G黷ェI句

October 14101996

 つぶら目の瞠れるごとき栗届く

                           嶋崎茂子

歳くらいまでの子供と二十歳前後の女性を見られない人生はつまらない。そんな趣旨のことを、山田風太郎が先週の朝日新聞に書いていた。老人の素朴にして率直な物言いである。それこそ素直に納得できた。山田さんほどの年令ではないけれど、とりわけて最近の私は、子供の「つぶらな」瞳にひかれる。だから、この句は心にしみる。粒ぞろいの栗の輝きをこのように歌うことは、技巧だけではできない。そこに、生きとし生けるものへの素直な愛情がなければ、発想すら不可能だろう。なんでもないような作品であるが、こういう句こそが俳句を豊かにしてくれるのだ。加藤郁乎大人の口癖に習っていうと「嶋崎さん、書いてくださってありがとう」となるのである。なお「瞠れる」は「みはれる」と読む。為念。作者は大串章門。『沙羅』所収。(清水哲男)


November 02111997

 栗みのる六分の侠気秘めながら

                           坂本木耳

を擬人化してその心根を想像すると、こういうことになる。「いまに見ていろ」と耐え忍びながら、時機が到来すれば「サルカニ合戦」のクリのように弱者を助け強者を倒す。この句はおそらく、与謝野鉄幹の「ひとを恋ふる歌」から来ている。「妻を娶らば才長けて……/友を選ばば書を読みて六分(りくぶ)の侠気四分の熱」と、旧制高校生の愛誦歌だった。侠気だの男気などはいまどき流行らないけれど、私が高校生(新制)だったころの大人たちには、まだそんな気風が色濃く残っていたことを覚えている。みなさん、七十の坂を越えてしまった。(清水哲男)


November 10111997

 絵所を栗焼く人に尋ねけり

                           夏目漱石

歳時記では「秋」に分類しておくが、ヨーロッパでの焼栗は冬の風物詩だ。街頭のあちこちで、おいしそうな匂いをさせながら売っている。ロンドン留学中の漱石がこの句を詠んだのも明治34年2月1日、真冬のことだった。絵所は美術館のこと。日記によれば、Dulwich Picture Gallery である。さりげない詠み方だが、実は漱石必死の場面なのだ。道を聞くならそこらのインテリ風の通行人に尋ねればよいものを、それができない。「もう英国は厭になり候」と虚子に宛てて葉書を書いたのもこの時期で、いわば英会話恐怖症におちいっていた。だから、食べる気もない焼栗を(それも沢山)買い、焼栗屋のおっさんの機嫌をとっておいてから、おずおずと絵所の場所を聞き出したという次第だろう。情報はタダじゃない。身をもって、漱石はそのことを実感したとも言えるが、振り返ってみれば昔から、横丁の煙草屋で道を尋ねるときも、日本人は喫いたくもない煙草を余計に買ったりしてきた。このときの漱石は、そんな日本的な流儀に思わずも縋りついたのだろう。可哀相な漱石。『漱石俳句集』所収。(清水哲男)


September 2591998

 栗食むや若く哀しき背を曲げて

                           石田波郷

者が栗を食べている。情景としてはそれだけだが、人が物を食べる姿には、たしかにどこか哀しいものがある。高等動物だなんて言っていても、しょせんは食わなければ何もはじまらないのだ。この若者の場合はなりふりかまわずの餓鬼的な食べ方ではないのだけれど、相手が栗だから一心不乱に厚皮を剥き渋皮を取って食べている……。そこが哀しい。若いくせに背を曲げて栗に集中している姿には、やはりどこかに餓鬼道に通じるそれがあるのだ。自画像かもしれない。ところで、先日のテレビで「栗の皮剥き」グッズなるものが紹介されていた。胡桃割り器の内側に、小さな鋸の刃がついていると思えばよい。これで栗をキュッとはさむと、鋸の刃が栗の腹に剥きやすい傷をつけるという仕掛けだ。値段は、たしか780円だった。誰が使うのかは知らないが、こんな道具で栗をどんどん「食(は)まれ」たヒには哀しくもなんともないわけで、さすがの波郷の感性をもってしてもお手上げだろう。句にはなるまい。(清水哲男)


