G句

July 1471996

 水枕干されて海の駅にあり

                           摂津幸彦

とより西東三鬼の有名な句「水枕ガバりと寒い海がある」のもじり。ペチャンコになったゴムの水枕が、人気(ひとけ)のない海辺の駅舎の裏に、洗濯バサミで止められてぶらさげられている。作者の哄笑が聞えてくるよう……。季語はなけれど晩夏の句としたい。『鹿々集』所収。(井川博年)


August 0881996

 負け知らずメンコの東千代之介

                           仁平 勝

季の句だと思うが、ひょっとすると歌留多などのように正月の部類に入れる人がいるかもしれない。そんなことはともかく、子供の頃の夏休みには、日没までメンコ三昧だった。敗戦後、四、五年のことだ。その当時、まだ東千代之介はメンコになりようもない存在だったから、私はもっぱら巨人の強打者・川上哲治を切り札に使っていた。それぞれの世代が時のヒーローを、東千代之介と入れ替えて読むと、理屈抜きで共感できる。ないしは、泣けてくる。こういう句も、あってよい。『東京物語』所収。(清水哲男)


September 2691996

 二の腕に声染みついて妊りぬ

                           春海敦子

性ならではの作品。男にはつくれない。発想らしきものも、絶対に浮かんではこないと思う。「妊りぬ」と、あるからではない。「声染みついて」がポイント。妊娠の句ならば、他にもいろいろとあるが、これほどに官能的な味わいを残しているものは見たことがない。悦楽の果ての現実を、いささか不良的な目で突き放してみせた力量は相当なものだ。ま、これ以上の野暮は言うまい。「お見事」の一語に尽きる。『む印俳句』所収。(清水哲男)


October 03101996

 御免なり将棋の駒も箱の内

                           小林一茶

賀百万石前田候の本陣に招かれた席での句。将棋の駒も箱に入ってしまえば、玉将も桂馬も歩兵もみな一緒。つまり、人間に上下の差異はないことを、目の前の大名に暗示している。前田候に句の意味がわからなかったはずはないが、そこは天下の大名だ。「面白いことをいう奴だ」と、引き出物として絹の小袖を与えている。一茶は帰宅してから、それを裏の空き地のゴミ捨て場にポイと捨ててしまった。まるで講談の世界。このエピソードは、どうやら後世の人の創作らしいが、その意味ではこの句自体もあやしい。でも、いいでしょう。私は、句も挿話も丸ごと受け取っておきたい。無季。(清水哲男)


October 07101996

 静脈の樹が茂り合う美術館

                           吉田健治

術館に出かけていくのは、館内に展示されている美術品を見るためである。しかし作者は入館の前に、美術館それ自体をまず「作品」として捉えている。とりたてて奇抜な発想ではないけれど、そして「静脈の樹」云々は作者の感性に属する事柄だとしても、美術館を訪れる人の誰しもが抱く思いのひとつを描いてみせた目は鋭い。「そう言われれば、そうだよね」という感じ。これが俳句の面白さだ。この句を読むと、ひさしぶりに美術館に行きたくなってきませんか。「抒情文芸」創刊20周年記念・最優秀賞受賞作品(選者・三橋敏雄)の内。(清水哲男)


October 17101996

 鯛焼のあんこの足らぬ御所の前

                           大木あまり

夕はだいぶ冷え込むようになってきた。辛党の私でも、ときどき街でホカホカの鯛焼きを食べたい誘惑にかられるときがある。まして、作者は女性だ。旅先の京都で鯛焼きを求めたまではよかったが、意外に「あんこ」が少なかったので、不満が残った。庶民の食べ物とはいえ、さすがにそこは京都御所前の鯛焼き屋である。上品にかまえているナ、という皮肉だろう。それにしても、御所の前に鯛焼き屋があったかなあ。どなたか、ご存じの方、教えてください。ついでに「あんこ」の量についても。無季。『雲の塔』所収。(清水哲男)


