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September 1591996

 秋簾日のある草に水捨てる

                           北野平八

事を書かせたら、北野平八の右に出る俳人はいない。いつしか、私はそんな確信すら持ちはじめている。俳壇では無名に近いらしいが、おエライさんの目は、どこについてんのかね。縁側の簾(すだれ)の脇から、たとえばコップ半分の水を捨てようというとき、無造作に捨ててもよいのだが、そこはそれ、日のあたっている草にかけてやるのが人間の情。しかも、季は夏ではなくて秋である。うめえもんだなあ。憎らしくなる。没後に刊行された『北野平八句集』(富士見書房・昭和62年)所収。(清水哲男)


August 1582000

 秋蝉も泣き蓑虫も泣くのみか

                           高浜虚子

句時点は、敗戦の日から一週間を経た八月二十二日。このころ虚子は小諸に疎開しており、前書に「在小諸。詔勅を拝し奉りて、朝日新聞の求めに応じて」とある。掲句につづくのは、次の二句である。「敵といふもの今は無し秋の月」「黎明を思ひ軒端の秋簾見る」。この二句は凡庸だが、掲句には凄みを感じる。虚子としては、おそらくは生まれてはじめて、正面から社会と対峙する句を求められた。この「国難」に際して、はたして「花鳥諷詠」はよく耐えられるのか。まっすぐに突きつけられた難題に、虚子は泣かない(鳴かない)「蓑虫(みのむし)」をも泣かせることで、まっすぐに答えてみせた。「蓑虫」とは、もちろん物言わぬ一庶民としての自分の比喩でもある。「秋蝉」との季重なりは承知の上で、みずからの心に怒濤のように迫り来た驚愕と困惑と悲しみとを、まさかの敗戦など露ほども疑わなかった多くの人々と共有したかった。青天の霹靂的事態には、人は自然のなかで慟哭するしかないのだと……。無力なのだと……。「蓑虫」や「秋蝉」に逃げ込むのはずるいよと、若き日の私は感じていた。しかし、虚子俳句の到達点がはからずも示された一句なのだと、いまの私は考えている。みずからの方法を確立した表現者は、死ぬまでそれを手ばなすことはできないのだ。掲句の凄みは、そのことも含んでいる。『六百句』(1946)所収。(清水哲男)

ちょっと一言・国文的常識のうちでは、蓑虫はちゃんと鳴く(泣く)。『枕草子』に「秋風吹けば父恋しと鳴く」と出てくるからだ(長くなるので、なぜ鳴くかは省略。原典参照)。この話から「蓑虫」は秋の季語になったと言ってよい。もちろん、虚子は百も承知であった。


August 2182003

 退院をして来てをられ秋簾

                           深見けん二

語は「秋簾(あきすだれ)」。涼しくなってくると、簾はしまいこまれる。が、どうかすると、しまい忘れて吊りっぱなしになっていたりする。汚れてみすぼらしい感じを受ける。だから、逆に人目につきやすいとも言え、通りがかりにそんな簾があると、見るともなく、つい目をやってしまう。作者も同様で、通りがかりに近所の家の窓の簾に目をやると、簾越しに人の影が認められた。ご近所とはいっても、平素はそんなに付き合いの無い家だ。親しければ、当然入退院の報せは届けられるからである。つまり、ぼんやりと家族構成(一人暮らしかもしれない)くらいは知っている程度で、ご主人の入院も人づてに聞いていたのだろう。むろん、病状など詳しいことは何も知らない。そう言えば、このところその人の姿も見かけないし、簾を吊った部屋も閉じられていることが多かったような……。そんなわけで、何となく気になっていたところ、いま認めた人の影はまぎれもなくその人のものだった。ああ、早々に退院して来られたのだな。そう思ったら、それこそ何となく気持ちが明るくなったというのである。吊ったままの簾も、この様子だと今日にでもしまわれることだろう。と、ただそれだけのことを詠んでいるのだが、こういう句には文句無しに唸らされてしまう。詠まれているのは、日常的な些事には違いない。だが、その些事をこのようにさりげなく詠むには、虚子直門の作者には失礼な言い方になるけれど、相当な年月をかけた修練が必要だ。たとえば修練を積んだ剣士かどうかがさりげない立ち姿でわかるように、掲句もまた、さりげなくも腰がぴしりと決まっているのがわかる。『深見けん二句集』(1993)所収。(清水哲男)


October 05102014

 薪能観てきて籠る秋簾

                           石原八束

台を観て、人生が変わることが稀にあります。それは、一時的な変化であったとしても、記憶は強く残ります。作者のように、観劇の感動を句に残しているならなおさらでしょう。薪能では、観る側の角度によって舞台がゆらいでみえることがあります。炎の熱を通すと役者はかげろうの中で舞っているようにみえる瞬間があります。謡が轟き、鼓は夜空へと響き渡り、作者その余韻を抱えたまま帰途に着きました。家人への挨拶もそぞろです。夢幻能の中に入り込み、その夢から醒めないために、自身を簾の内という異界に籠もらせます。それは、舞台を反芻しながら、繭が糸をつむいでいくような時間を過ごすことでしょう。観劇した感動を発散せず、身の内へと籠めていく能動性。秋簾の中に、上手の見者の姿を観ます。『白夜の旅人』(1984)所収。(小笠原高志)




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