G黷ェ分句

August 1781996

 我庵は下手の建てたる野分かな

                           佐久間柳居

分の中、天井が軋み、戸板が鳴る。江戸の時代にも手抜き工事などあったのか。しかし、別段それを咎立てすることもなく、「下手の建てたる」などと嘯いているところが面白い。佐久間柳居は幕府直参の武士。俳諧は初め沽徳に学び、後乙由に師事。当時流行の江戸座俳諧に革新の波をおこした。寛延元年(1748)没。(大串章)


August 2781996

 欠伸して鳴る頬骨や秋の風

                           内田百鬼園

聊をかこつ男の顔が浮ぶ。作者は夏目漱石門下の異色、ユニークな随筆、小説で知られる。俳句は岡山六高在学中から始め、「夕焼けに馬光りゐる野分かな」など本格的な作品が多い。上掲作は「秋の風」が効果的。序でと言ってはなんだが、師漱石の秋風の句を一句、「秋風や屠られに行く牛の尻」。文豪夏目漱石が痔の手術で入院した時の作である(大串章)

[編者の弁解]ついに出ました内田ヒャッケン。編者としては、内心この日を怖れていたのです。というのも、百鬼園の「鬼園」は、本当は門構えの中に「月」と表記しなければならないのですが、悲しいかな、私のワープロEGWORD 6.0には外字作成機能がありません。で、とりあえずこの表記としました。ヒャッケンが、ひところ実際に「百鬼園」と号していたこともありましたので。


August 2182001

 野分きし翳をうしろに夜の客

                           大野林火

の草を吹き分ける風だから「野分(のわき)」。古くは台風とは違って荒い風が主体とされたけれど、現代では秋台風のことも含めて詠まれているようだ。この句も、そうだと思う。台風が接近中にもかかわらず、律儀にも約束通りに訪ねてきてくれた「夜の客」。招き入れるために玄関を開けると、客の「うしろ」には、すでに台風の近づいてきた「翳(かげ)」がはっきりと感じ取れる。風も雨も、だんだん激しくなってきた。よくぞ、こんな夜に訪ねてくださった。こういうときには、普段の訪問客よりもよほど親密度が増すのが人情で、作者は気象の変化を気にしながらも、大いに歓待したにちがいない。句とは何の関係もないが、昔の編集者の暗黙のハウツーの一つに、なかなか書いてくれない執筆者宅は、荒天を選んで訪ねよというのがあった。手の込んだ泣き落とし戦術であるが、先輩編集者は実にこまめに嵐だとか大雪の中を歩き回っていたことを思い出す。私にはそんな根性はさらさらないので、オール・パス。ついでに、出勤すらパスすることも再三だった。さて、閑話休題。大型で強い台風11号が近寄ってきた。東京も変な空模様。気象情報で出る「警報」は、生命に関わる可能性が高いという警告を含んでいる。通過地域にお住まいの諸兄姉には、今日だけはできるかぎりオール・パスで過ごしていただきたい。どんな被害も、これっぽっちも出ませんように……。『大歳時記・第二巻』(集英社・1989)所載。(清水哲男)


November 06112001

 米提げて野分ただ中母小さし

                           飴山 實

書に「母来阪、大阪駅にて」とある。「野分(のわき)」は秋に特有の強風のことで、草木を吹き分けるほどの強い風のこと。さて、作者が田舎から出てきた母親を出迎えたのは、戦後九年目の大阪駅だ。ホームには、台風だったのか、風が激しく吹き過ぎている。そして少し離れた降車口から降りてきた母は、重そうに大きな包みを提げており、作者には中身を問わずとも、それが「米」だとわかった。風にあおられた母の姿は、ことのほか小さく見えた。無理をして「米提げて」くることはないのに……。息子はちらりとそう思い、足早に母に近づいていく。似たようなシチュエーションはよくあるだろうし、句が母子の関係に何か格別な発見をしているわけでもない。「母小さし」も、使い古された言い方である。しかし、なおこの句に私が魅かれるのは、大阪駅に吹く強風を「野分」と言っているところだ。都会の強風を「野分」とする例はあるけれど、その場合には自然の草木や風物が介在する。いかな戦後間もなくとはいえ、大阪駅のホームには一草たりとも生えてはいなかった。なのに、たとえば台風とは言わずに、あえて野を分ける風と言ったのか。言いたかったのだろうか。手品のタネは既に露見しているようなものだが、作者が「小さき母」に認めたのは、単にひとりの老いた母の像だけではなくて、懐かしい田舎のイメージだったからである。実際に提げてきたのは「米」であるが、負ってきたのは故郷であった。このとき、大都会の駅も「野分のただ中」に……。「台風」ではなく「野分」でなければならない所以である。したがって「前書」を必要とした。もはや「木枯らし」の季節だが、今年の秋の部に駆け込み記入(笑)。明日は「立冬」。『おりいぶ』(1959)所収。(清水哲男)


