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July 3071996

 川を見るバナゝの皮は手より落ち

                           高浜虚子

子の「痴呆俳句」として論議を呼んだ句。精神の弛緩よりむしろ禅の無の境地ではなかろうか。俳句はこういう無思想性があるからオソロシイ。そして俳人も。(井川博年)


July 0571997

 バナナ持ち洗濯機の中のぞきこむ

                           しらいししずみ

者は二十代前半の女性。若い女性の日常の一こまを、さらっとスケッチしていて好もしい。それにしても、食べながら洗濯できるとは、盥(たらい)世代の末裔である私などにしてみれば、つくづく便利になったものだと思う。家事を課せられた者のプレッシャーが、どれほど減殺されたことか。生まれたときに既に洗濯機があった世代にはわかるまいが、この恩恵による時間の余剰には計り知れないものがある。説教くさくなりかけた。「サザンオールスターズ」の曲に俳句を感じるという作者の感受性に、今後を期待しよう。『21世紀俳句ガイダンス』所載。(清水哲男)


June 1761998

 バナナむく吾れ台湾に兵たりし

                           鈴木栄一

つての戦争とバナナとは、イメージ的に強烈な結び付きがあった。作者のように、兵隊として実際に台湾バナナを食べた人もいるけれど、多くの国民にとっては、バナナは南洋の夢の食べ物として垂涎の的なのであった。島田啓三の漫画『冒険ダン吉』にも盛んにバナナが登場し、庶民にとっては日本の南方進出の象徴としての食べ物だったわけだ。「青いバナナも黄色く熟れて……」という歌も流行したが、しかし、戦争中の国内でバナナを口にできた人は少なかったはずである。私のように『冒険ダン吉』の絵でしかバナナを知らない子供も多かったろう。それでも、わずかに乾燥バナナだけは出回っており、その干涸びたバナナでも美味は美味だった。敗戦後しばらくの間はその乾燥バナナさえ姿を消してしまったが、高校時代に偶然、立川駅の売店で発見したときは嬉しかった。買ってみると、包装紙にはなにやら英語が書いてあって、アメリカ軍御用達の趣きがあったことを覚えている。戦時中の日本のそれも、軍隊の保存食用に開発されたものではないかと思う。バナナと戦争。詳しく調べれば、興味深いノンフィクションが書けるかもしれない。(清水哲男)


May 1652001

 バナナ下げて子等に帰りし日暮かな

                           杉田久女

語は「バナナ」で、夏。母心だ。同じような句が、細見綾子にもある。「青バナナ子に買ひあたふ港のドラ」。いずれもまだ「バナナ」が貴重品で、なかなか庶民の口には入らなかった時代の句。パイナップルも、そうだった。子供の喜ぶ顔が見たくて奮発してバナナを求め、足早に家路をたどった「日暮」である。ああ、そのような時もありき、と回想している。あの頃は、私も若くて張り切っていた、と……。さて、バナナがいかに貴重だったか。私がちゃんとしたバナナを食べたのは、二十歳を過ぎてからだ。子供のころに食した記憶はない。島田啓三の漫画『冒険ダン吉』などで存在は知っていたけれど、到底手の届かぬ幻の果実だった。そのかわりに戦時中には、乾燥バナナなる珍品が出回り、これはバナナを葉巻ほどの大きさにまで乾燥させたものである。おそらく、軍隊用の保存食だったにちがいない。食べるとなんとなく甘い味はしたが、なにしろ水気がないのだから、後に知った本物とは相当に味わいが違う。それでも「バナナ」は「バナナ」。戦後になると、それすらも姿を消した。本物は夢だとしても、なんとかもう一度食べたいと思っているうちに、高校時代の立川駅の売店に、かの乾燥バナナが昔のかたちそのままに忽然と登場したときには嬉しかった。昭和二十年代も終わりの頃である。見つけたときには、心臓が早鐘を打った。英語のシールが貼ってあったところからすると、米軍もまた保存食にしていたのだろうか。早速求めて帰り、家族で食べた。「昔と同じ味だね」。父母がそう言い、私は「うん」と言った。『新日本大歳時記・夏』(2000)所載。(清水哲男)


