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September 0991996

 菊を詰め箱詰めにしたい女あり

                           田中久美子

意の句は珍しい。だから、女はコワい。と、思っては、実はいけない。……のではないか。何度か読んでいるうちに、どこかで笑えてくる。奇妙な味。本質はユーモアだ。作者は俳人ではなくて、詩人。宮下和子と二人で同人誌「飴玉」を出している。いつだったか、一緒にビールを飲んだことがあるが、秋風のように繊細にして才気あふれる女性であった。『む印俳句』所収。(清水哲男)


October 20101996

 菊の香やならには古き仏達

                           松尾芭蕉

暦九月九日(今年は今日にあたる)は、重陽(ちょうよう)。菊の節句。この句は元禄七年(1694)九月九日の作。前日八日に故郷の伊賀を出た芭蕉は、奈良に一泊。この日、奈良より大阪に向かった。いまでこそ忘れ去られている重陽の日だが、江戸期には、庶民の間でも菊酒を飲み栗飯を食べて祝った。はからずも古都にあった芭蕉の創作欲がわかないはずはない。そこでひねり出したのが、つとに有名なこの一句。仕上がりは完璧。秋の奈良の空気を、たった十七文字でつかんでみせた腕の冴え。いかによくできた絵葉書でも、ここまでは到達できないだろう。(清水哲男)


October 24101996

 清水を祇園へ下る菊の雨

                           田中冬二

の句は、もちろん与謝野晶子の有名な歌を意識している。というよりも、対抗しているというべきか。「桜月夜」に対して「菊の雨」。「春」対「秋」。しかし、勝敗の帰趨は明らかで、冬二の完敗である。情感のふくらみで劣っている。田中冬二は『青い夜道』『海の見える石段』などの著書を持つ著名な抒情詩人だが、俳句もよくした。例外はあるとしても、どうも詩人の句には貧弱なものが多い。冬二ほどの凄い詩人でも、この始末。悪い句ではないけれど、イメージ的に何か物足らないのである。天は二物を与えないということだろうか。『若葉雨』所収。(清水哲男)


September 2591997

 闇にただよふ菊の香三十路近づきくる

                           中嶋秀子

ろうとして床につくが、なかなか寝つけない。部屋に活けた菊の濃密な香がただよっていて、心なしか息苦しい感じさえする。思えば、三十路も間近だ。もうそんなに若くはないのだから、もっとしゃんとしなければという自戒の念。三十路に対しては、男よりも女のほうが敏感だろう。このとき作者は結婚しているが、現代の「結婚しない女たち」にとっても、三十路に入る心境は複雑なようだ。新聞や雑誌が、繰り返してそんな女性たちのレポートを載せている。『花響』所収。(清水哲男)


March 0331998

 釘を打つ日陰の音の雛祭

                           北野平八

者は雛の部屋にいるわけではない。麗かな春の日。そういえば「今日は雛祭だったな」と心なごむ思いの耳に、日陰のほうから誰かの釘を打つ音が聞こえてきた。雛祭とは関わりのない生活の音だ。この対比が絶妙である。明と暗というほどに鮮明な対比ではなく、やや焦点をずらすところが、平八句の真骨頂だ。事物や現象をややずらして相対化するとき、そこに浮き上がってくるのは、人が人として生きている様態のやるせなさや、いとおしさだろう。言うならば、たとえばテレビ的表現のように一点に集中しては捉えられない人生の機微を、平八の「やや」がきちんとすくいあげている。先生であった桂信子は「ややの平八」と評していたころもあるそうだが、「しらぎくにひるの疲れのやや見ゆる」など、「やや句」の多い人だったという。「やや」と口ごもり、どうしてもはっきりと物を言うわけにはまいらないというところで、北野平八は天性の詩人だったと思う。多くの人にとっての今日の雛祭も、多くこのようなさりげない情感のなかにあるのだろう。作者は1986年文化の日に肺癌のため死去。享年六十七歳であった。『北野平八句集』(1987)所収。(清水哲男)


November 07111998

 あるほどの菊抛げ入れよ棺の中

                           夏目漱石

来数ある追悼吟のなかでも、屈指の名作と言えるだろう。手向けられたのは、大塚楠緒子という女性だ。楠緒子は、漱石の親友で美学者の大塚保治の夫人だった。短歌をよくした人で、漱石終生の恋人であったという説もある。彼女の訃報を、漱石は病中に聞いた。日記に「床の中で楠緒子さんの為に手向の句を作る」とある。句意は説明するまでもなく明らかだが、「抛(な)げ入れよ」という命令形が作者の悲嘆をよく表現しえている。誰にというのでもなく、やり場のない悲しみが咄嗟に激情的に吐かせた命令口調だ。漱石は俳句を、おおむね「現実とはちがう別天地のようなものとして」(坪内稔典)楽しんでいたのであるが、このときばかりは事情が違った。人生の非情を全身で受けとめ、現実をカッと睨み据えている。不自由な病床にあったことも手伝って、この睨み据えは全霊的であり、そのただならぬ気配には鬼気迫るものがある。挨拶としての哀悼をはるかに越えた作者の慟哭が、読む者にも泣けとごとくに伝わってくる。名作と言う所以である。『漱石俳句集』(岩波文庫・1990)所収。(清水哲男)