September 0192002

 撫で殺す何をはじめの野分かな

                           三橋敏雄

日は、立春から数えて二百十日目。このころに吹く強い風が「野分(のわき・のわけ)」だ。ちょうど稲の開花期にあたるので、農民はこの日を恐れて厄日としてきた。「二百十日」も「厄日」も季語である。さて、句の「撫で殺す」は造語だろうが、「誉め殺し」などに通じる使い方だ。誉めまくって相手を駄目にするように、撫でまくることで、ついには相手をなぎ倒してしまうのである。強風は、いきなり最初から強く吹くのではない。「何をはじめ(きっかけ)」とするかわからないほどに、ひそやかな風として誕生するわけだ。だから、最初のうちは万物を撫でるように優しく吹くのであるが、それが徐々に風速を増してきて、やがては手に負えないほどの撫で方にまで生長してしまう。まったく「何をはじめ」として、かくのごとくに風が荒れ狂い、野のものを「撫で殺す」にいたったのか。ここで作者はおそらく、野分に重ね合わせてみずからの御しがたい心の状態を思っている。たとえば、殺意だ。はじめは優しく撫でていた気分が、いつの間にか逆上していき、相手を押しのめしたくなるそれに変わってしまうことがある。この不可解さは、すなわち「何をはじめの狂気かな」とでも言うしかない性質のものだろう。『眞神』(1973)所収。(清水哲男)


November 02112007

 ロボットの腋より火花野分立つ

                           磯貝碧蹄館

集『未哭微笑』(みこくみしょう)の中の作者の近作。鉄人28号や鉄腕アトム(かなり古いけど)のような人の形をしたロボットを思い浮かべてもいいし、工場で何かの加工や組立に用いられている複雑な形の機械ロボットでもいい、自動的に動く機械のはざまから火花が出て用途に具するわけである。外は台風の兆がある。現代と自然との力技の調和が感じられる。これまでの情緒とすればミスマッチ。しかし、旧情緒と現実の風景がぶつかれば、必ずそこに違和感が生じる。そこからの造型や新ロマンの構築が見せ場。ミスマッチをマッチにする作者の力が問われる場面である。作者は一九二四年生まれ。この世代、多くは戦後に「社会性」や「職場俳句」の洗礼を受け「前衛」に若き情熱を燃やすが、時代の変遷とともに、花鳥諷詠か、それもどきに転ずる。もちろん最初から花鳥諷詠一徹の方もいる。どちらにしても加齢とともに、季題中心、自然諷詠中心の「やすらぎ」にからめとられていくわけである。肉体と精神のエネルギーが失われ、「自己」を俳句に乗せるのがシンドくなったとき、「楽になろうよ」と花鳥諷詠がポンと肩をたたく。その手を振り切って「今の自己」を俳句に打ち付けて同時代の新しいポエジーに挑戦する。そういう作者のこういう句にこそ本物の詩人の魂が存する。『未哭微笑』(2007)所収。(今井 聖)


