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September 1391996

 秋は女寺から行方不明らし

                           永田耕衣

は女で、寺から行方不明になったのか。または、秋は女寺から行方不明になったのか。何とも不可解な人を食ったようないいまわしは、この作者独特の世界だ。作者は昨年(1995)の神戸大地震で罹災して話題となった俳壇の最長老。(井川博年)


November 05111997

 寝ておれば家のなかまで秋の道

                           酒井弘司

つかれずにいると、たまさか猛烈な寂しさに襲われることがある。理由など別にないのであるが、心の芯までが冷えてくるような孤独感にさいなまれる。これで聞こえてくるものが、山犬や狼の遠吠えであったりしたら、もうたまらない。作者は、いわゆる「都会」に住んでいる人ではないから、これに似た寂寥感を覚えているのだろう。それを描写して「家のなかまで秋の道」としたところが凄いと思う。人間のこしゃくな智恵の産物である「家」のなかにも、古くから誰とも知らぬ人々が自然に踏みわけてきた道は、それこそ自然に通じていて当然なのだ。私たちはみな、路傍ならぬ道の真ん中で寝ているようなものなのだ。しかも物みな枯れる「秋の道」にである。怖いなア。不眠症の人は、この句を知らないほうがいいでしょうね。あっ、でも、もう読んじゃったか……。では、少なくとも今夜までに早く忘れる努力をしてくださいますように。『青信濃』(1993)所収。(清水哲男)


October 04101998

 誰もゐない山の奥にて狂ふ秋

                           沼尻巳津子

節そのものを人間になぞらえる手法は、詩歌では珍しいことではない。春夏秋冬、いずれの季節にも人間と同じような姿や性格を与えることができる。また、その逆も可能だ。そんななかでこの句は、常識的な秋のイメージをこわしてみせており、こわすことによって、秋という季節を感覚的により深めようとしている。さわやかな秋。その秋が「誰もゐない山の奥」で静かに狂いはじめていると想像することは、頭脳明晰であるがゆえに狂気を内在させている感じの人間を想起させたりする。なべて明晰なるものは狂気を内包する。……とまでは言い切っていないのかもしれないが、不気味な印象が残る句だ。この「秋」を他の季節に置き換えて考えてみたが、やはり「秋」とするのがもっともコワい。逆にそれだけ私たちの「秋」の印象は単純にパターン化されており、表情に乏しいということになるのだろう。『華彌撒』(1983)所収。(清水哲男)


August 2381999

 万屋に秋は来にけり棒束子

                           川崎展宏

然の様相の変化に移りゆく季節を感じるように、人工的な商店のしつらいからも、私たちはそれを感じる。洋品店のウィンドウなどが典型だろうが、昨今の反応は素早すぎて味気ない。万屋(よろずや)は生活雑貨全般を商う店で、かつてはどんな小さな村にも一軒はあった。洋品店とは逆に地味な動きしか見せないけれど、新しい季節のための商品が、やはり店先など目立つところに並べられる。この場合は、束子に長い柄をつけた棒束子(ぼうたわし)だ。四角四面に言うと季節商品ではないが、直接冷たい水に触れることなく掃除ができるという意味では、秋から冬にかけての需要が多いのだろう。店の入り口に立て掛けてある何本かの棒束子。昨日通りかかったときには、なかったはずだ。暑い暑いと言っているうちに、もう秋なのである。客がいないかぎり、万屋に店番はいない。そこで、表から大きな声で挨拶してから店に入る。万屋以外の店に入るのにも、必ず挨拶してから入った。現代では、無言のままにぬうっと入店する。時代も移ろいつつ進んでゆく。『葛の葉』(1973)所収。(清水哲男)


September 0291999

 少年一人秋浜に空気銃打込む

                           金子兜太

の浜。誰もいなくなった浜辺。少年がひとり、空気銃を撃っている。何をねらうでもなく、プシュップシュッと、ただ砂浜に「打込んで」いる。ターゲットがないのだから、手ごたえもない。その空しい気持ちに、作者は共感を覚えている。無聊(ぶりょう)をかこつのは、何も大人の特権ではない。少女についてはいざ知らず、少年の無聊はむしろ大人のそれよりも深刻かもしれない。退屈のどん底にあるとき、彼はそこから脱出する術や手がかりを知らない。やみくもに苛立って、ときにこうした奇矯な行為に及んだりする。こんなことをしても、救われないこともわかっている。わかっているのに、止めることができないのだ。プシュップシュッと、いつまでつづけるのか。そうやって大人になっていくのだと、作者は自身の過去を振り返ってもいる。空気銃独特の空しいような発射音が、寂しい秋浜の情景に似合っている。まだ子供たちが、自由に空気銃を遊び道具にしていた頃の句である。中学時代、叔父に借りた空気銃で、私は野良猫を撃っていた。遠くから撃つと、当たっても猫どもは「ふーん」というような顔をしていた。『金子兜太句集』(1961)所収。(清水哲男)


October 12101999

 赤き帆とゆく秋風の袂かな

                           原 裕

書に「土浦二句」とある。もう一句は「雁渡るひかり帆綱は鋼綱」。いずれも秋の湖辺(霞ヶ浦)の爽やかさを詠んでいて、心地よい。「赤き帆」は、彼方をゆくヨットのそれだろう。秋風を受けた帆のふくらみと袂(たもと)のふくらみとを掛けて、まるで自分がヨットにでもなったような気分。上機嫌で、湖べりの道を歩いている。読者に、すっと伝染する良質な機嫌のよさだ。遠くの帆の赤が、ひときわ鮮やかだ。恥ずかしながら私の俳号は「赤帆(せきはん)」なので、この句を見つけたときは嬉しかった。二句目と合わせて読むと、秋色と秋光のまばゆい土浦(茨城)の風土が、見事に浮かび上がってくる。作者にはこの他にも「色彩」と「光線」に鋭敏な感覚を示した佳句が多く、この季節では「紫は衣桁に昏し秋の寺」などが代表的な作品だろう。この「紫色」の重厚な深みのほどには、唸らされてしまう。作者・原裕(はら・ゆたか)は原石鼎(はら・せきてい)の後継者として長く「鹿火屋」の主宰者であったが、この十月二日に亡くなられた。享年六十七歳。今日が告別式と聞く。合掌。『風土』(1990)所収。(清水哲男)


August 1982000

 長時間ゐる山中にかなかなかな

                           山口誓子

に、類句はあると思う。最近何かの句集で見かけたような気もしたが、失念してしまった。なにしろ「かな」と切れ字を連発する虫だもの、俳人が食指をのばさないわけがない。ただし、よほど考えて作らないと、駄洒落に落ちる危険性を伴う。その点、登山を趣味とした誓子の句は、実感に裏打ちされているだけに、よい味が出ている。それというのも、「かなかなかな」の最後の「かな」は切れ字としても働き、一方では鳴き声の続きとしても機能しているからである。この「かな」の二重の言語的な働きが、句の品格を保証し「山中」の情趣を醸し出している。「かなかな」の本名は「蜩(ひぐらし)」だろうが、こちらにも同時に着目したのが江戸期の人・一峰の「秋ふくる命はその日ぐらし哉」だ。いささか語るに落ちそうな句ではあるけれど、悪くはない。最後ではちゃんと「哉(かな)」と鳴かせている。着想した当人は、さぞかし得意満面だったろう。「かなかな」といえば、山村暮鳥の詩集『雲』(1925)に、好きな詩がある。「また蜩のなく頃となつた/かな かな/かな かな/どこかに/いい国があるんだ」(「ある時」全編)。暮鳥は『雲』の校正刷を病床で読み、間もなく永眠した。松井利彦編『山嶽』(1990)所収。(清水哲男)


August 2882000

 秋日傘風と腕くむ女あり

                           森 慎一

ずやかな白い風を感じる。まだ残暑は厳しいが、まるで風と腕を組むように軽やかに歩いている日傘の女。その軽快な足取りが、もうそこまで来ている秋を告げている。「風と腕くむ」とは、卓抜な発見だ。これが雨傘だと、身をすぼめるようにして歩くので、「風」とも誰とも「腕くむ」わけにはまいらない。「日傘」でなければならない。句を読んで、妙なことに気がついた。いつのころからか、実際に腕を組んで歩くカップルの姿を、あまり見かけなくなった。手を握りあっている男女は多いけれど、なぜなのだろう。昔の銀座通りなどには、これ見よがしに腕を組んで歩くアベックなど、いくらでもいたというのに……。基地の街・立川や福生では、米兵と腕くむ女たちが「くむ」というよりも「ぶら下がっている」ように見えたっけ。そこで、屁理屈。「腕をくむ」行為は、お互いに支え合う気持ちがあり、建設的な連帯感がある。未来性を含んでいる。比べて、手を握りあう行為には、未来性が感じられない。「ただいま現在」が大切なのであって、時間的にも空間的にも、視野の狭い関係のように写る。どっちだろうと、知ったこっちゃない(笑)。が、恋人たちの生態にも、やはり時代の影というものは落ちてくる。いまは、刹那が大切なのだ。男から三歩下がって、女が歩いた時代もあった。いまでは、腕をくむ相手も「風」とだけになっちまったということか。立てよ、秋風。白い風。『風のしっぽ』(1996)所収。(清水哲男)


September 0592000

 んの字に膝抱く秋の女かな

                           小沢信男

立ての妙。「余白句会」で、満座の票をかっさらった句だ。たしかに「んの字」の形をしている。「女」は、少女に近い年齢だろう。まだあどけなさを残した「女」が物思いにふけっている様子だから、その姿に「秋」を感じるのだ。「んの字」そのものが、相対的に見ると、独立した(成熟した)言語としての働きを持たないので、なおさらである。爽やかさと寂しさが同居しているような、秋にぴったりの風情。からっとして、ちょっぴり切ない風が、読者に吹いてくる。佐藤春夫の詩の一節に「泣きぬれた秋の女を/時雨だとわたしは思ふ」(表記不正確)があり、同じ「秋の女」でも、こちらには成人した女性を感じさせられる。時雨のように、この「女」はしめっぽい。そして、色っぽい。ついでに、私がそらんじている「女」の句に、島将五の「晩涼やチャックで開く女の背」がある。「晩涼」は、夏の夕暮れの涼しさ。小沢信男は「女」を横から見ているが、島は背後から見ている。すっとチャックを降ろしたとすると、真っ白い背中が現われる。……という幻想。これだけで涼味を感じさせる俳句も凄いが、考えてみたらそうした感覚を喚起する「女」のほうが、もっと凄い。ねえ、ご同役(??)。「男」だって、簡単に「んの字」くらいにはなれる。いまどきの「地べたリアン」なんて、みんなそうじゃないか。などと、冗談にもこんなことを言うヤツを、常識では野暮天と言う。小沢や島、そして佐藤の「粋」が泣く。『んの字』(2000)所収。(清水哲男)


