G黷ェh句

August 3081996

 しその葉に秋風にほひそめにけり

                           木下夕爾

いねいに、しみじみとした境地でつくられた句。ちょっと出来過ぎの気がしないでもないが(類似の句もありそうだが)、この季節、同じ思いの人も多いことだろう。作者は、詩人としても著名。というよりも、俳句は余技というべきか。ただ、私に言わせれば、詩も俳句もいかにも線が細い。華奢である。それを評して「空きビンの中につくられた精巧な船の模型」みたいだと、書いたことがある。1965年に五十歳の若さで亡くなった。久保田万太郎門。『菜の花集』所収。(清水哲男)


July 1071997

 紫蘇しげるなかを女のはかりごと

                           桂 信子

編小説の一場面か、芝居の一シーンのようだ。日常のさりげない場面にあって、作者は自己を劇化している。私などには句のなかの「はかりごと」よりも、この場面をこのような句にした作者の「はかりごと」に感じ入ってしまう。生い茂るいちめんの紫蘇のなかに立つ女の衣は何色だろうか。そんな想像をする楽しみもある。ところで、この句に作者の署名がなかったとすると、男性の作品と思う読者のほうが多いのではなかろうか。桂信子の句には、ときとしてそんな錯覚を抱かせるものがある。『初夏』所収。(清水哲男)


July 0572004

 紫蘇畑を背にして父の墓ありぬ

                           神保千恵子

語は「紫蘇(しそ)」で夏。「墓がある」などの言い方ではなく「墓ありぬ」だから、作者ははじめて父の墓を訪れたのだ。実家とは遠く離れたところで暮らしているので、葬儀のときはともかく、納骨時には帰れなかったのだろう。ようやく時間が取れたので、父の墓に詣でることにした。どんな墓なのか、どんなところにどんなふうに建てられているのか。あれこれと思いを巡らしながら来てみると、「紫蘇畑を背にして」ひっそりとそれは建っていた。「背にして」はむろん拒絶の姿勢ではなく、単なる位置関係を示している。墓の前にはたとえば海が開けている(ちなみに、作者は新潟県出身)のかもしれず、あるいは何かが展望できるはずなのだが、あえて作者が墓の背景を詠んでいる点に注目しよう。それも名山名刹やモニュメントの類ではなくて、その土地ではさしてめずらしくもないであろう平凡な紫蘇畑である。が、作者の意識には、それがいかにも父に似つかわしく感じられたのだった。生前の父が、紫蘇畑を背にして立っている。そんな光景を作者は何度も目撃していたと言おうか、父がいちばん父らしくある風景として脳裏に刻まれていたにちがいない。どのような人柄だったのかは書かれていないけれど、読者にはその人の人柄までもが伝わってくるような句だと思う。青紫蘇にせよ赤紫蘇にせよ、煙るような独特の風合いの広がりを背に建つ墓の前から、作者はしばし去りがたい思いで佇んでいたことだろう。『あねもね』(1993)所収。(清水哲男)


June 1062009

 紫陽花に馬が顔出す馬屋の口

                           北原白秋

陽花が咲きはじめている。紫陽花はカンカン照りよりはむしろ雨が似合う花である。七変化、八仙花―――次々と花の色が変化して、観る者をいつまでも楽しませてくれる。花はてんまりによく似ているし、また髑髏にも似た陰気をあたりに漂わせてくれる。“陽”というよりは“陰”の花。それにしても、馬屋(まや)の入口にびっしり咲いている紫陽花と、長い馬の顔との取り合わせは、虚をついていて妙味がある。今をさかりと咲いている紫陽花の間から、のっそりと不意に出てくる馬の顔も、白秋にかかるとどこかしら童謡のような味わいが感じられるではないか。そういえば白秋のよく知られた童謡のなかでは、野良へ「兎がとんで出」たり、蟹の床屋へ「兎の客」がやってきたりする。この句はそんなことまで想起させてくれる。紫陽花の句では、安住敦の「あぢさゐの藍をつくして了りけり」が秀逸であると私は思う。白秋の作句は大正十年(小田原時代)からはじまっており、殊に関東大震災を詠んだ「震後」三十八句は秀抜とされている。その一句は「日は閑に震後の芙蓉なほ紅し」。ほかに「白雨(ゆふだち)に蝶々みだれ紫蘇畑」「打水に濡れた小蟹か薔薇色に」などに白秋らしい色彩が感じられる。句集に『竹林清興』(1947)がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


October 21102013

 貧しさの戦後の色よ紫蘇畑

                           鍵和田秞子

きごろ亡くなった漫画家のやなせたかしが、こんなことを書き残している。「内地に残っていた銃後の国民のほうがよほどつらい目を見ている。たとえ、戦火に逢わなかったとしても飢えに苦しんでいる」(「アンパンマンの遺書」)。掲句の作者は、敗戦当時十三歳。別の句に「黍畑戦中の飢え忘れ得ぬ」とあるように、戦後七十年近くを経ても、いまなお飢えの記憶は鮮明なのである。当時七歳でしかなかった私などでも、飢えの記憶はときおり恨み言のようによみがえってくる。この句のユニークさは、そんな飢えに代表される貧しさを、「色」で表現している点だろう。通りかかった一面の紫蘇畑を見て、ああこの色こそが「戦後の色」と言うにふさわしいと思えたのだった。紫蘇は赤紫蘇だ。焼け跡のいずこを眺めても、まず目に入ってくるのは瑞々しさを欠いた紫蘇の葉のような色だった。他にも目立つ「色」はなかったかと思い出してみたが、思い浮かばない。埃まみれの赤茶けた色。憎むべき、しかしどこにも憎しみをぶつけようのない乾いた死の色であった。「WEP俳句通信」(76号・2013年10月刊)所載。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます