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July 1471996

 水枕干されて海の駅にあり

                           摂津幸彦

とより西東三鬼の有名な句「水枕ガバりと寒い海がある」のもじり。ペチャンコになったゴムの水枕が、人気(ひとけ)のない海辺の駅舎の裏に、洗濯バサミで止められてぶらさげられている。作者の哄笑が聞えてくるよう……。季語はなけれど晩夏の句としたい。『鹿々集』所収。(井川博年)


February 2421997

 ごうごうと鳴る産み月のかざぐるま

                           鎌倉佐弓

ょせん、男にはわからない句かもしれない。が、子供の玩具である風車が轟いて聞こえるという妊婦のありようには、出産への凛とした気構えが感じられる。やがて訪れる事態は甘いものではない。人生の一大事なのだ。作者には他に「手がさむし君のあばらに手をやれば」「受胎して象のあくびを眩しみぬ」などがある。いずれの句にも、どこかで風車がまわっている。『天窓から』所収。(清水哲男)


March 3131998

 かゝる代に生れた上に櫻かな

                           西原文虎

書に「大平楽」とある。こんなに良い世の中に生まれてきて、そのことだけでも幸せなのに、さらにその上に、桜の花まで楽しむことができるとは……。という、まさに大平楽の境地を詠んだ句で、なんともはや羨ましいかぎりである。花見はかくありたい。が、この平成の代に、はたしてこんな心境の人は存在しうるだろうか。などと、すぐにこんなふうな物言いをしてしまう私などは、文虎の時代に生きたとしても、たぶん大平楽にはなれなかっただろう。大平楽を真っ直ぐに表現できるのも、立派な気質であり才能である。作者の文虎は、父親との二代にわたる一茶の愛弟子として有名な人だ。まことに、よき師、よき弟子であったという。一茶は文虎の妻の死去に際して「織かけの縞目にかゝる初袷」と詠み、一茶の終焉に、文虎は「月花のぬしなき門の寒かな」の一句を手向けている。『一茶十哲句集』(1942)所収。(清水哲男)


December 08121998

 短日や塀乗り越ゆる生徒また

                           森田 峠

者は高校教師だったから「教室の寒く生徒ら笑はざり」など、生徒との交流を書いた作品が多い。この句は、下校時間が過ぎて校門が閉められた後の情景だろう。職員室から見ていると、何人かの生徒がバラバラッと塀を乗り越えていく様子が目に入った。短日ゆえに、彼らはほとんど影でしかない。が、教師には「また、アイツらだな」と、すぐにわかってしまうのである。規則破りの常連である彼らに、しかし作者は親愛の情すら抱いているようだ。いたずらっ子ほど記憶に残るとは、どんな教師も述懐するところだが、その現場においても「たまらない奴らだ」と思いながらも、句のように既に半分は許してしまっている。昭和28年(1953)の句。思い返せば、この年の私はまさに高校一年生で、しばしば塀を乗り越えるほうの生徒だった。が、句とは事情が大きく異なっていて、まだ明るい時間に学校から脱出していた。というのも、生徒会が開かれる日は、成立定数を確保するために、あろうことか生徒会の役員が自治会活動に不熱心な生徒を帰さないようにと、校門を閉じるのが常だったからである。校門を閉めたメンバーのほとんどは「立川高校共産党細胞」に所属していたと思われる。「反米愛国」が、我が生徒会の基調であった。『避暑散歩』(1973)所収。(清水哲男)


November 07112000

 二重廻し着て蕎麦啜る己が家

                           石塚友二

重廻し(にじゅうまわし)は、釣り鐘形で袖のないマント。「ともに歩くも今日限り」の『金色夜叉』間貫一が熱海の海岸で着ていたのが、このマントだ。あるいは、川端康成『伊豆の踊子』の主人公が着ていたマントである。その二重廻しを着て、蕎麦を啜っているのだから、てっきり夜鳴き蕎麦の屋台での光景かと思いきや、下五でのどんでん返しが待っている。自分の家の室内での光景だったのだ。とにかく、寒い。火鉢も炬燵もない。辛抱たまらずに、出前の蕎麦をとったのだろう。昭和十年代の句だけれど、私にも似たような体験があり、よくわかる。二重廻しではないが、コートを着たうえに毛布まで引っ被って、寒さをやり過ごそうとしていたのは、二十代も後半だった。でも、掲句は自嘲句ではないだろう。誰にも同情なんて、求めてはいない。外出着を、家の中で着て震えている姿の滑稽を言っている。べつに凍え死ぬわけじゃなし、自己憐愍など思いの外で、みずからの情け無い姿を笑っているのである。いや、笑ってしまうしかないほどに、この夜は寒かったのだろう。若さとは、こういうものだ。火鉢や炬燵を買う金があったら、もっと別な使い道がある。我慢できるのも、若さの特権である。同じころの句に「人気なく火気なき家を俄破と出づ」があって、これまたあっけらかんと詠んでいる。いいなあ、若いってことは。昔は若かった私がいま、掲句に対して感じ入っている姿のほうが、なんだか侘びしいような……。『百萬』(1940)所収。(清水哲男)


December 26122000

 鱒鮓や寒さの戻る星の色

                           古館曹人

鮓(ますずし)は富山の名産と聞くが、本場ものは食べたことがない。いわゆる押し寿司だろうか。冬の鮓の冷たい感触は、冷たさゆえに食欲をそそる。傍らに熱いお茶を置き、冷たさも味のうちとして賞味する。揚句では、さらにサーモン・ピンクの鱒の色が、戻ってきた寒さのなかに明滅する星の色にしみじみと通いあっており、絶品だ。ふと、通夜の情景かもしれないと思った。亡き人を偲ぶとき、私たちは吸い込まれるように空を見上げる。死者が召されるという暗黒の「天」には、星がまたたいている。その星のまたたきが、生き残った者たちの慰めとなる。まったく見当外れの読みかもしれないが、いまの私には、むしろこう読んだほうが、しっくりくる。今夜、詩人仲間の加藤温子さんのお通夜(於・カトリック吉祥寺教会)がとりおこなわれる。明日の葬儀ミサには行けないので、今夜でお別れだ。二十年に近いおつきあいだった。きっと星はまたたいてくれ、私はきっと見上げるだろう。温子さん、いつものジーパン姿で会いに行くからね。『樹下石上』所収。(清水哲男)


January 1012001

 冬眠すわれら千の眼球売り払い

                           中谷寛章

作。「眼球」を「め」と読ませている。「目」では駄目なのだ。すなわち物質としての目玉まで売り払って、覚悟を決めた「冬眠」であると宣言している。もはや「われら」は、二度と目覚めることはないだろうと。ここで「われら」とは、具体的な誰かれやグループを指すのではない。強いて言えば、現在にいたるまでの「われ」が理想や希望を共有したと信ずる多くの(「千」の)人々である。そこには、未知の人も含まれている。したがって、せんじ詰めれば、この「われら」は「われ」にほかならないだろう。「われ」のなかの「われら」意識は、ここで壮絶な孤独感を呼び覚ましている。中谷君は、大学の後輩だった。当時は波多野爽波のところにいたようだが、そういう話は一度も出なかった。社会性の濃い話が中心で、常に自己否定に立った物言いは、息苦しいほどだった。共産同赤軍派の工作員と目され公安警察につきまとわれたことは後で知ったが、何事につけ誠実な男だった。いつも「われ」ひとりきりで、ぎりぎりと苦しんでいたのだ。それが若くして病魔に冒され、揚句のような究極の自己否定にいたらざるを得なかった中谷君の心情を思うと、いまだに慰めようもない。句には、明らかに死の予感がある。結婚して一子をあげた(1973年11月)のも束の間、三十一歳で急逝(同年12月16日)してしまった。彼は、赤ちゃんの顔を見られたろうか……。京大俳句会の先輩だった大串章に「悼 中谷寛章」と前書きした「ガードくぐる告別式の寒さのまま」がある。『中谷寛章遺稿集・眩さへの挑戦』(1975・序章社)所収。(清水哲男)


