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October 26101996

 鰯雲故郷の竈火いま燃ゆらん

                           金子兜太

火は「かまどび」と読ませる。望郷の歌ではあるが、作者はまだ若い。だから、そんなに深刻ぶった内容ではない。私が特別にこの句に関心を持つのは、若き日の兜太の発想のありどころだ。何の企みもなく、明るい大空の様子から故郷の暗い土間の竈の火の色に、自然に思いが動くという、天性の資質に詩人を感じる。兜太の作品のなかでは、あまり論じられたことがない句のひとつであろうが、私に言わせれば、この句を抜いた兜太論など信用できない。ま、そんなことはどうでもいいけれど、故郷の竈火もなくなってしまったいま、私などには望郷の歌であると同時に「亡郷」の歌としても読めるようになってきた。時は過ぎ行く。『少年』所収。(清水哲男)


November 11111996

 岩手けん岩手ちょうあざ鰯雲

                           山口 剛

葉遊びだが、「いわ」の音韻がよく利いていて、たまにはこういう句も面白い。ほっとする。いつか見た岩手の青空を思い出した。作者は岩手県宮古市在住。そしてもうひとつ思い出したのが、荒川洋治がどこかで紹介していた中学生の句。「群馬県異常乾燥注意報」というものだ。これまた、私は大いに気に入っている。五七五と短くたって、いろいろできるのである。同人誌「鰭ひれ」第4号(96年11月)所載。(清水哲男)


October 29101998

 丸善にノートを買つて鰯雲

                           依光陽子

五十回(今年度)角川俳句章受賞作「朗朗」五十句のうちの一句。作者は三十四歳、東京在住。技巧のかった句ばかり読んでいると、逆にこういう素直な作品が心にしみる。日本橋の丸善といえば洋書専門店のイメージが強いが、文房具なども売っている。そこで作者は気に入ったノートを求め、表に出たところで空を見上げた。秋晴れの空には鰯雲。気に入った買い物をした後は、心に充実した余裕とでもいうべき状態が生まれ、ビルの谷間からでも空を見上げたくなったりする。都会生活のそんな一齣を、初々しいまなざしでスケッチした佳句である。鰯雲の句では、なんといっても加藤楸邨の「鰯雲ひとに告ぐべきことならず」が名高い。空の明るさと心の暗さを対比させた名句であり、この句があるために、後発の俳人はなかなか鰯雲を心理劇的には詠めなくなっている。で、最近の鰯雲作品は掲句のように、心の明るさを鰯雲で強調する傾向のものが多いようだ。いわば「一周遅れの明るさ」である。有季定型句では、ままこういうことが生じる。その意味でも、後発の俳人はけっこう大変なのである。「俳句」(1998年11月号)所載。(清水哲男)


September 2192000

 返球の濡れてゐたりし鰯雲

                           今井 聖

野球。カーンと打たれて、球は転々外野手のはるか彼方の草叢へ。ようやく返ってきたボールは、濡れていた。早朝野球で朝露がついたとも読めるが、濡れたのは、昨夜の雨のせいだ。そうでないと、頭上の「鰯雲(いわしぐも)」が輝かない。この雨では、明日の野球は無理かな。天気予報も雨を告げていることだし、あきらめて寝てしまい、起きてみたら何ということか、快晴ではないか。この嬉しさは、経験の無い人にはわからないだろう。その昔、仲間とチームを作っていたときに、何度か体験した。雨の夜、何回も起き出しては雨の様子をうかがったものだ。ただし、夜に入っての土砂降りは、まず絶望的。翌日晴れても、グラウンドそのものが乾かないからだ。あくまでも、しとしと雨。「しとしと」故、それだけ期待も抱けるのである。したがって掲句は、単にワンプレイを詠んだのではなく、野球が今日こうしてこの場でできている嬉しさを詠んだものだ。作者は、よほどの野球好きだと拝察する。探してみると、野球の句は案外たくさん詠まれているが、その多くは勝ち負けの感情に関わったもので、句のようにプレイ中の心情に触れたものは少ない。わずかに子規のベースボール句や歌には見えるものの、粗っぽすぎるところが難点だ。野球観そのものに、今日とは違いがあったせいもあるけれど、公平に考えて、今井聖の句の方に軍配を上げざるを得ない。『谷間の家具』(2000)所収。(清水哲男)