September 1992000

 モルヒネも利かで悲しき秋の夜や

                           尾崎紅葉

村苑子が「俳句研究」に連載中の「俳句喫茶室」を愛読している。物故した俳句作家(いわゆる「俳人」だけではなく)の作品にまつわるエピソードや句の観賞がさらりとした筆致で書かれていて、その「さらり」が実に味わい深い。10月号(2000年)では、永井荷風と尾崎紅葉が採り上げられている。そこで掲句を知ったわけだが、胃癌からくる痛みを抑えるための「モルヒネ」だ。中村さんによれば、このときの紅葉はもはや筆が持てず、すべて口述筆記で表現していたという。それにしても、すさまじい執念だ。不謹慎をおもんぱかる前に、このようなヘボ句を次々に書きとめさせた意欲には、笑いだしたくなるほどの凄みがある。ひとたび俳句にとらわれ、没入すると、人は最後までこのように俳句にあい渉るものなのか。『金色夜叉』の門弟三千人の文豪でも、のたうちまわりながら、遂に俳句だけは手放さないのか。このとき、紅葉にとって俳句とは何だったのだろう。笑った後に、ずしりと重たいものが残る。文学の夜叉を感じる。だが悲しいことに、辞世の句とされる「死なば秋 露の干ぬ間ぞ面白き」は、整いすぎていて面白くない。このヘボ句の壮絶さには、とてもかなわない。口述筆記だから、途中で一文字あけた細工(ここをつづめると、たしかに座りは悪くなる)といい、弟子の誰かが死化粧をほどこしすぎたのである。そんな邪推もわいてくる。『紅葉句帳』所収。(清水哲男)


September 2692000

 秋の箱何でも入るが出てこない

                           星野早苗

ンスのよいナンセンス句。こういう句をばらばらに分解して解説してみても、はじまらない。丸のみにして、作者に説得される楽しさを味わえれば、それでよい。……と言いながら、一つだけ。「秋の箱」でなくたっていいじゃないか。「春の箱」でも「夏の箱」でもよいのではないか。最初そう思って、他の三つの季節に入れ替えてみた。入れ替えて、一つ一つをイメージしてみた(私もヒマだ)。まずは「春の箱」だが、ふにゃふにゃしすぎており「何でも入る」けれど何でも出てくる感じ。「夏」だと、暑苦しくて何も入れたくない。「冬」にすると、箱の堅牢さは保証されるが、「何でも入る」というわけにはいかないようだ。となれば、やっぱり「秋の箱」。透明にして、容積は無限大。だから「何でも入るが出てこない」。むろん作者は、こんな面倒くさい消去法で「秋」をセレクトしたわけではない。パッとそんなふうに閃いたから、パッと「秋の箱」と詠んだのである。どんな句にも「パッ」はつきものだ。いや、「パッ」こそが命だ。理屈は、後からついてくるにすぎない。同じ作者に「高感度のキリン私が見えますか」がある。パッと「高感度」が光っている。ただし、これらの閃きにパッと感応しない読者もいるだろう。それはそれで仕方がない。どちらが悪いというものではない。『空のさえずり』(2000)所収。(清水哲男)


January 2012001

 嚢中に角ばる字引旅はじめ

                           上田五千石

中(のうちゅう)の「嚢」は、氷嚢(ひょうのう)などのそれと同じ「嚢」。袋、物入れの意。この場合は、スーツケースというほどのものではなく、小振りで柔らかい布製のバッグだろう。旅先で必要なちょっとした着替えの類いのなかに「字引」を一冊入れたわけだが、これがまことに「角ばる」ので収まりが悪い。「字引」とあるが、歳時記かもしれない。「歳時記は秋を入れたり旅かばん」(川崎展宏)。こういう句を読むと、あらためて「俳人だなあ」と思う。俳人は、その場その場で作品を完成させていく。旅先では句会もあるし、いつも「字引」が必要になる。帰宅してから参照すればよいなどと、呑気に構えてはいられない。だから「角ばる字引」の収まりが悪い感覚は、俳人の日常感覚と言ってよいだろう。多く俳人は、また旅の人なのだ。その感覚が年末年始の休暇を経た初旅で、ひさしぶりによみがえってきた。さあ、また新しい一年がはじまるぞ。「角ばる字引」のせいで少しゆがんだバッグを、たとえば汽車の網棚に乗せながら得た発想かと読んだ。私は俳人ではないから、いや単なる無精者だから、旅に本を携帯する習慣は持たない。たまに止むを得ず持っていくときには、収まりは悪いは重いはで、それだけで機嫌がよろしくなくなる。何か読みたければ、駅か旅先で買う。そして、旅の終わりの日には処分する。めったに持ち帰ったことはない。そうやって、いちばんたくさん読んだのが松本清張シリーズである。『俳句塾』(1992)所収。(清水哲男)


October 21102001

 夜の菊や胴のぬくみの座頭金

                           竹中 宏

代劇めかしてはいるけれど、作者はいまの人であるからして、現代の心情を詠んだ句だ。昔もいまも金(かね)に追いつめられた人の心情は共通だから、こういう婉曲表現を採っても、わかる人にはわかるということだろう。「座頭金(ざとうがね)」とは「江戸時代、座頭が幕府の許可を得て高利で貸し付けた金」(『広辞苑』)のこと。どうしても必要な金が工面できずに、ついに高利の金に手を出してしまった。たしかに「胴」巻きのなかには唸るような金があり、それなりの「ぬくみ」はある。これで、当座はしのげる。ひとまずホッと息をついている目に、純白の「夜の菊」が写った。オノレに恥じることなきや。後悔の念なきや。こういうときには、普段ならなんとも思わない花にまで糾弾されているような気になるものだ。ましてや、相手は凛とした「菊」の花だから、たまらない気持ちにさせられる。ここでつまらない私の苦労話を持ち出すつもりはないが、作者が同時期にまた「征旅の朝倒産の昼それらの秋」と詠んでいるのがひどく気にかかる。「征旅(せいりょ)」は、戦いへの旅である。ここで復習しておきたいのは、べつに俳句は事実をそのままに詠むものではないということではあるが、さりとても、さりながら……気にかかる。フィクションであってほしいな。俳誌「翔臨」(第43号・2001)所載。(清水哲男)


October 24102001

 満九十歳落葉茶の花生まれ月

                           伊藤信吉

日前に、群馬県は前橋市で創刊された俳誌「鬣(たてがみ)」(発行人・林桂、編集人・水野真由美)をいただいた。その巻頭に、掲句を含む詩人の十八句が「花々」というタイトルで掲載されていた。伊藤信吉さんは、前橋生まれの前橋育ち。萩原朔太郎や萩原恭次郎、高橋元吉などと交流のあった人だ。1906年(明治三十九年)の十一月生まれだから、間もなく満九十五歳になられる。長寿の秘訣は、司修さんに言わせると「ひどい偏食」にあるのだという。「わたしは赤い色をした食べものが嫌いなんさね。トマトとか人参とか」と。それはともかく、このように「満九十歳(まん・きゅうじゅう)」と出られると、何も言うことはなくなってしまう。ただ一点、関心を抱かせられるのは、自分の「生まれ月」に関わる数多い事象や風物のなかから、何を「満九十歳」の人が拾い上げているかということだ。それが「落葉」と「茶の花」であることに、私のなかの高齢者観はひとまず安心し、しかしもしも自分が伊藤さんの年齢まで生き延びることがあったら、このあたりに落ち着くのかなと思うと、なんとなく落ち着きかねる気分でもある。あまりにも、絵に描いたような……。でも、これは伊藤さんのまぎれもない現世現実の率直な気持ちなのだ。粛として受け止めておかねばなるまい。もう一句。「石垣をおおいて秋花獄の跡」。朔太郎の父親が、死刑囚に立ち会う医師であったことをはじめて証したのは、伊藤さんである。間もなく『伊藤信吉著作集・全七巻』が沖積舎より発刊されると、同封の広告にあった。(清水哲男)


September 3092002

 鐘鳴れば秋はなやかに傘のうち

                           石橋秀野

書に「東大寺」とある。句の生まれた状況は、夫であった山本健吉によれば、次のようである。「昭和二十一年九月、彼女は三鬼・多佳子・影夫・辺水楼等が開いた奈良句会に招かれて遊んだ。大和の産である彼女は数年ぶりに故国の土を踏むことに感動を押しかくすことが出来なかった」。この「傘」が日傘であったことも記されている。秋の日が、さんさんと照り映えている上天気のなか、久しぶりに故郷に戻ることができた。それだけでも嬉しいのに、すっかり忘れていた東大寺の鐘の音までもが出迎えてくれた。喜びが「傘のうち」にある私に溢れ、それも色彩豊かな秋の景色とともに「はなやかに」日傘を透かして溢れてくる……。「傘のうち」は、すなわち自分にだけということであり、同行者にはわからないであろう無上の喜びを、一人で噛みしめている気持ちが込められている。このときに作者は、日常の生活苦のことも、それに伴う寂寥感も、何もかも忘れてしまっているのだ。故郷の力と言うべきだろう。再度、山本健吉を引いておけば「そしてこの束の間の輝きを最後として、その後の彼女の句には、流離の翳に加うるに病苦の翳が深くさして来るのである」と、これはもう哀悼の辞そのものであるが。『桜濃く』(1959)所収。(清水哲男)


November 04112002

 此秋は何で年よる雲に鳥

                           松尾芭蕉

が間近の元禄七年(1694年)九月二十六日、大坂清水での作句。詞書に「旅懐」とある。「何で年よる」の「何で」の口語体に、ただならぬ身体の不調感がよく表われていて、いたましい。「此(この)秋は」、どういうわけで、こんなにも急に老け込んだ感じがするのだろうか。「何故に」ではなく「何で(やろか)」とくだけた物言いのなかに、自問自答の孤独性が滲み出る。誰にせよ、自問自答に文語を使用することはしないだろう。文語はあくまでも他者を意識した表現なのだから、つまり他所行きの言葉なのだから、だ。そして、この「何で」は、皆目見当がつかないという意味でもない。ある程度の心当たりは、これまた誰にでもあるのが普通だ。芭蕉の場合には、愛弟子の人間関係のこじれを、放っておけば関西蕉門の分裂につながりかねないと、自ら調停に乗りだして失敗したことが言われている。「座の文芸」には、参加者の人間関係によって盛り上がりもすれば崩壊もするという生臭さがつきまとう。このときの芭蕉には、今で言えば相当にストレスの溜まった状態がつづいていたわけで、それが身体の弱りをなお促進したと考えてよいだろう。こういうときには、人間は「何で(こうなのか)」と精神的にも天を仰ぐしかない。で、そこには「雲に(消え逝く)鳥」があったと結んだ下五文字について、「寸々の腸(はらわた)をしぼる」と述べている。苦吟もここに極まり、最後の力を振り絞って振り出したような鳥の孤影への飛躍的表現が、「何で」の個人的な思いの切実さに、濃い輪郭と深い客観性とを与えることになった。(清水哲男)


