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November 02111996

 奉公にある子を思ふ寝酒かな

                           増田龍雨

い句とは、お世辞にも言い難い。しかし、子規や虚子の句の隣りにおいても、この句はきちんと立つはずである。そこが、俳句という器の大きさであり、マジカルなところでもある。多くの子供たちが、ごく当たり前のように働いていた時代。それは大昔から、ねじめ正一の『高円寺純情商店街』の頃までつづいてきた。奉公に出した子供を思う、寒い夜の親心の哀切。上手ではないからといって、作者を笑うわけにはいかないではないか。これが俳句であり、これぞ俳句なのだ。「事実の重さ」が、いまなお俳句という文芸の大黒柱なのである。昨今の俳界で、テレビを見て作句する姿勢が顰蹙をかっているのも、むべなるかな。なお、上掲の句は「俳句文芸」に連載中の西村和子「子育て春秋・第42回」(96年11月号)で紹介されていたもの。毎号、この連載は愛読している。(清水哲男)


November 24112004

 寝酒おき襖をかたくしめて去る

                           篠田悌二郎

語は「寝酒」で冬。元来は寒くて眠れない夜に、酒で身体を暖め、酔いの力を借りて眠ったことから冬の季語とした。が、いまでは季節を問わず、習慣としての寝酒が必要な人も多いだろう。冬の夜、いつものように妻が寝酒を用意してくれ、いつものように書斎(でしょうね)に置いていった。で、「襖をかたくしめて去る」というのだが、ここが実はいつもとは違うのである。好人物の読者であれば、隙間風が入らないようにいつもの夜よりも「かたく」しめたと受け取るかもしれない。でも、妻の行為として「去る」の措辞ははいかにも不自然だ。二人の間に何があったかは知らないけれど、句は一種の神経戦の様相を描いたようにうかがえる。いつもの妻のつとめとして、寝酒だけは用意する。しかし、それはあくまでも義務を果たすというだけのことで、言葉ひとつかけるわけでもなく、完全によそよそしい態度なのだ。よそよそしくも念入りに、無言のまま襖を「かたく」しめるという意地の悪さ(としか思えない)。それでなくとも寒い夜が、作者には心底冷え冷えと感じられたことだろう。たとえ神経戦の中味は、作者の非が原因であろうとも、こうした陰湿なふるまいに、たいていの男はまいってしまう。むろん私にも同種の覚えがあることなので、こう読んでしまったわけだ。たぶん、正解だと思いますよ。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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