October 23102000

 階段は二段飛ばしでいわし雲

                           津田このみ

気晴朗、気分爽快、好日だ。だだっと階段を、二段飛ばしで駆け上がる。句には、その勢いが出ていて気持ちがよい。女性の二段飛ばしを見たことはないが、やっぱりやる人はやっているのか(笑)。駅の階段だろう。駆け上がっていったホームからは、見事な「いわし雲」が望めた。若さに溢れた佳句である。私も若いころは、しょっちゅう二段飛ばしだった。山の子だったので、勾配には慣れていた。しかし、今はもういけません。目的の電車が入ってくるアナウンスが聞こえても、えっちらおっちら状態。ゆっくり上っても、階段が長いと息が切れる。それこそ二段飛ばしで駆け上がる若者たちに追い抜かれながら、「一台遅らすか」なんてつぶやいている。追い抜かれる瞬間には、若者がまぶしく写る。嫉妬ではなく、若さと元気が羨ましくてまぶしいのだ。ところで、サラリーマン時代の同僚が、二段飛ばしで駆け降りた。仙台駅で東京に帰るための特急に乗ろうとして、時間がなかったらしい。慌てて駆け降りているうちに転倒して頭の骨を折り、即死だった。三十歳になっていただろうか。まだ十分に若かった。そして、若い奥さんと赤ん坊が残された。駆け上がりはまだしも、駆け下りは危険だ。ご用心。掲句を見つけたときに、ふっと彼の人なつこい笑顔を思い出したりもした。『月ひとしずく』(1999)所収。(清水哲男)


October 04102001

 まだ膝の震へてをりぬ鰯雲

                           寺西規子

登りの句だろう。下山してきて、まだ「膝の震へ」が直らない状態で、登った山を振り返っている。その山の上には、さざ波のような「鰯雲(いわしぐも)」が広がっていた。物事をやり遂げた満足感が、見事にこの雲の様子に調和している。「膝」のチリチリした震えと、「鰯雲」のチリチリした形状と。「やったあっ」、まことに好日上天気なり。一読、読者の気も晴れ晴れとする。ただし、登山などの後で膝の筋肉が震えることを、よく「膝が笑う」と言うが、こちらの表現のほうがよかったかなとも思う。というのも、私は最初、作者が交通事故寸前の危機にあったか何かで、とても怖い体験をして、それで膝がまだ「震え」ているのかと読んでしまったからだ。この読みでも句は成立し、そんな人間の恐怖感とはまったく関係なしに、秋の雲がいつものように平和な感じで広がっているという対照の妙。怖い夢に跳ね起きて、「ああ夢だったのか」とホッとして、部屋を見回す感じに通じている。しかし掲載誌には、この句の後に「ザイル持ちし手の硬張りや水掬う」とあったので、登山の句だろうと思い直した次第だ。いずれにしても、「鰯雲」と「膝の震へ」を取り合わせた作者のセンスは、素敵だ。意外なようであって、意外ではないところが。俳誌「街」(2001年10-11月号)所載。(清水哲男)


August 2582002

 朝刊は秋田新報鰯雲

                           中岡毅雄

先での句。目覚めた部屋に配達されていた新聞を見ると、いわゆる中央紙ではなくて、地元の新聞だった。朝一番に旅情をもたらすのは、風景などではなくて、新聞だ。日ごろ読み慣れていない新聞に、ああ遠くまで来たのだという思いが強くわいてくる。さっとカーテンを引いて窓を開けると、思いがけないほどの上天気だった。鰯雲の浮く爽やかな秋晴れ。朝食までの時間、お茶でも飲みながらゆっくりと新聞に目を通す。窓からは、心地よい秋の風……。記事には知らない地名も多く、なじみのない店の広告もたくさん載っているけれど、これがまた旅行の楽しみなのだ。「朝刊は秋田新報」という表現は、たとえば落語の「サンマは目黒(に限る)」の言い方のように、「朝刊は秋田新報に限る」という気持ちに通じている。その土地では、その土地の新聞に限るのである。朝刊一紙の固有名詞で、旅の楽しさを巧みに言い止めた技ありの一句だ。なお、この「秋田新報」は、正式には「秋田魁(さきがけ)新報」と言う。明治期に創刊された伝統のある新聞だ。戦後の短い期間には「秋田新報」の題字で出ていたこともあるが、いまは「魁」の文字が入っている。でも、たぶん地元の人は「アキタサキガケシンポウ」などと長たらしくは呼ばずに、「あきたしんぽう」の愛称で親しんでいると思う。秋田のみなさま、如何でしょうか。『椰子・椰子会アンソロジー2001』所載。(清水哲男)