November 05112002

 秋の淡海かすみて誰にもたよりせず

                           森 澄雄

天気。「淡海(おうみ)」は「近江」であり、淡水湖を意味するから、作者は琵琶湖畔にいる。秋の好天は、透明な冷気を伴って清々しい。大気も澄み渡っていて、はるか彼方までクリアーに遠望できる。しかし、琵琶湖のような大きな湖ともなると、立ち上る水蒸気が多量のために、かえって遠目が利かなくなるときがある。まるで春の霞がかかったように、ぼおっとかすんでしまう。そんな情景だろう。作者の立つ岸辺は秋たけなわでありながら、指呼の間には爛漫の春があるように感じられる……。陶然たる気分になるというよりも、何か異界に遊んでいるような不思議な心持ちなのだ。「誰にもたよりせず」で、作者がこの地に長く逗留していることが知れる。少なくとも、二泊三日程度の短い旅ではないだろう。元来ならば友人知己のだれかれに、旅情を伝える「たより」をするところだけれど、ついに「誰にも」していない。あまりの淡海の自然の素晴らしさに心を奪われて、なんだか人間界とはひとりでに切れてしまったような気持ちである。寂しくもなければ、孤独とも感じない。大いなる自然のなかに溶け込んでいる至福とは、このような境地を指すのではなかろうか。私には漂泊への憧憬はないのだけれど、掲句には漂泊への誘いが含まれているようにも思われた。『浮鴎』(1973)所収。(清水哲男)


August 2082003

 秋が来る美しいノートなどそろえる

                           阪口涯子

子(がいし・1901-1989)にしては、珍しく平明な句だ。代表作に「北風列車その乗客の烏とぼく」「凍空に太陽三個死は一個」などがあり、なかには「門松の青さの兵のズボンの折り目の垂直線の哀しみ」のような短歌ほどの長さの作品も書いた。観念的に過ぎると批判されることもあったと聞くが、とにかくハイクハイクした俳句を拒否しつづけた俳人である。その拒否の刃はみずからの俳句作法にも向けられており、自己模倣に陥ることにも非常な警戒感を抱いていて、常に脱皮を心掛けていた。揚句は、そんな脱皮の過程で生まれているという観点に立って見ると、非常に興味深い。いろいろと模索をつづけているうちに、ふっと浮かんだ小学生にでもわかるような句だ。口語俳句の一人者だった吉岡禅寺洞門から出発した人だから、初学のころならば、このような句は苦もなくできただろう。しかし、この句が数々の試行錯誤の果てに出現していることに、ささやかな詩の書き手である私としても、大いに共感できる。しかも、この句は作者のたどりついた何らかの境地を示しているのでもない。詩(俳句)に境地なんか必要ない、常に新しく生まれ変わる自己を示すことが詩を書くことの意義なのだとばかりに、彼の句はついにどんな境地にも到達することはなかった。そのために必要としたのは、したがってせいぜいが「美しいノートなど」だけだったのである。八十六歳の涯子は語っている。「僕は新興俳句の次をやりたかったんですが、それは、ゴビの砂漠で相撲を取るようなものです。ゴビの砂漠には土俵が無い。土俵が無い場に立ってみたんです」(西日本地区現代俳句協会会報・1988年11月号)。(清水哲男)


August 2282003

 樹々の青重ねて秋もはじめなり

                           鞠絵由布子

の六月に余白句会50回記念パーティが開かれ、そのときのことを詩人の財部鳥子が「詩人の俳句」と題して書いている(「俳句研究」2003年9月号)。最初に参加者による大句会が行われたのだが、会場の様子はこうだった。「俳句が読み上げられると作者の名前が明かされる。その前にみんなの下馬評、『これは詩人の俳句だな』『どうも詩人くさいな』笑いも混じる。下手の横好きという含みか。しかし案外に当たるのだった」。財部さんによれば、当たるのは詩人の俳句には「言葉の並びに自由と無理が入り込む」からなのである。私も、常々そう思ってきた。図星である。だから、たとえば掲句を詩人の俳句と感じる人は皆無だろう。どこから見ても、俳人の作品だ。夏から秋へとさしかかる季節感を、まだ青い樹々の葉の重なり具合を通して微妙に見出している。よくよく見ると盛夏の青ではなく、かといって紅葉しはじめている色でもない。その微妙な色彩をとらえて、すなわち「秋のはじめなり」と断定したところに俳句的な手柄がある。これが詩人だと、たとえ微妙な変化に気づいたとしても、こうは詠まない。いや、詠めない。掲句のように書くことに、どうしても不安感を抱いてしまうからだ。このままではどこか頼りなく、もう一押し念を入れたくなる。でも、もう一押しすると、たぶん樹々の青の微妙な色合いはどこかに押し込められてしまい、掲句の清新な感覚は衰えてしまうだろう。というようなことは、むろん詩人にだってわかっているのだ。わかっちゃいるけど止まらないのである。大雑把に言えば、詩は説得し俳句は説得しない。この差は大きい。それにしても上手な句です。脱帽です。『白い時間』(2003)所収。(清水哲男)


September 1892003

 槇の空秋押移りゐたりけり

                           石田波郷

本健吉によると、『波郷百句』には次の自註があるそうだ。「一二本の槇あるのみ。然もきりきりと自然の大転換を現じてみせようとした。一枚の板金のやうな叙法」。当然、この言葉には、芭蕉が弟子に与えた有名なお説教、「発句は汝が如く、物二ッ三ッとりあつめて作るものにあらず。こがねを打のべたるやうにありたし」(『去来抄』)が意識されている。作者に言われるまでもなく、掲句に登場する具体的な物体は、そびえ立つ「槇(まき・槙)」の大木のみだ。それのみで、訪れる秋という季節の圧倒的なパワーを詠んだ才能には敬服させられる。雄渾な名句だ。およそ、叙法にゆるぎというものがない。よほど逞しい自恃の心がないと、このように太い線は描けないだろう。波郷、絶好調なり。ただし、この自註は気に入らない。気負った語調も気に入らないが、「一枚の板金のやうな叙法」とはどういうつもりなのか。芭蕉の教えと同じ叙法だよと言いたかったのだろうが、大間違いだ。掲句の叙法は、いわば三次元の世界を限りなく二次元の世界に近づけようとする「板金」の技法とは似ても似つかない。同じ比喩を使うならば、波郷句の技法は三次元の世界を限りなく四次元の世界に近づけたことで説得力が出たのである。光景に「押移りゐたり」と時間性を与えたことで、精彩を放った句なのだから……。まあ、当人が「板金」と言ったのだから、いまさら文句をつけるのも変な話だけれど、芭蕉を誤解した一例としてピンで留めておく価値はあるだろう。芭蕉は、一つの素材をもっともっと大切にねと言ったのだ。「こがねを打のべたるやうに」ありたいのは素材の扱い方なのであって、叙法はその後に来る問題である。『風切』(1943)所収。(清水哲男)


October 05102003

 足場から見えたる菊と煙かな

                           永末恵子

ういう句は好きですね。高い「足場」に登って見渡したら「菊と煙」とが見えた。ただそれだけのことながら、よく晴れた秋の日の空気が気持ち良く伝わってくる。工事現場の足場だろうか。ただし、登っているのは作者ではない。作者は、登って仕事をしている人を下から見上げている。高いところに登れば、地面にいては見られないいろいろなものが一望できるだろう。あの人には、いま遠くに何が見えているのか。と、ちらりと想像したときに、作者は瞬間的に「菊と煙」にちがいないと思ったのだ。そうであれば素敵だなと、願ったと言ってもよい。菊と煙とは何の関係もないけれど、理屈をつければ菊は秋を代表する花だし、立ち昇るひとすじの煙ははかなげで秋思の感覚につながって見える。でも、こんな理屈は作者の意にはそぐわないだろう。作者は、もっと意識的に感覚的である。だから読者が感心すべきは、見えているはずのいろいろなものから、あえて菊と煙だけを取りあわせて選択したセンスに対してだ。ナンセンスと言えばナンセンス。しかし、このナンセンスは作者のセンスの良さを明瞭に示している。試みに、菊と煙を別のものに置き換えてみれば、このことがよくわかる。むろん私はやってみたけれど、秋晴れの雰囲気を出すとなると、「菊と煙」以上のイメージを生むことは非常に難しい。ただ工事現場を通りかかっただけなのに、こんなふうに想像をめぐらすことのできるセンスは素晴らしいというしかない。羨ましいかぎりだ。もう一句。「秋半ば双子の一人靴をはく」。いいでしょ、このセンスも。『ゆらのとを』(2003)所収。(清水哲男)


October 10102004

 錵のごとくに秋雷の遠きまま

                           友岡子郷

て「錵(にえ)」とは何だろうか。「沸」とも表記する。句の成否は「錵のごとくに」の比喩にかかっているのだから、知らないと観賞できない。手元の辞書には「焼きによって日本刀の刃と地膚との境目に現れる、雲や粟(あわ)粒のような模様」と出ている。刀身を光にかざして見ると、細かいキラキラする粒が認められる。それが「錵」だ。学生時代に後輩の家に遊びにゆき、はじめて抜身の日本刀を間近に見せてもらった。父親の美術コレクションだったようだが、持ってみて、まずはその重さに驚いた。とても振り回したりはできないと思った。そして、なによりも刀身の美しさ……。息をのむようなという形容が陳腐なら、思わず居住まいをただされるとでも言うべきか。それまで胡座をかいていたのが、すうっと自然に正座してしまうほどだった。「(曇るので)息をかけないように」と言われたのにはまいったけれど、何の感想も漏らせないままに、ただただ見入ってしまったことを覚えている。掲句はそのときのことを思い出させてくれ、私にとっては遠い「秋雷」さながらに、しばし郷愁に誘われる時間を得た。自注によれば、作者は小学生のときに備前長船を叔父に見せてもらったそうで、この「遠きまま」には、距離の遠さと時間の遠さとが同時に表現されているわけだ。しかし、そうした作句事情は知らなくても、日本刀を手に取ったことがある人には、一読同感できる佳句として響いてくるだろう。『未草』(1983)所収。(清水哲男)


October 17102004

 紙袋たたまれ秋の表側

                           上田睦子

暴にではなく、きちんと「たたまれ」た「紙袋」でなければならない。その姿を「秋の表側」としたメタフィジカルな比喩を面白く感じた。輪郭がはっきりとし、全容はくっきりと冴えて見えている。よく晴れた秋の日の万象の様子と、いかにも気持ちよく通じ合っている。このときに、秋の裏側とは長雨などの暗いイメージだろう。このように季節に表裏や奥行きというものを認めるとすれば、秋はまずどの季節よりも表側を見せて近寄ってくるのではなかろうか。はっきりと、くっきりと鮮明なイメージこそ、秋にふさわしい。これがたとえば春であると、鮮明度はおぼろにして低いと言えるだろう。春は季節の表側からではなく、少し内側から立ち現れると言うべきか。夏はと言えば、かっと燃えている奥の奥をあからさまにさらしてくる。人は常に身構えて迎えるのだが、しかしいつしか精魂もつきて崩れ落ちてしまう。冬には、少しややこしいが、すべての季節の裏側が表側だというイメージが濃い。雪はその代表格で、あらゆる物のエッジを削ぎ落とすように消滅させてしまう。伴って、人の心も内へ内へと食い込みがちだ。これらの季節はさながら回り舞台のように、私たちの目を見張らせ、心を動かし、さらには身体を支配してくる。今日もまた、ひそやかに少しずつ舞台は回っている……。秋の表側にも、だんだん裏側が透けて滲んでくる。『木が歩きくる』(2004)所収。(清水哲男)


