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August 2081996

 ぐんぐんと夕焼の濃くなりきたり

                           清崎敏郎

送(むさしのエフエム・78.2MHz)の仕事は4時で終る。帰りのバス停留所までの道では、いつも真正面から西日をうける。バスを降りてからも、しばらくは西日の道だ。「ぐんぐんと」夕焼けていく空を見るのは、これから深い秋にむかってからのことになる。なんだかとても幼い発想のようにも見えるが、ここまでぴしりと言い切るのは、なまなかな修練ではできないと思う。ちなみに清崎敏郎の師である富安風生には、こんなチョー幼げな作品がある。「秋晴の運動会をしてゐるよ」……という句だ。小学生にでもできそうだが、ここまでできる人はなかなかいない。嘘だと思ったら、ひとつつくってごらんになると、納得がいくはずです。『東葛飾』所収。(清水哲男)


October 06101996

 畳屋の肘が働く秋日和

                           草間時彦

が畳で爪を研ぎたがるのは納得がゆく。爪のひっかけ具合、弾力具合。お尻を引いて反り上げ、前足でバリバリ。先日、近所の畳屋さんに三匹の仔猫がいるのにはちょっと驚いた。天敵を置くようなものじゃないか。三匹は、前足を揃えリヤカーの畳の上。主人の仕事ぶりを見ていた。商売物には手を出すな、の教訓は守られているようだった。(木坂涼)


October 10101996

 秋晴の運動会をしてゐるよ

                           富安風生

書に「北海道を縦断して、一日汽車に乗り通す」とある。子供みたいな句ですが、面白いですね。俳句は、短歌でも現代詩でもない。こうした句を読むと、つくづくこの世界の懐の深さが思われます。パソコンなんて捨てちゃって、それこそ秋晴れの下、一日中汽車に乗り通してみたくなってくる。窓際には、冷たい缶ビールと上等な乾き物を少々。こんなふうに思わせるところが、俳句の力だというべきでしょう。(清水哲男)


September 1091997

 秋晴の踏切濡らし花屋過ぐ

                           岡本 眸

鉄沿線の小さな踏切を、花屋のリヤカーが渡っていく。線路の凸凹に車輪がわずかに踊って、美しい花々が揺れリヤカーから水がこぼれる。こぼれた水の黒い痕。それもすぐに乾いてしまうだろう。見上げると空はあくまでも高く、気持ちのよい一日になりそうだ。都会生活者のささやかな充足感を歌っている。読者もちょっぴり幸福な気分になる。『朝』所収。(清水哲男)


October 30101997

 船員とふく口笛や秋の晴

                           高野素十

つてパイプをくわえたマドロスの粋な姿が大いにモテたのは、もちろん彼らが行き来していた外国への庶民の憧れと重なっている。片岡千恵蔵の映画「多羅尾伴内シリーズ」の「七つの顔」のひとつは「謎の船員」であったし、美空ひばりなどの流行歌手も数多くのマドロス物を歌っている。戦前、素十は法医学の学徒としてドイツに留学しているから、この句はその折の船上での一コマかもしれない。船員といっしょに吹いたメロディーは望郷の歌でもあったろうか。秋晴れの下の爽快さを素直に表現しているなかに、充実した人生への満足感が滲み出ている。そういえば最近は、口笛を吹く人が減ってきたような気がする。私の住居の近辺に、休日ともなると機嫌よく口笛を吹きながら自転車の手入れする少年がいる。救いがたいほどの音痴なのだけれど、私はとても楽しみにしており、ヒイキしている。『初鴉』(1947)所収。(清水哲男)