September 3091998

 あくせくと起さば殻や栗のいが

                           小林一茶

拾い。落ちている毬(いが)をひっくり返してみたら、中が殻(からっぽ)だったという滑稽句。そんなに滑稽じゃないと思う読者もいるかもしれないが、毎秋の栗拾いが生活習慣に根付いていたころには、めったに作者のように実の入った毬を外す者はいなかったはずだ。あくせくと、心が急いでいるからこうなるわけで、一茶はそのことを自覚して自嘲気味に笑っているのである。自分の失敗を笑ってくださいと、読者に差し出している。当時の読者なら、みんな笑えただろう。昔から、だいたいこういうことは子供のほうが上手いことになっていて、私の農村時代もそうだった。子供は、この場合の一茶のように、あくせくしないで集中するからだ。「急がば回れ」の例えは知らないにしても、じっくりと舌舐りをするようにして獲物に対していく。我等洟垂れ小僧は、まず、からっぽの毬をひっくり返すような愚かなことはしなかった。いい加減にやっていては収穫量の少ないことが、長年とも形容できるほどの短期間での豊富な体験からわかっていたからだ。むろん一茶はそんなことは百も承知の男だったが、でも、失敗しちゃったのである。栗で、もう一句。「今の世や山の栗にも夜番小屋」と、「今の世」とはいつの世にもせちがらいものではある。(清水哲男)


October 18101998

 丹波栗母の小包かたむすび

                           杉本 寛

から小包が届いた。開けてみるまでもなく、この時季だから、中身は丹波の大栗と決まっている。しっかりとした「かたむすび」。この結び方で、同梱されているはずの便りを読まずとも、まずは母の健在が知れるのである。ガム・テープ全盛の現代では、こうしたコミュニケーションは失われてしまった。自分の靴の紐すら満足に結べない子供もいるそうで、紐結びの文化もいずれ姿を消してしまうのだろう。昔の強盗は家人を縄や紐で縛って逃走したものだが、いまではガム・テープ専門だ。下手に上手に(?)縛って逃げたりすると、かえってアシがつきやすい。最近では、あまり上手に縛り上げられていると、警察はとりあえずボーイ・スカウト関係者を洗い出したりする。いまだに未解決の「井の頭バラバラ事件」のときが、そうだった。紐がちゃんと結べるというのは、もはや特種技能に属するのだ。話は脱線したが、この句を書いた二年後に、作者は「年つまる母よりの荷の縄ゆるび」と詠んでいる。一本の細い縄もまた、かくのごとくに雄弁であった。『杉本寛集』(1989)所収。(清水哲男)


October 22101999

 落栗をよべ栗の木を今朝見たり

                           後藤夜半

くあることだが、この句の前でも立ち往生してしまった。さあ、わからない。三十分ほど考えたところで出かける時間となり、バスのなかで反芻し、仕事場に着いてからも頭に引っ掛かったままだった。原因は、最初に「よべ」を「呼べ」と思い込んでしまったところにある。どうも「呼べ」ではないらしいと思い直したのは、放送中だった(こういうことも、よくあります)。スタジオから出て来て、「よべ」「よべ」と二三度となえているうちに、パッと「昨夜」を「よべ」と読むことに気がついた(これまた、よくあること)。なあんだ。で、後は簡単。作者は、旅先にあるのだろう。昨夜、道ばたで落栗を見かけ、「おや、こんなところに、なぜ栗が」と思っていたのだが、今朝明るくなって見てみると、そこにはちゃんと栗の木があったよ。……というわけだ。考えてみれば、作者もこの句を得るのに夜から朝まで、半日という時間をかけている。読者の私も、理解するのにほぼ半日を費やした。おあいこだ。と言うのも、なんか変だけど。『彩色』(1968)所収。(清水哲男)


September 1792000

 栗飯に間に合はざりし栗一つ

                           矢島渚男

ヤリ。語意の二重性から、ぽろりと滑稽味が転がり出てくる句。普通に読めば、栗飯(くりめし)に炊き込むには、虫食いか何かで適当でない(間に合わない)栗が、ぽつねんと一つ寂しく残されてあるということだ。おそらく、作者の発想はそこから出ているのだろう。が、栗の役立たずを言うときに「間に合はざりし」と、故意に「時間に間に合わない」とも読める言葉を使用することで、栗の様子がかなり変化した。栗飯の支度に間に合うよう一所懸命に走ってきたのに、「遅かりし、ユラノスケ……」と言われてしまった(笑)。きっと「サルカニ合戦」の栗のように、口を「への字」一文字に曲げているのだ。そんな隠し味が仕込まれている。そうすると、眼前の「栗一つ」が、健気にも可愛いくも見え、いっそう哀れにも見えてくる。存在感が拡大されている。私はあまり擬人化が好きではないが、この程度の諧謔的な範囲での使用ならば許容できる。栗といえば、同じ作者に「栗に栗虫人間に人間虫」がある。こちらは、なかなかにキツい。身にコタえる。ああ、「クリゴハン」が食べたくなってきた、作るのは面倒だけど。吉祥寺「近鉄」の地下で売ってるのは、知ってるけど。商品の栗飯は美味いといえば美味いけど、まったく失敗の味がしないので、好きじゃない。一般的な「正義」の味でしかない。『梟のうた』(1995)所収。(清水哲男)


October 28102000

 栗むきぬ子亡く子遠く夫とふたり

                           及川 貞

ったの一行で、家族の歴史を語っている。一人の子は亡くなり、一人の子は家を出て遠くに暮らしている。残された夫(つま)との二人暮らしの日々は、何事もなく静かに過ぎてゆく。「栗をむく」といっても、昔とは違い、ほんの少しで足りる。子供らがいてにぎやかだった頃には、たくさんむいた。その様子を、幼い子供らは目を輝かせて見つめていたものだ。そういうことが思い出され、あの頃が家族の盛りの季節であり、自分にも華の季節だったと、一抹の哀感が胸をよぎるのである。生栗の皮は、なかなかにむきにくい。とくに渋皮をきれいにむくのは、栗の状態にもよるけれど、そう簡単ではない。包丁で無造作に分厚くむく人もいるけれど、実がそがれてしまうので、私などにはもったいなくて、とても真似できない。子供時代には、爪だけでていねいに渋皮をむいた。外皮には、歯を使った。いまでは、とてもできない芸当だった。チャレンジする気にもならないが、おそらくはもう歯など立たないだろう。加藤楸邨に「我を信ぜず生栗を歯でむきながら」の一句あり。そうして皮がむけたら、栗ご飯にする。米は、もちろん新米だ。美味いのなんのって、頬っぺたが落ちそう……。あの当時の「銀シャリ」は美味かった。「コシヒカリ」なんてなかった頃。いまは、私の田舎でも「コシヒカリ」ばっかりだと聞いた。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


September 1792001

 茹栗を食べて世帯の言葉かな

                           草間時彦

表を突かれた。言われてみれば、なるほど家族間だけで使う「世帯の言葉」というものがある。家族で「茹栗(ゆでぐり・うでぐり)」を食べながら、作者がどういう言葉を口にしたのかはわからない。が、その言葉は、およそ他人の前では使わない(使えない)ものだった。他人には意味不明に聞こえるような言葉か、あるいは聞かれて気恥ずかしくなるような言葉か。そのことにハッと気がついて、すうっと句になった。栗を茹でるのは、焼いたりするのとはちがって、極めて家庭的な行為なので、「世帯の言葉」に抵抗なくつながっていく。さて、この「世帯の言葉」に対するのが「世間の言葉」だろう。私たちはほとんど無意識のうちに使い分けているが、たまに両者がぶつかりあう現場に遭遇することがある。たとえば、客に招かれたときなどがそうだ。このときに招かれた客は「世間」であり、招いた側は「世帯」である。客は当然「世間の言葉」を使うわけだが、招いた側の家族は客には「世間」で応対し、家族同士では「世帯」で応接しなければならない。「世間」に出たことのない子供でもいると、使い分けが明らかにこんがらがってくる。客には意味不明の言葉を使わざるをえなくなって、照れ笑いを浮かべたりする。そんなシチュエーションではないのに、揚句の作者は「世帯の言葉」に気がついた。「世間」では幼児言葉とされているそれでも使ったのだろうか。『櫻山』(1974)所収。(清水哲男)


October 20102001

 日暮れは遊べ大きな栗の木の下で

                           水野 麗

畑ではなくて、自生している「栗の木」のある山地は、昼なお暗いのが常だろう。「夕暮れ」ともなれば、なおさらである。子供らよ、そんな「木の下」で「遊べ」と作者は言う。「いやだよ」と、子供の頃の私だったら尻込みしたはずだ。作者のイメージの先には、遊びに行った子は二度と人里には戻れなくなるという、民話的なシチュエーションがありそうだ。怖い句である。そして掲句は、ひところは大学生にまでも歌われた「大きな栗の木の下で」という歌を踏まえていることも明白だ。底抜けにというか、痴呆的なほどに明るい歌である。だから、余計に怖い句と写る。歌いながら、無邪気に夢中で時を忘れて遊んでいるうちに、みんなが神隠しにあったように忽然と消えてしまう。それを、作者は望んでいるのだから……。邪悪な心からというのではなく、山の持つ霊的な魔力を間接的に示唆しようとした句ではなかろうか。ちなみに歌の「大きな栗の木の下で」の出自については、川崎洋『大人のための教科書の歌』(1998・いそっぷ社)に、こうある。「終戦後、進駐軍の兵士たちが日本に持ってきたものを、聞き伝えて歌い出したという。NHKテレビで『うたのおじさん』友竹正則が遊びの動作をつけて放送したのが広まるきっかけに。教科書には昭和40年が最初の登場で、一年生の教科書を中心に平成7年まで掲載された」。残念ながら、アメリカの栗の木は見たことがない。『昭和俳句選集』(1977)所載。(清水哲男)