November 01112004

 駅吊りの秋物語時刻表

                           渡邊きさ子

のところ、私にしては珍しく旅が多いので、しばしば「時刻表」とにらめっこをしている。仕事がらみだから行楽気分にはほど遠いけれど、時刻表を見ているうちに、目的地まで以外の路線を追っていたりすることがある。時間がもう少しあれば、ちょっと先の温泉地まで足を伸ばせるのになどと、埒もないことを考える。句の時刻表は「駅吊り」だから、作者は既に旅行中なのだろう。あるいは、これから出発なのかもしれない。いずれにしても駅の時刻表を見上げて、むろん自分だけのこれからの旅程を組み立てている。で、そのうちに気がついたことには、この同じ時刻表を眺めている人には、それぞれに自分とは別の目的や事情があるということだった。つまり、それぞれの人にはそれぞれの「物語」がある……。当たり前といえば当たり前だが、あらためてそう意識してみると、駅に吊られている単なる時刻表も、いろいろな物語の発端になったり展開点であったりするわけだ。そのような不特定多数の物語をひっくるめて、「秋物語」とくくったところが美しい。この句を知った後で駅の時刻表を見上げる人は、句の良さがいわば体感できるのではあるまいか。他ならぬ私は、週末に遠出する予定があります。私なりの「秋物語」はひどく散文的になりそうですが、それでも旅は旅。いくつかの楽しいことが待っているかもしれません。『野菊野』(2004)所収。(清水哲男)


August 2782005

 ちらつく死さへぎる秋の山河かな

                           福田甲子雄

年の四月に亡くなった作者が、昨秋の入院時に詠んだ句である。こういう句は、観念では作れない。胃のほとんどを切除するという大手術であったようだ。「切除する一キロの胃や秋夜更く」。掲句の「ちらつく死」はもとより観念ではあるけれど、そういうときだったので、より物質的な観念とでも言おうか、まったき実感としておのれを苛んだそれだろう。そうした実感,恐怖感を「秋の山河」が「さへぎる」と言うのである。このとき「さへぎる」とは、ちらつく死への思いを消し去るということではなく,文字通りに立ちふさがるという意味だろう。悠久の山河を目の前にしていると,束の間自分が死んでしまうことなどあり得ないような気がしてくる。昨日がそうであったように、今日もそしてまた明日も、自分の生命も山河のようにつづいていくかと思われるのだ。だが、山河は悠久にして非情なのだ。そんな一瞬の希望を、簡単にさえぎって跳ね返してくる。すなわち、山河を見やれば見やるほど,ちらつく死の思いはなおさらに増幅されてくるということだろう。怖い句だ。いずれ私にも,実感としてこう感じる時期が訪れるのだろうが、そのときに私は耐えられるだろうか。果たして,正気でいられるかどうか、まったく自信がない。そう考えると、あらためて作者の精神的な強さに驚かされるのである。合掌。遺句集『師の掌』(2005)所収。(清水哲男)


September 2192005

 口下手の男と秋の風車

                           加藤哲也

句で「風車(かざぐるま)」は春の季題だから、掲句の季語は「秋」である。自画像だろうか。男が風車を手にしているのか、それとも傍らの人の手にあるのか、もっと言えば抽象的心象的な存在なのか。いずれにしても、秋風を受けて風車は軽快に回っているのだ。そして一方、男の口はといえば、軽快さとは裏腹にぼそりぼそりとしか言葉を発しない。したがって、ここで両者は一見対極にあるように思えるけれど、しかし天高き秋空の下に置いてみると、いずれもが季節の爽やかさとはどこかちぐはぐで、場違いな感じがする。お互いに季節から置き去りにされたような寂寥感が、読者の心をちらりとよぎる。そんな味わいを持った句だと思う。ところで、口下手とは一般的にどういう人の属性を指すのだろうか。たしかに世の中には、反対に良く口の立つ人もいる。私の考えでは、これまた対局にあるようでいて、そうでもないと思ってきた。自分の言いたいことを述べるというときに、前者はより慎重なのであり、後者はより状況判断が早いのである。だから話の中味については、どちらが理路整然としているかだとか、説得力があるかだとかは全く関係がない。状況に応じて、それらは口が立とうが下手だろうが入れ替わるものなのだ。よく漫才などでこの入れ替わりが演じられ笑いの対象になるのは、そこにこうしたいわば発語のメカニズムが極端に働くからなのだろう。だから中味的には、能弁で口下手な人もいれば、訥弁で巧みな人もいるという理屈になる。ちょっと議論が大雑把に過ぎたが、この問題はじっくり考えてみるに値すると思う。『舌頭』(2005)所収。(清水哲男)


October 01102005

 出会ひの握力別れの握力秋始まる

                           今井 聖

の「秋始まる」は、暦の上の「立秋」ではなく、実質的な秋の到来を指しているのだと思う。したがって、「秋」に分類しておく。「出会ひ」と「別れ」の具体的な状況はわからないが、そのいずれの場合にも、かわす握手には自然に力がこもると言うのである。秋のひきしまった大気は、おのずからひきしまった行為につながってゆく。本格的な秋の訪れの感慨を、「握力」を通じて描き出した視点は新鮮だ。作者に、実感を伴った体験があるからだろう。絵空事では、こういう句は作れない。ところで放送生活二十年の私としては、鈴木志郎康さんの用語を借りれば「極私的」にも観賞したい句だ。放送局の十月は、まさに「秋始まる」月だからである。ラジオにもテレビにも番組改変期は春四月と秋十月にあり、それに伴って何人かのスタッフや出演者の入れ替えがあるのが普通だ。春の人事異動なら、世間一般に行われることなのでそうでもないが、秋のそれは放送局に特有なことゆえに、とくに「別れ」には寂しさがつきまとう。歓送会での握手にも、それこそ自然に力がこもるのである。在任中に、そんな握手をかわして何人の仲間を見送ってきたことだろう。なかには会社から理不尽な異動理由を突きつけられて、会社そのものから去っていった人もいる。みんな元気にしているだろうか。掲句を読んで、ふっと感傷的になった次第である。俳誌「街」(55号・2005年10月)所載。(清水哲男)


November 02112005

 城裏や湾一枚に大きな秋

                           渡辺 侃

持ちの良い句だ。この「城」は、萩城である。山口県萩市街北西部、毛利氏三十六万石の居城であったが、現在は石垣と堀のみしか残っていない。城の裏には、句が言うように日本海につづく湾が開けており、天高しの候にはまことに見事な眺めとなる。瑠璃色に凪いだ湾を指して、「湾一枚」とは言い得て妙だ。一昨年の秋、萩城址のある指月山麓から西北寄りの笠山で小中学の同窓会があり、出席した。笠山は日本一の小さい火山としても知られていて、ここは日本海に大きく突き出ている。この日は快晴だったこともあり、中腹のホテルから見た海は素晴らしく、まさに「大きな秋」がどこまでも広がっているのであった。見るたびにいつも思うのだが、太平洋よりも日本海のほうが「海」としての風格は上だ。それはさておき、たくさんの昔のクラスメートと海の見える場所にいることが、何か奇跡のように思われたことが忘れられない。私たちの学校はバスも通わぬ奥深い山の中にあったので、海などは見たこともないという友人は少なくなかった。見たことのある私とても、引っ越しのために乗った汽車の窓からチラチラとでしかなかった。それがいまや、みんなの前にはごく当たり前のように海があったのだ。いっしょに通学していたときから数えて,ほぼ半世紀。短いとも長いとも思える五十年という年月が、いつしか山の子を海にまで容易に連れてくることを可能にしたのである。思い出話に興じつつも、私は何度もそのことを思い、胸を突かれ、何度も「大きな秋」のひろがりに目をやったのだった。平井照敏編『俳枕・西日本』(1991・河出文庫)所載。(清水哲男)


November 11112005

 ほのぼのと秋や草びら椀の中

                           矢島渚男

て古語だろうが、「花びら」ならぬ「草びら」とは何だろう。早速、辞書を引いてみた。「くさ‐びら【草片・茸】1あおもの。野菜。東大寺諷誦文稿『渋き菓くだもの苦き菜クサビラを採つみて』 2きのこ。たけ。宇津保物語国譲下『くち木に生ひたる―ども』 3(斎宮の忌詞) 獣の肉」[広辞苑第五版]とある。掲句に当てはめるとすると、野菜でも茸(きのこ)でもよいとは思うが、やはり「秋」だから、ここは茸と読んでおきたい。それはそれとして、なかなかに含蓄のある言葉ですね。この句、何と言っても「ほのぼのと」が良い。普通「ほのぼのと」と言うと、陽気的には春あたりの暖かさを連想させるが、それを「秋」に使ったところだ。読者はここで、一様に「えっ」と思うだろう。何故、「秋」が「ほのぼの」なのかと……。で、読み下してみると、この「ほのぼのと」が、実は「椀(わん)の中」の世界であることを知るわけだ。つまり、秋の大気は身のひきしまるようであるが、眼前の熱い椀の中には旬の茸が入っていることもあり、見ているだけで「ほのぼのと」してくるというわけだ。すなわち、一椀から「ほのぼのと」立ち上ってくる秋ならではの至福感が詠まれている。余談だが,最初に読んだときに、私は「ほろほろと」と誤読してしまった。目が良くないせいだけれど、しかし自分で言うのも変なものだが、いささかセンチメンタルな「ほろほろと」でも悪くはないような気がしている。この場合の椀の中味は、高価な松茸を薄く小さく切った二、三片でなければならないが(笑)。俳誌「梟」(2005年11月号)所載。(清水哲男)


August 1582006

 三児ありて二児は戦死す老の秋

                           佐藤紅緑

藤紅緑の実生活は、最初の妻に四人の息子、二番目の妻に二人の娘、さらに他所にも子供があり、「三児ありて」にして既に事実ではない。正岡子規門下の俳人だった紅緑だが、のちに劇作家、小説家となった彼の俳句に虚構や仕掛けがあることは当然だろう。しかし、このような事象が周囲にいくらでもあったことはゆるぎない事実である。当人の家庭環境が真実どうであったかということは、掲句にとってさほど重要ではない。兵隊に連れて行かれ、戦場のなかで命を落とした還らぬ我が子に思いを馳せる老人。生きていればいま何歳か。亡くなった子の年齢をいくたび指折り数えたことだろう。今日で大戦の終結から61年。私も含め、戦争を知らない世代からすれば途方もない年月を経たように思うが、時間が経過することは忘れ去ることでは決してない。今ここに頭を垂れて、愛する者を失った多くの人々の慟哭に耳を傾ける。『文人俳句歳時記』(1969・生活文化社)所載。(土肥あき子)