September 2991998

 秋晴のひびきをきけり目玉焼

                           田中正一

ーンと気持ちよく晴れ上がった秋の空。朝食だろう。出来たてで、まだジュージューいっている目玉焼きを勢いよく食卓に置いたところだ。「ひびきをきけり」が、よく利いている。乱暴に置いたのではなく、さあ「食べるぞ」と気合いを入れて置いたのである。目玉焼きは英語でもずばり「サニーサイド・アップ」というように、太陽を連想させる。日本の四季のなかでは、ちょっと黄みがかった秋の太陽にいちばん近いだろう。その意味からも、句の季節設定には無理がないのである。ところで、秋というと天気のよい澄んだ日を思い浮かべるのが普通だが、気象統計を見ると、秋は曇りや雨の日がむしろ多い。なかなか、句のようには晴れてくれないのだ。だから秋晴れが珍重されてきたのかといえば、そうでもなくて、私たちは毎年のように「今年の秋は天気が悪い」などと、ブツブツ言い暮らしている。あくまでも、根拠もなしに秋は天気がよいものと思い決めているのは、なぜなのだろうか。『昭和俳句選集』(1977)所収。(清水哲男)


October 31101998

 老人端座せり秋晴をあけ放ち

                           久米三汀

汀(さんてい)は、小説家・劇作家として有名だった久米正雄の俳号だ。といっても、彼の作品を読んだことのある人が、現代ではどれくらいいるだろうか。若い人は、名前すら知らないかもしれない。と、なんだか偉そうに書いている私も、実は受験浪人時代に『受験生の手記』を文庫本で読んだだけだ。秀才の弟に受験でも恋愛でも遅れをとり、ついに主人公が自殺に追い込まれるという暗い小説だった。ところで作者は、中学時代から俳壇の麒麟児とうたわれていた。だから、いわゆる文人俳句の人たちとは素養が違う。基本が、ちゃんとできていた。この句は昭和十年代前半のものと思われるが、なんでもない光景を、きちんと俳句にしてしまうところはさすがである。秋晴れの日、家の障子をすべて開けはなって、ひとり老人が背筋をのばして端然と座っている……。それだけのこと。が、この老いた男の様子はいかにもそれらしく、読者はまずそれに真面目にうなずくのだけれど、そのうちになんだか滑稽を覚えて笑えてくるのでもある。これが、いうところの「俳味」だろうか。何度思い出しても、飽きない味わいがある。『返り花』(1943)所収。(清水哲男)


September 2092000

 秋晴や薮のきれ目の渡船場

                           鈴鹿野風呂

風呂(のぶろ)とはまた古風な俳号だが、1971年に亡くなっているから現代作家だ。京都の人。薮の小道を通っていくと、真っ青な空の下にある小さな渡船場が眼前に開けた。そこに、客待ちの舟が一艘浮かんでいる。「やれ嬉しや」の安堵の目に、何もかもがくっきりとした輪郭を持つ風景が鮮やかだ。読者もまた、作者とともにこの風景を楽しむのである。川を横切る交通手段に舟を用いたのは、掲句からもうかがえるように、古い時代ばかりじゃない。たとえば、東京の青梅線は福生駅から草花丘陵に行くには、多摩川にかかる永田橋という橋を渡るが、土地の人はいまでも「渡船場」と言う。私が草花に移住した1952年(昭和27年)には、既に木造の永田橋はかかっていたけれど、やっつけ仕事で作ったような橋の姿からして、戦後もしばらくは舟で渡っていたようだった。草花では「とせんば」と言うが、掲句では「とせんじょう」だろう。虚子門の俳人が、極端な字足らず句を詠むはずもないので……。ところで「秋晴」や「冬晴」はあっても、「春晴」や「夏晴」はない。澄み切った大気のなかの上天気が「晴」なのである。「日本晴」は秋だけだろう。この句をみつけた『大歳時記・第二巻』(1989・集英社)の解説(辻恵美子)によれば、江戸期に「秋晴」の句はないそうだ。かわるものとして「秋の空」「秋日和」があり、「秋晴」の季題は子規にはじまるという。「秋晴るゝ松の梢や鷺白し」(正岡子規)。覚えておくと、たとえ作者の俳号が古風でも、「秋晴」とあれば近現代の句だとわかる。(清水哲男)