September 1792002

 点睛の瞳を穿つ栗の虫

                           照井 翠

事に充実した「栗」を、人間の「瞳」に見立てた句。なるほど、熟れてきて毬(いが)からのぞいている様子は、確かにつぶらな瞳に似ている。それも「点睛」というほどなのだから、ほれぼれするような美しい栗だ。が、そのつややかな瞳を、情け容赦もなしに「虫」が「穿つ(うがつ)」てしまっていた。栗にしてみれば、決して画竜点睛を欠いたのではなく、点睛は完璧に成ったのにもかかわらず、思わぬことから全身がむしばまれてしまったのだ。この無念さは、九仞の功を一簣に虧くどころではないだろう。他方、虫は虫でおのれの本能に従ったまでのこと。おのれの日常生活を、自然にまっとうしただけのことなのである。作者は栗に身贔屓しながらも、一方的に虫を責められない事情をあわせて書いている。無惨だとか理不尽だとかとは言わずに、すっと「栗の虫」と止めたところに、それを感じる。あまり勝手な拡大解釈は慎むべきかもしれないが、私に掲句は、人間界のありようの比喩とも受け取れた。お互いにおのれの本分を忠実にまっとうすることで、どちらかがもろくも壊れてしまう……。たとえば、現今のリストラ事情には、資本という名の「栗の虫」が出てくる。『水恋宮』(2001)所収。(清水哲男)


October 06102003

 栗ひらふひとの声ある草かくれ

                           室生犀星

室義弘『文人俳句の世界』を、ときどき拾い読みする。犀星の他には、久米三汀(正雄)や瀧井孝作、萩原朔太郎などの句が扱われている。掲句も、この本で知った。文人俳句という区分けにはさしたる意味を見出し難いが、強いて意味があるとすれば、彼らが趣味や余技として句を作ったというあたりか。だから、専門俳人とは違い楽に気ままに詠んでいる。しゃかりきになって句をテキストだけで自立させようなどとは、ちっとも思っていない。そこが良い。ほっとさせられる。しかし、これらも昔からのれっきとした俳句の詠み方なのだ。俳句には、こうした息抜きの効用もある。最近の俳句雑誌に載るような句は、この一面をおろそかにしているような気がしてならない。息苦しいかぎり。芭蕉などもよくそうしたように、彼ら文人もまた手紙にちょこっと書き添えたりした。そうした極めて個人的な挨拶句が多いのも、文人俳句の特長だろう。同書によると、この句は、軽井沢の葛巻義敏(芥川龍之介の甥)から栗を送られたときの礼状にある。「栗たくさん有難う。小さいのは軽井沢、大きいのはどこかの遠い山のものならんと思ひます」などとあって、この句が添えられている。そして書簡には、句のあとに「あぶないわ。」とひとこと。受けて、小室は次のように書く。「この添え書は絶妙。これによって、足もとの草に散らばった毬やそれを避けて拾う二、三人の人物の構図がほうふつしてくる。小説風に構成された女人抒情の一句と言ってよい」。つまり、掲句は「あぶないわ。」のひとことを含めて完結する句というわけだろう。五七五で無理やりにでも完結させようとする現代句は、もっとこの楽な姿勢に学んだほうがよろしい。後書きでも前書きでもくっつけたほうが効果が上がると思ったら、どんどんそうすべきではあるまいか。ただし、「○○にて」なんてのでは駄目だ。これくらいに、洒落てなければ。(清水哲男)


October 06102005

 山里の子も毬栗も笑はざる

                           大串 章

語は「毬栗(いがぐり)」で秋、「栗」に分類。かつて、作者もまた「山里の子」であった。往時の自分や友人たちの表情と重ねあわせての作句だと思う。最近の箱根で詠んだ句のようだが、たまたま道で出会った「子」の顔に笑いがないことに気がついて、ハッとしている。この場合、笑いとはいっても微笑み程度のそれだ。もっと言えば、社交辞令的な笑いである。都会に暮らしていると、大人はもとより、子供にもコミニュケーションをスムーズにするための微笑みは不可欠だろう。大人に声をかけられたりすると、たいていの子は笑みを含んだ表情をする。ところが、句の「子」はにこりともしなかった。山里ゆえに、不特定多数の人々とのコミニュケーションの必要がないせいである。可笑しくもないのに、知らない人にへらへらとはできない。べつにそういう信念があるわけでもないのだが、都会の子のようにちょっと笑みを含むことすらも、不本意な媚びに通じるようで嫌なのだ。そんな子の表情を久しぶりに見た作者は、子供だった頃の自分たちもそのようだったと思い出して、笑わない里の子に大いに共感を覚えたのだった。折しも頭上には爆ぜかけた毬栗が見られ、笑い顔に見えないこともないけれど、その子の表情を見た目には、もうそのようには写らない。マセてもいないしスレてもいないピュアな表情の魅力。ついでにこの子が毬栗頭であれば面白いのにとも思ったが、そこまでは、どうだったのかしらん……。俳誌「百鳥」(2005年10月号)所載。(清水哲男)


January 0812008

 人といふかたちに炭をつぎにけり

                           島 雅子

生時代に通っていた茶道の「炭手前」をおぼろげに覚えている。釜の湯を湧かすために熾す炭の姿にまで、美しい手順があるのに驚いたことや、「ギッチョ、ワリギッチョ」と、なにやら呪文めいた言葉とともに何種類かの炭を交互についだことなど、ひとつ思い出せば不思議なほど次々と所作がよみがえる。あの謎の言葉は一体なんだったのだろう。「炭の増田屋オンラインショップ」によると「丸毬打(まるぎっちょ)、割毬打(わりぎっちょ)。道具炭。割毬打は丸毬打を半分に割ったもの」と、あっさり判明した。音で覚えていたものに、文字で出会うと唐突によそよそしくなってしまうものだ。しかし、掲句で使われる「人」という文字は、なんともあたたかい。それは、手元につぐ炭の一本にもう一本を寄り添わせて置いてみたところ「まるで人という字」という発見が、まさに文字そのもののなりたちや、その心根にもつながる喜びと温みを伴いながら読み手に無理なく伝わるからだろう。芯にちらつく火種が、ほの明るく灯る魂のように見え、それを眺める作者の頬をやわらかく照らしている。上手に火が熾ることだけを祈りながら炭に向かい合っていた頃を思い出し、「ギッチョワリギッチョ」ともう一度つぶやいてみる。〈蛇打たれもつとも人に見られけり〉〈和紙に置く丹波の栗と栗の翳〉『土笛』(2007)所収。(土肥あき子)


October 06102012

 栗をむくいつしか星の中にをり

                           喜田進次

があまり好きではない。子供の頃延々と栗剥きの手伝いをさせられたからだけでなく、ほの甘さとぼそっとした食感がどうも苦手だ。中華街によく行くけれど、唯一いやなところは、おいしいよ、と言いながら天津甘栗を食べさせようとするところだ。それが今月、二つの句会で「栗」が兼題となり困ったなと思いつつ、とても惹かれた栗の句があったことを思い出した、それが掲出句である。句集拝読の折、秋になったら、と栞を挟んでおいたのだった。読み進めていて、いろいろな意味でふっと立ち止まった一句である。栗から星は、殻や甘皮が散らかって、むかれた栗もまるまるところがって、その中にいることからの発想かもしれない。栗をむくことと星の中にいること、突然時空を超えてしまったかのような飛び方なのだが、それを、いつしか、がつなぐともなく優しくつないで自然な広がりを与えている。これからも毎秋かならず思い出すであろう一句。『進次』(2012)所収。(今井肖子)


December 28122015

 老人はすぐ死ぬほっかり爆ぜる栗

                           坪内稔典

生観などというものは、それを考える者の年齢や体調によって変化する。夏くらいから調子をくずして、病院通いがつづいていた。ここに来て無罪放免とはいかないけれど、一応日常的には病院と縁が切れたのだけれど、最近は自分の死に方についてあれこれ考える機会が多くなってきた。そんななかで出会った一句だが、いまの私の死生観に近い心境が詠まれていると思った。ざっくばらんに言ってしまえば生きていることについて、「もうこの辺でいいや」という感覚が濃くなってきた。といって自暴自棄というのではなく、句にあるような一種なごやかな思いのうちに死んでいけそうという思いのなかで、人生上の納得が得られそうな気が得られそうだからだ。まこと人がおだやかに逝くとは、栗がほっかり爆ぜるように、やすらかな自爆を起こすからなのだろう。『ヤツとオレ』(2015)所収。(清水哲男)




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