January 2312001

 うつし身の寒極まりし笑ひ声

                           岡本 眸

妙な味がする。理由は、私たちが「感極まる」という言葉を知っているからだ。そして「感極まり」とくれば、後には「泣き出す」など涙につながることも知っているからである。しかし揚句では「寒極まり」であり、涙ならぬ「笑ひ」につながっている。だから、はじめて読んだときには、変な句だなあと思った。思ったけれど、いつまでも「笑ひ声」が耳についているようで離れない。もとより作者は「感極まる」の常套句を意識しての作句だろうが、この常套句を頭から排して読めば、そんなに奇妙とも言えないなと思い直した。戸外からだろうが、どこからか聞こえてきた「笑ひ声」に、寒さの極みを感じ取ったということになる。その声はたしかに笑っているのだけれど、暖かい季節とは違い、それこそ「感」(ないしは「癇」)が昂ぶっているような笑い声なのだ。これも「うつし身」であるからこそ、生きているからこその「笑ひ声」である。作者はここで一瞬、人間が自然の子であることを再認識させられている。字句だけを追えば、このあたりに解釈は落ち着くだろう。とはいえ、やっぱり「寒極まる」は気になる。字面だけの意味とは、受け取りかねる。「寒極まる」と「感極まる」の間を行ったり来たりしているうちに、ますます実際には聞いたこともない「笑ひ声」が耳について離れなくなる。奇妙な味のする句としか言いようがない。むろん、私は感心して「奇妙な味」と言っている。(清水哲男)


December 03122001

 本漁ればいつも青春肩さむし

                           古沢太穂

者、六十代の句。と、いま調べて書いて、私もその年代なのだと思い知る。六十年余も生きてくると、いろいろな場面で年齢を感じることが増えてくるが、なるほど、私も本屋にいるときは年齢のことなどすっかり忘れてしまっている。青春時代と同じように、そのころに習得した自分なりのやり方で本を漁(あさ)る自分がいる。たいていの町の本屋は、寒い日でも店を開け放っているもので、感じる肩の寒さも若き日と同じようだ。肩をすぼめながらも、棚を眺める好奇心の熱は冷めないのである。なぜか「青春は美し」という、それこそ本の題名で知った言葉を思い出した。いまはもう誰も読まないヘルマン・ヘッセだ。句とは離れるが、私は本屋のない田舎で育った。中学二年で大阪は茨木市に引っ越したときに、はじめて本屋というところに入ることができた。忘れもしない、虎谷書店。健在だろうか。嬉しくて、日参しましたね。高校時代には、立川のオリオン書房、福生の田村書房と岩田屋。大学のときは、京都の三月書房、ナカニシヤ。まだ木造だったころの新宿の紀伊国屋書店。棚の本の配列をそらんじるほどに通いつめ、といっても金がないのでそんなに買えるわけもなく、もっぱら立ち読み専門の青春でした。なかで店のご主人と親しくなったのは、岩田屋と三月書房。岩田屋の奥さんは、たまに立ち寄らない日があると、必ず「何かあったの」と心配してくれたっけ。だから、岩田屋でどうしても立ち読みできなかった雑誌の一つに「奇譚クラブ」がある。『火雲』(1982)所収。(清水哲男)


November 28112002

 易水に根深流るる寒さ哉

                           与謝蕪村

くなった友人の飯田貴司が、酔っぱらうとよく口にしたのが「風蕭蕭(しょうしょう)として易水(えきすい)寒し、壮士一たび去ってまた還らず」という詩句だった。忘年会の予定を手帖に書き込んでいて、ふっと思い出した。「易水」は、中国河北省西部の川の名前だ。燕(えん)のために秦の始皇帝を刺そうとした壮士・荊軻(けいか)が、ここで燕の太子丹と別れ、この詩を詠んだという。このことを知らないと、掲句の解釈はできない。蕪村の句には、こうした中国古典からの引用が頻出するので厄介だ。さて、飯田君は後段の壮士の決然たる態度に惚れていたのだろうが、蕪村は前段の寒々とした光景に注目している。同じ詩句に接しても、感応するところは人さまざまだ。当たり前のようでいて、このことはなかなかに興味深い。作者の荊軻にしてみれば、むろん飯田君的に格好良く読んでほしかった。だが、蕪村は後段のいわば「大言壮語」を気に入ってはいなかったようである。だから、庶民の生活臭ふんぷんたる「根深(ねぶか)」を、わざと流している。壮士に葱は似合わない。せっかく見栄を切っているのに、舞台に葱が流れてきたのではサマにならない。この句については、古来その「白く寒々とした感じ(萩原朔太郎)」のみが高く評価されてきたが、そうだろうか。それだけのことなのだろうか。むしろ荊軻の生き方批判に力点の置かれた句ではないのかと、これまたふっと思ったことである。(清水哲男)


December 21122002

 なほ赤き落葉のあれば捨てにけり

                           渡部州麻子

所に見事な銀杏の樹があって、たまに落葉を拾ってくる。本の栞にするためである。で、拾うときには、なるべく枯れきった葉を選ぶ。まだ青みが残っているものには、水分があるので、いきなり本に挟むと、ページにしみがついてしまうからだ。私の場合は、用途が用途だけに、一枚か二枚しか拾わない。ひるがえって、掲句の作者の用途はわからないが、かなりたくさん拾ってきたようである。帰宅して机の上に広げてみると、そのうちの何枚かに枯れきっていない「赤き」葉が混じっていた。きれいだというよりも、作者は、まだ葉が半分生きているという生臭さを感じたのだろう。私の経験からしても、表では十分に枯れ果てたと見えた葉ですら、室内に置くと妙に生臭く感じられるものだ。そんな生臭さを嫌って、作者は「赤き」葉だけではなく、その他も含めて全部捨ててしまったというのである。全部とはどこにも書かれていないけれど、「捨てにけり」の断言には「思い切って」の含意があり、そのように想像がつく。と同時に、捨てるときにちらっと兆したであろう心の痛みにも触れた気持ちになった。「赤」で思い出したが、細見綾子に「くれなゐの色を見てゐる寒さかな」があり、評して山本健吉が述べている。「こんな俳句にもならないようなことを、さりげなく言ってのけるところに、この作者の大胆さと感受性のみずみずしさがある」。句境はむろん違うのだけれど、掲句の作者にも一脈通じるところのある至言と言うべきか。「俳句研究」(2003年1月号)所載。(清水哲男)