November 21112007

 秋風や屠られに行く牛の尻

                           夏目漱石

正元年(1912)、漱石四十五歳の時の作。四年後に胃潰瘍で亡くなるわけだが、晩年に近い作であることを考慮に入れると、味わいも格別である。屠(ほふ)られに行く牛は、現在だったらトラックに何頭も乗せられている。モーと声もあげず神妙にして、どことなく不安げな表情で尻を並べて運ばれて行くのを目撃することがある。当時もすでにトラックで運んでいたのだろうか。どうやら漱石は実景を詠んだわけではなさそうだ。その年の秋に痔の手術をした、そのことを回想したものである。もともと胃弱で、1910年から1913年頃は胃潰瘍で入退院をくり返していた。修善寺の大患もその頃である。胃弱に加えて痔疾とは、漱石先生も因果なことであった。この場合の「牛の尻」はずばり「漱石の尻」であろう。牛を見てもつい尻のほうへ目が行ってしまった。文豪であるおのれを、秋風のなかの命儚い哀れな牛になぞらえて戯画化してみせたあたり、さすがである。文豪だって痔には勝てない。哀愁と滑稽とがまじりあって、漱石ならではの妙味がただよう秀句。胃弱であるにもかかわらず、油っこい洋食を好み、暴飲暴食していたというからあっぱれ。おのれの胃弱を詠んだ句「秋風やひびの入りたる胃の袋」も「骨立(こつりつ)を吹けば疾(や)む身に野分かな」もよく知られている。いずれもおのれをきちんと対象化している。今年九月から江戸東京博物館で開催されていた「文豪・夏目漱石」展は、つい先日十一月十八日に終了した。なかなか見ごたえのある内容でにぎわった。『漱石全集』第12巻(1985)所収。(八木忠栄)


October 10102008

 夜昼夜と九度の熱でて聴く野分

                           高柳重信

信は「もの」を写してつくる手法をとらない。現実や風景がそこに在るように写すことの意義を認めない。五感を通して把握した「実感」を第一義に優先して言葉にすることの意義も認めない。俳句に用いる言葉は詩語であるから、言葉自体から発するイメージを紡いでいくのが本質だと思っている。だから彼が伝統俳句を読み解くときも詩語としての働きが言葉にあるかどうかの角度から始める。飯田龍太の「一月の川一月の谷の中」も最初にこの人が取り上げて毀誉褒貶の論議が起こった。その角度に対する賛否はここでは言わない。ただ、この句、「夜昼夜」の畳み掛けに驚きとリアリティがあり「九度」もまた作者にとっての「真実」を援護する。たとえ、それが仕掛けだろうと伝統的書き方に対する揶揄だろうと。と、これは自分の実感を第一義に考える側に立った角度からの鑑賞である。朝日文庫『金子兜太・高柳重信集』(1984)所収。(今井 聖)


September 1292009

 野分なか窓にはりつく三姉妹

                           蜂須賀花

に吹く暴風、台風の余波の疾風、というのが野分の本来の意味だが、『源氏物語』の野分の巻にも雨の描写が見られるといい、台風と同じように使われることもあるようだ。それでもやはり、野を分ける、というその言葉は、確実に風のイメージが強い。この句の場合、やはり風だけでなく雨も降っている台風のような状態なのだと思う。でも、台風の、台風や、とすると、激しい風雨というイメージが固定され、窓にはりついている子供達もどこか平凡な風景の中にはまってしまう。野分なか、というと、まず風の音がする。もしかしたらこれは夜で、はりついている窓の外は真っ暗なのかもしれない。さらわれてしまいそうな風音が闇の中に渦巻いて、時折雨を窓に強く打ちつける。恐い物見たさに近い心持ちで、窓から離れることのできない子供達。はりついているのがまた三姉妹なのが、事実なのだろうが、ほどよくかわいい。上智句会句集「すはゑ(漢字で木偏に若)」第7号所載。(今井肖子)


September 1592009

 案外と野分の空を鳥飛べり

                           加藤かな文

五の「案外と」に目を見張った。そう。どんなに激しい風のなかでも、そのあたりに身をひそめればよいようなものを、思いのほか平気で鳥は飛んでいる。どちらかというと、強風になぶられることを楽しんでいるようにさえ見える。上野の森で、羽の目指す方向とはまるきり別の方角へ流されているカラスを、飽きずに眺めていたことがある。カラスは鳴きながら飛んでいたが、なんとなくそれは「助けて〜」より、「見て見て〜」という気楽さがあった。掲句の「案外と」の発見で、鳥たちも家路を急いでいるのでは…、などという人間的な常識を離れ、わりと楽しんでいるのでは、という屈託ない見方ができたのではないか。翼を持つものだけの、秘密の楽しみは、まだまだほかにもあるように思う。〈わが影は人のかたちよ水澄んで〉〈とまりたきもの見つからず赤とんぼ〉『家』(2009)所収。(土肥あき子)