October 29102000

 行先ちがふ弁当四つ秋日和

                           松永典子

日あたり、こんな事情の家庭がありそうだ。絶好の行楽日和。みんな出かけるのだが、それぞれに行き先が違う。同じ中身の弁当を、それぞれが同じ時間に別々の場所で食べることになる。蓋を取ったとき、きっとそれぞれが家族の誰かれのことをチラリと頭に描くだろう。そんな思いで、弁当を詰めていく。大袈裟に言えば、本日の家族の絆は、この弁当によって結ばれるのだ。主婦であり母親ならではの発想である。変哲もない句のようだが、出かける四人の姿までが彷彿としてきてほほ笑ましい。こういうときには、たいてい誰かが忘れ物をしたりするので、主婦たる者は、弁当を詰め終えたら、そちらのほうにも気を配らなければならない。「ハンカチ持った?」「バス代は?」などなど。家族の盛りとは、こういう事態に象徴されるのだろう。みなさん、元気に行ってらっしゃい。また、こういう句もある。「子の布団愛かた寄らぬやうに干し」。よくわかります。一応ざっと干してから、均等に日が当たるようにと、ちょちょっと位置を微妙に修正するのだ。今日あたり、こういう母親もたくさんいるだろう。ちなみに「布団」は冬の季語。「とても好調だ、典子は」と、これは句集に添えられた坪内稔典さんの言葉だ。『木の言葉から』(1999)所収。(清水哲男)


September 2992001

 秋晴の空気を写生せよといふ

                           沢木欣一

者自註に「『空気が写生出来なければ駄目だ』と棟方さんが語った。終戦間もなく富山県福光町に疎開中の棟方さんを訪ねた頃のこと」とある。「棟方さん」とは、棟方志功のことだ。いかにも画家らしい言葉だが、あらゆる表現者に通ずるところがあると思う。言葉の意味としては、別に突飛でも難しくもない。たとえば「秋晴」に何をどのように感じるかは、何も感じないことを含めて、人さまざまである。このときに、どういう感じ方をしても自由なわけで、それがその人なりの「秋晴」という事象の「把握」だ。表現をしない人は常に事象を把握するのみにとどまるが、むろんそれはそれで一向に構わない。だが、ひとたび自分が把握したすべてを正確に他人に伝えようとなると、どうしても見えない「空気」を見えるように「写生」しなければならない。……と「棟方さん」は言うのである。考えてみれば、誰のどんな「把握」であろうとも、心のなかでは既に「空気」までをも「写生」した状態にあるわけだ。それをそのまま出す(「写生」する)ことができなければ「駄目」なんだと、画家はしごく当たり前のことを述べたのであった。それにしても、作者は「棟方さん」の言葉をそのまんま句にして、なおいまひとつ真意がつかめずに考え込んでいるようだ。その考え込んでいる「空気」がそのまんまに「写生」されているので、句になったというところか。『二上挽歌』所収。(清水哲男)