[追記]教えてくださる方があり、秋田では「さきがけ」と略しているそうです。作者が「さきがけ」の愛称を詠み込まなかったのは、自分が旅行者であることを明白にする意図があったのでしょうね。


September 2492003

 子は電柱の裏側通る鰯雲

                           宮坂静生

者は雑誌「俳句」(2003年10月号)で、「子どもの歩き方には秘密がある。わざわざ電柱の裏へ回って」とコメントしている。その通りではあるのだが、掲句を実感するには、あらためて子供の動きを観察するよりも、自分の子供のころに戻ってみるほうが手っ取り早い。そうすると、大人の目からすれば「秘密」や「わざわざ」と見える振る舞いも、子供にしてみれば「秘密」でもなければ「わざわざ」でもなかったことに思いが至るだろう。考えてみれば、電柱があるような全ての長い道は大人の必要から作られたものだ。子供には、ただ点から点へと移動する目的の道なんぞは必要がないのである。幼稚園や小学校に通う道だって、無ければ無いでいっこうに構わない。それで困るのは、子供ではなくて大人のほうなのだ。だから、子供は道を移動するための場としては捉えずに、ほとんど細長い遊び場として理解している。というか、それ以外の場としての理解が及ばない。したがって、子供自身の意識としては「わざわざ」電柱の裏に回るのではなく、しごく「当然」なこととして回るのである。そのほうが面白いからだ。愉快だからだ。つまり、道の理解については、子供のほうが大人よりもずっと空間的に捉えている。比べて大人は、ずっと二次元的にしか捉えていない。高村光太郎の詩「道程」に、「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」とある。むろん光太郎の道は観念的なそれなのだが、しかし、この道には大人としてのまぎれもない二次元的な道の解釈が前提にある。もはや子供ではなくなった人間の多くの不幸は、このような道の理解からもはじまってゆく。「道程」は、詩人の意に大いに反してではあろうが、そう読まれても仕方のない詩だと思う。掲句を読んだ途端に、ふっと思ったことを書いた。『青胡桃』所収。(清水哲男)


September 0192004

 二通目の手紙大切いわし雲

                           ふけとしこ

語は「いわし雲(鰯雲)」で秋。「鱗(うろこ)雲」、「鯖(さば)雲」とも。「秋天、鰯先よらんとする時、一片の白雲あり、その雲、段々として、波のごとし、是を鰯雲と云」(曲亭馬琴編『俳諧歳時記栞草』)。秋を代表する美しい雲だ。掲句の「二通目の手紙」には、ちょっと迷った。最初は同一人から連続して配達されてきた二通目だろうかとも考えたが、いわし雲との取り合わせがいまひとつ不明確。抽象的なレベルでの相関関係も探ってみたけれど、探るうちに、素直に戸外での情景と読むほうが面白いと思えてきた。良く晴れた秋空の下、作者は手紙を投函しに行く途中である。何通かの手紙を手にしていて、そのうちの「二通目」が大事なのである。言われてみれば、私なども大事な手紙は数通の間に挟んで出しに行く。直接、表にはさらさない。宛名書きを汚してはいけないとか、何かに引っかけて破いてはいけないとか、そうした配慮が自然に働くからだ。そして、手紙を書くとは何事かの決着をつけるためであり、それを投函することで書いた側の一応の決着が着くことになる。深刻な内容のものならばなおさらではあるが、軽い挨拶程度の手紙でも、決着という意味では同じことだろう。句の「いわし雲」はもとより実景だが、心理的には決着をつける心地よさが反映されていると読んだ。『伝言』(2003)所収。(清水哲男)