September 2592006

 山彦に遡るなり秋の魚

                           秋山 夢

識的に解釈すれば、「秋の魚」とは「鮭」のことだろう。この季節、鮭は産卵するために群れをなして故郷の川を遡ってくる。テレビの映像でしか見たことはないが、その様子はなかなかに壮観だ。「月明の水盛りあげて鮭のぼる」(渡部柳春)という句もあるので、昼夜を問わずひたすらにのぼってくるものらしい。本能的な行動とはいえ、全力を傾け生命を賭して遡る姿には胸を打たれる。この句、「山彦に」の「に」が実によく効いている。このとき山彦とは、べつに人間が発した声のそれでなくともよい。山のなかで育ったのでよくわかるのだが、山にはいつも何かの音が木霊している。しーんと静まり返っているようなときにも、実はいつも音がしているものだ。その木霊は、山が深くなればなるほどに鮮明になる。すなわち揚句の「秋の魚」は、山奥へ上流へと、さながら山彦「に」導かれ、引っ張られるようにのぼっているというわけだ。大気も川の水も、奥へ遡るほど清冽さを増してゆく。この句全体から立ちのぼってくるのは、こしゃくな人知を越えた自然界がおのずと発する山彦のごとき秋気であろう。『水茎』(2006)所収。(清水哲男)


October 10102006

 とどまらぬ水とどまらぬ雲の秋

                           若井新一

霖(しゅうりん)と呼ばれる秋の長雨が明け、文字通り天高く澄み渡る青空になるのは、ようやくこれからの日々だろう。寝転んでいるのか、はたまた仁王立ちに空を仰いでいるのか、豊かな水が湧く大地と、薄く流れる雲に挟まれる心地良さを掲句に思う。作者は新潟県南魚沼市在住とあるので、おそらく無粋な電線にさえぎられることのない、どこまでも続く秋の空をほしいままにしているのだろう。正岡子規が「春雲は絮(わた)の如く、夏雲は岩の如く、秋雲は砂の如く、冬雲は鉛の如く」と記したように、ごつごつと伸びあがる夏の雲と違い、秋の雲は水平に風に乗って広がっていく。空色の画用紙にひと筆を伸ばしたような雲や、はるかかなたを目指す仲間たちのようなうろこ雲の集団が頭上を流れる様子に、ふと海の底を覗き込んでいるような錯覚を起こす。川は山から海へ向かい、雲は風まかせに流れ、地球も自転し、ひいては時間も流れているのだと思うと、人はこんなにも縦横無尽に動くもののなかで生きているのかと、めまいする気分はますます深まる。底が抜けたような空の青さが、心もとない不安を一層募らせるからだろうか。お天気博士倉嶋厚氏の著書のなかで「cyanometry(青空測定学)」という言葉を見つけた。青空を測定・研究する学問で、測定の一つに、青さの異なる8枚のカードと比較し、空の青さを分類していく方法があるのだという。もしかしたら、カードの一枚には「不安を覚えるほどの青」という色があるかもしれない。『冠雪』(2006)所収。(土肥あき子)


October 26102006

 女湯もひとりの音の山の秋

                           皆吉爽雨

和二十三年、「日光戦場ヶ原より湯元温泉」と前書きのあるうちの一句。中禅寺湖から戦場ヶ原を抜け、湯元温泉に行くまでの道は見事な紅葉で人気のハイキングコース。爽雨(そうう)もこれを楽しんだあと心地よく疲れた身体をのばして温泉につかったのだろう。今は日光からの直通バスで湯元まで簡単に行けるようだが、昔の旅は徒歩が基本。若山牧水の『みなかみ紀行』にも山道を伝って幾日もかけ、山間の温泉を巡る旅が書かれている。湯元は古くからの温泉地。掲句からは鄙びた温泉の静かな佇まいが伝わってくる。温泉の仕切りを隔てた隣から身体に浴びせかける湯の音や木の湯桶を下に置く音がコーンと響いてくる。「隣も一人。」旅の宿に居合わせ、たまたま自分と同じ刻に湯につかっている女客。顔も知らず、たぶん言葉を交わすこともなく別れてしまうであろう相手の気配へかすかな親しみを感じている様子が「ひとりの音」という表現から伝わってくる。ひそやかなその音は湯殿に一人でいる作者とともに読み手の心にも響き、旅情を誘う。「山の秋」という季語に山間の冷涼な空気と温泉宿を包んでいる美しい紅葉が感じられる。『皆吉爽雨句集』(1968)所収。(三宅やよい)


February 0722007

 残寒やこの俺がこの俺が癌

                           江國 滋

の俳句には余計なコメントは差し控えるべきなのかもしれない。鑑賞やコメントなどというさかしらな振る舞いなどきっぱり拒絶して、寒の崖っぷちに突っ立っている句である。・・・・句集『癌め』には、癌を告知された平成9年2月6日から、辞世となった8月8日(死の2日前)の作「おい癌め酌みかはさうぜ秋の酒」までが収められている。掲出句は、告知された2月6日から同月9日までに作られたうちの一句。「残寒や/この俺が/この俺が癌」とも「残寒や/この俺がこの俺が/癌」とも読める。前者は中七「この俺が」の次に「癌」は咄嗟には詠み淀んで溜め、最後にようやく打ち出された。後者の「この俺がこの俺が」という大きな字余りには、重大な告知をされた者ならではの万感がこめられているし、下五を字足らず「ガン」で止めた衝撃も、したたかで強烈。「残寒や・・・・」の句のすぐ前には「木の芽風癌他人事(ひとごと)と思ひしに」という句が置かれている。癌をはじめ難病に罹った者は、誰しも「他人事」と思っていただろうし、「選りによって、なぜ、この俺が・・・」という怒りに似た思いを禁じえない。さらに「残」と「寒」という字は苛烈な意味合いを孕むだけでなく、「ザン」「カン」という言葉は、切り立つような尖った響きを放って作者にも読者にも迫る。江國滋が俳句や落語、日本語などについて書いたものは毒がきいていて痛快だった。鷹羽狩行は「江國さんは、正義の味方であり、弱者の味方でした。正義の味方がエッセイとなり、弱者の味方が俳句となったのではないか」と指摘している。滋酔郎の俳号で東京やなぎ句会のメンバーでもあった。句集『癌め』(1997)所収。(八木忠栄)


July 1472007

 いと暗き目の涼み人なりしかな

                           杉本 零

涼(すずみ)とも書く涼み。夕涼み、のほかにも、磯涼み、門涼み、橋涼み、土手涼み、などあり、昔は日が落ちると少しでも涼しい場所、涼しい風をもとめて外に出た。現在、アスファルトに覆われた街では、むっとした夜気が立ちこめるばかりで、団扇片手にあてもなく涼みに出る、ということはあまりない。都内の我が家のベランダに出ると、東京湾の方向からかすかな海の匂いを含んだ涼風が、すうっと吹いてくることがたまにはあるけれど。この句に詠まれている人、詠んでいる作者、共に涼み人である。今日一日を思いながら涼風に向かって佇む時、誰もが遠い目になる。たまたま居合わせた人の横顔を見るともなく見ると、その姿は心地良い風の中にあって、どこか思いつめたような意志を感じさせる。しばらくして、とくに言葉を交わすこともなく別れたその人の印象が、いと暗き目、に凝縮された時、その時の自分の心のありようをも知ったのだろう。〈風船の中の風船賣の顔〉〈ミツ豆やときどきふつと浮くゑくぼ〉人に向けられた視線が生む句の向こう側に、杉本零という俳人が静かに、確かに存在している。お目にかかって、俳号の由来からうかがってみたかった。句集最後の句は〈みをつくし秋も行く日の照り昃り〉『零』(1989)所収。(今井肖子)


September 1992007

 二人行けど秋の山彦淋しけれ

                           佐藤紅緑

葉狩だろうか。妻と行くのか、恋人と行くのか。まあ、恋多き紅緑自身のことだとすれば後者かも。それはともかく、高々と澄みわたった秋空、陽射しも空気も心地よい。つい「ヤッホー!」と声をあげるか、歌をうたうか、いずれにせよ山彦がかえってくる。(しばらく山彦なんて聴いていないなあ)山彦はどこかしら淋しいひびきをもっているものだが、秋だからなおのこと淋しく感じられるのだろう。淋しいのは山彦だけでなく、山を行く二人のあいだにも淋しい谺が、それとなく生じているのかもしれない。行くほどに淋しさはつのる。春の「山笑ふ」に対して、秋は「山粧ふ」という。たとえみごとな紅葉であっても、「粧ふ」という景色には、華やぎのなかにもやがて衰える虚しさの気配も感じられてしまう。秋の山を行く二人は身も心もルンルン弾んでいるのかもしれないが、ルンルンのかげにある山彦にも心にも、淋しさがつきまとっている。ここは「行けば」ではなくて「行けど」が正解。紅緑が同時に作った句に「秋の山女に逢うて淋しけれ」もある。両方をならべると、「いい気なものだ」という意見も出るかもしれない。されど、紅緑先生なかなかである。紅緑は日本派の俳人として子規に師事したが、俳句の評価はあまり芳しくなく、やがて脚本・小説の世界へ移り、「あゝ玉杯に花うけて」で一世を風靡した。句集に『俳諧紅緑子』『花紅柳緑』があり、死の翌年(1950)に『紅緑句集』が刊行された。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


February 2622008

 あいまいなをとこを捨てる春一番

                           田口風子

週土曜日、2008年2月23日。関東地方では昨年より9日遅く春一番が吹いた。鉄道は運転を一時中止し、老朽化したわが家を揺らすほどの南風は、春を連れてくるというより、冬を吹き飛ばす奔出のエネルギーを感じる。だからこそ、過去を遮断し決断する掲句の意気込みがぴったりくるのだろう。先月末に〈春待つや愚図なをとこを待つごとく 津高里永子〉を採り上げたが、掲句がハッピーエンドの後に控えた後日談に思えてしかたがない。冬の間、かわいいと思った不器用な男も、春先になればなぜか欠点ばかりが見えてくる。なにもかもすてきに思えるロマンス期が過ぎて、恋愛の継続に不安や疑問が頭をもたげる時期に激しい春一番が背中を押してくれたようなものだ。しかし、春一番が吹いたあとは、寒冷前線南下の影響で必ず冷たい日々が待っている。捨てた女の方にだってすぐに幸せが待っているわけではない。どちらも本物の春を目指してがんばれ♪〈秋の声聞く般若面つけしより〉〈すひかづら後ろより髪撫でらるる〉『朱泥の笛』(2008)所収。(土肥あき子)


September 1292008

 星がおちないおちないとおもう秋の宿

                           金子兜太

がおちない、で一息入れて下につづく。山国秩父の夜空だ。鳥取の夜の浜辺で寝ころんで空を見上げているとゆっくり巡っている人工衛星が見えた。海外ではもっとすごいらしい。星がおちてきそう、というのは俗な比喩。秋の宿の「秋の」もむしろおおざっぱなな言い方。ナマの実感の旗を掲げ、俗とおおざっぱを破調の中でエネルギーに転じてぐいぐい押してくる。それが兜太の「俳諧」。加藤楸邨、一茶、山頭火らに共通するところだ。「季題というものは腐臭ぷんぷんたり」とかつて兜太は言った。それは季題にこびりついている古いロマンを本意本情と称して詠うことを揶揄した言葉。兜太の「秋」は洗いざらしの褌のような趣。講談社版『新日本大歳時記』(1999)所載。(今井 聖)