January 1012003

 小倉百人かたまつてゆく寒さ哉

                           高山れおな

句の下敷きには、江戸後期の俳人・井上士朗の「足軽のかたまつて行く寒さかな」がある。しんしんと冷え込んでいる町なかを、最下級武士の「足軽(あしがる)」たちがおのずと身を寄せ合うようにして、足早に通りすぎていく。それぞれ、足袋もはいていないのだろう。見ているだけで、厳しい寒さがひとしお身にしみる光景だ。対して、作者は足軽を「小倉百人」にメンバー・チェンジしてみた。『小倉百人一首』に登場する錚々たる作者の面々だ。男七十九人、女二十一人。僧侶もいるが、おおかたはやんごとなき王朝貴族だから、冬の身支度も完璧だ。一堂に会すれば、さぞや壮観だったと思われるが、作者は苦もなく百人を冬の町に放り出している。そこでさて、彼らはどんな行動に出るのだろうか。と見ていると、やはり寒さには勝てず、「かたまつて」歩きはじめたというのである。それでなくとも、日ごろは「オレが」「ワタシが」と自己主張が強くプライドの高い面々だけに、仕方なく身を寄せ合って歩く様子は可笑しみを誘う。寒気のなかでは、足軽も貴族もないのである。ところで、私の愛誦する歌の作者は、集団のどのあたりにいるのだろうか。そんなことも思われて、すっかり楽しくなってしまった。『ウルトラ』(1998)所収。(清水哲男)


January 1212003

 うづくまる薬の下の寒さ哉

                           内藤丈草

書に「はせを翁の病床に侍りて」とある。芭蕉臨終直前の枕頭で詠んだもので、去来によれば、芭蕉が今生の最後に「丈草出来たり」と賞賛した句だという。だが、正直に言って、私にはどこが「出来たり」なのかが、よくわからない。凡句というのでもないけれど、去来が「かゝる時は、かゝる情こそ動かめ。興を催し、景をさぐるいとまあらじとは、此時こそおもひ知りはべる」と書いていることからすると、異常時にあっての冷静さが評価されたのだろうか。こういう緊急のときには、日ごろの蓄積が自然に出てくるというわけだ。ところで、芥川龍之介の『枯野抄』は、この句に触発されて書かれたことになっている。読み返してみたら、句への直接の言及はないが、彼もまた「出来たり」とは思っていなかったようだ。それは、師匠の唇をうるおした後に、不思議に安らかな気持ちになった丈草の心の内を描いた部分に暗示されている。「丈艸のこの安らかな心もちは、久しく芭蕉の人格的圧力の桎梏に、空しく屈してゐた彼の自由な精神が、その本来の力を以て、漸く手足を伸ばさうとする、解放の喜びだつたのである。彼はこの恍惚たる悲しい喜びの中に、菩提樹の念珠をつまぐりながら、周囲にすすりなく門弟たちも、眼底を払つて去つた如く、唇頭にかすかな笑(えみ)を浮べて、恭々しく、臨終の芭蕉に礼拝した。――」。すなわち、掲句はいまだ「芭蕉の人格的圧力の桎梏」下にあったときのものだと、芥川は言っている。むろん一つの解釈でしかないけれど、去来のように手放しで誉める気になっていないところが、いかにも芥川らしくて気に入った。ちなみに去来は、しょせんは「薮の中」だとしても、小心者として登場している。(清水哲男)


January 1412004

 明け方の夢でもの食う寒さかな

                           辻貨物船

物船(詩人・辻征夫)にしては俳句になりすぎているような句だが、この味は捨てがたい。寒い日の明け方、意識は少し覚醒しかけていて、もう起きなければと思いつつ、しかしまだ蒲団をかぶっていたい。そのうちにまた少しトロトロと眠りに引き込まれ、空腹を覚えてきたのか、夢の中で何かを食べているというのである。誰もが思い当たる冬の朝まだきの一齣(ひとこま)だ。まことに極楽、しかしこの極楽状態は長くはつづかない。ほんの束の間だからこそ、句に哀れが滲む。いとおしいような人間存在が、理屈抜きに匂ってくる。物を食べる夢といえば、子供のころには日常的な飢えもあって、かなりよく見た。でも、せっかくのご馳走を前にして、やれ嬉しやと食べようとしたところで、必ず目が覚めた。なんだ夢かと、いつも落胆した。だから大人になっても夢では食べられないと思っていたのだが、あれは何歳くらいのときだったろうか。なんと、夢で何かがちゃんと食べられたのだった。何を食べたのかは起きてすぐに忘れたけれど、そのもの本来の味もきちんとあった。それもいまは夢の中だという自覚があって、しかも食べられたのである。感動したというよりも、びっくりしてしまった。これはおそらく、もはやガツガツとしなくなった年齢的身体的な余裕が、かえって幸いしたのだろうと思ったことだが、どうなんだかよくはわからない。その後も、二三度そういうことが起きた。ところで、今日一月十四日は作者・辻征夫の命日だ。彼が逝って、もう四年にもなるのだ。辻よ、そっちも寒いか。『貨物船句集』(2001・書肆山田)所収。(清水哲男)


January 2812005

 寒き夜や父母若く貧しかりし

                           田中裕明

年末に急逝した作者の主宰誌「ゆう」の二月号が届いた。最後の作品として、掲句を含む二十二句が載せられている。むろん、彼はこの最新号を目にすることはできない。彼はあまり自分の育ちなどについては詠まないできた人という印象があるので、おやっと目が止まってしまった。他のページに「いまはあいにく入院中で、おおかた病院の中にいます」とあるから、この句も病院で詠まれたものだろう。入院という環境が、「家族」を強く意識させたということにもなろうか。とりたてて家族への新鮮な視点があるわけではないけれど、貧しくはあったが、あのころがいちばん良かったかなというつぶやきが聞こえてきそうな句だ。いまの自分よりももっと若かった父母を中心に、「寒き夜」に家族が身を寄せあっている情景は懐かしくも心温まる思い出だ。両親が貧しさと戦う武器は「若さ」のみ。生活の不安や悩みには重いものがあったろうが、子供としての作者にはわかるはずもない。ただ両親の若さによる活力を頼もしく思い、庇護されていることの心地よさだけがあった……。作者とはだいぶ年代が違うのだが、敗戦時に子供だった私たちの世代には、もうこれだけでぐっと来てしまう句だ。なお「ゆう」は、もう一冊「田中裕明主宰追悼号」を出して終刊となる。(清水哲男)


August 2382006

 露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す

                           西東三鬼

十代の後半に、三鬼の「水枕ガバリと寒い海がある」という句に偶然出会って、私は驚嘆した。脳震盪を起こした。そして西東三鬼という奇妙な名前の俳人が忘れられなくなった。俳句侮るべからず、と認識を新たにさせられた。さっそく角川文庫『西東三鬼句集』を探しはじめ、1年がかりで探し当てたときは、まさに「鬼の首」でもとったような感激だった。定価130円。掲出句は「水枕・・・」の句を冒頭に収めた句集『夜の桃』に収められている。ニヒリスト、エトランジェ、ダンディズムなどという形容がつきまとう三鬼ならではの斬新な風が、この句にも吹いている。同時にたくまざるユーモアがこの句の生命であろう。白系ロシア人で隣に住んでいたというワシコフ氏はいったい何と叫んでいたのか? 肥満体の露人は五十六、七歳で一人暮らし。せつなさと滑稽がないまぜになっている。赤く熟した石榴を、竿でムキになって打ち落としている光景は、作者ならずとも思わず足を止め、寒々として見惚れてしまいそうだ。ここはやはり柿や栗でなく、ペルシャ・インド原産の石榴こそふさわしい。外皮が裂けて赤い種子が怪しく露出している石榴と、赤い口をゆがめて叫ぶ露人の取り合わせ。尋常ではない。『夜の桃』(1950)所収。(八木忠栄)