November 09111999

 推理小説りんごの芯に行き当たる

                           小枝恵美子

理小説は「行き当たる」楽しさを求めて読む読み物だ。複雑に設定された謎を、作家に導かれながら解いていく楽しみは、夜長の季節にこそふさわしい。句の作者は、林檎を齧りながら、そんな本のページに心を奪われている。夢中になって読みふけっているうちに、あろうことかガリッと「行き当たった」のは、作中の犯人にではなく、林檎の芯だったという苦い可笑しさ。いや、酸っぱい可笑しさ。びっくりして、思わず手にした林檎の様子を見つめている作者の顔が見えるようである。伝統的な「花鳥諷詠」とは懸け離れた次元で、俳句はかくのごとくに現代生活の機微を表現できるという見本にしたいような作品だ。作者は俳誌「船団」(大阪)のメンバーで、他にも「ケンタッキーのおじさんのような菊花展」「りんご剥くクレヨンしんちゃん舌を出す」などの愉快な句がある。俳句をはじめてまだ六年だそうだが、この自由闊達な詠みぶりからして、今後のそれこそ「行き当たる」ところの愉しみな人だ。『ポケット』(1999)所収。(清水哲男)


October 24102000

 懸崖に菊見るといふ遠さあり

                           後藤夜半

ろそろ菊花展のシーズンだ。昨秋は、神代植物園(東京・調布)に見に行った。ああいうところに、花の盛りを揃えて出展する人は、さぞや神経を使うのだろう。花を見ていると、そんなことが思われて、ただ見事だなというだけではすまない。花の真横に、育てた人が心配げに立っているような雰囲気がある。生花ではあるが、造花なのだ。「懸崖(けんがい)」は「幹または茎が根よりも低く垂れ下がるように作った盆栽[広辞苑第五版]」。たしかに懸崖の菊を見るには、ある程度の「遠さ」が必要となる。近くでは、全体像をつかめない。敷衍すれば、何かを見るときには見るための「遠さ」が必要ということであり、これは菊花のような実像だけではなく、虚像においても幻像においても同様だろう。当たり前と言えば当たり前。だが、この当たり前に感じ入る心は、俳句という装置の生みだしたものだ。俳句でなければ、この「遠さ」に着目するチャンスはなかなかないだろう。三島由紀夫の小説の叙景には「遠近感」がない。その位置からは遠くて見えないはずの景色のディテールを、目の前で見ているように書く。そう言ったのは磯田光一だったと記憶するが、小説家には案外遠近の意識は薄いのかもしれない。だとすれば、小説という装置がそうさせるのだと思う。『底紅』(1978)所収。(清水哲男)


October 21102001

 夜の菊や胴のぬくみの座頭金

                           竹中 宏

代劇めかしてはいるけれど、作者はいまの人であるからして、現代の心情を詠んだ句だ。昔もいまも金(かね)に追いつめられた人の心情は共通だから、こういう婉曲表現を採っても、わかる人にはわかるということだろう。「座頭金(ざとうがね)」とは「江戸時代、座頭が幕府の許可を得て高利で貸し付けた金」(『広辞苑』)のこと。どうしても必要な金が工面できずに、ついに高利の金に手を出してしまった。たしかに「胴」巻きのなかには唸るような金があり、それなりの「ぬくみ」はある。これで、当座はしのげる。ひとまずホッと息をついている目に、純白の「夜の菊」が写った。オノレに恥じることなきや。後悔の念なきや。こういうときには、普段ならなんとも思わない花にまで糾弾されているような気になるものだ。ましてや、相手は凛とした「菊」の花だから、たまらない気持ちにさせられる。ここでつまらない私の苦労話を持ち出すつもりはないが、作者が同時期にまた「征旅の朝倒産の昼それらの秋」と詠んでいるのがひどく気にかかる。「征旅(せいりょ)」は、戦いへの旅である。ここで復習しておきたいのは、べつに俳句は事実をそのままに詠むものではないということではあるが、さりとても、さりながら……気にかかる。フィクションであってほしいな。俳誌「翔臨」(第43号・2001)所載。(清水哲男)