October 27101996

 漬物桶に塩ふれと母は産んだか

                           尾崎放哉

者は、鳥取市出身。鳥取一中から一高東大を経て一流会社に就職。現代の教育ママからすれば「一づくめ」の垂涎の的である道を、ある日突然のように妻子も捨てて、放浪生活に入った。このドラマチックな人生行路に引きつけられて、放哉(ほうさい)のファンになった読者は数知れず……。いわゆる自由律俳句である。場面は明瞭、句意も明瞭。この句が心に残るのは、単純で地味な「仕事とも言えない」仕事にたずさわらざるを得ないときの切なさに、誰しもが共感できるからなのだろう。人が生きていくなかでの寂寥のありどころを、短い言葉でずばりと言い当てている。無季。(清水哲男)


November 03111996

 一線を越えて凍る尾觝骨

                           春海敦子

るは「こごえる」と読ませるのだろう。うーむ、丸ハダカか。「一線を越えて」という古風な言いまわしが、かえって生々しい。行為の直後のことを詠んだ句も珍しい。この人、鋭い感受性を持ってるし、素直でいい性格もしてるだろうな。でも、お友だちにはなれない気がする。この句を読むかぎりでは、まったく詩的なセンスが合わないからだ。とはいえ、かなり凄い句ですよ。ユーモラスだが、下品に落ちていないところが……。無季と読みたい。『む印俳句』所収。(清水哲男)


November 05111996

 此の世に開く柩の小窓といふものよ

                           高柳重信

老孟司の「死体はヒトである」という言説は、多くのことを考えさせる。他方で「死体はモノである」という人もいる。「ゴミである」という人もいる。このとき、柩の小窓は何を意味するのだろうか。なんのために、あの小窓は開けられているのだろう。「死体はヒト」なのだから、此の世との交通をなおも保つためなのか。それにしては、すぐに火をかけてしまう残酷な行為を、どう解釈すればよいのか。まだ、確実に内蔵の一部は生きているというのに。俳人とともに、私もまた小窓にたじろぐ者である。『山川蝉夫句集』所収。(清水哲男)


November 20111996

 憂鬱の樽を積んでは泣き上戸

                           仁平 勝

代の泣き上戸に出会ったのは、まだ酒を覚えたての大学時代だった。後に詩人となる学友の佃學(94年没)がその人で、何が哀しいのか、彼は飲みながら実によく泣いた。次から次へと涙が溢れてきて、止らないのである。彼が泣きはじめると、テーブルの上はすぐに水浸しになった。それを、ゴシゴシと布巾で拭きながら、なおも泣きつづけるのだから、壮絶である。佃はいったい、「憂鬱の樽」をいくつくらい所持していたのだろうか。あまりの泣きっぷりに、そっとその場を外そうとすると、彼はいちはやく察知して「逃げるな」とわめき、またまた新しい「樽」を思いきりひっくり返すのであった。『東京物語』所収。(清水哲男)


December 28121996

 鯛焼のあつきを食むもわびしからずや

                           安住 敦

末の句というわけではないが、年の暮れに置いてみると、よく似合う。あちこちと街のなかを歩き回り、空腹を覚えるのだが、食堂に入るヒマがない。ふと鯛焼き屋が目についたので、これで当座をしのいでしまおうと、あつあつの鯛焼きをほおばるのである。食べなれない鯛焼きを、男一匹、道端で食べるのであるから、わびしいことこの上ないだろう。それが年末独特のわびしさと重なって「わびしからずや」と短歌的破調に流れていく。「食む」は「はむ」と読む。(清水哲男)


January 1611997

 仁王立ちの雀と見つめ合うしばし

                           田中久美子

合いがしらの猫とは、たまにこういう状態になってしまうことがある。雀とでも、見合ってしまうことがあるのだろうか。この句を読むと、ありそうな気がしてくる。しかも、その雀が仁王立ちというのだ。猫とちがって雀の脚は二本だから、なるほど、仁王立ちになれるのである。その姿がなんとなくおかしく、なんとなく可愛らしい。田中久美子は詩人だが、俳句をつくらせても巧いものである。詩誌「Pfui!」2号(1997・京都)所載。(清水哲男)


January 1811997

 行きずりの銃身の艶猟夫の眼

                           鷲谷七菜子

舎の友人には、冬場(農閑期)の猟を楽しみとしている者が多い。猟犬を連れて山に入り、野兎などを撃つ。今では行なわれていないだろうが、私が子供だったころには、学校全体で兎狩をやったものだ。そういう土地柄だ。小さいときから、猟銃には慣れている。そして、ひとたび鉄砲を肩にすると、男たちは人格が変わる。浮世のあれこれなどは、いっさい考えない。ひたすらに、見えない獲物を求めつづけるだけだ。そういう「眼」になる。この句は、そういう「眼」のことを言っている。行きずりの「女」なんぞは眼中にないという「眼」。かえって、それが頼もしくも色っぽい。(清水哲男)


