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September 2591996

 洪水のあとに色なき茄子かな

                           夏目漱石

子は「なすび」と読ませる。台風による出水で洗われたあとの野菜畑の情景。こんな茄子は、嫁にでも食わせるしかあるまい。というのは、選句者の冗談。この句、実は自画像なのである。明治四十三年九月二十三日の日記に「病後対鏡」とあり、この句が記されている。大病したあとに鏡で顔を見てみたら、まるで色を失った茄子のようではないか。いかにも漱石らしい不機嫌なユーモア。『漱石句集』(岩波文庫)所収。(清水哲男)


June 2461999

 茄子もぐは楽しからずや余所の妻

                           星野立子

子の父親である虚子の解説がある。「郊外近い道を散歩しておる時分に、ふと見ると其処の畠に人妻らしい人が茄子をもいでおる。それを見た時の作者の感じをいったものである。あんな風に茄子をもいでおる。如何に楽しいことであろうか、一家の主婦として後圃(こうほ)の茄子をもぐということに、妻としての安心、誇り、というものがある、とそう感じたのである。そう叙した事に由ってその細君の茄子をもいで居るさまも想像される」(俳誌「玉藻」1954年一月号)。その通りであるが、その通りでしかない。どこか、物足りない。作者がわざわざ「余所(よそ)の妻」と強調した意味合いを、虚子が見過ごしているからだと思う。作者は、たまたま見かけた女性の姿に、同性として妻として鋭く反応したのである。おそらくは一生、彼女は俳句などという文芸にとらわれることなく生きていくに違いない。そういう人生も、またよきかな。私も彼女と同じように生きる道を選択することも、できないことではなかったのに……。という、ちょっとした心のゆらめき。戦争も末期の1944年の句とあらば、なおさらに運命の異なる「余所の妻」に注目しなければならないだろう。『笹目』(1950)所収。(清水哲男)


June 3061999

 還暦を過ぎし勤めや茄子汁

                           前川富士子

者本人が、還暦を過ぎているわけではないだろう。そんな気がする。自分を詠んだとすると、素材が付き過ぎていて面白くない。夫か、父親か。作者は、今日も、その人のための朝餉を用意している。この季節になると、いつも当たり前のように茄子汁(なすびじる)を出してきた。出された人は黙々と食べ、いつもの時刻に今朝もまた出勤していく。何十年も変わらぬ夏場の茄子汁であり朝の情景であるが、黙々と食べて出勤していく人は、いつしか還暦を過ぎてしまった。変わらない食卓と、変わらないようでいて変わっていく人のありよう……。そこにさりげない視点を当てた、鋭い句だ。還暦を過ぎた私の日常も、半分は勤め人みたいなものだから、句を読んでドキリとさせられるものがあった。若いつもりではいても、このように見ている人にかかっては、当方の内心など何も関係はないのだ。だから「ご苦労さま」でもないし「そろそろ退職を考えては……」でもない、実にクールなところを評価したい。ここでベタベタしてしまっては、いつもと変わらぬせっかくの「茄子汁」の味が落ちてしまう。(清水哲男)


August 1981999

 茄子焼いて牛の生れし祝酒

                           太田土男

の仔が無事に生まれた。出産に立ち合った男たちの顔に、安堵の表情が浮かぶ。農家にとっては一財産の誕生だから、当然、すぐに祝い酒となる。とりあえずは茄子をジュージューと焼き、冷や酒で乾杯する。野趣溢れる酒盛りだ。ところで、この句は角川版歳時記の季語分類によると「茄子の鴫焼(なすのしぎやき)」の項目に入っている。「茄子の鴫焼」は、茄子を二つに割って焼き、きつね色になったら練り味噌を塗り、さらに焼き上げる。どちらかといえば手間をかけた上品な料理だが、この場合、そんなに面倒な焼き方をするだろうか。と、かつての農家の子は首をかしげている。私の田舎では、単純に茄子を二つに割って焼き、醤油をざぶっとかけて食べていた。ただし、そうやって焼く茄子は、普通の茄子ではなくて、白茄子と呼んでいた大振りの茄子である。本当の色は白ではなくて、瓜に近い色だったが。作者に尋ねてみないとわからないことだけれど、句の勢いからして、どうも鴫焼ではなさそうな気がする。検索ページでは「茄子」からも「茄子の鴫焼」からも引けるようにしておく。(清水哲男)