November 02112001

 菊添ふやまた重箱に鮭の魚

                           服部嵐雪

諧の宗匠は忙しい。連日のように、あちらこちらの句会に顔を出さねばならぬ。したがって食事は外食が多く、嵐雪の時代にはその都度「重箱」を開くことになるわけだ。この日の膳の上には「菊」が添えてあり、おっなかなかに風流なことよと蓋を取ってみて、がっかり。またしてもメインのおかずは「鮭(さけ)」ではないか。このところ、どこへ行っても鮭ばかりが出る。いくら旬だといえども「もう、うんざりだ」と閉口している図だろう。「鮭の魚(うお、あるいは「いお」と読ませるのかも)」と留めたのは、「鮭」と留めると字足らずになるからではなくて、「鮭」にあえて「魚」と念を押すことで、コンチクショウメという意味の、ちょっと語気を荒げたような感じを表現したかったためだと思う。今風に言えば、料亭の飯にうんざりしているどこぞのおエライさんのような贅沢にも思えるが、江戸元禄期あたりの「重箱」は、現代の仕出し弁当に近かったようだ。たとえば正月用の「重箱料理」などの豪華さは、もっと後の時代(18世紀半ばくらい)からのものらしい。となれば、嵐雪のがっかりにも納得がいく。いまの仕出し弁当もたまにはよいが、連日となると辟易するだろう。その昔、人気絶頂のタイガー・マスクが、控室でしょんぼりと仕出し弁当をつついていた姿を思い出した。きっと、うんざりしてたんだな。(清水哲男)


August 2482003

 雀蛤と化して食はれけるかも

                           櫂未知子

つけたっ、珍季語句。このところいささか理屈っぽくなっていたので、理屈抜きで楽しめる句を探していたら、掲句にぶつかった。季語は「雀蛤と化す(なる)」で秋。もはやほとんどの歳時記から姿を消している季語であり、ついぞ実作を見かけたこともない。手元の辞書に、こうある。「雀海中(かいちゅう)[=海・大水(たいすい)・水]に入(い)って蛤(はまぐり)となる(「国語‐晋語九」による)。物がよく変化することのたとえ。古くから中国で信じられていた俗信で、雀が晩秋に海辺に群れて騒ぐところから、蛤になるものと考えたものという」。日常的にはあくまでも「たとえ」として諺的に使われてきた言葉なのだが、これを作者がいわば「実話」として扱ったところに、楽しさが出た。あたら蛤なんぞにならなければ、食われることもなかったろうに……。ほんとに、そうだなあ。たまには、こうやって俳句を遊んでみるのも精神衛生には良いですね。ちなみに、この季語で夏目漱石が「蛤とならざるをいたみ菊の露」と詠んでいる。ついに蛤になるに至らず死んだ雀を悼んだ句だ。死骸を白菊の根元に埋めてやったという。しかし、これも「たとえ」ではなく「実話」としての扱いである。現代俳人では、たとえば加藤静夫に「木登りの木も減り雀蛤に」があるが、これまた「木」と「雀」がイメージ的に結びついていることから、どちらかと言うとやはり「実話」色が濃い。どなたか、諺的な「たとえ」の意味でチャレンジしてみてください。『蒙古斑』(2000)所収。(清水哲男)


October 05102003

 足場から見えたる菊と煙かな

                           永末恵子

ういう句は好きですね。高い「足場」に登って見渡したら「菊と煙」とが見えた。ただそれだけのことながら、よく晴れた秋の日の空気が気持ち良く伝わってくる。工事現場の足場だろうか。ただし、登っているのは作者ではない。作者は、登って仕事をしている人を下から見上げている。高いところに登れば、地面にいては見られないいろいろなものが一望できるだろう。あの人には、いま遠くに何が見えているのか。と、ちらりと想像したときに、作者は瞬間的に「菊と煙」にちがいないと思ったのだ。そうであれば素敵だなと、願ったと言ってもよい。菊と煙とは何の関係もないけれど、理屈をつければ菊は秋を代表する花だし、立ち昇るひとすじの煙ははかなげで秋思の感覚につながって見える。でも、こんな理屈は作者の意にはそぐわないだろう。作者は、もっと意識的に感覚的である。だから読者が感心すべきは、見えているはずのいろいろなものから、あえて菊と煙だけを取りあわせて選択したセンスに対してだ。ナンセンスと言えばナンセンス。しかし、このナンセンスは作者のセンスの良さを明瞭に示している。試みに、菊と煙を別のものに置き換えてみれば、このことがよくわかる。むろん私はやってみたけれど、秋晴れの雰囲気を出すとなると、「菊と煙」以上のイメージを生むことは非常に難しい。ただ工事現場を通りかかっただけなのに、こんなふうに想像をめぐらすことのできるセンスは素晴らしいというしかない。羨ましいかぎりだ。もう一句。「秋半ば双子の一人靴をはく」。いいでしょ、このセンスも。『ゆらのとを』(2003)所収。(清水哲男)