November 01112006

 酒となる間の手もちなき寒さ哉 

                           井上井月

月(せいげつ)は文政五年(1822)越後高田藩に生まれ、のち長岡藩で養子になった。三十代後半に信州伊那谷に入り、亡くなる明治二十年(1887)まで放浪漂泊の生涯を送った。酒が大好きだった。掲句は伊那で放浪中のもので、どこぞの家に厄介にでもなって酒を待つ間(ま)の手持ち無沙汰。招じあげられ、一人ぽつねんとして酒を静かに待っているのだろう。申しわけなさそうな様子ではあるが、主人との酒席をじいっと辛抱強く待っている、そんな図である。そのあたりにいる女子衆(おなごし)に愛想を振りまくわけでも、世辞を言ったりするわけでもあるまい。寒さに耐えて酒を待つ無愛想。伊那谷の冬の寒さが、読むほうにもことさら身にしみてくる。ついでに酒が待ち遠しくもなる。ある時、井月は「何云はん言の葉もなき寒さかな」の一句も短冊にしたためている。穏かなご隠居が「井月さん、来たか、来たか」と座敷にあげて酒をふるまうこともあったと、『井上井月伝説』(江宮隆之)にある。山頭火が心酔していたというが、さもありなん。室生犀星が高く評価した。傑出した句ではないが、左党には無視しがたい一句。芥川龍之介はこう詠んでいる、「井月ぢや酒もて参れ鮎の鮨」。落語「夢の酒」では、酒好きのご隠居が夢のなかで酒の燗がつくのを待っているうちに嫁に起こされてしまって、「冷やで飲めばよかった!」とサゲる。井月句はおよそ1680句と言われる。蝸牛俳句文庫『井上井月』(1992)所収。(八木忠栄)


December 22122006

 亡き夫の下着焼きをり冬の鵙

                           岡本 眸

者の夫は四十五歳で脳溢血で急逝。その時の夫への悼句のひとつである。人はいつも見ていながら平凡な風景として特段に注意を払わない事物や事柄に、或る時感動を覚える。見えるもののひとつひとつが、それまで感じたことのない新しい意味をもたらすのだ。「下着」がそれ。俳句的情趣という「ロマン」を纏わない「下着」が或る日、かけがえの無い情緒をもったものに変わる。同じときに創られた一連の悼句の中のひとつ「夕寒し下駄箱の上のセロテープ」もそう。夫の死によって、「夫が遺していった」という意味をもった瞬間、下着やセロテープが感動の事物に変化する。僕等はさまざまな個人的な「感動」を内包するあらゆる事物や風景のカットに一日何千、何万回も遭遇していながら、それを「自分」に引きつけて切り取ることができない。「共通理解」を優先して設定するため、いわゆる俳句的素材や「俳諧」の中に感動の最大公約数を求めてしまうからだ。作者は三十代の頃、俳句と並行して脚本家をこころざし、馬場當に師事して助手を務める。日常のさまざまのカットの中にドラマの一シーンを見出す設定に腐心した者の体験がこの句にも生かされている。『岡本眸読本』(富士見書房・1999)所載。(今井 聖)


October 05102007

 蓑虫や滅びのひかり草に木に

                           西島麦南

びとはこの句の場合、枯れのこと。カメラの眼は蓑虫に限りなく接近したあと、ぐんぐんと引いていき秋の野山を映し出す。テーマは蓑虫ではなく、「滅びのひかり」である。もうすぐ冬が来る気配がひかりの強さに感じられる。鳥取県米子市に住んだときはかなりの僻地で、家の前が自衛隊の演習地。広い広い枯野で匍匐前進や火炎放射器の演習をやっていた。他の人家とは離れていたので、夜は飼犬を放した。夜遊び回った果てに戻ってきた犬が池で水を飲む音がする。子規の「犬が来て水飲む音の寒さかな」を読んで、ああこれだななんて思ったものだ。「滅びのひかり」を今日的に使うならすぐ社会的な批評眼の方へ引いて行きたくなるところだが、麦南さんは「ホトトギス」の重鎮。あくまで季節の推移の肌触りを第一義にする。言葉はしかし五感に触れる実感に裏打ちされているからこそ強烈に比喩に跳ぶ。季節の推移についての実感を提示したあと、やがて人類や地球の滅びをも暗示するのである。講談社版『日本大歳時記』(1981)所載。(今井 聖)


November 17112007

 別れ路の水べを寒き問ひ答へ

                           清原枴童

い、は冬の王道を行く形容詞であるが、ただ気温が低い、という意味の他に、貧しいや寂しい、恐ろしいなどの意味合いもある。秋季の冷やか、冬季の冷たしも、冷やかな視線、冷たい態度、と使えば、そこに感じられるのは、季感より心情だろう。この句の場合、別れ路の水べを寒き、まで読んだ時点では、川辺を歩いていた作者が、二またに分かれた道のところでふと立ち止まると、川を渡り来る風がいっそう寒く感じられた、といった印象である。それが最後の、問ひ答へ、で、そこにいるのは二人とわかる。そうすると、寒き問ひ答へ、なのであり、別れ路も、これから二人は別れていくのかと思えてきて、寒き、に寂しい響きが生まれ、あれこれ物語を想像させる。寒き、の持つ季感と心情を無理なく含みつつ、読み手に投げかけられた一句と思う。清原枴童(かいどう)は、流転多き人生を余儀なくされ、特に晩年は孤独であったというが、〈死神の目をのがれつつ日日裸〉〈着ぶくれて恥多き世に生きむとす〉など、句はどこかほのぼのしている。句集のあとがきの、「枴童居を訪ふ」という前書のついた田中春江の句〈寒灯にちよこなんとして居られけり〉に、その人となりを思うのだった。「清原枴童全句集」(1980)所収。(今井肖子)


December 16122007

 さう言へばこけしに耳のない寒さ

                           久保枝月

う言えば、(と、わたしも同じようにはじめさせてもらいます)わたしが子供のころには、畳の部屋によく、飾り棚が置いてありました。今のように部屋にゆったりとしたソファーが置いてあったり、あざやかな柄のカーテンがついていたりということなど、なかった時代です。飾り棚と言っても、作りはいたって簡単で、ガラス扉の向こうには、たいていいくつかのこけしが、そっと置いてあるだけでした。来る日も来る日も同じガラスの向こうに、同じこけしの姿を見ている。それがわたしの子供のころの、変化のない日常でした。思えば最近は、こけしを目にすることなどめったにありません。ああそうか、こけしには耳がなかったんだと、あらためて作者は思ったのです。作者が「寒さ」を感じたのは、「こけし」であり、「耳」であり、「ないこと」であったようです。そしてその感覚は、自分自身にも向けられていたのかもしれません。耳という部位を通して、こけしであることと、ひとであることを、静かに比べているのです。「さう言へば」という何気ない句のはじまり方が、どこか耳のないこけしに、語りかけてでもいるように読めます。『微苦笑俳句コレクション』(1994・実業之日本社)所載。(松下育男)


