。修は加藤郁乎の「雨季来りなむ斧一振りの再会」を新興俳句以降の代表句五句の一つとしてあげている。掲句を含む最新句集『蝸牛領』と既刊三句集をあわせ、『高岡修句集』(2010)としてまとめられた。(八木忠栄)


March 2332011

 うらなりの乳房も躍る春の泥

                           榎本バソン了壱

もとの辞書によると、「うらなり」は「末生り/末成り」と書いて、「瓜などの蔓の末に実がなること。また、その実。小振りで味も落ちる」とある。「うらなり」は人で言えば顔色がすぐれず元気のない人、という意味合いもあるが、この句では「乳房」を形容していると思われる。「小振りで味も落ちる乳房」という解釈こそ、バソン了壱好みの解釈と言えそうである。春の泥は、雪が溶ける春先のぬかるみだから、いよいよ春を迎えて心がはずみ、気持ちがわくわくと躍動する時季である。豊かな乳房が躍るのは当然過ぎるけれど、「うらなりの乳房」だって躍動せずにはいられないうれしい時季であり、そこに着目したところに春到来の歓びが大きく伝わってくる。じつは春泥をよけながら、やむを得ず跳びはねているのかもしれない。近年は道路の舗装が進み、よほどの田舎道でないかぎりぬかるみに遭遇する機会は少なくなった。ところで、春泥に躍っているのは何も乳房(女性)だけではない。男性だって躍る。――「春泥に子等のちんぽこならびけり」(川端茅舎)、ほほえましい春泥の図である。バソン了壱には他に「地平線幾度書き直し冬の旅」「この狭き隙間に溢るる臓器学」などがある。『少女器』(2011)所収。(八木忠栄)


November 09112011

 そこより闇冬のはえふと止まる

                           寺山修司

節はずれ、冬のハエのあゆみはかったるそうでのろい。ハエがそこからはじまる闇を感じたから、あゆみを止めたわけではあるまい。明るい場所ならばうるさく飛びまわるハエも、暗闇を前にして本能的に身構えてあゆみをはたと止めたのかもしれない。修司の眼にはそんなふうに映ったのだろう。止まったのはハエだが、修司の心も闇とハエを見てなぜか一瞬ためらい、足を止めたような状態になっているのだろう。闇には、冬の何ものか厳しいものがぎっしり忍びこんで蠢きながら、侵入してくるものを待ち構えているのかもしれない。「そこより闇」という冬の闇の入口が、何やら不吉なものとして目の前にある。六・五・五の破調がアンバランスな効果を生み出している。飯田龍太は修司の俳句について「未完の俳人として生を了えたが、生得恵まれた詩情詩魂は稀有のものがあったと思う」と書いている。短歌とちがって、俳句のほうはやはり「未完」であったと私も思う。よく知られた冬の句に「かくれんぼ三つかぞえて冬となる」がある。青森の俳誌「暖鳥」(1951〜1955)に発表され、未刊句集『続・わが高校時代の犯罪』として、『寺山修司コレクション1』(1992)に収められた。(八木忠栄)


December 01122011

 冬を明るく弁当の蓋開けて

                           興梠 隆

弁でも家で作ってもらったお弁当でも、何が入っているんだろう、期待を持って蓋を開ける瞬間は楽しい。私事になるが、むかし家の事情で、おそまつな弁当しか持っていけない時期があり、友達の前で弁当の蓋をとるのが嫌だった。友人たちは母親の心づくしの彩り鮮やかなおかずに加え小さなタッパ―に食後のフル―ツまで持参しているのに、私のお弁当ときたら目刺だの煮しめた大根だの佃煮だの、やたら茶色っぽいものだったから。と、言ってもそんな弁当格差は人と比べるから出てくるわけで、地味なお弁当であってもお昼休みに「さぁ、食べよう」と、蓋を開ける心のはずみは失われることはない。掲句では弁当を開けるささやかな行為と喜びが「冬を明るく」と空間的広がりに結び付いてゆくのが素晴らしい。倒置の効果が十分に生かされた一句である。『背番号』(2011)所収。(三宅やよい)