April 1142004

 パンジーや父の死以後の小平和

                           草間時彦

語は「パンジー」で春。「菫(すみれ)」に分類。自筆年譜の三十九歳の項に「父時光逝去。生涯、身辺から女性の香りが絶えなかった人である。没後、乱れに乱れた家庭の始末に追われる」(1959年11月)とある。いわゆる遊び人だったのだろう。借財も多かったようだ。それでも「菊の香や父の屍へささやく母」「南天や妻の涙はこぼるるまま」と、家族はみな優しかった。句は、そんな迷惑をかけられどおしの父親が逝き、ようやく静かな暮らしを得ての感懐だ。春光を浴びて庭先に咲くパンジーが、ことのほか目に沁みる。どこにでもあるような花だけれど、作者はしみじみと見つめている。心がすさんでいた日々には、こんなにも小さな花に見入ったことはなかっただろう。このときに「パンジー」と「小平和」とはつき過ぎかもしれないが、こういう句ではむしろつき過ぎのほうが効果的だろう。こねくりまわした取りあわせよりも、このほうが安堵した気持ちが素朴に滲み出てくる。つき過ぎも、一概には否定できないのである。それにしても、花の表情とは面白いものだ。我が家の近所には花好きのお宅が多く、それぞれが四季折々に色々な花を咲かせては楽しませてくれる。パンジーなどの小さな花が好きなお宅、辛夷や木蓮など木の花が好きなお宅、あるいは薔薇しか咲かせないお宅や黄色い花にこだわるお宅もあったりする。通りがかりの庭にそうした花々を見かけると、咲かせたお宅の暮らしぶりまでがなんとなく伺えるような気がして微笑ましい。間もなく、いつも通る道のお宅に、私の大好きな小手毬の花が咲く。毎年、楽しみにしている。『中年』(1965)所収。(清水哲男)


October 11102007

 菊の香や仕舞忘れてゐしごとし

                           郡司正勝

は天皇家の紋章にもなっているので古くから日本独自の花と思っていたがそうではないらしい。万葉集に菊の歌は一首も含まれていないという。奈良時代、まずは薬草として中国から渡来したのが始まりとか。中国では菊に邪を退け、長寿の効能があるとされている。杉田久女が虚子へ贈った菊枕はその言い伝えにあやかったのだろう。沈丁花や金木犀は街角で強く匂ってどこに木があるのか思わず探したくなる自己主張の強い香りだが、菊の香はそこはかとなく淡く、それでいて心にひっかかる匂いのように思う。菊は仏事に使われることも多く、掲句の場合も大切な故人の思い出と結びついているのかもしれない。胸の奥に仕舞いこんだはずなのに、折にふれかすかな痛みをともなって浮き沈みする記憶とひっそりとした菊の香とが静謐なバランスで表現されている。作者の郡司正勝は歌舞伎から土方巽の暗黒舞踏まで独自の劇評を書き続けた。「俳句は病床でしか作らない」とあとがきに綴っているが、句に湿った翳りはなく「寝るまでのこの世の月を見てをりぬ」など晩年の句でありながら孤独の華やぎのようなものが感じられる。『ひとつ水』(1990)所収。(三宅やよい)


October 20102007

 ひたと閉づ玻璃戸の外の風の菊

                           松本たかし

かし全集に、枯菊の句が十句並んでいる年がある。菊は秋季、枯菊は冬季。二句目に、〈いつくしみ育てし老の菊枯れぬ〉とあり、〈枯菊に虹が走りぬ蜘蛛の絲〉と続いている。この時たかし二十七歳、菊をいつくしむとは昔の青年は渋い、などと思っていたが、十月十一日の増俳の、「菊の香はそこはかとなく淡く、それでいて心にひっかかる」という三宅やよいさんの一文に、菊を好むたかしの心情を思った。掲句はその翌年の作。ひたと、は、直と、であり、ぴったりとの意で、一(ひと)と同源という。今、玻璃戸の外の風の、と入力すると、親切に《「の」の連続》と注意してくれる。その、「の」の重なりに、読みながら、何なんだろう何があるんだろう、と思うと、菊。ガラス戸の外には、相当強い風が吹いている。菊は、茎もしっかりしており、花びらも風に舞うような風情はない。風がつきものではない菊を、風の菊、と詠むことで、風が吹くほどにむしろその強さを見せている菊の本性が描かれている。前書きに、病臥二句、とあるうちの一句。病弱であった作者は、菊の強さにも惹かれていたのかもしれない。「たかし全集」(1965・笛発行所)所載。(今井肖子)