March 1232008

 炭砿の地獄の山も笑ひけり

                           岡本綺堂

うまでもなく「山笑ふ」も「笑ふ山」も早春の季語である。中国の漢詩集『臥遊録(がゆうろく)』に四季の山はそれぞれこう表現されている。「春山淡冶(たんや)にして笑ふがごとし。夏山は蒼翠にして滴るがごとし。秋山は明浄にして粧ふがごとし。冬山は惨淡として眠るがごとし」と、春夏秋冬まことにみごとな指摘である。日本では今や、炭砿は昔のモノガタリになってしまったと言って過言ではあるまい。かつての炭砿では悲惨なニュースが絶えることがなかった。まさしくそこは「地獄の山」であり「地獄の坑道」であった。多くの人命を奪い、悲惨な事故をつねに孕んでいる地獄のような炭砿にも、春はやってくる。それは救いと言えば救いであり、皮肉と言えば皮肉であった。それにしても「地獄の山」という言い方はすさまじい。草も木もはえない荒涼としたボタ山をも、綺堂は視野に入れているように思われる。ずばり「地獄の・・・・」と言い切ったところに、劇作家らしい感性が働いているように思われる。春とはいえ、身のひきしまるようなすさまじい句である。子規の「故郷(ふるさと)やどちらを見ても山笑ふ」という平穏さとは、およそ対極的な視点が働いている。句集『独吟』をもつ綺堂の「北向きに貸家のつゞく寒さかな」という句も、どこやらドラマが感じられるような冬の句ではないか。『独吟』(1932)所収。(八木忠栄)


April 2442008

 パスポートにパリーの匂ひ春逝けり

                           マブソン青眼

しい海外旅行の経験しかないけど、パスポートを失くす恐ろしさは実感させられた。これがないと飛行機にも乗れないしホテルにも泊まれない。何か事が起きたとき異国で自分を証明してくれるのはこの赤い表紙の手帳でしかない。肌身離さず携帯していないと落ち着かなかった。母国から遠く離れれば離れるほどパスポートは重みを増すに違いない。『渡り鳥日記』と題された句集の前文には「渡り鳥はふるさとをふたつ持つといふ渡り鳥の目に地球はひとつなり」と、記されている。その言葉通り作者の故郷はフランスだが、現在は長野に住み、一茶を研究している。だが、時にはしみじみと母国の匂いが懐かしくなるのかもしれない。それは古里を離れて江戸に住み「椋鳥と人に呼ばるる寒さ哉」と詠んだ一茶の憂愁とも重なる。年毎に春は過ぎ去ってゆくけれど、今年の春も終わってしまう。「逝く」の表記に過ぎ去ってしまう時間と故郷への距離の遥かさを重ねているのだろうか。「パスポート」「パリ」と軽い響きの頭韻が「春」へと繋がり、思い入れの強い言葉の意味を和らげている。句集は全句作者の手書きによるもので、付属のCDでは四季の映像と音楽に彩られた俳句が次々と展開してゆく。手作りの素朴さと最先端の技術、対極の組み合わせが魅力的だ。『渡り鳥日記』(2007)所収。(三宅やよい)


November 10112008

 寺寒し肉片のごと時計垂れ

                           今井 勲

もほとんど帰ってしまった通夜の席ではなかろうか。冬の寺はだいたいが寒いところだが、夜が更けてくるにつれ、しんしんと冷え込んでくる。私にも経験があって、火の気の無い冬の寺で夜明かしするには、とりあえずアルコールでも補給しないことには辛抱しきれないのであった。線香の煙を絶やさないように気配りすることくらいしかやることもなく、所在なくあたりを見回していた作者の目にとまったのは、いささか大きめな掛け時計であった。何もかもが動きを止めているようなしんとした堂内で、唯一動いている時計。それが作者には、肉片のように生々しく思えたのだろう。ここで私などは、どうしてもダリの描いた柔らかい時計、溶ける時計を思い出してしまうが、作者にも無意識にせよ、ダリの絵の情景と交叉するところがあったに相違ない。寺の調度類は総じて固く見えるから、ひとり動いている時計がそれだけ柔らかく見えたとしても不思議ではないと思う。もう少し突っ込んで考えてみれば、死者の棺を前にして、故人との思い出深い時間が直線的な時系列的にではなく、だらりと垂れた時計のように行きつ戻りつ歪んで思えてきたということなのかもしれない。いずれにしても、読後しばらくは、それこそ「肉片のごと」生々しく心に引っかかって離れない句ではある。遺句集『天樂』(2008・非売)所収。(清水哲男)


December 17122008

 師走何ぢゃ我酒飲まむ君琴弾け

                           幸田露伴

走という言葉を聞いただけで、何やら落着かないあわただしさを感じるというのが世の常だろう。ところが、師走をたちどころに「何ぢゃ」と突き放しておいて、あえて自分は酒を飲もうというのだから豪儀なものだ。しかも、傍らのきれいどころか誰かに向かって、有無を言わさず琴を所望しているのだから、恐れ入るばかりである。時代も男性も軟弱でなかったということか。せわしなく走りまわっている世間を尻目に、我はあえて泰然自若として酒盃を傾けようというのである。「君」はお酌をしたその手で琴を弾くのだろうか。「ほんまに、しょうもないお人どすなあ」と苦笑して見せたかどうか、てきぱきと琴を準備する、そんなお座敷が想像される。擬古典派として、史伝などの堅い仕事のイメージが強い作家・露伴であったればこそ、このような句を書き、あるいは実際に琴を弾かせ、鳴物を奏でさせたと想像することもできる。押しつまった師走という時季だからこそ、おもしろさが増して感じられるし、共鳴も得られるのかもしれない。約二十五年を要して成した露伴の『評釈芭蕉七部集』は労作であり、芭蕉評釈として今も貴重である。別号を蝸牛庵と称し、『蝸牛庵句集』がある。ほかに「吹風(ふくかぜ)の一筋見ゆる枯野かな」「書を売つて書斎のすきし寒(さむさ)哉」といった冬の句もある。『蝸牛庵句集』(1949)所収。(八木忠栄)


January 1412009

 サラリーマン寒いね東スポ大切に

                           清水哲男

年からの世界的な不景気のことを、新年早々からくり返したくもない。けれどもサラリーマンに限らず、自営、新卒の人たちも含めて、このところのニッポンの寒さは一段と厳しい。何年も前に作られた哲男の句がピッタリするような世の中に相成りました。もっとも景気の良し悪しにかかわらず、通勤するサラリーマンがスポーツ紙に見入っている図は、どこかしら寒々として見える。私もサラリーマン時代には、電車のなかや昼休みの喫茶店でよく「東スポ」や「スポニチ」を広げて読んでいた。売らんかなのオーバーでバカでかい見出し文字や大胆な報道が、サラリーマンの鬱屈をしばし晴らしてくれる効果があった。掲出句の場合、いきなり「サラリーマン」ときて「寒いね」の受けがピシリと決まっている。せつなくもやさしく同病(?)相憐れんでいるのかもしれない。この場合、冬の「寒さ」ばかりではあるまい。かつて「♪サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ・・・・」とも歌われたけれど、私の経験から言えば気楽な反面、憐れな稼業でもあることは骨身にしみている。おそらく若いサラリーマンであろう。広げている新聞が日経でも朝日でもなく、東スポであるところが哀しくもうれしいではないか。若いうちから日経新聞(恨みはございませんが)に真剣に見入っているようでは、なんとも・・・・。下五の「大切に」に作者の毒を含んだやさしい心がこめられている。憐れというよりもユーモラスで暖かい響きが残された。『打つや太鼓』(2003)所収。(八木忠栄)