February 1021997

 目覚めけり青き何かを握りしめ

                           沼尻巳津子

動。「青き何か」の意味はわからないけれど、作った人の心のありようは、すっきりとよくわかる。決して曖昧な世界ではない。一所懸命に生きている人でないと、絶対にこうした句はできないだろう。繰り返し読むほどに、読者の心も引き締まる。作者は俳句的には晩学の人で、四十代になってから作句をはじめたようだ。それにしても、最近の私は、夢の中でさえ何かを強く握り締めたことはない。そうしようと思ったこともない。猛省。『華彌撒』所収。(清水哲男)


February 1221997

 東京は我が敗北の市街地図

                           斎藤冬海

験。その是非を論じる大人たちをよそに、時代の流れには抗うスベもなく、若い私は苦すぎる「敗北」を一度ならず味わった。傷が癒えるまでには、十年という歳月が必要であった。もとよりこの句の作者の「敗北」の中身は知るよしもないが、受験に限らず、東京は多くの敗北者を生み続けてきた街でもある。その意味で、この作品は作者の個人的な体験を越えた普遍性を持つ。この無季句に、季節を感じざるを得ない読者は少なくないはずである。(清水哲男)


February 2421997

 ごうごうと鳴る産み月のかざぐるま

                           鎌倉佐弓

ょせん、男にはわからない句かもしれない。が、子供の玩具である風車が轟いて聞こえるという妊婦のありようには、出産への凛とした気構えが感じられる。やがて訪れる事態は甘いものではない。人生の一大事なのだ。作者には他に「手がさむし君のあばらに手をやれば」「受胎して象のあくびを眩しみぬ」などがある。いずれの句にも、どこかで風車がまわっている。『天窓から』所収。(清水哲男)


March 0531997

 新聞紙揉めば鳩出る天王寺

                           摂津幸彦

阪の天王寺界隈は、不思議なところだ。近鉄百貨店の本店があり有名な動物園があり、ゲーテ書房という本屋があり競輪選手の宿泊所があり、古風な写真館があり伊東静雄の通った中学校もあり、釜ケ崎を控え、したがって近くには通天閣があり……。たしかに手品の鳩でも出てきそうな、なんでもありの街である。それでいて、いや、だからこそか、いまいち活気には欠けており、どうしても場末という感じは拭いきれない。一読、鹿々(平凡なさま)を愛した作者ならではの着眼であり、天王寺を知る人ならば必ず納得のいく句であろう。『鹿々集』所収。(清水哲男)


March 0731997

 空をゆく花粉の見ゆるエレベーター

                           大野朱香

じめて乗ったエレベーターは、大阪梅田は阪急百貨店のそれだった。小学二年。敗戦直後。まだ蛇腹式の扉で、昇降するときには各階の売り場が見え、その不思議さに圧倒された記憶がある。余談だが、ベーブ・ルースのエレベーター好きは有名で、遠征先のホテルで暇さえあれば楽しんでいたという。ボーイへのチップも莫大だったらしい。ところで昭和初期のエチケット読本の類には「昇降機の正しい乗り方」なる項目があり、「乗った人は扉と正対すること」などと書いてある。この句のエレベーターは、扉を背にして乗る(というよりも、どこを向いて乗っていればよいのか困ってしまう)最近のタイプのもの。花粉が見えるわけはないけれど、外が見える楽しさから、心がついこのように浮き立ってしまうときもある。(清水哲男)


March 2731997

 手をあげて此世の友は来りけり

                           三橋敏雄

に誘われた恰好で、ひさしぶりに会おうかということになったりする。年来の友だから、待ち合わせ場所で顔をあわせても、挨拶は「やあ」と軽く手をあげる程度だ。それですむのである。しかし、以前であれば、間もなくもう一人の共通の友人が、同じように「やあ」とこの場に姿を現したものだったが、彼は既に「此世」の人ではない。五十の坂を越えたあたりから、残された者は、この類の喪失感を何度も味わうことになる。そんなとき「此世」にいない人との別れ際の挨拶を思い出してみると、多くはただ軽く手をあげただけだったような気がする。敏雄に、もう一句。「死ねばゐず北へ北へと桜咲き」。死ねば存在しない。この場合の死者は、かつての戦争の犠牲者たちだと読める。(清水哲男)