February 2922012

 硯冷えて銭もなき冬の日暮れかな

                           林芙美子

のなかも心のうちも、冷えきっている冬の日暮れである。使われることのない机の上の硯までもが冷えきってしまっていて、救いようがないといった様子。硯の海が干上がって冷えているということは、仕事がなくて心も胃袋も干上がっていることを意味している。けれども、その状態を俳句に詠めたということは、陰々滅々としてどうにも救いようがないという状況とは、ちょっとニュアンスがちがう。いくぶんかの余裕が読みとれる。辻潤は芙美子の詩集『蒼馬を見たり』を「貧乏でもはつらつとしている」と高く評価したが、この句は「銭もなき」ことにくじけてはいない。この句には自注がある。芥川龍之介の作品を読んで、「こんなのがいいのかしらと、私も一つ冷たいぞっとするようなのを書いてみようと、つくって、当分うれしかった」というのである。「こんなのが……冷たいぞっとするような……うれしかった」という言葉に、したたかささえ感じられる。貧乏を詠んだ芙美子らしい句だけれど、どこかしら余裕があるように思われる。19歳のときに初めて俳句を作ったという。「桐の花窓にしぐれて二日酔」「鶯もきき飽きて食ふ麦の飯」などがある。『みんな俳句が好きだった』(2009)所載。(八木忠栄)


January 2112013

 ちちははもおとうとも亡しのつぺ汁

                           八木忠栄

ちははもおとうとも亡し……。八木忠栄に少し遅れて、私も同じ境遇になった。「のっぺ(い)汁」は、作者の故郷である新潟の家庭料理として有名だ。父母も弟も健在だったころには、よく家族みんなで食べたことを思い出している。思えば、そのころが家の盛りだったなアというわけである。正月や盆などの年中行事に食されることが多いそうだから、のっぺ汁はそのときどきの思い出を喚起してくれる料理でもあるだろう。この句を読んで、さて我が家の料理では何が該当するだろうかと考えてみた。が、残念なことに、何も思い当たらない。私の故郷である山口で有名なのは下関のフグ料理くらいで、我が家のような寒村暮らしには無縁であった。フグどころか、当時は海の魚を口にしたことはなかった。つまり私には、掲句のように食べ物から家族を思いだすよすがはないのである。寂しい話だが、仕方がない。それにしても弟に先に逝かれるのはこたえるな。作者に「弟勝彦を悼む、二句」があり、一句は次のようだ。「元天体少年おくる冬の岸」。合掌。『海のサイレン』(2013)所収。(清水哲男)


January 2312013

 冬凪や鉄塊として貨車憩ふ

                           木下夕爾

とした冬のある日、風がない穏やかな日になったりすることがある。それが冬凪。寒中の凪を「寒凪」と言い、北海道あたりの寒さ厳しいなかでの凪はとくに「凍凪」と呼ばれる。吹雪であろうが、風雨であろうが、機関車に引かれて貨車は走りつづける。しかし、冬凪で停車しているときは貨車としてではなく、黒々とした単なる鉄の塊となって、ホッとしているようにも見えたりする。今はじっくり憩っているのだ。どんな天候にもかかわらず走っているときは貨車そのものだけれども、停車して憩っているときは鉄の塊と化している。「鉄塊」としてとらえた観察は鋭いし、中七はこの句のポイントになっている。貨車の静と動が対比的に見えてくるようにも感じられる。「貨車」のままで憩っているわけではなく、鉄の塊と化してしばし憩っているというわけだ。憩っていても鉄塊であり、貨車は決して緩んでいるわけではないことを理解させてくれる。夕爾には、他に「汽笛の尾ながし片側町の冬」「冬濤とわかれ大きく汽車曲る」などがある。『菜の花集』(1994)所収。(八木忠栄)


December 19122013

 ふゆのまちふうせんしぼむやうに暮れ

                           岡 正実

京に来て何時まで経っても慣れないのはあまりに日暮れが早いことだ。3時ごろになるともう日ざしが衰え4時過ぎると早くも薄闇がせまってくる。仕事をしていて、ふっと窓の外を見るとすっかり暗くなっていることもたびたびである。秋の落日は「つるべ落とし」というけれど、冬の日の暮れ方はどう形容したものか。掲句では、風船の空気が抜けてだんだんとしぼんでゆく様子を冬の町が暮れてゆく様に例えている。平仮名の表記とくぐもったウ音の響きが冬の頼りない暮れ方を実感させる。もうすぐ冬至、一陽来復また日が長くなっていくのが待ち遠しい。『風に人に』(2013)所収。(三宅やよい)