September 0492005

 鰯雲記憶は母にはじまれり

                           伊藤通明

語は「鰯雲(いわしぐも)」で秋。郷愁に誘われる雲だ。郷愁の行き着く先は幼少期だが、突き詰めていけば最初の記憶にまでさかのぼる。夢か現か、ぼんやりとしてはいるけれど、作者の記憶は「母」にはじまっていると言うのだ。どんな顔や姿で記憶された母の姿なのだろう。ミルクの匂いでもしてきそうな句だ。こういう句は、読者を誘惑する。「あなたの場合はどうですか」と、誘ってくる。私の最初の記憶は、何だったろうか。三島由紀夫は産湯のときから覚えていると書いたが、そんなにさかのぼれはしない。懸命に思い出してみるが、あれは何歳のときだったのか。たぶん、病気で寝かされていたのだろう。目覚めると夕暮れ近くで,表を通る豆腐屋のラッパの音が聞こえていた。部屋には誰もいなかったことや、その部屋が家の中のどの部屋だったかは思い出せる。そのときに「こうして寝ているのも気持ちがいいなあ」と思ったこともはっきりと……。四歳か五歳くらいだったのではあるまいか。ただし、記憶という奴はくせ者だから、これが最初の記憶だという保証はどこにもない。最初の記憶だとしても、豆腐屋のラッパがそのときのものだったのか、あるいは同じような状況が何度かあって、その都度の印象が複合されたものかもしれないのだからだ。つまり、記憶は太るものでもあれば、逆に痩せるものでもある。では、あなたの最初の記憶の場合は如何でしょうか。『西国』(1989)所収。(清水哲男)


October 03102005

 鰯雲「馬鹿」も畑の餉に居たり

                           飯田龍太

語は「鰯雲」で秋。よく晴れた昼時の「畑」で、一仕事を終えた家族が昼食をとっている。通りがかった作者が見るともなく見やると、その昼「餉」の輪のなかに「馬鹿」もいて、一人前に何か食べていた。「馬鹿」と括弧がつけられているのは、作者が一方的主観的に馬鹿と思っているのではなく、「馬鹿」と言えば近在で知らぬ者はない通称のようなものだからだろう。知恵おくれの人なのかもしれないが、大人なのか子供なのかも句からは判然としない。いずれにしても畑仕事などできない人で、家に残しておくのも心配だから連れてきているのだ。その人が「餉」のときだけはみんなと同じように一丁前に振る舞っているところに、作者は一種の哀しみを感じている。空にはきれいな「鰯雲」が筋を引き、地には収穫物が広がっていて、同じ天地の間に同じ人間として生まれながら、しかし人間の条件の違いとは何と非情なものなのか。掲句の哀感を押し進めていけば、こういう心持ちに行き着くはずだ。が、それをあえて深刻にしすぎないようにと、作者はスケッチ段階で句を止めている。だから逆に、それだけ読者の心の中で尾を引く句だとも言えるだろう。ところで「馬鹿」ではないけれど、かつて深沢七郎が田舎に引っ込んだときには、近所の人から「作文の先生」と呼ばれていた。昔の田舎では、あまり戸籍上の苗字で人を呼んだりはしなかったものだ。掲句の作者にも、きっと往時には通称があったに違いない。どんな呼ばれ方だったのか、ちょっと興味がある。『定本・百戸の谿』(1976)所収。(清水哲男)


September 1792006

 胸痛きまで鉄棒に凭り鰯雲

                           寺山修司

庭の隅で鉄棒を握ったのは、せいぜい中学生くらいまででしょうか。あの冷たい感触は、大人になっても忘れることはありません。胸の高さに水平にさしわたされたものに、腕を伸ばしながら、当時の私は何を考えていたのだろうと、感慨に耽りながら、掲句を読みました。「凭り」は「よれり」と読みます。句に詠われているのも、おそらく中学生でしょう。いちめんの鰯雲の空の下、胸が痛むほど鉄棒に身をもたせたあと、鉄棒をつかんで身を持ち上げ、中空に浮いた高所から、この世界を見渡しています。十五歳、放っておいても身体の奥から、生きる力がとめどもなく湧き出てきます。しかし、その勢いのそばで、かすかな切なさが、時折せりあがってきていることにも気づいています。校庭のずっと先、校舎の前に、ひとりの女生徒がたたずんでいます。胸の痛みはおそらく、鉄棒のせいではないのです。この思いにどのような意味があり、自分をどこへ運んでゆくのかと、甘美な疑問がくりかえし湧き上がってきます。まちがいなくこのことが、自分が生まれてきた理由のひとつであるのだと確信し、その確信を中空に放り出すように、さらに鰯雲のほうへ、身体を持ち上げます。『寺山修司全詩歌句』(1986・思潮社)所収。(松下育男)