November 05112007

 影待や菊の香のする豆腐串

                           松尾芭蕉

蕉の句集を拾い読みしているうちに、「おっ、美味そうだなあ」と目に止めた句だ。前書に「岱水(たいすい)亭にて」とある。岱水は蕉門の一人で、芭蕉庵の近くに住んでいたようだ。「影待(かげまち)」とは聞きなれない言葉だが、旧暦の正月、五月、そして九月に行われていた行事のことである。それぞれの月の吉日に、徹夜をして朝日の上がるのを待つ行事だった。その待ち方にもいろいろあって、信心深い人は坊さんを呼んでお経をあげてもらうなどしていたそうだが、多くは眠気覚ましのために人を集めて宴会をやっていたらしい。西鶴の、あの何ともやりきれない「おさん茂兵衛」の悲劇の発端にも、この影待(徹夜の宴会)がからんでいる。岱水に招かれた芭蕉は、串豆腐をご馳走になっている。電気のない頃のことだから、薄暗い燈火の下で豆腐の白さは際立ち、折りから菊の盛りで、闇夜からの花の香りも昼間よりいっそう馥郁たるものがあったろう。影待に対する本来の気持ちそのままに、食べ物もまた清浄な雰囲気を醸し出していたというわけである。その情況を一息に「串」が「香」っていると言い止めたところが、絶妙だ。俳句ならでは、そして芭蕉ならではの表現法だと言うしかないだろう。それにしても、この豆腐、美味そうですねえ。『芭蕉俳句集』(1970・岩波文庫)所収。(清水哲男)


August 0682008

 蟇ひたすら月に迫りけり

                           宮澤賢治

るからにグロテスクで、人にはあまり好かれない蟇(ひきがへる)の動作は鈍重で、叫んでも小石を投げつけてもなかなか動かない。暗い藪のなかで出くわし、ハッとして思わず跳びすさった経験がある。その蟇が地べたにバタリとへばりついているのではなく、「月に迫りけり」と大きなパースペクティブでとらえたところが、いかにも賢治らしい。ピョンピョンと跳んで月に迫るわけではない。バタリ・・・バタリ・・・とゆっくり重々しく迫って行くのだろう。「ひたすら」といっても、ゆっくりとした前進であるにちがいない。蟇には日の暮れる頃から活動する習性があるという。鈍重な蟇と明るい月の取り合せが印象的である。もしかしてこの蟇は、銀河鉄道でロマンチックに運ばれて行くのだろうか。そんな滑稽な図を考えてみたくもなる。賢治に「春―水星少女歌劇団一行」という詩があり、「向ふの小さな泥洲では、ぼうぼうと立つ白い湯気のなかを、蟇がつるんで這つてゐます」という、蟇の登場で終わっている。賢治は少年期から青年期にかけて、さかんに短歌を作ったけれども、俳句には「たそがれてなまめく菊のけはひかな」という作品もある。彼の俳句については触れられることが殆どなく、年譜に「村上鬼城『鬼城句集』が出版され、・・・・愛好して後半作句の手引きとし揮毫の練習に用いた」(大正六年・二十一歳)と記されている程度である。蟇といえば、中村草田男の代表句の一つ「蟾蜍(ひきがへる)長子家去る由もなし」を思い出す。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


August 2682008

 八月のからだを深く折りにけり

                           武井清子

を二つに折り、頭を深く下げる身振りは、邪馬台国について書かれた『魏志倭人伝』のなかに既に記されているという長い歴史を持つ所作である。武器を持っていないことを証明することから生まれた西洋の握手には、触れ合うことによる親睦が色濃くあらわれるが、首を差し出すというお辞儀には一歩離れた距離があり、そこに相手への敬意や配慮などが込められているのだろう。掲句では「深く」のひとことが、単なる挨拶から切り離され、そのかたちが祈りにも見え、痛みに耐える姿にも見え、切なく心に迫る。引き続く残暑とともに息づく八月が他の月と大きく異なる点は、なんとしても敗戦した日が重なることにあるだろう。さらにはお盆なども引き連れ、生者と死者をたぐり寄せるように集めてくる。掲句はそれらをじゅうぶんに意識し、咀嚼し、尊び、八月が象徴するあらゆるものに繊細に反応する。〈かなかなや草のおほへる忘れ水〉〈こんなふうに咲きたいのだらうか菊よ〉〈兎抱く心にかたちあるごとく〉『風の忘るる』(2008)所収。(土肥あき子)


October 31102008

 黄菊白菊自前の呼吸すぐあへぐ

                           石田波郷

郷最後の句集の作品。結核による呼吸困難の重篤な状態の中で詠まれた。いわゆる境涯俳句や療養俳句と呼ばれた作品は自分の置かれた状態を凝視する点を意義としている。従来の「伝統俳句」は花鳥風月をテーマとして詠じ、それら「自然」の背後に微小なる存在として、あるいはそれらによって象徴されるべき受身の立場として、「我(われ)」が在った。いな、我はほとんど無かったと言った方がよい。この句、呼吸の苦しさは切実な我を反映しているが、そこに斡旋された季語においては、映像的、感覚的な計らいがなされている。黄菊白菊という音のリズムに乗った上句は、リズムとともに、黄と白のちらちらする点滅を思わせる。危機に瀕している己れの生に向かって波郷は黄と白の信号を点滅してみせる演出をする。波郷の凄さである。『酒中花以後』(1970)所収。(今井 聖)