April 1441997

 濯ぎ水あふれ細紐生きはじむ

                           今井真子

濯機なんてなかったから、学生時代にはタライで下着などを洗った(下宿のタライの裏側には、私の生年と同じ購入年度が墨で書かれていた)。暖かくなってくると、水仕事も楽になる。そんな嬉しさが、この句には溢れているようだ。濯ぐために勢いよく水を注ぐと、脇役の細紐が主役のような顔をして踊りだす。そんな些事をとらえて、大きな自然の変化を表現した作者の感性が素敵だ。いわゆる季語は使われていないけれど、句全体が春の輝きのなかにある。『水彩パレット』所収。(清水哲男)


May 0651997

 銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく

                           金子兜太

ールデン・ウィークが終わって、オフィス街にも日常の顔が戻ってきた。すぐに慣れてしまう光景だが、朝のうちはまだ新鮮な感じを受ける。昨日までシャッターを下ろしていた銀行の内部を、見るともなく見ると、いつもと変わらぬ情景が認められ、なんとなくホッとする気分。作者は日本銀行に勤務していたから、これは内部者から見た銀行の姿だが、連休明けの街を行く市民の気持ちにも合うような気がする。人間が「烏賊(イカ)」のように蛍光するという独特な観察が、私にそんなことを連想させるのだろう。戦後俳句界を震撼させた話題作にして、兜太の代表作だ。『金子兜太句集』(1961)所収。(清水哲男)


June 0861997

 米の香の球磨焼酎を愛し酌む

                           上村占魚

るで「球磨焼酎」の宣伝みたいだ。私は日頃焼酎を飲まないのでわからないが、好きな人には「その通りっ」という句であり、すぐに自分でも飲みたくなる句なのだろう。無技巧が逆に鮮やかで、いかにもウマそう。こういう句は、もっとあってもよいと思う。このような各地の名産を詠んだ句のアンソロジーを、どなたか編集してくれませんかね。焼酎といえば、生まれてはじめて飛行機に乗って奄美大島へ行ったことを思い出す。「文芸」(現在の「文藝」)の編集者として、開高健さんのお伴で島尾敏雄さんを訪ねる旅だった。仕事が終わってから、西部劇に出てくるようなたたずまいの町のバーに入ったら、何も注文しないのにサッと焼酎が運ばれてきた。びっくりしながら大いに酩酊したが、若さのおかげで翌朝はケロリとしていられた。開高さんも島尾さんも、酒飲みの達人だったから、もちろんケロリ。既にお二人とも鬼籍に入られたのが、なんだか夢のようである。(清水哲男)


June 1261997

 雨音の紙飛行機の病気かな

                           小川双々子

院中の作者が、たわむれに手元の紙で飛行機を折って飛ばしてみた。よく飛んだかどうかは問題ではない。病気だからそんな振る舞いに出たのだし、病気だから雨の音も明瞭に聞き取れている。それだけのことを言っている。ここにたゆたっているのは、作者の諦念だ。何度も目先に希望を見い出そうとした果ての諦めの心である。いまはストレートに「病気かな」と言い放てるほどに、その心は定まっているのだし、自分の病気を引き受け、冷静に見つめようとしている。みずからを「紙飛行機」に見立てているとも読めるが、同じことだろう。決して、鬱陶しいだけの句ではない。『異韻稿』(97年6月・現代俳句協会刊)所収。(清水哲男)


July 2671997

 全員に傘ゆきわたる孤島かな

                           永末恵子

人島に大勢で漂着して、まずは手際よく全員に傘が配られた。これでとりあえず雨露だけはしのげるわけだが、なんだか変だ。もっと先に、配布すべき何かがあるような気がする。でも、それが何なのかは、なかなか浮かんでこない。全員が傘を手にしてポカーンとしている様が、なんとも滑稽だ。孤島漫画のコレクターだった星新一さんに、たくさん見せていただいたことがあるが、ポカーンとしたものにいちばん味わいがあった。この句も、立派な漫画になっている。無季。「ミルノミナ」(第2号・97年7月)所載。(清水哲男)