October 17102007

 あ そうかそういうことか鰯雲

                           多田道太郎

太郎が、余白句会(1994年11月)に初めて四句投句したうちの一句である。翌年二月の余白句会に、道太郎ははるばる京都宇治から道を遠しとせずゲスト参加し、のちメンバーとなった。当時の俳号:人間ファックス(のち「道草」)。掲出句は句会で〈人〉を一つだけ得た。なぜか私も投じなかった。ご一同わかっちゃいなかった。その折、別の句「くしゃみしてではさようなら猫じゃらし」が〈天〉〈人〉を獲得した。私は今にして思えば、こちらの句より掲出句のほうに愛着があるし、奥行きがある。いきなりの「あ」にまず意表をつかれた。そして何が「そうか」なのか、第三者にはわからない。つづく「そういうことか」に到って、ますます理解に苦しむことになる。「そういうこと」って何? この京の都の粋人にすっかりはぐらかされたあげく、「鰯雲」ときた。この季語も「鯖雲」も同じだが、扱うのに容易なようでいてじつは厄介な季語である。うまくいけば決まるが、逆に決まりそうで決まらない季語である。道太郎は過不足なくぴたりと決めた。句意はいかようにも解釈可能に作られている。そこがしたたか。はぐらかされたような、あきらめきれない口惜しさ、拭いきれないあやしさ・・・・七十歳まで生きてくれば、京の都の粋人にもいろんなことがありましたでしょう。はっきりと何も言っていないのに、多くを語っているオトナの句。そんなことどもが秋空に広がる「鰯雲」に集約されている。「うふふふ すすき一本プレゼント」他の句をあげて、小沢信男が「この飄逸と余情。初心たちまち老獪と化するお手並み」(句集解説)と書く。老獪じつに老獪を解す! 信男の指摘は掲出句にもぴったしと見た。『多田道太郎句集』(2002)所収。(八木忠栄)


October 23102007

 鰯雲人を赦すに時かけて

                           九牛なみ

積雲は、空の高い位置にできる小さなかたまりがたくさん集まったように見える雲で、鰯(いわし)雲や鱗(うろこ)雲と呼ばれる。夏目漱石の小説『三四郎』のなかで、空に浮く半透明の雲を見上げて、三四郎の先輩野々宮が「こうやって下から見ると、ちっとも動いていない。しかしあれで地上に起こる颶風以上の速力で動いているんですよ」と語りかける場面がある。上京したての青年に起こるその後の葛藤を暗示しているような言葉である。印象深い鰯雲の句の多くは、その細々とした形態を心情に映したものが多い。加藤楸邨の〈鰯雲人に告ぐべきことならず〉や、安住敦の〈妻がゐて子がゐて孤独いわし雲〉も、胸におさめたわだかまりを鰯雲に投影している。掲句もまた、千々に乱れつつもいつとはなく癒えていく心のありようを、空に広がる雲に重ねている。鰯雲の一片一片には、ささくれだった心の原因となったさまざまな出来事が込められてはいるが、それらがゆっくりと一定方向に流れ、薄まりつつ触れ合う様子は、胸のうちそのものであろう。三四郎もまた、かき乱された心を持て余し、彼女が好きだった秋の雲を思い浮かべながら「迷羊(ストレイ・シープ)、迷羊(ストレイ・シープ)」とつぶやいて小説『三四郎』は終わるのだった。『ワタクシと私』(2007)所収。(土肥あき子)


August 2382008

 別れとは手を挙げること鰯雲

                           原田青児

年の八月七日早朝、立秋の空にほんのひとかたまりの鰯雲を見た。朝焼けの秋立つ色に染まる鰯雲をしばらく見ていたのが午前五時過ぎ、小一時間の朝の一仕事を終えて再び見た時には消えていた。それから半月後の旅先。一面の稲田を青い稜線が取り囲む広い空に、すじ雲が走り、夏雲が残り、鰯雲が広がっていた。帰京してこの句を読み、その見飽きることのなかった空が思い出される。別れ際というと、会釈する、手を振る、握手する、見つめ合う、抱き合う等々、その時の心情や状況によってさまざまだろう。そんな中、手を挙げる、から連想されるのは、高々と挙げた手を思いきり左右に振って、全身で別れを惜しむ人の、だんだん遠ざかる姿だ。その手の先に広がる鰯雲の大きな景が、別れを爽やかなものに昇華させているのか、より深い惜別の思いとなってしみるのか、読み手に託されているようでもある。『日はまた昇る』(1999)所収。(今井肖子)