December 10122014

 咳こんで胸をたたけば冬の音

                           辻 征夫

咳」と「冬」で季重なりだが、まあ、今はそんなことはご容赦ねがいましょう。咳こんだら、下五はやはり「冬の音」で受けたい。「春の音」や「夏の音」では断じてない。私はすぐ作者の姿をイメージしてしまうのだが、イメージしなくとも、咳こんでたたく胸は痩せた胸でありたい。肥えた胸をドンドンとたたいても、冬のさむざむとした音にはならないばかりか、妙に頼もしくも間抜けたものに感じられてしまう。では、いったい「冬の音」とはどんな音なのか、ムキになって問うてみてもはじまらない。鑑賞する人がてんでに「冬の音」を想像すればいいのだ。掲出句は征夫がまだ元気なころの作ではないかと思われる。コホンコホンと軽い咳ならともかく、風邪であれ気管支の病気であれ、それによって起こる止まらない咳は苦しいものであり、思わず胸をたたかずにはいられない。とても「しわぶき」などとシャレている場合ではない。征夫には他に「わが胸に灯(ともしび)いれよそぞろ寒」という句もある。川端茅舎の句には「咳き込めば我火の玉のごとくなり」がある。そんなこともあります。『貨物船句集』(2001)所収。(八木忠栄)


December 23122014

 どろどろのマグマの上のかたき冬

                           水岩 瞳

グマといえば、噴火で流れ出た溶岩を思うが、本来は地下の深部にあるもの。あらためて地球の内部構造の解説を見てみると、今から約46億年前に誕生して以来、地球はマグマの海に覆われ、そののちゆっくりと表面が固まったと説明されている。地球の直径は1万km以上で、人間が掘ったもっとも深い穴は10kmほどというのだから、地球の内部のほとんどを人間はまだ見ていないことになる。宇宙も神秘だが、地中も神秘に満ちている。地球の薄皮一枚の地表の上で、冬が来たと右往左往する人間がことさらが愛おしく思えるのである。〈この道の草に生まれて草の花〉〈円かなる月の単純愛すかな〉『薔薇模様』(2014)所収。(土肥あき子)


January 2312015

 冬夕焼鴉の開く嘴の間も

                           小久保佳世子

っ赤な夕焼けが真っ黒な鴉の嘴の間から見えたという。夕焼けと言えば夏場の季語だが冬の夕焼けも心細くなるほど感傷的に美しい。寒中の夕焼けはその短さゆえいっそう心に沁みてくる。鴉の成鳥は口の中も黒い。その開いた暗黒へ赤い夕陽が射している。ここにも一つの夕陽の美あり、人それぞれに小さな発見をし感心するものある。それがその人のアングルというものであろう。因みに鴉にはざっくり言って嘴の太いハシブトガラスと細ハシボソガラスが居るが、ここはハシブトカラスとみておこう。他に<涅槃図へ地下のA6出口より><アングルを変へても墓と菜の花と><人間を信じて冬を静かな象>などあり。『アングル』(2010)所収。(藤嶋 務)


November 21112015

 向き合うて顔忘らるる冬泉

                           飯田冬眞

々無事に生きていることが奇跡に近いような気もしてくる昨今だが、生きているからこその悲しみもある。人の記憶のメカニズムはまだまだはっきりしていない部分が多い上、個々の心の中に秘められたものは記憶も含め永遠に本人以外にはわからない。大切な人が目の前にいてじっと見つめ合っていても、その人の眼差しは自分に向けられていながら自分を認識してはくれない。でもそこにはぽつりぽつりと会話がかわされ穏やかな時間が続いているのだろう。好きだった人から先に記憶から消えるという説もあるが、愛情を注いだ存在だという本能的な感覚はきっと残る。冬の泉はしんとさびしいけれど、白い光を静かに抱きながらいつまでも涸れることなく水を湛えている。『時効』(2015)所収。(今井肖子)


November 23112015

 声出すは声休むこともう冬か

                           小笠原和男

日は二十四節気の「小雪」。「しょうせつ」と読む。そろそろ冬になるのか。作者は思わず声に出して「もう冬か」とつぶやいてしまったのだろう。そういうことはよくあるけれど、句の「声休むこと」という発想はユニークだ。私などには、とても出てこない。どうなのだろう。一般的に「声休む」とは、どんな状態を指しているのか。いろいろと考えてみて、それは人が黙っているときのごく日常的な様子をさすのではないかと思われた。つまり、人間の頭脳には日頃さまざまな思念がランダムに詰まっていて、発語するとはそれらを私たちは他者に通じるように整理してから行っていると解釈できる。ところが句のような情況で他者に告げる意思もなく勝手に飛び出してきた言葉、強いて音声化しないでもよい言葉を発してしまったときに、声は休んだままになっている。つまり句の「声出すこと」とは、思わぬ拍子に出した声で、人間の物言うことの不思議さに気づいたということのようだ。いやあ、難しい句もあったものである。「俳句」(2015年12月号)所載。(清水哲男)