July 3171997

 黄泉路にて誕生石を拾ひけり

                           高屋窓秋

泉路(よみじ)は冥土へ行く路。冥土への途中で、皮肉にも誕生石を拾ってしまったという諧謔。年齢的に死の切迫を感じている人ならではの発句だが、その強靱な俳諧精神にうたれる。最近の私は時折、若くして逝った友人の誰かれを思い出す。なかには常に心理的に私をおびやかす人もいたが、時の経過というフィルターが、いつしかそんな関係を弱め忘れさせてしまう。よいところばかりを思い出す。彼らもまた、黄泉路で何かを拾っただろうか。この世ではみんな運が悪かったのだから、せめて何かよいものを拾って冥土に到着したと思いたい。『花の悲歌』(1993)所収。(清水哲男)


August 0981997

 愛しきを抱けば鏡裏に蛍かな

                           摂津幸彦

誌「豈」(97年・夏)「回想の摂津幸彦」特集号より。句は「俳句研究」(76年11月号)に発表された『阿部定の空』の一句。季語はいま都会でも田舎でも見掛けることのできなくなった蛍。蛍はまた古来より死者の魂の象徴と見なされてきた。この句はもちろん戦前の二・二六事件の最中に起きた有名な阿部定事件をふまえている。いままた世間を賑わす『失楽園』もこの事件が重要な背景となっている。この句の鏡は待合の三面鏡。「愛しきを抱けば」にもかすかに『四谷怪談』の雰囲気が漂う。次の句なども凄い。「埋められて極楽吹かれて地獄かな」。(井川博年)


September 2491997

 馬が川に出会うところに役場あり

                           阿部完市

市の句に、意味を求めても無駄である。彼は人が言葉を発する瞬間に着目し、その瞬間の混沌の面白さを書きとめる。無意味といえばそれまでだが、人は意味のみにて生きるにあらず。人と話すにせよ文章を書くにせよ、最初に脳裡に浮かぶ言葉には意味はない。私たちはそのような言葉の混沌を意味的に整理しながら、やおら言葉を吐き出しにかかるのである。したがって、如何に結果的に理路整然とした文脈に感じられようとも、その源をたどればすべてが初発の混沌に行き着くのだ。この句を時系列的に読めば、作者はまず馬のイメージをを拾い上げ、その馬の動きを追っていくと川に出会い、そこに役場が出現する。そういうことだが、作者の混沌のなかでは、馬も川も役場もが同時的に一挙に出現したものなのである。だから不思議な抒情性があり、面白い味が出てきている。そして、私たちがそう感じ取れるのは、この不思議の源が、実は既に読者自身の言語的混沌のなかに内包されているものだからだと思う。『軽のやまめ』所収。(清水哲男)


January 0611998

 十二月あのひと刺しに汽車で行く

                           穴井 太

二月は極月とも言い、文字通りおし詰った一年の終りである。もう、あとがない。その切羽詰った時期に刺しに行かなければならない「あのひと」とは誰か? もちろん親兄弟や友人ではあるまい。ここは男性にとっての恋人か愛人か、はたまた人妻か? 「ひと」は「女(ひと)」。ヤクザっぽい出入りではなく色恋沙汰ととるべきだろう。道ならぬそれだとすればいっそう芝居がかってくる。ひとを刺すという物騒な行動が、汽車という幾分おっとりしてのどかな手段によっているのは、いかにも滑稽味があり、俳味さえ感じられて嫌味のない句となった。ベンツでも自転車でもピンとこない。句集『土語』(1971)所収。「吉良常と名づけし鶏は孤独らし」という名句を持つ骨太の作者は、97年の12月29日、71歳で亡くなった。(八木忠栄)