January 1712009

 冬満月枯野の色をして上がる

                           菊田一平

週の金曜日、東京に初雪という予報。結局少しみぞれが落ちただけだった。少しの雪でも東京はあれこれ混乱する。一日外出していたのでほっとしたような、やや残念で物足りないような気分のまま夜に。すっかり雨もあがった空に、十四日の月がくっきりとあり、雫のようなその月を見ながら、掲出句を思い出していた。枯野は荒漠としているけれど、日が当たると、突き抜けたようなからりとした明るさを持つ。凩に洗われた凍て月のしんとした光には、枯野本来のイメージも重ね合わせることができるが、どちらかといえばぱっと目に入る明るさが脳裏に浮かんだのではないか、それも瞬時に。〈城山に城がぽつんと雪の果〉〈煉瓦より寒き首出し煉瓦積む〉など、目の前にあるさまざまな景色を、ぐっとつかんで詠むこの作者なら、枯野の色、という表現にも、凝った理屈は無いに違いない、と思いつつ、細りゆく月を見上げた一週間だった。『百物語』(2007)所収。(今井肖子)


November 04112009

 汽車道と国道と並ぶ寒さ哉

                           内田百鬼園

車道とはレトロな呼び方である。今なら「鉄道」とか、せいぜい「電車道」だろう。私などは幼い頃から呼びなれた「汽車道」という言葉が、ついつい口をついて出ることがある。だって高校通学では「汽車通(つう)」という言い方をしていたのだから。汽車ではなく、車輛不揃いな田舎の電車で通う「汽車通」だった。掲出句における作者内田百鬼園先生の位置は国道にいてもいいわけだが、ここは電車ではなくて汽車に乗っていると思われる。旅を頻繁にして「阿房列車」シリーズの傑作がある内田百鬼園であり、しかも明治四十二年の作だから、ここは汽車に乗っているとしたほうが妥当であろう。車内は暖房が少々きいていたか否か、いずれにせよ外の寒さに比べればましである。鉄道と国道が不意に寄り添う場所があるものだ。あれは妙におかしさを覚える。国道を寒そうに身を縮めて歩いている人を、車窓から眺めているのだろうか。あるいは人影はまったくないのかもしれない。車中の人は旅の途中であり、寒々とした田舎の風景が広がっているのだろう。汽車道と国道とが身を寄せ合っていることで、いっそう寒さが強く感じられる。「汽車道」という響きも寒さをいや増してくる。内田百鬼園は岡山一中(第六高等学校)時代に、国語教師・志田素琴に俳句を学んだ。掲出句は「六高会誌」に発表された。同年同誌に発表された句に「この郷の色壁や旅しぐれつつ」「埋火や子規の句さがす古雑誌」などがある。『百鬼園句帖』(2004)所収。(八木忠栄)


November 15112009

 叱られて次の間へ出る寒さかな

                           各務支考

務支考(かがみしこう)も江戸期の俳人です。とはいうものの、本日の句を読む限りは、当時だけにあった物や言葉が入っているわけではなく、いつの世でも通用する句になっています。叱られることはもちろんつらいことでありますが、片や、叱ることも心の大きな負担になります。相手の反省を求めて頭ごなしにモノを言う、という立場のあり方には、多くの人がそうであるように、私も性格的にどうもなじめません。それでも会社に長く勤めていれば、そのうち管理職になってしまうわけであり、否が応でも部下を叱らなければならないことがあります。さて、本日の句。叱られて、いかにもしょんぼりと帰ってくる人の丸まった背中が見えるようです。そのしょんぼりが、次の部屋の床の冷たさ(あるいは畳でしょうか)に触れて、さらに悲しい震えにつながってきたのでしょう。なにがあったのか知る由もありませんが、だれしも間違いはあるもの。言葉もかけられないほどの意気消沈振りに、できたら帰りに赤提灯にでも、誘ってあげたいと思ってしまいます。『日本名句集成』 (1992・學燈社)所載。(松下育男)


November 24112009

 地下鉄に息つぎありぬ冬銀河

                           小嶋洋子

下鉄というものは新しいものほど深いという。一番最近開通した近所を走る「副都心線雑司が谷駅」など、地上から約35mとあり、その深さをビルに換算すると…。想像するだに息苦しくなる。ここまで深いと、始発駅から終点まで地上に出ることなく黙々と地下を行き来するのみだが、古株の「丸ノ内線」になると時折地上駅がある。ことに東京ドームを横目にする後楽園駅のあたりは、どこか遊園地の続きめいた気持ちにさせる区間だ。おそらく電車も地下から地上へ視界が開ける瞬間に息つぎをして、また地下へと潜っているのではないか、という掲句の気分もよく分かる。東京の地下鉄の深さを比較するのにたいへん便利な東京地下鉄深度図を見つけた。まだ副都心線が網羅されていないのが惜しいが、前述の「雑司が谷駅」付近はほとんど「永田町駅」クラスの深海ならぬ深都市層を走っていることとなる。眺めているうちに、息つぎを知らない不憫な副都心線の一台一台をつまみあげて、冬の夜空を走らせてあげたい気持ちになってきた。〈跳箱の布の手ざはり冬旱〉〈地球史の先端にゐる寒さかな〉『泡の音色』(2009)所収。(土肥あき子)


January 1212010

 建付けのそこここ軋む寒さかな

                           行方克巳

書に「芙美子旧居」とあり、新宿区中井に残る林芙美子の屋敷での一句。芙美子の終の住処となった四ノ坂の日本家屋は、数百冊といわれる書物を読み研究するのに六年、イメージを伝えるために設計者や職人を京都に連れていくなどで建築に二年を費やしたという、こだわり尽くした家である。彼女は心血を注いだわが子のような家に暮らし、夏になれば開け放った家に吹き抜ける風を楽しみ、冬になれば出てくるあちこちの軋みも、また愛しい子どもの癖のように慈しんでいたように思う。掲句の「寒さ」は、体感するそれだけではなく、主を失った家が引き出す「寒さ」でもあろう。深い愛情をもって吹き込まれた長い命が、取り残された悲しみにたてる泣き声のような軋みに、作者は耳を傾けている。残された家とは、ともに呼吸してきた家族の記憶であり、移り変わる家族の顔を見続けてきた悲しい器だ。芙美子の家は今も東西南北からの風を気持ち良く通し、彼女の理想を守っている。〈うすらひや天地もまた浮けるもの〉〈夜桜の大きな繭の中にゐる〉『阿修羅』(2010)所収。(土肥あき子)