September 1392008

 日の丸を小さく掲げ島の秋

                           阪西敦子

るい句である。日の丸の赤と白、高い空と島を取り囲む海の青、そのコントラストは誰もが感じるだろう。島、というから、そう大きくはない集落。そこにはためく日の丸を、小さく掲げ、としたことで、広がる景は晴々と大きいものになった。日の丸はどこに掲げられてあり、作者の視点がどこにあるのだろう、といったことを考えて読むより、ぱっと見える気持ちのよい秋晴れの島を感じたい。実際は、この句が詠まれた吟行会は、神奈川県の江の島で行われたのであり、日の丸の小旗は、入り江の漁船に掲げられていたのだった。しかし、それとは違う日の丸を思い浮かべたとしても、作者がとらえた晴々とした島の秋は、読み手に十分感じられることだろう。同じ風が吹いているその時に、もっとも生き生きとする吟行句とは一味違って、色褪せない一句と思う。「花鳥諷詠」(2008・七月号)所載。(今井肖子)


August 2682009

 髪を梳く鏡の中の秋となる

                           入船亭扇橋

を梳いている人物は女性であろう。男性である可能性もなくはないが、それでは面白くもおかしくもない。女性でありたい。外はもう秋なのだろうけれど、鏡に見入りながら髪を梳く女性が、今さらのように鏡の中に秋の気配を発見してハッとている驚きがある。いや、鏡の前で乱れた髪を梳いている女性を、後方からそっと覗いている男性が、鏡の中に秋を発見してハッとしているのかもしれない。そのほうが句に色っぽさが加わる。「となる」が動きと驚きを表現している。他にも類想がありそうな設定だが、いつも飄々とした中にうっすらとした色気が漂う高座の扇橋の句として、味わい深いものがある。この人の俳句のキャリアについてはくり返すまでもない。曰く「言いたいことが山ほどあっても、こらえて、こらえて詠む。いわば、我慢の文学。これが俳句の魅力」と語る。この言葉は落語にも通じるように思われる。落語も言いたいことをパアパアしゃべくって、ただ笑いを取ればいいというものではない。「手を揃へ初夏よそほひし若女将」の句もある。扇橋の高座では特に「茄子娘」「弥次郎」などは、何回聴いても飽きることがない。扇橋が当初から宗匠をつとめ、面々が毎月マジメに俳句と戯れる「東京やなぎ句会」は、今年一月になんと四十周年を迎えた。『五・七・五』(2009)所載。(八木忠栄)


September 0992009

 窓に干す下着に路地の秋は棲む

                           大西信行

り気のないなかに、市民の小さなかけがえのない日常が切りとられている句である。路地を歩いていて、ふと目にしたさりげない光景であろう。秋の涼風に吹かれて心地良さそうに乾いてゆく下着、それが男物であろうと女物であろうと、その光景を想起しただけで、秋を受け入れて気持ちがさわやかに解き放たれてくるようにさえ感じられる。しかも、人通りの少ない路地で風に吹かれながら、下着が秋を独占していると考えれば微笑ましいではないか。人間臭い路地の秋が、きれいに洗濯されて干された下着に集約されて、秋が生き物のようにしばし棲んでいるととらえた。そんなところに思いがけず潜んでいる秋は、ことさら愛しいものに感じられてくる。小さくともこころ惹かれる秋である。信行は劇作家で、俳号は獏十(ばくと)。東京やなぎ句会発足時の十名のメンバーのひとり。(俳号通りの「博徒」でいらっしゃるとか…)他に「石垣の石は語らず年果つる」「心太むかしのままの路地の風」などがある。『五・七・五』(2009)所載。(八木忠栄)


October 08102009

 秋の人時計の中に入りゆく

                           松野苑子

場の大時計の窓からおじさんが顔を出し、「おーいこれに掴まれ」と飛行船から落ちそうな男の子にモップブラシを差し出したのは『魔女の宅急便』ワンシーンだった。実際に大時計にいる人でなく芝生に寝転んで遠方の人を何気なく眺めているとその後ろ姿が公園の時計へ吸い込まれてゆくように見えたともとれる。掲句から連想される情景は様々だけど、「時計」と言う言葉が具体物を超えて静かに刻まれる時間をあらわしているように思えるのは「秋の人」の秋が効いているのだろう。夏のあいだ時間を忘れて働いたり遊んだりしていたのに、はやばやと暮れてしまう一日に覚束なさを感じ、うっすらと冷たさを覚える風に自ずと内省的になってゆく。そう思えば道行く人達がそれぞれ見えない時計に入ってゆくように思えてちょっと不思議な心持になった。『真水』(2009)所収。(三宅やよい)


August 2882010

 ひんやりと肌に知りけり島の秋

                           近藤みどり

さに疲れた身には、見た目も音もほっとする言葉、ひんやり。この句は、『ハワイ歳時記 元山玉萩編』(1970・博文堂)にある。海風にいち早く秋を感じるその肌は、ほぼ一年中風と太陽に晒されているわけで、ふと頬や首筋にその気配を感じるというのではなく、全身で秋を知るのだろう。今月半ば、ハワイのマウイ島で、マウイ在住歴2年から50年までの方々と句座を囲む機会に恵まれた。意外に涼しかったホノルルから飛行機で30分、空港に降り立った途端、全身を包んだ風はまぎれもなく秋の匂いがした。「ユーカリ林ももう秋です」「このところ海の色が変わってきました」など、皆さん四季を感じつつ、大きな自然と故郷の言葉を大切に詠んでおられたのが印象深い。表紙に「Hawaii Poem Calendar」とも書かれている島の歳時記、一年中空が美しく毎晩のように星が降るからだろう、「天高し」「流れ星」は載っていない。(今井肖子)


August 3082010

 動物園の汽車ではじまる流離の秋

                           境田静代

い子供といっしょに、動物園の汽車に乗ったのだろう。まだ秋とは名ばかりの暑い日盛りのなかだ。乗っている子供たちはみな無邪気な歓声をあげたりしていて、騒々しくもほほ笑ましい。ガタゴトと揺られている作者の目には、それでも園内に注ぐ日差しに、どことなく真夏のころとは違った趣が感じられ、本格的な秋も遠くはないことを告げられているように写ってくる。やがて、徐々に寂しい季節がやってくるのだ。これを作者は「流離の秋」と表現することにより、季節と人生双方の比喩としたのである。こんなにも楽しい時期はやがて過ぎ去ってしまい、さすらいにも似た困難で長い時間が私たちのところにも訪れてくるのだろう。類想句は探せばありそうだが、動物園の汽車から季節のうつろいを想い人生の行く手を想ったところに、作者のセンスの良さが光っている。さらば、夏の光りよ。そんな感じのほど良いセンチメンタリズムが心地よい。『現代俳句歳時記・秋』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


September 0192010

 二百十日馬の鼻面吹かれけり

                           高田 保

日は二百十日。立春からかぞえて二百十日目にあたる。今夏は世界的に異常気象だったけれど、厄日とされてきたこの日、果たして二百十日の嵐は吹き荒れるのかどうか……。「二百十日」や「二百二十日」といった呼称は、近年あまり聞かれなくなった。かわって「エコ」や「温暖化」という言葉が、やたらに飛びかう時代になりにけり、である。猛暑のせいで、すでに今年の米の実りにも悪しき影響が出ている。さらに早稲はともかく、今の時季に花盛りをむかえる中稲(なかて)にとっては、台風などが大いに気に懸かるところである。ところで、馬の顔が長いということは今さら言うまでもない。長い顔の人のことを「馬づら」どころか、「馬が小田原提灯をくわえたような顔」というすさまじい言い方がある。馬の長い顔は俳句にも詠まれてきた。よく知られている室生犀星の傑作に「沓かけや秋日に伸びる馬の顔」がある。馬はおとなしい。その「どこ吹く風」といった長い鼻面が、二百十日の大風に吹かれているという滑稽。さすがの大風も、人や犬の鼻面に吹くよりは吹きがいがあろう、と冗談を言いたくもなる句ではないか。意外性の強い俳句というわけではないけれど、着眼がおもしろい。小説家・劇作家として活躍した保は、多くの俳句を残している。他に「広重の船にも秋はあるものぞ」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


September 1692010

 新しく忘れるために秋の椅子

                           窪田せつこ

いぶ前の新聞で「知らない事と忘れたという事は違う。忘れることなんか気にしないでただ覚えればいい。そもそも生まれた時からのことをみんな覚えていたら頭がどうかなってしまう」といった言葉が目にとまった。内田百ケン(ケンの表記は門構えに月)だったと思う。もっともこれは学問に関する教えで、砂時計の砂がこぼれおちるように読んだそばから内容を忘れ、薬缶を火にかけていることを忘れ、とりかかろうとしていた用事を忘れてしまう私などとはちょっと事情が違うかもしれない。掲句では「忘れる」不安を一歩進めて、「新しく忘れるために」と言い切ったところがいい。覚えたこともいずれちりちりになってしまうのだから、そんなことは気にせずに椅子に座っておしゃべりをし、本でも読みましょうよ。と、さっぱりした心持ちが秋の爽やかさに通じる。ようやく気温も落ち着いてきて本格的な秋がやってくる。さて新しく忘れるためにお気に入りの椅子に腰かけ図書館で借りてきた本でも広げてみようか。『風』(2009)所収。(三宅やよい)


April 2042011

 万緑も人の情も身に染みて

                           江國 滋

道癌の告知を受け、闘病生活をおくった滋が遺した句集『癌め』はよく知られている。掲句は全部で五四五句収められたうちの一句。この一冊には、おのれの癌と向き合うさまざまに屈折した句が収められている。「死神にあかんべえして四月馬鹿」「おい癌め酌みかはさうぜ秋の酒」などの諧謔的な句にくらべると、掲句は神妙なひびきをたたえている。そこにじつは滋の資質の一端をのぞき見ることができるように思われる。中七以下には、俳句としての特筆すべき要素はないと言っていいけれど、「万緑」とのとり合わせや、その「身」のことを思えば、おのずと深い味わいがにじみ出てくる。詞書に「払暁目が覚め、眠れぬまま、退院後の快気祝ひに添へる句をぼんやり考へる」とあり、「4月19日」の日付がある。当人は「快気祝ひ」を「考へ」(ようとし)ていたということ、また果敢に秋の酒を「酌みかはさう」とも考えていたということ。そのようにおのれを鼓舞するがごとく詠んだ作者の心には、ずっしりと重たい覚悟のようなものがあったと思われる。滋(俳号:酔滋郎)は「おい癌め…」を詠んだ二日後の8月10日についに力尽きた。万緑の句と言えば、草田男の他に上田五千石の「万緑や死は一弾を以て足る」もよく知られている秀句である。『癌め』(1997)所収。(八木忠栄)


May 2552011

 幾度も寝なほす犬や五月雨

                           木下杢太郎

の俳句は「いくたびも……さつきあめ」と読みたい。「さみだれ」の「さ」は「皐月」「早苗」の「さ」とも、稲の植付けのこととも言われ、「みだれ」は「水垂(みだれ)」で「雨」のこと。梅雨どき、降りつづく雨で外歩きが思うようにできない飼犬は、そこいらにドタリとふてくされて寝そべっているしかない。そんなとき犬がよくやるように、所在なくたびたび寝相を変えているのだ。それを見おろしている飼主も、どことなく所在ない思いをしているにちがいない。ただただ降りやまない雨、ただただ寝るともなく寝ているしかない犬。いい加減あがってくれないかなあ。梅雨どきの無聊の時間が、掲句にはゆったりと流れている。杢太郎は詩人だったが、俳句も多い。阿部次郎らと連句の輪講や実作をさかんに試みたそうである。その作風は、きれいな自然の風景を描くといった傾向が強かった。他に「湯壷より鮎つる見えて日てり雨」「杯の蟲取り捨てつ庭の秋」などがある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