February 1521998

 将来よグリコのおまけ赤い帆の

                           清水哲男

句自註など柄でもないが、六十回目の誕生日に免じてお許しいただきたい。子供の頃、なけなしの小遣いをはたいて、せっせとグリコを買っていた時期がある。告白すれば「おまけ」が欲しかっただけで、飴をなめたいわけではなかった。現代のグリコは知らないが、敗戦直後の本体はそれほど美味ではなかった。後に熱中した「紅梅キャラメル」(こちらの「おまけ」は巨人選手カード)も同様だった。「おまけ」の小箱にはさまざまなセルロイド製の玩具が入っており、取り出す瞬間のゾクゾクする気分がたまらなかった。「なあんだ」とがっかりしたり、「やったあ」と大満足したりと……。それだけのために、全財産(!)をはたいていた。そうした子供の熱中を思うにつけ、どんな子供にも「将来」があるのであり、でも「将来」にはグリコの「おまけ」ほどの保証もないことを思い合わせると、まことに切ない気分になってくる。本物の赤い帆が待ち受けている子供など、皆無に近いのだから。そんな思いから発した句なのであるが、飛躍し過ぎだろうか。……し過ぎでしょうね。なお、この句は筑摩書房『グリコのおまけ』に再録されている。掲載に当たって編集者が必死に「赤い帆」のおまけを探してくれたが、見つからなかった。したがって、句の写真には赤白模様の帆のヨットが使われている。「赤い帆」のおまけは実在しなかったのかもしれない。『匙洗う人』(1991)所収。(清水哲男)


March 1031998

 橋姫やありのとわたりのひるさがり

                           夏石番矢

説によると「橋姫」は橋を守る女神であり、非常に嫉妬深いと伝えられている。そして、蟻が一列の細い筋になって進むことを「ありのとわたり」と言うが、転じて会陰部を指すこともある。……というわけで、この句はいろいろに解釈でき、それはそれで構わないというのが作者の意図だろう。有季定型句に慣らされた目には、これが「俳句」なのかと写るはずだが、好き嫌いは別にして、これも「俳句」なのだと私は思う。正岡子規が俳諧連句から冒頭の「発句」だけを独立させて「俳句」にしようと言い出したとき、べつに子規路線はこのような句の登場を禁じてはいなかった。いや、子規の思惑がどうであれ、吉本隆明が「俳句は日本文学の家庭内暴力みたいだ」と言ったように、俳句は和歌と違って、いまだに言語的な荒々しさ(冒険性)をそなえた表現様式だと思う。何でもありの混沌のなかにあるのだから、作者は当然のことに苦しいだろうが、読み手としてはこんなに楽しくてスリリングなジャンルが他にあるとは思えないほどだ。『人体オペラ』(1990)所収。(清水哲男)


March 2331998

 はなはみないのちのかてとなりにけり

                           森アキ子

者は俳人の森澄雄氏夫人。1988年没。ふらんす堂から出ている森澄雄句集『はなはみな』(1990)は愛妻との交流をモチーフにした一本で、後書きに、こうある。「昭和六十三年八月十七日、妻を喪った。突然の心筋梗塞であった。折悪しく外出中で死目に会えなかったことが返す返すも残念である。巻首の(中略)墓碑銘の一句は、わがために一日分ずつ分けてくれていた薬包みに書きのこしていたものである。……」。というわけで、ここではこれ以上の野暮な解説は余計だろう。そして今日三月二十三日は、森夫妻の結婚記念日である。『はなはみな』には「われら過せし暦日春の夜の烈風」など、その都度の結婚記念の句もいくつか載せられている。ふと思ったのだが、妻を題材にした句だけを集めて一冊の本にできる俳人は、森澄雄以外に誰かいるだろうか。寡聞にして、私は他に知らない。なお、句の季語は四季を通しての「はな」を指しているので、無季に分類しておく。(清水哲男)


April 0841998

 囀やにんげんに牛集まつて

                           中田尚子

々とした牧場の光景だ。空には鳥(雲雀だろうか)の声があり、草の上には人なつこく寄ってくる牛たちがいる。すべて世はこともなし。のどかな光景だ。私に牧場体験はないけれど、「にんげんに牛集まつて」の描写のやわらかさにホッとさせられる、とてもよい気分になれた。鳥も牛たちも、そして「にんげん」も、ここでは大きな自然のなかに平等に溶けてしまっている。そこが句の眼目だ。だからこそ「人間」ではなくて、この場合はあえて「にんげん」なのである。それこそ、この句は作者の「にんげん」性の良質さに支えられた表現にちがいなく、読後すぐに格別の好感を抱いたというわけ……。ところで、牛といえば、以前から気になっている別の句がある。「さびしさに牛をあつめて手品せり」というのだが、どなたの作品なのでしょうか。数年前に雑誌かなにかで読んで、大いに気に入っているのだけれど、迂闊にも作者の名前を忘れてしまいました。作風からしてまだ若い俳人だと思いますが、ご存じの方がありましたら、ぜひともご教示くださいますように。「俳句界」(1998年4月号)所載。(清水哲男)