July 1072003

 仲良しのバナナの皮を重ね置く

                           草深昌子

語は「バナナ」で夏。いまでこそ年中見られるが、昔は台湾や南洋を象徴する珍しい果物だった。さて、房のバナナは「仲良し」に見えるが、掲句ではバナナが仲良しなのではないだろう。食べている二人が仲良しなのだ。「仲良しの」の後に「二人」や「友だち」などを意味する言葉が省略されているのだが、この省略が実によく効いている。「の」の効かせ方に注目。ちなみに「仲良し『は』」などとやると、はじめから仲良しとはこういうものだと規定することになって面白くない。作者の意図は、あくまでも二人の行為の結果から二人の仲を示すことにあるのだ。互いに示し合わせたわけでもなく、意識してそうしているわけでもないのに、ごく自然にそれぞれが剥いた「バナナの皮を重ね置」いている。まだ、そんなに大きくはない子供同士だろうか。傍らで見ていた作者は膝を打つような思いで、「ああ、こういう間柄が本当の仲良しというものだ」と感じ入っている。なんと素晴らしい観察力かと、私は作者の眼力のほうに感じ入ってしまった。俳句を読む喜びの一つは、句のように、言われてみて「なるほど」と合点するところにある。バナナの皮を重ねて置こうが離して置こうが、別に天下の一大事ではないけれど、そうした些細な出来事や現象から、人間関係や心理状態の綾を鮮明に浮き上がらせる妙は、俳句独自の様式から来ているのだと思う。俳句でないと、こうはいかないのである。むろんそのためには、作者の観察眼の鋭さとセンスの良さが必要だ。同じ句集から、もう一句。こちらも掲句に負けず劣らずの佳句と言えるだろう。内容のほほ笑ましさと、作者の眼力の確かさにおいて……。「校門の前は小走り浴衣の子」。『邂逅』(2003)所収。(清水哲男)


July 2972003

 鱶の海青きバナヽを渡しけり

                           杉本禾人

語は「バナヽ(バナナ)」で夏。「バナヽ」の表記からもわかるように、古い句だ。虚子が書いた「ホトトギス」の雑詠評『進むべき俳句の道』(角川文庫・絶版)に出てくるから、どんなに新しくても大正初期までの作品である。虚子はこの句を「繪日傘に百花明るき面輪哉」などとともに、作者が色彩に敏感な例として選んでいる。以下は、虚子の解釈だ。「鱶(ふか)のたくさんゐる大洋をたくさんの青い芭蕉の實を乘せた船が航海しつつあるといふのであるが、それを大洋ともいはず、汽船ともいはずただ鱶の海といひ、青きバナヽを渡したといふところにこの句の特別な感興はある。これも畢竟作者の感興は、バナヽの青い色にあつて、それを乘せてゐる船などはこれを問ふ必要はなく、また大洋もこの場合他の性質を持出す必要はなく、鱶のたくさんゐるやうな恐ろしい海であることだけを現はせば十分なのであつて、その鱶のゐるやうな大洋の上を、もぎたての青いバナヽは南の島から北の國へと運ばれつつある、といつたのである」。とくに異議をさしはさむところのない解釈だ。ただ面白いなと思うのは、この句が発想を得た実際の光景がどんなふうであるのかを、虚子が躍起になって説明している点である。この句だけをポンと出されたとすると、瞬間、誰にもかなり特異なイメージが浮かんでくるはずだ。私などは句そのままに、凶暴な鱶の群れる海の上を呑気な感じで巨大な青いバナナが渡って行く絵を想像してしまった。つまり、シュルレアリスムの絵か、あるいは現代風なポップ感覚のそれをイメージしたわけで、その意味から悪くないなと思ったのだが、作者が句を書いたころには、むろんそんな絵は存在しない。だから虚子は、掲句をそのまんまに突飛なイメージとして読んではいけない、元はといえばごく普通の情景を詠んだものだからと、口を酸っぱくしているのだ。この句が現代に登場したとするならば、おそらくはそのまんまの姿で楽しむ読者が大半だろう。もはや、虚子の躍起の正論は通用しないのではあるまいか。すなわち、句の解釈もまた世に連れるということである。(清水哲男)


June 2462006

 一本のバナナと昭和生まれかな

                           北迫正男

語は「バナナ」で夏。この句の感傷的感慨がわかるのは、「昭和生まれ」といっても、戦前の昭和に生まれた人たちだろう。私も含めて、その世代が子どもだったころの「バナナ」に執した思いには熱いものがあった。当時のバナナは高価であり、したがって今のようにそこらへんで気楽に房ごと買えるような果物ではなかった。リンゴなどもそうだったが、病気になったときとか、何か家で良いことがあったときとか、そういうときでもないと口に入らなかったのだ。だから、当時の人気漫画であった島田啓三『冒険ダン吉』のダン吉少年が、南洋の島でバナナにぱくつく様子が、如何にうらやましく目に沁みたことか。そして敗戦後ともなれば、昨日も書いたように、バナナどころの話ではない食糧難時代に突入する。そんなわけで、戦前の昭和生まれにとって、まさにバナナは魅惑の食べ物だったと言えよう。するすると皮を剥くと、ちょうどかぶりつきやすい太さの黄色い果肉があらわれて、一口噛めばえも言われぬ香りと甘さが口中に広がるときの至福感。そんなバナナを私が戦後再び口にできたのは、十代も終わり頃ではなかったろうか。そしていつしか、気がついてみたらバナナは巷に溢れていた。果物屋や八百屋だけではなく、そこらのスーパーマーケットでも、昔に比べれば「超」がつくほどの安値で売られている。だが、いくら安価になっても、いつまで経っても、そうした世代がバナナを前にすると、昔の憧れの気持ちがひとりでによみがえってきてしまう。句の作者は、いまちょうどそんな気分なのだ。すっかり昭和の子に戻って、「一本のバナナ」をしばし見つめているのである。「俳句」(2006年7月号)所載。(清水哲男)


June 2362007

 漂著のバナナの島は地図になし

                           風 石

後生まれの私でも子供の頃、バナナはみかんやりんごよりも高級品だった。熱を出すと食べられる、というあれである。かつての住まいの庭には、柿、枇杷、夏みかん、いちじく、梅、桑などが実っていたが、バナナはその横文字の響きと、強い香りと甘みが、遠い外国、それも熱帯のジャングルを想像させるのだった。実芭蕉(みばしょう)という和名を知ったのはつい最近、俳句では夏季に分類されている。ばなな、という音には、鼻にぬけるようなとぼけた感じもあるのだが、この句が作られたのは、太平洋戦争も終末に向かっていた昭和十九年である。その年の「ホトトギス」六月号の巻頭の一句であり、作者の出身地の所には、○○船、とある。船の名称は軍事機密、作者も、風石、とだけあり定かでない。太平洋上の小さい島に漂著(ひょうちゃく)した経緯がどういったものだったのか、そこで詠まれた句がどうやって日本へ届いたのか。そんな境遇を余儀なくされながら、俳句を詠むことで、ひとりの人間としての自分と向き合っていられたのかもしれない。今日、六月二十三日は、沖縄慰霊の日。日本で唯一、地上戦となった沖縄では、犠牲者の数二十万人以上であったという。「夾竹桃の花を見ると玉音放送を思い出す」という言葉が記憶にあるが、バナナの島、太平洋、南国、常夏、などから戦争を連想する世代は、確実に少なくなっていく。「ホトトギス巻頭句集」(1995・小学館)所載。(今井肖子)


June 0262016

 とほくに象死んで熟れゆく夜のバナナ

                           岡田一実

の少年雑誌に象牙の谷の話があった。象は自分の死に時を悟ると自ら身を隠し象の墓へ向かう。密林の奥深くあるその場所は象牙の宝庫だという話。本当に象がそんな死に方をするかはわからないが揚句の象はそんな野生の象だろうか。バナナと象は時間的、空間的、離れていて因果関係もない。しかし両者が「で」という助詞で接続されると大きな象の死とバナナの房が黄色く熟れてゆくことに関係があるように思えてしまう。死んだ象とバナナに夜はしんしんと更けてゆく。密接すぎても陳腐だし離れすぎても理解しがたい。そして何よりも句を生み出す根底に切実さがないと言葉は働いてくれない。そんなことを考えさせられる一句だ。そういえば井之頭公園の象のはな子も死んでしまった。空っぽの象舎を見るたび最後に横たわっていた姿を思い出しそうだ。『関西俳句なう』(2015)所載。(三宅やよい)




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