August 2282011

 秋が来ますよこんばんはこんばんは

                           市川 葉

京辺りでは、にわかに肌寒くなり秋めいてきました。この句とは裏腹に、何の挨拶もなくづかづかと上がりこんできた感じです。でもこれは例外と言うべきで、普段の年なら季節はそれぞれに挨拶をしながらやってきます。昼間の暑さがおさまって夜涼が感じられはじめると、私たちは秋の訪れと知るわけです。作者はそのことを、秋が「こんばんは」と挨拶しているのだとみなして、こちらからも「こんばんは」と返礼したい気分なのでしょうね。それが涼しい季節を待ちかねていた思いに良く通じていて、読者もまたほっとさせられ微笑することになります。なるほど、秋の挨拶は「こんばんは」ですか。だったら春のそれは「こんにちは」で、夏はきっと「おはよう」でしょうね。冬はどうやら無口のようですから、目礼を交わし合う程度ですませてしまうのかしらん。なかなかに愉快な発想の句で、一度読んだら忘れられなくなりそうです。『春の家』(2011)所収。(清水哲男)


October 05102011

 正面に月を据えたる秋の酒

                           一龍斎貞鳳

識的かもしれないが、まあ、呑んベえなら「秋の酒はこうでありたい」という願いを、絵に描いたような句である。「正面に月」だからではないが、まさしく正面から正攻法で詠まれた、一点の曇りもない句である。月と斜っかいではなく、正面から腰を据えて向き合っている。たまにこういう句に出会うとホッとする。年がら年中、時も場所もわきまえないで、のべつ酒杯をはこぶ左党諸氏にとっても、秋という季節に酌む酒はまた格別であろう。しかも皓々と照る月を正面に眺めながらの酒である。大勢集まってにぎやかに酌むもよし、気の合った二、三人、あるいは一人静かに酌む酒であってもいい。だが、こういう設定は環境的にむずかしくなってきてはいないか。掲句には「四十一年九月二十九日、中秋名月に我が家にて」と詞書が添えられている。貞鳳は言うまでもなく講談師。テレビ・ドラマの「お笑い三人組」で知られたが、昭和四十六年に参議院議員になった。その後、国会対策副委員長、政務次官などを歴任して引退した。俳句は独学二十年。久保田万太郎、富安風生らに私淑したという。随筆集『想ひ川』(1978)には鷹羽狩行選考による「病妻抄」として約三百句が収められている。他に「秋刀魚にも義理人情あるがごと」などの句がある。『講談師ただいま24人』(1968)所収。(八木忠栄)


August 2182012

 右左左右右秋の鳩

                           神野紗希

左左右右、さてなんでしょう。最初足取りを描いたが、それではまるで千鳥足。はたしてこれは首の動きなのだと思い至り、大いに合点した。頭部を小刻みにきょときょとさせる鳩の特徴的な様子を描いているのだ。平和の象徴と呼ばれ、公園などで餌をやる人がいる一方、のべつ動かす首が苦手だという人も多い。なかには他の鳥は許せるが、鳩だけは許せない、羽の色彩や鳴き声まで腹立たしいという強烈なむきもあるが、嫌悪の理由はおしなべて勝手なものである。鳩嫌いの女の子の四コマ漫画『はとがいる』でも、恐怖や目障りな存在をハト的なものとして描いて好評だが、ここにもこの鳥が持つ平和や幸福と相反するイメージへの共感がある。掲句を見て、秋の爽やかさと取るか、残暑の暑苦しさと取るかで、鳩好き、鳩嫌いに分けることができるだろう。ともあれ右と左、これだけで鳩の姿を眼前に映し出すのだから俳句は面白い。実際に爽やかを感じるまで、秋の助走はまだまだ長い。『光まみれの蜂』(2012)所収。(土肥あき子)


September 0892012

 天国はもう秋ですかお父さん

                           塚原 彩

年のこと、ちょっとぐっと来ちゃったんですよ、と言って知人が教えてくれた。「授業 俳句を読む、俳句を作る」(2011・厚徳社)という本の表紙に書かれたこの句に惹かれて思わず買ってしまったという。検索してみると新聞にも取り上げられた有名句とのこと、その素直さが人の心を打つのだろう、一度聞いたら忘れられない。ただ句に対する印象は、時間が経つにつれ変わってきた。初めは、お父さん、という呼びかけが切なく感じられたのだが、だんだん静かで平穏な響きをもつようになってきたのだ。あらためて考えると、もう、という言葉に一番ぴったりくる季節は確かに秋、さびしいというよりしみじみというところか。青さの増してきた空一面にひろがる鰯雲を見上げていた作者は、この句の言葉遣いの折り目正しさそのままに、背筋を伸ばして前を向いて生きていることだろう。(今井肖子)


September 1192012

 河童の仕業とは秋水のふと濁り

                           福井隆子

詞に「遠野」とある。ざんばら髪で赤い顔といわれる遠野の河童は、飢饉のむかし、川に捨てられた幼い子どもたちが成仏できずに悪さをしているという伝承もある。土地の語り部の話を聞くともなしに聞く視線の先に、川の水がふと濁っているのを見つける。信じるも信じないもない話だが、信じてあげたいような気持ちにもなる。哀れな運命をたどった子どもは確かに存在したのだろう。そして、それをしなければならなかった親たちも。時を越えて同じ水辺に立ち、同じ木漏れ日のなかで、強引に伝わってくるものがある。それは悲しみとも、恨みとも言いようのない、ただひたすら「ふと」感じるなにかである。河童といわれるものの正体は背格好といい、相撲を取るような習性といい、もっとも有力だといわれてきたカワウソも、先日絶滅が報じられた。心の重荷をときに軽くし、あるいは決して忘れることのないよう河童伝説にひと役かっていた芸達者が消えてしまったとは、なんともさびしいことである。〈秋天に開き秋天色の玻璃〉〈秋口のものを煮てゐる火色かな〉『手毬唄』(2012)所収。(土肥あき子)


October 19102012

 誰彼もあらず一天自尊の秋

                           飯田蛇笏

名な句だ。蛇笏の臨終の句とも辞世の句とも言われている。一方で最後の句集の末尾に載っているのでそう言われているだけで単なる句集の配列でそうなったのだという説もある。解釈に於いてもさまざまあるようだ。自尊は蛇笏自身を言ったもので天に喩えて自らの矜持を詠んでいるという鑑賞もあるが、僕は、天=自分の喩えではなく天そのものを擬人法で捉えた句と読みたい。世事のあれこれはどうでもいいこと。天は天として自ずから厳然と超然と存在している。そんな秋である。というふうに。『蛇笏・龍太の山河』(2001)所収。(今井 聖)


October 20102012

 カステラが胃に落ちてゆく昼の秋

                           大野林火

日句会で、昼の秋、という言葉を初めて見た。作者は二十代後半、ラーメンを食べる句だったが、秋という言葉の持つもの淋しさとも爽やかさとも違う、不思議な明るさが印象的だった。掲出句は昭和九年、作者三十歳の作。八十年近い時を経て、同年代の青年が健やかに食べている。秋晴れの真昼間、空が青くて確かにお腹も空きそう、カステラがまた昭和だなあ、などとのんきに思いながら、昭和九年がどんな年だったのかと見ると、不況の中、東北地方大冷害、凶作、室戸台風など災害の多い年だったとある。だとすれば健やかより切実、一切れのふわふわ甘い卵色のカステラが、その日初めて口にした食べ物だったかもしれない。だからこその、胃に落ちてゆく、なのか。なるほどと思いながら、昼の秋、の明るさがどこかしみじみとして来るのだった。『海門』(1939)所収。(今井肖子)


September 2192013

 丁寧に秋のビールを注がるる

                           澤田和弥

は一年中ほとんどビールしか飲まなかった。四季を問わず、トマトと豆腐とラガーの大瓶で始まる晩酌、気に入りの小さいグラスでゆっくり延々と飲むのが好きだったがそのうちさすがに、あと一本は飲めない、と調節用に缶ビールを買うようになった。缶はどれも同じだなあ、などと言いながら、グラスに注いでいたのを思い出す。そんな光景がしみついているからか、ビールといえば夏、と実感しにくいのだが、秋のビール、と言われると、しみじみとした季感と共に冷えすぎていない茶色の壜麦酒が浮かぶ。麦酒が注がれるグラスにそそがれる二人の視線、静かに注いでくれているその人と、それを丁寧と表現する作者、美味しい麦酒と一緒に長い夜がつづく。『革命前夜』(2013)所収。(今井肖子)


September 2492013

 星の座の整つてくる虫しぐれ

                           前田攝子

月末、天文愛好家が「天体観測の宝庫」と賞賛するあぶくま高原に星を見に行った。昼の暑さはまだ夏のものだったが、山から闇がしみだしてくるような午後7時を回る頃には気温もすっかり下がり、長袖でなくては寒いほどだった。細やかな星のきらめきのなかで天の川に翼をかけたはくちょう座が天体から離れると、秋のくじら座が姿をあらわす。爽やかな空気のなかで、星たちは冴え冴えと輝きを増し、大きな部屋に描かれた天井絵を掛け替えるように、天体の図柄が変わる。秋の役者が揃ったところで、虫しぐれが地上でやんやの喝采をあげる。星座に虫の名を探してみるとひとつきり、それもハエ。なんとも残念なことだ。名前のない小さな星たちを集めて、秋の空にすずむし座やこおろぎ座を据えて、地上と天上の大合唱の間に身を置く空想を今夜は描いてみよう。〈舵取も荷積みも一人秋高し〉〈水に置きたき深秋の石ひとつ〉『晴好』(2013)所収。(土肥あき子)


May 1452014

 地球儀のあをきひかりの五月来ぬ

                           木下夕爾

の開花→満開→花吹雪、桜前線北上などと、誰もが桜にすっかり追いまわされた四月。その花騒動がようやくおさまると、追いかけるように若葉と新緑が萌える五月到来である。俳句には多く「五月かな」とか「五月来ぬ」「五月来る」と詠まれてきた。世間には一部「五月病」なる病いもあるけれど、まあ、誰にとっても気持ちが晴ればれとする、うれしい季節と言っていいだろう。「少年の素足吸ひつく五月の巌」(草間時彦)という句が思い出される。最近の新聞のアンケート結果で、「青」が最も好まれる色としてランクされていた。「知的で神秘的なイメージがあり、理性や洗練を表現できる」という。世界初の宇宙飛行士ガガーリンの「地球は青かった」という名文句があったけれど、地球儀だって見方によって、風薫る五月には青く輝いて見えるにちがいない。地球儀が青い光を発しているというわけではないが、外の青葉若葉が地球儀に映っているのかも知れない。ここは作者の五月の清新な心が、知的な青い光を発見しているのであろう。夕爾は他にも、地球儀をこんなふうに繊細に詠んでいる。「地球儀のうしろの夜の秋の闇」。『全季俳句歳時記』(2013)所収。(八木忠栄)