October 05102002

 秋晴や太鼓抱へに濯ぎもの

                           上野 泰

洗濯機
もかもが明るい爽やかな「秋晴」。こんな日には、シーツなどの大きなものも、まとめて洗濯したくなる。1960年(昭和三十五年)の句だから、電気洗濯機で洗ったのか、あるいは昔ながらの盥で洗ったのかは、微妙なところで推測しがたい。写真は当時出回っていた「手動ローラーしぼり機付き洗濯機」(日立製作所)だが、洗濯槽も小さかったし、この「しぼり機」で大きいものをしぼるのは無理だ。やはり、盥でじゃぶじゃぶと濯いだのではあるまいか。また、そのほうが「秋晴」の気分にはよく似合う。で、洗い上げたものを庭の物干場まで持っていくわけだが、何度も往復するのは面倒なので、いっぺんに持てるだけ抱えていく。細い廊下なども通らなければならないから、ちょうど「太鼓」を抱えるときと同じ要領で、洗濯物を両腕で肩幅くらいに細く挟むようにして抱えていくことになる。太鼓でもそうだが、まっすぐ前はよく見えないし、抱えているものに脚も当たる。何も抱えていないとすれば、ちょっとヨチヨチ歩きに似た格好だ。「太鼓抱へ」という言い方が一般的だったのかどうかは知らないけれど、言い得て妙。こうでも言うしか、大量の洗濯物を運ぶ姿は形容できないだろう。しかも秋晴に太鼓とくれば、これはもう小さな祝祭気分すら掻き立ててくる。今日あたりは、全国的に「太鼓抱へ」のオンパレードとなるにちがいない。『一輪』(1965)所収。(清水哲男)


August 2682007

 くちばしがふと欲しくなり秋日和

                           皆吉 司

や多くの家が犬や猫を飼うペットブームですが、私が子供の頃には、家で飼っている生き物といえば、せいぜい金魚や小鳥でした。もちろん、それほどに心を通わせることはなく、生活する場の風景のようにして、そちらはそちらで勝手に生きているように思っていました。それでも、からの餌箱をつつくすがたに驚き、あわてて餌を買いに行ったことがありました。その必死な動作に、道すがら、申し訳なく感じたことを憶えています。くちばしを持つ動物はいろいろありますが、掲句を読んで思ったのは、当時飼っていた小鳥のことでした。止まり木の上で、薄いまぶたをじっと閉じている姿を見るのが好きでした。あるいは、首を、あごの中に差し込むようにして折り曲げる小さな姿にも、惹かれていました。人という動物は、言うまでもなくやわらかい口を持っています。どんな言葉も発することができ、どのような食物も取り込むことのできる、便利な形をしています。作者はなぜか、そんな口に違和感を持ったようです。ふと、堅い部位を顔の中央に突出させたくなったのでしょうか。しかしこの願望は、それほどに深刻なものではなく、穏やかな秋日和に、のんびりと見つめていた小鳥の姿から、思いついただけなのかもしれません。それでも、人が鋭いくちばしを持った姿は、ひどく悲しげに見えるのではないかと、思うのですが。『現代の俳句』(2005・角川書店)所載。(松下育男)


October 13102007

 秋晴の都心音なき時のあり

                           深川正一郎

は、空があきらか、が語源という説があるという。雲ひとつ無い高い青空をじっと見ていると、初めはただ真っ青だった空に、無限の青の粒子が見えてくる。ひきこまれるような、つきはなされるような青。秋晴の東京、作者はどこにいるのだろう。公園のベンチで、本当に音のない静かな時間を過ごしているのかもしれない。あるいは、雑踏の中にいて、ふと空の青さに見入るうち、次第に周りの音が聞こえなくなって、自分自身さえも消えてゆくような気持になったのかもしれない。秋の日差も亦、さまざまなものを遠くする。昭和六十二年に八十五歳で亡くなった作者の、昭和五十七年以降の六年間、句帳百冊近くをまとめた句集「深川正一郎句集」(1989)からの一句である。一冊に六百句書けるという。それにしても、二十年前の東京は、少なくとも今年よりは、もう少し秋がくっきり訪れていたことだろう。(今井肖子)