January 1312009

 サーカスの去りたる轍氷りけり

                           日原 傳

郷の静岡には毎年お正月にサーカスが来ていた。「象がいるから雪の降らない静岡にいるんだ」などと、勝手に思い込んでいた節もあるので実際毎年必ず来ていたのかどうか定かではないが、サーカスのテントは見るたび寒風のなかにあった。冬休みが終わり、三学期が始まり、学校の行き帰りに大きなテントを目にしていたが、実際に連れて行ってもらったかどうかは曖昧だ。さらにトラックの行列や設営のあれこれは見ているのに、引き上げるトラックを見かけた記憶はなく、いつもある日突然拭ったような空間がごろり放り出されるように広がって、ああ、いなくなったのだ、と思う。掲句はさまざまな年代がサーカスに抱く、それぞれの複雑な思いを幾筋もの轍に込めている。そしてわたしも、どうして「行きたい」と言えなかったのだろう、と大きな空地になってから思うのだった。〈花の名を魚に与へてあたたかし〉〈伝言を巫女は菊師にささやきぬ〉『此君』(2008)所収。書名「此君(しくん)」は竹の異称。(土肥あき子)


September 2992010

 人棲まぬ隣家の柚子を仰ぎけり

                           横光利一

ういう事情でお隣は空家になったのかはわからない。けれども、敷地にある大きな柚子の木が香り高い実をたくさんつけているから、秋の気配が濃厚に感じられる。かつてそこに住んでいた人が丹精して育てあげた柚子の木なのだろう。柚子を見上げている作者は、今はいなくなった隣人へのさまざまな思いも、同時に抱いているにちがいない。今の時季だと散歩の途次、柚子の木が青々とした実をつけているのに出くわす機会が多い。しばし見とれてしまって、その家の住人への想いにまで浸ることがある。どうか通りがかりの心ない人に盗られたりしませんように、などと余計なことを願ってみたりもする。小ぶりなかたちとその独特な香気と酸味は誰にも好まれるだけでなく、重宝な果実として日本料理の薬味としても欠かせない。柚子味噌、柚子湯、柚子酢、柚子茶、柚子餅、ゆべし、柚子胡椒……さらに「柚子酒」という乙な酒もある。『本朝食鑑』には「皮を刮り、片を作し、酒に浮かぶときは、酒盃にすなはち芳気あひ和して、最も佳なり」とある。さっそく今夜あたり、ちょいと気取って試してみましょうぞ。柚子の句には「美しき指の力よ柚子しぼる」(粟津松彩子)「柚子の村少女と老婆ひかり合ふ」(多田裕計)などがある。利一はたくさんの俳句を残した作家である。「白菊や膝冷えて来る縁の先」。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


November 01112010

 蓑虫を無職と思う黙礼す

                           金原まさ子

るほどねえ。言われてみれば、蓑虫に職業があるとは思えない。どこからこういう発想が出てくるのか。作者の頭の中をのぞいてみたい気がする。でも、ここまでで感心してはいけない。このユニークな発想につけた下五の、これまたユニークなこと。黙礼するのはべつに神々しいからとかご苦労さまだとかの思いからではなく、なんとなく頭が下がったということだろう。行為としてはいささか突飛なのだが、しかしそれを読者は無理なく自然に納得できてしまうから不思議だ。そしてわいてくるのは、諧謔味というよりもペーソスを含んだ微笑のような感情だ。企んだ句ではあるとしても、企みにつきまといがちなアクの強さを感じさせないところに、作者の才質を感じる。金原さんは九十九歳だそうだが、既成の情緒などとは無縁なところがまた素晴らしい。脱帽ものである。「したしたしたした白菊へ神の尿」「片仮名でススキと書けばイタチ来て」『遊戯の家』(2010)所収。(清水哲男)


November 10112010

 たそがれてなまめく菊のけはひかな

                           宮澤賢治

と言えば、競馬ファンが一喜一憂した「菊花賞」が10月24日に京都で開催された。また、今月中旬・下旬あたりまで各地で菊花展・菊人形展が開催されている。菊は色も香も抜群で、秋を代表する花である。食用菊の食感も私は大好きだ。いつか今の時季に山形へ行ったら、酒のお通しとしてどこでも菊のおひたしを出されたのには感激した。たそがれどきゆえ、菊の姿は定かではないけれど、その香りで所在がわかるのだ。姿が定かではないからこそ「なまめく」ととらえられ、「けはひ」と表現された。賢治の他の詩にもエロスを読みとることはできるけれど、この「なまめく」という表現は、彼の世界として意外な感じがしてしまう。たしかに菊の香は大仰なものではないし、派手にあたりを睥睨するわけでもない。しかし、その香がもつ気品は人をしっかりとらえてしまう。そこには「たそがれ」という微妙な時間帯が作用しているように思われる。賢治の詩には「私が去年から病やうやく癒え/朝顔を作り菊を作れば/あの子もいつしよに水をやり」(〔この夜半おどろきさめ〕)というフレーズがあるし、土地柄、菊は身近な花だったと思われる。賢治には俳句は少ないが、菊を詠んだ句は他に「水霜のかげろふとなる今日の菊」がある。橋本多佳子にはよく知られた「菊白く死の髪豊かなるかなし」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