January 2012010

 どの墓も××家とある寒さかな

                           正津 勉

の暮に墓掃除に行ったり、正月にお参りに出かけることはあっても、一般に寒い時期に墓を訪れる人はなかなかいないだろう。それでなくとも、墓地までは距離があったりして、寒い折に出かけるのはよほどの用がないかぎり、億劫になってしまいがちである。ご先祖様には申しわけないけれど。それにしても墓地は、だいたいどこやら寂しいし寒々しいもの。掲出句にあるごとく、まこと大抵の墓には、宗旨にもよるが「××家」とか「先祖代々之墓」などと刻まれている。「××家」累代の歴史に、束の間の幸せや悲劇があったにせよ、刻まれた文字からは、雪があるないにかかわらず深閑として、冬場には厳しい寒さがいっそう漂う。「公苑墓地」などと称していても、寒いことにかわりはない。家によって一律ではないにしても、墓の姿や刻まれた文字が一様に寒々しく感じられてしまうのは仕方がない。時候の「寒さ」と心理的な「寒さ」とが、下五で重なりあっている。同時に威儀を正しているような凛としたものさえ感じられる句である。この句と同時に「あばら家の明け渡し迫る空つ風」という句がならんでいる。句誌「ににん」に、勉は「歩く人・碧梧桐」を連載している。「ににん」37号(2010)所載。(八木忠栄)


November 20112010

 バス発てば君居なくなる寒くなる

                           辻田二章

は寒くても気持ちはあたたかい時もあればその逆もある。この句が生まれたのは、小春の休日だろうか。一緒に過ごしている間は、まさに賜った今日の日差しが何倍にも輝きを増して二人を包み、身も心もほわっとしているけれど、楽しい時間はあっという間に過ぎてしまう。小さな今日だけの別れでも別れはさびしいものであり、それは会った時から、さらに会う前からわかっていたこと。バスが発ってしまって君がいなくなってだからさびしい、のではない。バスを見送りながら、わかっていたさびしさを今さらのようにかみしめていると、いつのまにか日は暮れていてさっきまで感じなかった寒さに急に襲われたのだろう。そして、今日一日の幸せな時間を思い出して、心にぬくもりを感じつつ家路をたどる作者である。『枇杷の花』(2001)所収。(今井肖子)


December 05122010

 我が寝たを首あげて見る寒さかな

                           小西来山

め人には朝おきるのがつらい季節になりました。眠さだけではなく、布団の外の寒さに身をさらすのが、なんとも億劫になるのです。特に月曜の朝に目覚ましが鳴ったときなど、いつもより30分早く会社に行けば仕事がはかどるだろうというつもりでセットした針を、自分で30分遅らせてまた眠ってしまいます。今日の句、眠った自分を、別の自分が外側から見ているという意味でしょうか。どうもそうではないような気がします。ただ首をもちあげて、横になった自分の体が布団の中にきちんとおさまっているかを確認しているだけのようです。「首あげて」の姿が具体的に思い浮かべられて、なんともおかしい句になっています。「我が寝たを」という言い方も、ちょっと無理があるかなという感じがしないでもありませんが、それも句の面白さの中では許されているようです。首をあげて確認したあとは、ありがたくも贅沢な眠りが、布団の中で待っていてくれます。『角川俳句大歳時記 冬』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


December 15122010

 鮒釣れば生まれ故郷の寒さかな

                           佐々木安美

して楽しい釣りではなく、寒さのなかで一人じっと釣糸を垂れている図であろう。首尾よく鮒を釣りあげたことによって、なぜか故郷の寒さが忍ばれる。うん、納得できる。この場合、生まれ故郷で釣っているのではあるまい。安美の「生まれ故郷」は山形県。この寒さは故郷だけでなく、わが身わが心境の寒さでもあるのだと思われる。故郷とは、ある意味で寒いもの。鮒を釣りあげた喜びにまさる、身の引き締まるような一句ではないか。「釣りは鮒に始まって鮒に終わる」と言われる。新刊詩集『新しい浮子 古い浮子』(2010・栗売社)の冒頭の詩「十二月田」の第一行は「詩を書くのをやめてから/フナを釣り始めた」と始まり、「フナが/新しい友だちということではないのだが/フナを/釣らないではいられない」「無言で/フナを釣っている」といったフレーズがある。この詩のパート3は、掲句と「長竿の底より遠い冬の鮒」など俳句四句のみで構成されている。理由はわからないが、安美はしばらく詩を離れていて、これが二十年ぶりに刊行した詩集である。抑えられたトーンで、忘れがたい世界が展開されている。詩人が十年やそれ以上沈黙する例はある。(私も十年間、個人詩誌を出さなかったことがあった。)短詩型の場合は結社があるから、毎月必ず作品を出さなければならないから、出来は悪くても書きつづけるーーと岡井隆が最近の某誌で語っていた。そのあたりにも、詩と短詩型の相違があるかもしれない。(八木忠栄)


February 2222012

 松籟を雪隠で聞く寒さ哉

                           新美南吉

春から二週間あまり経ったけれど、今年の春はまだ暦の上だけのこと。松籟は松を吹いてくる風のことだが、それを寒い雪隠でじっと聞いている。「雪隠」という古い呼び方が、「寒さ」と呼応して一層寒さを厳しく感じさせる。寒いから、ゆっくりそこで落着いて松籟に耳傾けているわけにはゆかないし、この場合「風流」などと言ってはいけないかもしれないけれど、童話作家らしい感性がそこに感じられる。今風のトイレはあれこれの暖房が施されているけれども、古い時代の雪隠はもちろん水洗ではなく、松籟が聞こえてくるくらいだから、便器の下が抜けていていかにも寒々しかった。寺山修司の句「便所より青空見えて啄木忌」を想い出した。南吉は代表作「ごんぎつね」で知られている童話作家だが、俳句は四百句以上、短歌は二百首ほど遺している。また宮澤賢治の「雨ニモマケズ」発見の現場に偶然立ち会っている。他に「手を出せば薔薇ほど白しこの月夜」がある。『みんな俳句が好きだった』(2009)所載。(八木忠栄)


January 2212013

 雪景色女を岸と思ひをり

                           小川軽舟

に縁遠い地に生まれたせいか、降り積もった雪の表情が不思議でならない。川にぽつんぽつんと雪玉が置かれているように見えたものが石のひとつひとつに積もった雪であることや、くっきりと雪原に記された鳥の足跡が飛び立ったときふつりと途絶えているのさえ、神秘に思えていつまでも見飽きない。女を岸と思うという掲句は、ともすると「男は船、女は港」のような常套句に惑わされるが、上五の雪景色がひたすら具象へと引き寄せている。村上春樹が太った女を「まるで夜のあいだに大量の無音の雪が降ったみたいに」と描写したように、川へとうっとりと身を寄せるように積もる純白の雪の岸には、景色そのものに女性美が備わっている。一面の雪景色のなかで、なにもかもまろやかな曲線に囲まれた岸と、そこに滔々と流れる冷たい水。雪景色のなかの岸こそ、女という生きものそのものであるように思えてくる。〈木偶は足浮いて歩めり燭寒く〉〈河馬見んと乗る木の根つこ春近し〉『呼鈴』(2012)所収。(土肥あき子)