September 1692008

 月夜茸そだつ赤子の眠る間に

                           仙田洋子

夜茸は内側の襞の部分に発光物質を含有し、夜になると青白く光るためその名が付いたという。一見椎茸にも似ているが、猛毒である。ものごとにはかならず科学的根拠があると信じているが、動き回る必要のない茸がなぜ光るのかはどうしても納得できない。元来健やかな時間であるはずの「赤子の眠る間」のひと言にただならぬ気配を感じさせるのも、月夜茸の名が呼び寄せる胸騒ぎが、童話や昔話を引き寄せているからだろう。ふにゃふにゃの赤ん坊の眠りを盗んで、茸は育ち、光り続けるのだと思わせてしまう強い力が作用する。不思議は月夜によく似合う。あちこち探して、月夜茸の写真を見つけたが、保存期限が過ぎているため元記事が削除されてしまっていた。紹介するのがためらわれるほど不気味ではあるが、ご興味のある向きはこちらで写真付き全文をご覧いただける。タイトルは「ブナの林に幻想的な光」。幻想的というよりどちらかというと「恐怖SF茸」という感じ。〈水澄むや盛りを過ぎし骨の音〉〈鍋釜のみんな仰向け秋日和〉『子の翼』(2008)所収。(土肥あき子)


October 04102008

 人形焼ころころ生まる秋日和

                           石原芳夫

田原駅前にあったデパートの地下のガラス張りの一角。人形焼きが次々に焼き上がっていくのを、おそらくぽかんと口を開けて飽きずに見ていた。脈絡も理由もなく、断片的に記憶されている場面の一つ。薄暗い蛍光灯の光の中で続く単純作業に、なぜか見入ってしまうのだった。この句は九月二十四日、吟行句会で出会った一句。吟行場所は浅草だったので、仲見世の人形焼き屋である。この日は朝からよく晴れ少し暑いくらいの一日で、色濃い秋日が浅草の賑やかな風景と混ざり合った、まさに秋日和だった。吟行は、行ばかりになって、吟がおろそかになってはいけない、と言われる。歩いていてもできません、立ち止まってともかく観よ、空を見上げて、それから足元を観よ、とも。それはなにも、眉間に皺を寄せて難しいことを考えよというわけではないだろうけれど、それにしてもついうろうろきょろきょろ。何気なく立ち止まった人形焼き屋の店先で、こんなふうに、軽やかでくっきりした吟行句が生まれることもあるんだなあ、と。(今井肖子)


October 10102009

 秋晴や攀ぢ登られて木の気分

                           関田実香

前は体育の日であった十月十日。東京オリンピックの開会式を記念して定められたこの日に結婚した知人の体育教師は、ハッピーマンデー制度で体育の日が毎年変わることになり困惑していたが、月曜に国民の休日がかたよるのもまことに一長一短だ。十月十日は晴の特異日とも言われているが、確かに十月の秋晴の空は、高くて深い。掲出句、よじ登られているのは母であり、よじ登っているのは我が子。〈八月の母に纏はる子は惑星〉と〈秋燈を旨さうに食む赤子かな〉にはさまれているといえばよりはっきりするが、一句だけ読んでも見えるだろう。吸い込まれるような青さに向かって、母のあちこちを掴みながら、その小さい手を空に向かって伸ばす我が子と絡まりながら、ふと木の気分だという。母とは、木のように大地に根を張った存在だ、などというのではなく、まさにそんな気分になったのだ。ただ可愛くてしかたないというだけでない句、作者の天性の感受性の豊かさが、母となってさらに、よい意味でゆとりある個性的な詩を生んでいると感じた。「俳句」(2009年8月号)所載。(今井肖子)


October 13102013

 一歩出てわが影を得し秋日和

                           日野草城

のやわらかな日差しを窓外に見ていると、少し身なりを整えて、この日曜日、外出しようかという気になります。晴天の日、家の中と外では文字通り、ケとハレの違いがあるように思われます。外に出るときは、少しはにかみながら晴れがましくもあります。掲句は、作者自らの足どりを微足(スローテンポの歩み)の舞踏家を見るように示しています。「一歩出て」には、家の中から外へ出る一歩に、相当なエネルギーを要しています。ふだんは病に身を横たえている作者は、直立歩行して得られた「わが影」を見て、自ら立って、生きている姿を確認しています。この姿は、秋日和を照明にした、作者の晴れ舞台のようでもあるでしょう。共演者は脇から支えている妻。しかし、観客は誰もいません。ただ、「わが影」を見ている作者自身が、演じる者と観る者の二役をこなしています。『人生の午後』(1953)所収。(小笠原高志)