September 0591999

 茄子の擦傷死ぬまでを気の急きどおし

                           池田澄子

性や気質とは、どうにもならないものなのだろうか。たいした理由もないのに気が急(せ)いて、茄子に擦り傷をつけてしまった。あるいは、気が急いているのに、茄子の擦り傷に目がとまり、またそこで苛立って、ますます気が急くことになった。そんな句意だろう。意外にも、総じて女性は短気だそうだから、女性の大半の読者には作者の気持ちがすぐに理解できるだろう。女性が勝負事に弱いのは短気のせいだと、プロの男性棋士に聞いたことがある。負けず劣らずに、私もまた本質的には気が短いので、この苛立ちはよくわかる。どうせ、死ぬまでこうなのだろう。と、自分に呆れ、自分を諦めている作者の顔が浮かんでくるようだ。漱石の『坊ちゃん』の冒頭部を引くまでもなく、とりわけて男の短気は無鉄砲にも通じ、子供のころからソンばかりしている。「短気は損気」と知っているので、余計に損を積み重ねる。くつろぎの場でも、いろいろと気短く神経が働いてしまい、どうしても呑気になれない不幸。私の飲酒癖も、元をたどればそのあたりに原因がある。酒が好きなのではない。酒でも飲まなければ、ゆったりした気分になれなかったのである。『空の庭』(1988)所収。(清水哲男)


May 2852001

 茄子転がし妻の筆算声に出づ

                           米沢吾亦紅

方、買い物から帰ってきた妻が、買ったものの総額を計算している。昔は、現代のスーパー・マーケットのようにレシートをくれるわけではないので、値段を忘れないうちに計算しておく必要があった。後で、家計簿に転記するためだ。その「忘れないうちに」の緊急性が「茄子転がし」によく言い止められている。買い物篭から茄子が転がり出るほどだから、買い物の量も普段より多かったにちがいない。それをパッパッと手早く正確に計算するには、「ええっと、137円足す258円は……」のように声を出しながら確認するほうがやりやすい。べつに妻が計算が苦手というのではなく、経験から自然に出てきた知恵なのである。なんでもない情景だが、夕刻の主婦の忙しさを描いて秀逸だ。同時に、日々事もなき平和な家庭の雰囲気も漂ってくる。男性版「台所俳句」というところ。最近はパソコン用の家計簿も出回っており、ずいぶんと記帳も楽になったはずだが、レシートがもらえるだけに、かえってその日のうちに記帳する人は減ったかもしれない。何日分かをまとめて打ち込もうと思っているうちに、レシートは溜まる一方。なんてことになっているのは、あながち我が家だけとも思えないのですが。『俳諧歳時記・夏』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


July 1172007

 はつきりしない人ね茄子投げるわよ

                           川上弘美

出句を読んだ人は「これが俳句か!」と言い捨てる人と、「おもしろい!」とニッコリする人の両方に、おそらく極端に分かれると思われる。四年前に初めてこの小説家の句に出会ったときの私の反応は、後者であった。それ以来ずっと、この句は私の頭のすみっこにトグロを巻いたまま棲んでいる。いずれにせよ「はつきりしない人」は、男女を問わずいつの世にもいるのだ。私たちの周囲だけでなく、企業や団体・・・・いや、政治の場でも「はつきりしない/させない」人や事、あるいは「玉虫色のもろもろ」はあふれかえっている。それらには鉄塊か岩石でも投げつけなくてはなるまい。この句で投げられるのは、あの柔らかくて愛しい弾力をもった茄子だから、むしろ愛敬が感じられる。ジャガイモやトマトとは違う。ヒステリックな表情から一転して、茄子がユーモラスな味わいを醸し出している。口調はきついが、カラリとしていて陰険ではない。この人は「投げるわよ」と恐い顔をして威嚇しただけで、実際には投げなかったかもしれないし、投げつけたとしても、すぐにニタリとしてベロでも出したかもしれない。場所は茄子畑でもいいし、台所でもよかろう。「ひっぱたくわよ」ではなく、すぐ手近にあった茄子(硬球ではなく軟球のような野菜)を衝動的に投げつけようとしたところに、奥床しさが表われている。1995年から2003年までに書かれた俳句のなかから、「百句ほど」として自選されたうちの1995年の一句。同年の句に「泣いてると鼬の王が来るからね」がある。これまた愉快な口語俳句。「文藝」(2003年秋号)所載。(八木忠栄)