September 0892014

 しとしては水足す秋のからだかな

                           矢島渚男

の句を読んで思い出した句がある。「人間は管より成れる日短」(川崎展宏)。人間の「からだ」の構造を単純化してしまえば、たしかに「管(くだ)」の集積体と言える。記憶に間違いがなければ、もっと単純化して「人間は一本の管である」と言ったフランスの詩人もいた。つまり、人間をせんじ詰めれば、口から肛門までの一本の管に過ぎないではないかというわけだ。そんな人間同士が恋をしたり喧嘩をしたりしていると思えば、どこか滑稽でもあり物悲しくもある。飲む水は、身体の管を降りてゆく。夏の暑さのなかでは実感されないが、涼しい秋ともなれば、降りてゆく水の冷たさがはっきりと自覚される。飲む目的も夏のように強引に渇きを癒すためではなく、たとえば薬を飲むときだとか、何か他の目的のためだから、ますます補給の観念が伴ってくる。だからこの句の着想は、秋の水を飲んでいるときに咄嗟に得たものだろう。一見理屈のかった句のように見えるけれど、実際は飲み下す水の冷たさの実感から成った句だと読んだ。実感だからこその、理屈をこえた説得力がある。『天衣』(1987)所収。(清水哲男)


September 2492014

 京に二日また鎌倉の秋憶ふ

                           夏目漱石

石の俳句については、ここで改めて云々する必要はあるまい。掲句は漱石の未発表句として、「朝日新聞」(2014.8.13)に大きくとりあげられていたもの。記事によると、明治30年8月23日付で正岡子規に送った書簡に付された九句のうち、掲句を含む二句が未発表だという。当時、熊本で先生をしていた漱石が帰京して、根岸の子規庵での句会に参加した。この書簡は翌日子規に届けられたもの。そのころ妻鏡子は体調を崩し、鎌倉の別荘で療養していた。前書には「愚妻病気 心元なき故本日又鎌倉に赴く」とある。東京に二日滞在して句会もさることながら、秋の鎌倉で療養している妻を案じているのであろう。療養ゆえ、秋の「鎌倉」がきいているし、妻を思う漱石の心がしのばれる。未発表のもう一句は「禅寺や只秋立つと聞くからに」。こちらは前書に「円覚寺にて」とある。同じ年、妻を残して熊本へ行く際、漱石が詠んだ句「月へ行く漱石妻を忘れたり」は、句集に収められている。(八木忠栄)


September 2992014

 人知れず秋めくものに切手帳

                           西原天気

の回転のはやい人なら、「秋」を「飽き」にかけて読んでしまうかもしれない。それでも誤読とまでは言えないが、なんだか味気ない読みになってしまう。どこにも「飽き」なんて書いてない。「秋」はあくまでも「秋」である。中学時代、私もいっぱしの(つもり)の切手コレクターであった。半世紀以上経たいまでも、切手専用のピンセットのことや貼り付けるためのヒンジ、ストックブック(切手帳)ならドイツ・ライトハウス社製の重厚な感触など、いろいろと思い出すことができる。なけなしの小遣いをはたいて切手の通信販売につぎ込み、カタログを睨んで一点ずつ集めていたころが懐かしい。そうした熱気の頃を夏とすれば、やがて訪れてくるのは「秋」である。この時季にさしかかると、さながら充実した木の実が木を離れてゆくように、切手への興味が薄れていく。飽きるからではなく、実りが過剰になるからなのだ。つまり「人知れず秋めく」わけだが、この感覚はコレクターを体験しないとわからないかもしれないな。「はがきハイク」(第10号・2014年9月)所載。(清水哲男)


October 08102014

 屋根草も実となる秋となりにけり

                           巌谷小波

ほど草深い田舎へ行けば、あるいはこうした風景をまだ見ることができるかもしれないけれど、今や昔懐かしい風景になったと言っていい。古びた藁屋根(屑屋根とも呼ばれた)に何かの草がはえて、元気よく成長して風に吹かれているのを見たことがある。(風流などと言う勿れ。電子辞書を引いても、「藁屋根」「屑屋根」という言葉は出てこない)秋になればさらに実をつけるものもある。昔の田舎では珍しくなかった風景を、ユーモラスにとらえている。そういう家では、屋根にはえる草などにかまっていられなかったのだろう。ユーモラスでのんびりとした時間が、屋根草にも実をつけていたのだ。10年ほど前に韓国を旅してある農村を通りかかった際、藁屋根に大きなカボチャがどっしりと、いい色合いで実っていたのを目撃して、思わずワァーと声をあげた。「……なる……なりにけり……」のリズムが快い。小波の句には「桜さく日本に生まれ男かな」があり、芝増上寺の句碑に刻まれているという。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


October 18102014

 なによりも会いたし秋の陽になって

                           佐々木貴子

秋の日差し、遠くなつかしいその色合いと肌ざわりは自分の中で季節が巡ってくるたびに、ああ、と思いあれこれ作っては消えるテーマの一つになっている。この句は、なかなか言葉にならなかった一コマを浮かび上がらせてくれた気がして、そんな気がしたことに自分で驚いた句である。会いたい、という主観が前面に出ているし、一文字が語りすぎるからなるべく、陽、ではなく、日、を使う方がよい、と言われて来たのだがそれらを超え、光の色が広がる。なによりも、と、会いたし、のたたみかける強さと、陽、の持つ明るさがありながら、そこに広がる光は不思議なほど静かに心象風景とシンクロしたのだが、読み手によって印象が違うと思われ、それも魅力だろう。『ユリウス』(2013)所収。(今井肖子)


October 26102014

 薪在り灰在り鳥の渡るかな

                           永田耕衣

者自ら超時代性を掲げていたように、昔も今も変わらない、人の暮らしと渡り鳥です。ただし、都市生活者には薪も灰も無い方が多いでしょう。それでもガスを付けたり消したり、電熱器もonとoffをくり返します。不易流行の人と自然の営みを、さらりと明瞭に伝えています。永田耕衣は哲学的だ、禅的だと言われます。本人も、俳句が人生的、哲学的であることを理想としていました。私は、それを踏まえて耕衣の句には、明るくて飽きない実感があります。それは、歯切れのよさが明るい調べを 与えてくれ、意外で時に意味不明な言葉遣いが面白く、飽きさせないからです。たぶん、意味性に関して突き抜けている面があり、それが禅的な印象と重なるのかもしれません。ただし、耕衣の句のいくつかに共通する特質として、収支決算がプラスマイナス0、という点があります。掲句の薪は灰となり、鳥は来てまた還る。たとえば、「秋雨や我に施す我の在る」「恥かしや行きて還つて秋の暮」「強秋(こわあき)や我に残んの一死在り」「我熟す寂しさ熟す西日燦」「鰊そばうまい分だけ我は死す」。遊びの目的は、遊びそのものであると言ったのは『ホモ・ルーデンス』のホイジンガですが、それに倣って、俳句の目的は俳句そのものであって、つまり、俳句を作り、俳句を読むことだけであって、そこに 意味を見いだすことではないことを、いつも意味を追いかけてしまいがちな私は、耕衣から、きつく叱られるのであります。『永田耕衣五百句』(1999)所収。(小笠原高志)


February 1822015

 雪晴れて杉一つ一つ立ちにけり

                           川端康成

が降ったあとの晴天は格別気持ちがいい。冬とはいえ、文字通り気分も晴れ晴れする。雪が少々枝葉にまだ残っている杉の山を前にしているのだろうか。冬場の杉の木は、特に遠くからは黒々として眺められる。だから杉の木の一つ一つが、あたかも意志をもって立っているかのように目に写っている。「立ちにけり」としたことで、杉の木の意志のようなものを作者は特別に感じているのだ。あのギョロリとした康成の眼も感じられないだろうか。晴れの日、曇りの日、雪の日、それぞれ杉の木も天候によってちがって見える。ここは松などではなく、スッとまっすぐに立つ杉でなくては、雪晴れとのすっきりとしたバランスがとれない。康成の句を評して、村山古郷は俳句の立場から「非常に高い象徴性、陰影と余韻に富んだその文章は、俳句表現の省略法と集注法を加味した点で、俳句的な独自な文体といえるのではあるまいか」と評している。康成にはいくつかの俳句があり、「先づ一羽鶴渡り来る空の秋」もその一つ。『文人俳句歳時記』(1969)」所収。(八木忠栄)


September 0992015

 あたらしき電信ばしらならぶ秋

                           松本邦吉

上から電信柱は年々減ってきている。とくに市街地では電線は地中に移設されつつあり、この点、地上はちょっと淋しくなってきた。電線を電信柱で走らせない、そんな文化は私にはあまり望ましいとは思えない。そんな思いでいるから「あたらしき電信ばしら」はうれしい。子どものころから、田舎でも道路沿いにずらりと立っていた丸木を削っただけの、コールタールが塗られた電信柱はお馴染みだった(およそ30メートル間隔なんだそうだ)。その下あたりで、われらガキどもはかくれんぼや陣取りなどをしてよく遊んだ。この電線と電信柱は、どこからきてどこまで続いているのだろうかと考えると、いっとき気が遠くなりそうになった。電信柱に器用にのぼる電気工夫には、憧憬さえ覚えたものだ。この句の「電信ばしら」は木なのか鉄材なのかわからないが、何かしら幸せを運んでゆくにちがいない。電信柱が初めて東京〜横浜間に設置されたのは1869年だという。秋は空気が澄みきっているから、「あたらしき電信ばしら」がどこまでもずっと見わたせる、そんな光景。邦吉の『しずかな人 春の海』(2015)には、詩と一緒に春〜冬・新年の句が何句も収められている。他に「秋の空ながめてをれば無きごとし」など。(八木忠栄)


November 18112015

 秋地獄ぺらぺらまはる風車

                           井口時男

獄とはこの場合、下北半島の霊場恐山を指している。私も二回ほど訪ねたことがある。広い境内には賽の河原と呼ばれる、子ども供養の荒涼たる岩場がある。色とりどりの可愛い風車(かざぐるま)が風を受けて盛んにまわり、小石が積まれ、お菓子が供えられている。供花のかわりに、あちこちに差されたセルロイドの風車が「ぺらぺら」と、どこやらもの悲しく寂しい風情で秋風を受けてまわっているのである。「ぺらぺら」は儚く寂しい響きをこぼしている。ブルーの色鮮やかな宇曽利湖を背景にして、亜硫酸ガスで硫黄臭く、白い岩場が広がる光景が見えてくる。これはこれでこの世の地獄。境内にはひそやかな温泉小屋があって、寒々しさは拭いようがない。イタコによる口寄せも行われている。一度は訪ねてみたい霊場である。句集には「恐山五句」として、掲出句と「口寄せを盗み聴くときすすき揺れ」他がならぶ。文芸批評家の第一句集である。『天來の獨樂』(2015)所収。(八木忠栄)




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