November 04112012

 菊の前去りぬせりふを覚えねば

                           中村伸郎

者・中村伸郎は、舞台・映画・テレビで活躍した俳優です。映画で記憶に残っているのは、小津安二郎監督の『東京物語』で、上京した老夫婦(笠智衆・東山千栄子)をぞんざいに扱う長女(杉村春子)の夫役です。いわゆる髪結いの亭主の役で、老夫婦の長男も長女も仕事に追われて東京見物に連れて行けない中で、夕方になると二人を銭湯に連れていく暇のある役柄で、何を生業にしているのか不明でありながら、たまに集金に出かける用がある。そんな下町の閑人をひょうひょうとした存在感で演じられる役者です。舞台では、渋谷山手教会の地下にあったジャンジャンという芝居小屋で、1980年代、毎週金曜日の午後10時から、イヨネスコの二人芝居『授業』で、老教授役を演じていました。一時間弱の短い舞台の後、拍手を送る観客の表情の奥を覗き込むような老獪な視線を受けた覚えがあり、見られているのはむしろ観客席に座っているこちら側ではないかと、いまだその視線は記憶に残っています。そんなことを思い出しながら掲句を読むと、「花のある役者」というのは、大輪の花ばかりではなく、観る側の記憶に根づいていられることなのではないかとも思えてきます。作者は、日比谷公園か新宿御苑、または、どこかの寺社の境内の菊花展に行き、菊の花に心を奪われそうになったのでしょう。あるいは、「せりふを覚え」ながら晩秋の道を歩いていたときなのかもしれません。いずれにしても、目の前の菊を目の中に入れてはならない決意が、完了・強意の助動詞「ぬ」に込められ、切れています。菊を目の中に入れてしまっては、「せりふ」が入らなくなってしまうからです。俳優・中村伸郎の仕事のほかに、こんな舞台裏のスナップ写真のような俳句があったことを、喜びます。「日本大歳時記・秋」(1981・講談社)所載。(小笠原高志)


October 10102013

 豆菊や昼の別れは楽しくて

                           八田木枯

い先日、人と別れるのに「さようなら」と言ってその語感の重さにぎくりとした。数日後に顔をあわせる人や職場の同僚、親しい友人には「じゃあまた」と手を挙げて挨拶する程度の別れの挨拶であるし、目上の人には「失礼します」で日常過ごしていることに改めて気づかされた。よく人生の時期を季節に例えるけれど、自分の年齢も人生の秋から冬へ移行しつつある。一日の時間帯で言えば夜にさしかかりつつあるのだろう。人と別れるのは永遠の別れを常にはらんでいることを若い時には考えもしなかった。そう考えると掲句の青春性が眩しい。豆菊は道端の野菊のように可愛らしい小菊のことだろうか。はしゃぎながら別れる女子高生や、元気な子供たちが想像される。別れの言葉は?「バイバイ」って手を振るぐらいだろな。三々五々散ってゆく人たちの去ったあとの豆菊の存在が可憐に思える。『八田木枯少年期句集』(2012)所収。(三宅やよい)


October 12102013

 わがいのち菊にむかひてしづかなる

                           水原秋桜子

の菊、と題された連作五句のうちの一句。五句のちょうど真ん中、三句目である。菊の美しさを描こうと、朝夕菊をじっと眺めて作ったという。昭和八年の作というから、四十一歳になったばかりというところか。のちにこの連作について「力をこめたものであるが、菊の美しさを描き出すにはまだまだ腕の足らぬことが嘆かれた句」と自解している。しかし、一句だけをすっと読むと、どうすればこの菊の美しさを表現できるだろうか、という言わば雑念のようなものが消えて、菊の耀きと向き合うことによって作者の心が言葉となって自然にこぼれでているように感じられる。以前も一句を引いた『秋櫻子俳句365日』(1990・梅里書房)、俳句と共にその人となりが味わえて興味深い。(今井肖子)