November 24112010

 たくさんの犬埋めて山眠るなり

                           川上弘美

季折々の山を表現する季語として、春=山笑ふ、夏=山滴る、秋=山粧ふ、そして冬は「山眠る」がある。「季語はおみごと!」と言うしかない。冬になって雪が降ると♪犬はよろこび庭かけまわる……と歌われてきたけれど、犬だって寒さは苦手である。(冬には近年、暖かそうなコートを着て散歩している犬が目立つ。)ところで、「たくさんの犬埋めて」ってどういうことなのか? 犬の集団冬ごもり? 犬の集団自決? 犬の墓地? 悪辣非情な野犬狩り? 犬好きな人が熱にうなされて見た夢? で、埋めたのは何者? ーーまあまあ、ケチな妄想はやめよう。句集を読みながら、私はこの句の前でしばし足を止め、ほくそ笑んでしまった。だから俳句/文学はおもしろい。たくさんの犬を埋めるなんて、蛇を踏む以上に愉快でゾクゾクするではないか。しかも、山は笑っているわけでも、粧っているわけでもなく、何も知らぬげに静かに眠って春を待っているのだ。あれほど元気に走りまわり、うるさく吠えていた犬たちもたわいなく眠りこんでいるらしい。だからと言って、殺伐として陰惨という句ではなく、むしろ明るくユーモラスでさえある。句集全体が明るく屈託ない。そして犬たちは機嫌よく眠っているようだ。弘美さんは犬好きなのだろう。この待望の第一句集十五章のうち、三つの章を除いた各章の扉絵(福島金一郎)に犬が描かれているくらいだもの。犬を詠んだ句も目立つけれど、「はるうれひ乳房はすこしお湯に浮く」なんて、ふわりとしていて好きな句だなあ。よく知られた傑作「はつきりしない人ね茄子投げるわよ」も引いておこう。句集『機嫌のいい犬』(2010)所収。(八木忠栄)


June 2762015

 茄子漬の色移りたる卵焼

                           藤井あかり

供の頃から茄子の漬物が好きだった。糠漬けの茄子は、祖父母、父母、妹との六人家族時代、祖母と二人だけの好物で、よく台所の片隅でこそこそ食べた。その頃紫陽花の花を見て、茄子の漬物みたいな色だよね、と母に言って、あなたは俳句には向いていないわね、と言われたことも思い出す。あの美しい茄子色も、卵焼きに移ってしまうとやや残念ではあるが、黄色い卵焼きを染めてしまった茄子漬の紫がどれだけ鮮やかか、ということがよくわかる。そして、お弁当箱を開いた時の、あ、というこんな瞬間も俳句にしてしまう作者は今まさに、眼中のもの皆俳句、なのだろう。〈足元の草暮れてゆく端居かな〉〈万緑やきらりと窓の閉まりたる〉〈遥かなるところに我や蝉時雨〉。『封緘』(2015)所収。(今井肖子)


October 05102015

 洪水のあとに色なき茄子かな

                           夏目漱石

年は自然災害が多い。それも考えも及ばない大きな被害をもたらしてくる。直接に被害を受けない地域で暮している私などは、災害のニュースに接するたびに、痛ましいとは思うけれども、他方で「ああ、またか」のうんざり感も持ってしまう。漱石の時代にどの程度の洪水があったのかは知らないが、私の農家体験から言うと、洪水の後の名状し難い落胆の心がよく表現されている。せっかく育てた茄子の哀れな姿。実はこの句はそうした情況スケッチではなくて、大病のあとの自分自身の比喩的な自画像だと言う。現代の文人であれば、このあたりをどう詠むだろうか。『漱石俳句集』(1990・岩波文庫)所収。(清水哲男)




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