October 12102008

 人間が名付け親なり鰯雲

                           酒井せつ子

際に空を仰いで見るというよりも、この季節になると、鰯雲の「写真」をたびたび見ることがあります。ネットであったり、新聞であったり、雑誌であったり、まるで「鰯雲」という新商品がいっせいに発売されたかのように、空の写真が頻繁に日常の中に入り込んできます。たしかにそのすがたは美しく、目を雑誌に落としている瞬間も、遠くの空を見渡しているような心持になるものです。今日の句は、鰯雲の見た目を詠っているのではなく、句を作る発想の足元を、一歩後ろへ下げています。すでにあるものとしてそのものを詠うのではなく、そのものの成り立ちや起源に目を向けることは、俳句の世界では必ずしも珍しいことではありません。それでもこの句が私の目を惹いたのは、「ああそうか、ひとつひとつの名前の奥には、名づけるという人の動作が隠されているのだ」ということを、改めて思い出させてくれたからなのです。さらに、「名付け親」の一語が、妙に物語めいた雰囲気を醸しだしていて、読み手を空想の世界に導いてくれるのです。ただ漫然と空を見上げているだけでも、わたしたちが「名付け親」なのだと思えば、鰯雲との距離も、かすかに近づいてくるはずです。「朝日俳壇」(「朝日新聞」2008年10月6日付)所載。(松下育男)


August 2182009

 鰯雲「馬鹿」も畑の餉に居たり

                           飯田龍太

でいう知的障害の人を地域がごく自然なあり方で支え共に生きていく。長い間、田舎で暮らした僕には思い当たる風景はいくつもある。畑の餉は昼餉のことだろう。老いも若きも赤ん坊も誰も彼もみんな大地の上で昼餉をとっている。ここにも飯田龍太という俳人のあるがままの肯定すなわち無名の肯定が生きている。馬鹿という言葉はすぐ喩えにとぶ。そうならぬように作者はかぎ括弧でくくった。言葉のイメージが広がって独り歩きせぬように意味を閉じ込めたのだ。『百戸の谿』(1954)所収。(今井 聖)


July 0772010

 極悪人の顔して金魚掬ひけり

                           柴田千晶

衣姿の娘っ子たちが何人かしゃがみこんで、夜店で金魚掬いを楽しんでいる――などという風情は、今やあまりにも古典的に属すると嘲笑されるかもしれない。しかし、そこへ金魚を掬おうとして割りこんで来た者(男でも女でもよかろう)がいる、とすれば「古典的」な金魚掬いの場面は、甘さから幾分は救われるというもの。「極悪人の顔して」というのだから、その者が極悪人そのものであるわけではない。たとえば、虫も殺さぬようなしとやかな女性であっても(いや、誰しも)、いざ一匹でも多くの金魚を掬いとらんとなれば、身構えも表情も真剣そのものとなるのは当然。それを「極悪人の顔」ととらえたところに、千晶らしい毒を含んだ鋭い視点が生まれた。極悪人に掬われるな! 逃げろ、金魚たち! まともな金魚掬いの情景を詠んだところで、誰も振り向いてはくれない。先般6月の余白句会で、兼題「極」を折り込んで投じられたこの一句、みごと“天”を獲得した。私は旅行中で当日欠席したが、もし出席していれば“天”を投じたに違いない。金魚はその美しさ、奇異な愛らしさなどが観賞され愛玩されるわけだが、いきなり敢えて「極悪人」をもちこんできたことで、句のテンションが上がった。千晶の「鰯雲の不思議な日暮排卵日」(句集『赤き毛皮』)から受けた衝撃は今も忘れがたい。怖い詩人である。第89回余白句会報告(2010)より。(八木忠栄)


September 0392010

 鰯雲レーニンの国なくなりぬ

                           原田 喬

ルリンの壁が崩れて米ソ二大国による世界支配が終りアメリカの一国世界制覇が始まった。勝負がついたのである。史実の歴史的評価は勝者の側に味方するから正義はアメリカに集中する。戦争映画やスパイもので残虐の限りを尽くしたあげく負けるのはいつもドイツと日本そしてソ連。作者は大正二年生まれ。敗戦後長くシベリアに抑留された。横浜高商時代にマルクスを学び左翼運動に関わる。抑留時代は数千人の俘虜の代表としてソ連側との折衝に当たった。共産主義国家に抑留されたマルキストというのはなんとも皮肉な印象がある。そういえば天安門前に毛沢東の温容の額が飾ってあるが、文化大革命も紅衛兵も歴史的評価は今は最悪。主導者である毛主席だけを称揚するのはまさに政策。逆に言えばそれらすべての評価は将来覆る可能性もあるということだ。『長流』(1999)所収。(今井 聖)