June 2362010

 立札のなき花ありて梅雨の園

                           田村泰次郎

園に咲くそれぞれの花には、たいてい名前を書いた札が立ててある。薔薇園などでもうるさいほどマメに札が立てられている。プリンセス・ダイアナ、プリンセス・ミチコ……といった具合である。薔薇にかぎらず花に見覚えはあっても、名前まで詳しくない当方などにはありがたい(すぐに忘れてしまうのだけれど……)。もっともダイアナとミチコの違いなど、当方にはどうでもよろしい。梅雨どきの花園は、訪れる人も少ないだろう。そうしたなかで、なぜか立札がない花があったりする。立札のあるものはスッと見て過ぎるにしても、立札のない花には妙に気にかかって、しばし足を止めしまうことがある。掲句では、花の前に何人かかたまって覗き込んでいるご婦人方が、あれよこれよと知識をひけらかしているのかもしれない。さりげない花でも、立札があれば一人前に見えるからおかしい。雨が降っていたり曇天だったりすると、立札のないのが歯抜けのように妙に気にかかってしまったりする。何気ないこまやかな着眼にハッとさせられる句である。泰次郎は小説「肉体の悪魔」「肉体の門」などで敗戦直後にセンセーションを巻き起こした。映画にもなった。そんなことを知る人も少なくなった。泰次郎には多くの俳句がある。「故旧みなひと変りせる祭りかな」「昨日来し道失へる野分かな」。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


October 30102012

 野分来る櫓を漕ぐ音で竹撓る

                           嘴 朋子

六竹八塀十郎という言葉がある。樹は六月に、竹は八月を過ぎてから伐り、塀は十月に塗るのが望ましいという意味だ。それぞれに適した時期を先人はこうした語呂合わせで覚えていた。陰暦でいうので、竹はこれからが冬にかけてが伐りどきなのだ。郷里では茶畑も多いが、竹林も多かった。もっさりと葉を茂らせた竹が強風に煽られる姿は、婆娑羅髪を振り立てたようで恐ろしばかりだったが、葉擦れや空洞の幹が立てる音色はたしかに川の流れにも似て、竹の撓る音はぎいぎいと櫓を漕ぐがごとしであった。掲句のおかげで今まで乏しい想像力のなかで荒くれお化けだった景色が一変した。翡翠色の竹林の上を大きな舟がゆったりと渡っていくのだ。環境省が選んだ「残したい日本の音風景」には「奥入瀬の渓流」や「広瀬川の河鹿蛙」などとならび、「京の竹林」もエントリーしている。久しぶりに竹の音を聞いてみたくなった。〈弧を描く少女の側転涼新た〉〈短日のナース小さく風切つて〉『象の耳』(2012)所収。(土肥あき子)


October 04102013

 ソース壜汚れて立てる野分かな

                           波多野爽波

食堂のテーブルに、汚れたソース壜が立っていることがある。外は野分の風が吹き荒れている。一見、単なる取り合わせのように見えて、汚れたソース壜は、野分の濁流や被害を彷彿させる。それでも、ソース壜は、じっと立っているのだ。家の内と外とを繋ぐものは、一本のソース壜でしかない。それでも、野分の情景をありありと感じさせてくれる。『一筆』(1990)所収。(中岡毅雄)


October 30102013

 人生これ二勝一敗野分あと

                           斉藤凡太

太(本名:房太郎)は、新潟県出雲崎で十三歳からずっと漁業に従事している人で、八十七歳の達者な現役漁師。台風で舟が壊れて漁業をやめようと思ったが、「これは人生のうちの一敗。一つぐらい勝ち越したい」と本人が念じての「二勝一敗」である。よけいに欲張らずに、あくまでも現役の骨太く力強い決意の句ではないか。「人間生きているうちは夢を持て」と日頃おのれを鼓舞しているという、説得力をもった一句である。七十歳のとき奥さんを亡くしてから、町の句会に入会したという。今や「新潟日報」紙・毎週の俳壇(選者:黒田杏子)の常連で、熱心に投稿して高い成績をおさめ、注目されている。「年を取って、転ばないように支えてくれるのは杖。俳句も杖のようなもの」と述懐する。今年の「新潟日報・俳壇賞」(10月)で、最高入賞を果たした凡太の句は「つばめ来てわれに微笑む日の光」だった。他に「海鳴りもうれしく聞ゆ雪解風」という漁師らしい句もある。句集に『磯見漁師』がある。「ラジオ深夜便」(2013年10月号)所載。(八木忠栄)




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