December 25122013

 鮭舟の動き動かぬ師走かな

                           山岡荘八

鮭は今でこそ家庭の食卓に年中あがるけれど、小生が子どもの頃の地域では鮭は貴重だった。年に一度、大晦日の夜に厚切りにした串焼きの塩引きが食卓にならんだ。それを食べることで年齢を一つ加えた。飼猫も一切れ与えられて年齢を加えた。あのほくほくしたおいしさは、今も忘れられない。焼かれた赤い身の引きしまったおいしさ。今どきの塩鮭の甘辛・中辛の比ではなかった。鮭は北海道に限らず本州各地の川でも、稚魚の放流と水揚げが行われている。南限は島根県と言われる。定置網漁が多いが、掲句は漁師が川で舟に乗って網を操って鮭漁をしている、その光景を詠んでいる。大ベストセラー『徳川家康』全26巻を著した荘八は、越後・魚沼(小出)の農家の長男として生まれた。同地を流れる魚野川では、現在も網を操る鮭漁が行われている。シーズンに入って、厳しい寒気のなか鮭舟をたくみに操る漁師が、昔ながらの漁に精出している様子が見えてくる。魚野川の小出橋のたもとに、掲句は刻まれている。荘八には他に「菊ひたしわれは百姓の子なりけり」がある。「新潟日報」(2013年12月2日)所載。(八木忠栄)


March 2532015

 海凪ぎて春の砂丘に叉銃せり

                           池波正太郎

や「叉銃」(さじゅう)などという言葉を理解できる人は少ないだろう。兵士が休憩するときに、三梃の銃を交叉させて立てておくことである。「海凪ぎて春の砂丘」だから、およそ物騒な「銃」とは遠い響きをあたりにこぼして、しばしのんびりとした砂丘の光景が見えてくる。正太郎は兵隊で米子にいた若い頃、短歌や俳句をかなり作ったそうだから、鳥取の砂丘あたりでの軍事訓練の際のことを詠んだものと思われる。叉銃して、しばし砂丘に寝転がって休んでいる兵士たちが、点々と見えてくるようだ。訓練ならばこその図である。なかには、故郷の穏やかな海を思い出している兵士もいるのだろう。砂丘に迫る日本海でさえ凪いで、しばし春にまどろんでいるのかもしれない。「凪ぎ」「春」と「銃」の取り合わせが妙。正太郎晩年の傑作「剣客商売」などには、特に俳句の心が生かされていると大崎紀夫は書いている。掲出句は21歳のときの作で、18歳のときの句に「誰人が手向けし菊や地蔵尊」がある。大崎紀夫『地図と風』(2014)所載。(八木忠栄)


November 20112015

 雪の野の鵟の止まる古木かな

                           大島英昭

の仲間の猛禽類である鵟(ノスリ)。大きさはトビよりも小さくハシブトガラス位いである。農耕地や草原に棲み、両翼を浅いV字形に保って羽ばたかずに飛ぶことが多い。低空飛翔をしながらノネズミなどの獲物を見つけると急降下して捕獲する。枯枝、杭、電柱に長い時間とまって休む。折しも雪の野原に一際高い古木があってよく見るとノスリが休んでいる。野生の動物たちは冷たくとも餌が乏しくともその厳しさに耐えて生き延びねばならぬ。食べる事、生殖することに太古からの知恵が引き継がれてゆく。他に<留守の家に目覚ましの音日脚伸ぶ><日陰から径は日向へゐのこづち><無住寺の地蔵に菊とマッチ箱>などなど。『ゐのこづち』(2008)所収。(藤嶋 務)


March 2732016

 今一度花見て逝きねやよ吾妹

                           林 望

書を引きます。「三月二十九日十八時十分、妹さきく永眠。多摩医療センターにて、肺ガン。末期に余枕頭に立ちて大声にさきくの名を呼べば、一瞬、なにか言いたさうにして、目尻より一滴の涙こぼる。その一刹那の後に、命の火消えたり。余の到着三分後のことにて、恰も余を待ち居たりしがごとし。永訣の一語もがな言はまほしかりしにやと、一掬の涙をそそぎぬ。」慟哭の挽歌です。挽歌は、万葉集では相聞・雑歌と並ぶ部立ての一つですが、古語による前書、感動詞の「よ」、そして、万葉集によく見られる吾妹(わぎも)を使うことによって、昔も今もまったく変わらない惜別の情を貫きます。俳句の中にこのような古代性を取り入れられる教養に、学者文人の品を感じます。句集「しのびねしふ」(2015)所収で、はじめに「よのなかはかくぞありけるうきからきいさしのびねになきみわらひみ」から始まって、句は五十音順に四百句が配列されています。若い頃から心の赴くままに、鶯の「しのびね」のように作句してきた集積で、読みごたえがありました。もう一句。前書は、母死す。「白菊や現し世の爪摘み終えぬ」。妹の句とは違って、落ち着いた諦観があります。爪を「摘み」とした言葉の気遣いに、母に対する思慕がやさしく描かれています。「さてこんな凩の日に母逝きし」。妹には詠嘆で、母とは淡々と。では、父はどうかというと、句集には一句のみ。「亡き父に歳暮の林檎届きけり」。息子にとって父親は、不在がふつうということでしょうか。妹と母と父。詠む対象によって、おのずと句のおもむきも違ってきます。(小笠原高志)




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