November 24112015

 いつも冬にあり木星の子だくさん

                           矢島渚男

宙情報センターによると、木星は太陽系のなかで最も大きな惑星であり、直径は地球の約11倍という。昔は汚れた雪だるまなどと呼ばれていた筋模様も、今ではハッブル宇宙望遠鏡のよりクリアな画像によって、美しい大理石のような縞模様であることが確認された。掲句の「子だくさん」たる所以は、衛星を67個も持つことによるもの。地球の衛星が月のひとつきりであることを思うと、11倍の大きさとはいえ、木星が肝っ玉母さんのように見えてくる。12月にかけて、空には明るい星がまたたく。明けの明星の金星に続き、木星、そして少し暗めの赤を放っているのが火星。宇宙の神秘を早朝味わうのもまた一興。『冬青(そよご)集』(2015)所収。(土肥あき子)


February 1022016

 子も葱も容れて膨るる雪マント

                           高島 茂

どもを背負い、葱を買って、雪のなかを帰るお母さんのふくれたマント姿である。雪の降る寒い景色のはずだけれど、「子」「葱」「膨るる」で、むしろほのかにやさしい光景として感じられないだろうか。昔の雪国ではよく目にしたものである。近年のメディアによるうるさい大雪報道は、雪害を前面に強調するばかりで、ギスギスしていてかなわない。大雪を嘆く気持ちは理解できないではないが、現代人は雪に対しても暑さに対しても、かくも自分本位で傲慢になってしまったか――と嘆かわしい。加藤楸邨にこんな句がある、「粉雪ふるマントの子等のまはりかな」。こういう視点。新宿西口にある焼鳥屋「ぼるが」には、若いころよく通った。文学青年や物書きがよく集まっていた。当時、入口で焼鳥を焼いていた主人が高島茂。俳人であることはうすうす耳にしていたが、ただ「へえー」てなものであった。焼鳥は絶品だった。主人は今はもちろん代わったが、お店は健在である。私は近年足が遠のいてしまった。ネットを開くと、「昭和レトロな世界にタイムスリップしたかのよう」という書きこみがある。当時からそんな雰囲気が濃厚だった。茂には他に「飯どきは飯食ひにくる冬仏」がある。平井照敏編『新歳時記・冬』(1996)所収。(八木忠栄)


February 2822016

 山吹にしぶきたかぶる雪解滝

                           前田普羅

月末に、正津勉著『山水の飄客 前田普羅』(アーツアンドクラフツ)が上梓されました。大正初期に頭角を現してきた虚子門四天王に、村上鬼城、飯田蛇笏、原石鼎、そして、前田普羅がいます。しかし、他の三人が著名なのに比べて普羅の名は知られておらず、また、秀句が多いのにもかかわらず手に入りやすい句集がなく、その句業や生涯についても謎めいたところのある人です。この本は、俳壇において日陰者の境涯に追いやられてきた普羅の生涯に光を当て、また、年代順に取りあげられた句には普羅自身の自解も多くほどこされており、しばしば膝を打ちながら読みました。たとえば、句作に日が浅い29歳(大正1)の作に「面体をつつめど二月役者かな」があって、これなどは自解があってようやく腑に落ちます。「町を宗十郎頭巾をかぶつた男が通る。幾ら頭巾で面体を隠しても、隠せないのは体から滲み出る艶つぽさだ。役者が通る、役者が通る。見つけた人から人に町の人はささやく。暖かさ、艶やかさを押しかくした二月と、人に見られるのを嫌つて面体をつつんだ役者の中に、一脈の通ずるものを見た」と説明されて、ここの舞台は横浜ですが、江戸と文明開化がさほど遠くないご時世をも伝えてくれています。この小粋な中に屈折した句作は、渓谷をめぐり始めることによって「静かに静かに、心ゆくままに、降りかかる大自然に身を打ちつけて得た句があると云ふのみである」(『普羅句集』序・昭和5)と宣言して、山水に全身で入り込む飄客となっていきます。掲句はその中の一つ。「山吹/しぶき/たかぶる」の三つのbu音が、「雪解滝」のgeとdaに連なって、早春の滝のしぶきの冷たい飛沫を轟音の濁音で過剰に描出しつつも、山吹を定点に据えることによって画角がぶれていません。動には静がなければ落ちが着かないということでしょう。掲句を、肌と耳の嘱目ととりました。この本から、普羅は山吹に思い入れのある俳人であることも知り、その佳句は多く、「鷹と鳶闘ひ落ちぬ濃山吹」「山吹の黄葉ひらひら山眠る」「青々と山吹冬を越さんとす」がつづきます。(小笠原高志)




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