November 01112011

 萩刈りて風の行方の定まらず

                           柚口 満

や芒などなびきやすいものの姿を見つめていると、風の通り道がはっきりと分りますねという句は多く見かけるが、掲句は刈ってしまった萩のおかげで風が迷っているとでもいう様子なのだ。たまたま風があるから穂がなびくのではなく、なびかせるのが面白くて風は通っていたのだと思わせる。たしかに渦を巻いたり、突風を吹かせたり、風には単なる気象現象というにはあまりに意図的でいたずらな横顔を持っている。ちなみに「風のいたずら」でGoogle検索してみると、なんとまぁ愉快で迷惑ないたずらの数々。個人的な思い出だと、成人式の日が強風で、長い振袖が風をはらみどうにも収拾がつかず、まるで蜻蛉のお化けのようになり果てたことを覚えている。そんないたずら者の風が、今日もまた萩野でひと暴れしてやろうと駆けつけたところ、あったはずの萩がすっかり刈られてなくなっていたのだ。がらんとした野原で、途方に暮れている風はしばらく右往左往したのち、また次の手を考えてどこかへと駆け抜けていくのだろう。〈サーカスの檻の列行く鰯雲〉〈寒林といふ鳥籠のなかにゐる〉『淡海』(2011)所収。(土肥あき子)


September 0992013

 熊笹に濁流の跡いわし雲

                           矢島渚男

雲の代表格である「いわし雲」は、気象学的には絹積雲(けんせきうん)と言うそうだ。美しいネーミングである。句は、台風一過の情景だろうか。地上では風雨になぎ倒された熊笹の姿がいたいたしいが、目を上げると、真っ青な空にいわし雲がたなびくようにして浮かんでいる。私も山の子なので、この情景は何度も目にしている。目に沁みるような美しさだ。なんでない表現のようだが、作者は雲の表し方をよく心得ている。雲を描くときの基本は、まさにこうでなければならない。すなわち、この句の「いわし雲」のありようを裏づけているのは、泥にまみれた「熊笹」だ。この両者の存在があってはじめて「いわし雲」の美しさはリアリティを獲得できている。『采薇』(1973)所収。(清水哲男)


November 04112013

 図画といふ時間割あり鰯雲

                           赤坂恒子

の時代には「図画工作」という時間割だったような気がする。それはともかく、晴れた日の「図画」の時間は楽しみだった。たいていは好きな場所で好きなものを描けばよいという写生の時間だったから、暗い教室から解き放たれた私たちには、小さな遠足みたいな自由な雰囲気を満喫できるのだった。図画の得意な少数の子らを除いては、写生なんぞははなから眼中にはない。私なんぞは、まずゆっくりと坐るための場所を確保してから、おもむろに顔をあげて、視野の前方に入ってきたもののなかから描く対象物を決める始末であった。空は青空、いい天気。田畑での手伝いをしなくてもよい上天気が、いかに私たちを喜ばせたか。この句を読んで、そんな昔を懐かしく思い出した。クラスでいちばん絵の上手かった久保君は中卒で念願の大工になったが、三十代の若さで亡くなってしまった。よく見れば、鰯雲は寂しい雲だ。『トロンポ・ルイユ』(2013)所収。(清水哲男)


October 31102014

 連敗の果ての一勝小鳥来る

                           甲斐よしあき

になるとガン、カモを初め様々な小鳥が渡って来る。この頃の空は空気も透明感が深く感じられ、絶好のスポーツの季節到来となる。野球にテニスにサッカーにと人それぞれのスポーツに熱中する。普段そんなに真剣に取り組んでいなかったから試合では思うように勝てない。それでも身体が嬉しがるので負けても負けても次の試合を楽しみにする。そんなある日何かの拍子に試合に勝ってしまった。驚きと喜びに欣喜雀躍する傍らでジョウビタキが枝に歌いツグミが大地をちょんちょんと飛び跳ねている。他に<鬼やんまあと一周の鐘振られ><這ひ這ひの近づいて来る鰯雲><十六夜の小瓶の中のさくら貝>等がある。『抱卵』(2008)所収。(藤嶋 務)




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