July 1672014

 浅草や買ひしばかりの夏帽子

                           川口松太郎

の日本人は、年間を通じて帽子をあまりかぶらない人種と言える。数年前に夏のシンガポールへ行った時も、日本以上に暑い日差しのなか帽子をかぶっている人の姿が少ないことに、どうして?と驚いた。(日本人に限ったことことではないか、と妙に納得した。)掲出句は浅草で買った夏帽子をかぶって、浅草を歩いているのではあるまい。そうではなくて、どこかの町で買ったばかりの夏帽子をかぶって、暑い日盛りの浅草へ遊びにでも出かけたのであろう。去年の夏もかぶっていた帽子ではなく、ことし「買ひしばかり」の夏帽子だから、張り切って意気揚々と浅草のにぎわいのなかへ出かけた。祭りなのかもしれない。帽子にも近年はいろいろとある。サハリ帽、パナマ帽、中折れ帽、アルペン帽、バンダナ帽、野球帽、麦わら帽……松太郎の時代、しかも浅草だから、高級な麦わら帽かパナマ帽なのかもしれない。いずれにせよ、新調した夏帽子をかぶって盛り場へ出かける時の高揚感は、時代を超えて格別である。松太郎には他に「秋晴の空目にしみる昼の酒」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所載。(八木忠栄)


October 11102014

 日本は蜥蜴のかたち秋日和

                           野崎憲子

んやりとした残暑の空に澄んだ気配が感じられるようになったと思っていたら次々と台風がやってきて、雲ひとつない高い空を仰ぐことがほとんどないまま秋が深まってきてしまった。台風情報を得るために天気図を見る機会が多く、小さいながらも日本は細長いなと思っていたが、蜥蜴のかたち、とは個性的だ。多分、日向にじっとしている蜥蜴を見ているうちに、大きめの頭が北海道に、くねっとした体が本州に見えてきて、ということだろう。それでも十分自由な発想だが、もしかしたら作者は常々、日本列島って蜥蜴っぽいな、と感じていたのかもしれない。蜥蜴は夏季なので句にできそうだけれど、ただ形が似ていると言ってもつまらないし、と思っていたら、秋の日に誘われて出てきた蜥蜴に遭遇。明るさの中の瑠璃色の蜥蜴が生んだ秋日和の一句、にっぽん、という歯切れの良い音がさらに心地よい。『源』(2013)所収。(今井肖子)


September 2392015

 赤蜻蛉米利堅機飛ぶ空ながら

                           阿部次郎

市部では赤蜻蛉どころか、普通の蜻蛉さえも、めったに目にすることができなくなった。今年の秋もおそらくそうだろう。秋の空は晴れていても、そのだだっ広さがどこかしら淋しいものにも感じられる。米利堅(メリケン)、つまりアメリカの飛行機が上空を飛んでいる。にもかかわらず、負けじと赤蜻蛉が(当時は)空いっぱい果敢に飛びかっていたのだろう。米利堅機はいつものようにわがもの顔で、日本の秋空を飛んでいたにちがいない。赤蜻蛉がめっきり少なくなってしまった日本の上空を、このごろはオスプレイとかいう、物騒な米利堅機がわがもの顔で音高く飛んでいるではないかーー。いや、米利堅機は日本と言わず中東と言わず、世界中の上空が春夏秋冬好きらしい。赤蜻蛉よ心あらば、どこかからわいて出てきてくれ! そんなことを、とりわけこのごろは願わずにいられない。掲出句を詠んだ次郎は、まさか音高きオスプレイなるものを想像だにしていなかっただろう。次郎には他に「濡土に木影沁むなり秋日和」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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