February 0622013

 書を売つて書斎のすきし寒(さむさ)哉

                           幸田露伴

寒を過ぎたとはいえ、まだまだ寒さは厳しい。広い書斎にも蔵書があふれてしまい、仕方なく整理して売った。ようやくできた隙間にホッとするいっぽうで、寒い季節にあって、その隙間がいやに寒々しく感じられ、妙に落着かないのであろう。昨日までそこに長い期間納まっていて、今は売られてしまった蔵書のことが思い起こされる。その感慨はよくわかる。書棚に納められているどの一冊も、自分と繋がりをもっていたわけだもの。蔵書は経済的理由からではなく、物理的理由から売られたのであろう。理由はいずれにしろ、そこにぽっかりとできた隙間、その喪失感は寒々しいものだ。身を切られるような心境であろうし、同じようなことは多くの人が大なり小なり経験していることでもある。誰にとっても蔵書が増えるのは仕方がないけれど、じつに厄介だ。露伴は若くして俳句に親しみ多くの句を残しただけでなく、俳諧七部集の評釈でもよく知られている。他に「人ひとりふえてぬくとし榾の宿」がある。『蝸牛庵句集』(1949)所収。(八木忠栄)


June 0562013

 緑陰に置かれて空の乳母車

                           結城昌治

が繁った木陰の気持ち良さは格別である。夏の風が涼しく吹き抜けて汗もひっこみ、ホッと生きかえる心地がする。その緑陰に置かれている乳母車。しかも空っぽである。乗せてつれてこられた幼児は今どこにいるのか。あるいは幼児はとっくに成長してしまって、乳母車はずっと空っぽのまま置かれているのか。成長したその子は、今どこでどうしているのだろう? いずれにせよ、心地よいはずの緑陰にポッカリあいたアナである。その空虚感・欠落感は読者の想像力をかきたて、妄想を大きくふくらませてくれる。若い頃、肺結核で肋骨を12本も除去されたという昌治の、それはアナなのかもしれない。藤田貞利は「結城昌治を読む」(「銀化」2013年5月号)で、「昌治の俳句の『暗さ』は昭和という時代と病ゆえである」と指摘する。なるほどそのように思われる。清瀬の結核療養所で石田波郷と出会って、俳句を始めた。波郷の退所送別会のことを、昌治は「みな寒き顔かも病室賑へど」と詠んだ。『定本・歳月』(1987)所収。(八木忠栄)


November 24112013

 葱畑蟹のはさみの落ちてゐる

                           辻 桃子

で出会う驚きが、そのまま句になっています。葱畑に蟹のはさみが落ちている。なんの解釈の必要もない事実です。ただし、この実景に出会うためには気持ちを広く、同時に、敏感なセンサーを働かせる意識が必要です。句集には、掲句より前に「三国寒しトラちゃんといふ食堂も」があり、これも、旅人が立ち止まり、シャッターを押したような嘱目です。また、掲句より後に「とけるまで霰のかたちしてをりぬ」があり、しばらく霰(あられ)を見つめる目は童子の瞳です。ほかに、「九頭龍川」を詠んだ句もあり、越前・福井の冬の旅であることがわかりました。なるほど農家は、食べた後の越前ガニのはさみを畑の肥料にしているのだな。これは日常的な生活の知恵であり、しかし、旅人の目には、思いもよらないシュールレアリズムの絵画のような驚きを催しました。たしかに、葱と蟹のはさみは緑と赤の補色関係で配色されていて、かつ、立体的なモチーフです。土地と季節と生活者と旅人のコラボの句。『ゑのころ』(1997)所収。(小笠原高志)


January 1412014

 東京は寒し青空なればなお

                           高野ムツオ

京という文字には、都会・混雑・高層ビル群など、全てのイメージが詰め込まれている。宮城在住の作者の感じる東京の寒さとは、気温だけではなく、人間性や景色も含まれるものだ。高層ビルの隙間に見える空の切れ端が抜けるように青ければ青いほど、その無機質の物体との取り合わせが不気味に寒々しく感じさせるのだろう。そういえば、実家の母もひとりで東京には出てこない。やはり「寒いから」が理由で、それは静岡という温暖な場所に住んでいるせいだと取り合わなかったが、もしかしたら母もまた、気温とは別の寒さを訴えていたのかもしれないと、鈍な娘は今さらながら思い至ったのだ。〈瓦礫みな人間のもの犬ふぐり〉〈みちのくの今年の桜すべて供花〉『萬の翅』(2013)所収。(土肥あき子)


January 0412015

 初明り地球に人も寝て起きて

                           池田澄子

しい年が始まる。寒さの中で夜明けを待ち、初日の出を見るとき、その明りが地球を、私たちを暖めてくれている事実に気づかされます。日々、当たり前にくり返されている朝と昼と夜、そして四季が巡っている事実を、あらためて太陽と地球という天体の関係としてとらえ直してみることで、新しい年の日常を迎えいれていく覚悟ができるように思われます。掲句は、そのような、宇宙的視点から人が寝たり起きたりする日常を描いていて、普遍的な人類俳句です。以下、池田さんの新春俳句のいくつかを読んでみます。「年新た此処から空がいつも見え」。たぶん、池田さんは、空を見るのがお好きな方なのでしょう。とくに、年の始まりの空は澄んでいることが多く、何も書かれていない半紙や原稿用紙、画貼と向き合うような清々しさがあります。「湯ざましが出る元日の魔法瓶」。元日は、ゆったりしたテンポで生活しますから、魔法瓶の湯を替えることなく、「元日の茶筒枕になりたがる」となり、お茶もいれずに横たわり、「一年の計にピーナツの皮がちらばる」わけです。だから、「口紅つかう気力体力 寒いわ」。脱力した指先に、口紅をもつために気合いを入れるのですが、あまりに無防備になっているので寒さにやられて、「あらたまの年のはじめの風邪薬」。以上の読みは、句の制作年代もバラバラなので作者の生活実態とはかけ離れていることを付記し、池田さんには新春早々ご無礼をお詫び申し上げます。『池田澄子句集』(ふらんす堂・1995)所収。(小笠原高志)


January 1712015

 寒いからみんなが凛々しかりにけり

                           後藤比奈夫

かに、暑さにたるみ切った姿より寒さに立ち向かう姿の方がきりりと引き締まっている。それにしても前半の口語調と後半の、かりにけり、とのアンバランスが得も言われぬ印象を与える掲出句だが、既刊十句集から三百八十句を選って纏められた句集『心の花』(2006)の中にあった。そしてこの二句後に<一月十七日思ひても思ひても >。作者は神戸在住。思えば寒中、寒さの最も厳しい時に起こった阪神淡路大震災である。寒さは何年経ってもその時を思い出させるのかもしれないが、この句の肉声にも似た口語調と、凛々しかりにけり、にこめられた深く強い思いに励まされるような気がしてくる、二十年目の今日である。(今井肖子)


March 0332016

 立子忌の坂道どこまでも登る

                           阪西敦子

日は雛祭り。星野立子の忌日でもある。立子の句はのびのびと屈託がなく空気がたっぷり感じられるものが多い。例えば「しんしんと寒さがたのし歩みゆく」という句などもそうである。まず縮こまる寒さが「楽し」という認識に自然の順行が自分に与えてくれるものを享受しようとする開かれた心の柔らかさが感じられるし、「歩みゆく」という下五については山本健吉が「普通なら結びの五文字には何かゴタゴタと配合物を持ってきたくなる」ところを「歩みゆく」さりげなく叙するは「この人の素質のよさ」と言っているのはその通りだと思う。掲句の坂道を「どこまでも登る」はそんな立子のあわあわとした叙法を響かせているのだろう。立子の忌日に似つかわしい伸びやかさを持った句だと思う。『俳コレ』(2011)所載。(三宅やよい)




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