April 1541998

 闇に鳥を放つ痛みや投函す

                           佐藤清美

かにも若い女性らしい作品だ。二十代の句。投函したのはラブレターだろうか、それとも絶交の手紙だろうか。いずれにしても、推敲を重ねた文面ではないだろう。思いのタケを一気に書きつづったもので、だからこそ「闇に鳥を放つ」ような気分になっている。「闇に鳥を放つ」と、いったい鳥はどうするのだろうか。どうなるのだろうか。そんなことは、もちろん作者にはわからない。想像すること自体が、怖いことでもある。ましてや、この「鳥」を受け取る相手の反応などは、それこそ「闇」の中だ。作者の心の内には、そんな若さと荒々しい情念とが同居していて、この勢いにはかなわないなと思う。青春のひとつのかたちを力強く描いており、これからが楽しみな才能である。無季。『空の海』(1998)所収。(清水哲男)


June 2361998

 雨の日は傘の内なり愛国者

                           摂津幸彦

ういう句を読むと、俳句はつらいなと思う。愛国者の「主義主張」も「悲憤慷慨」も、しょせんは雨に濡れるのを嫌う普通の人々と同じ思考回路(傘)の内にある……。と、一つの読み方はこれでよいと思うが、しかし、ここでは肝腎の「愛国者」の顔がまったく見えてこない。あまりにも漠然としていて、つかみ所がないのである。こいつは、読者には大いに困る事態なのだ。なぜこうなるかは、もちろん俳句が短いという単純な理由によるわけで、作者の「愛国者」観は永遠に作者の内(傘の内)に閉じ込められたままとなっている。そこで読者としては、俳句お得意の取り合わせの妙があるかどうか、作者によって各自にゆだねられた「愛国者」観を通して、それを感じるしかないということになってしまう。作者の書き残した散文を読むと、単なる取り合わせだけに終わっている句を嫌悪しているが、そしてこの句は確かに「単なる取り合わせ」の殻を破ろうとしていることだけはわかるが、しかし結局は取り合わせで読まれるしかない不幸を構造的に背負ってしまっている。そんなハンデを百も承知で、なぜ摂津幸彦は俳句に執したのだろうか。句の「愛国者」をこれまた曖昧な概念の「売国奴」に入れ替えたとしても、作者のねらいは少しも変わらないのではないかと、私には思える。俳句は自由詩じゃない。だからこのように、誰かがつらいシーンを引き受けなければならない場合もあるということなのか。『奥野情話』(1977)所収。(清水哲男)


August 3181998

 夜明路地落書のごと生きのこり

                           佐藤鬼房

季の句だが、雰囲気はどこか晩夏を思わせる。徹夜の仕事明けだろうか。自宅近くの路地まで戻ってくると、道にはどこかの子供が描いた落書きが白く残っている。たぶん稚拙な「人間」の絵だったろうが、このとき五十代の俳人は、思わず足を止めて見入ってしまったのである。そして、まさにこの落書きの「人間」のように、消されることもなく生き残ってきた自分の人生を、何か不思議な出来事のように思ったというわけだ。作者には戦時中の捕虜体験があって多くの戦友とも死に別れ(「夕焼に遺書のつたなく死ににけり」などの句がある)、自身病弱の身でもあったので、とりわけ「生きのこり」の感慨には強いものがある。落書きをした子供の生命力と作者のそれとの対比も暗黙のうちに語られていて、印象深い句だ。晩夏を思わせるのは、この対比の妙からかもしれない。最近の落書きの主流は、道にローセキで描くのではなく、道端の塀にスプレーで吹きつけるそれになってしまった。小さな子供たちに代わって、いわゆる暴走族が落書きを担当(笑)しているのも面白い。つまり、人の遊べる道は無くなったということだ。それをいちばん知っているのが、勝手気ままにオートバイを乗り回したい連中だろう。彼らにとっては道端の塀も、本来は道でなければならないのである。『地楡』(1975)所収。(清水哲男)


September 1691998

 放蕩や水の上ゆく風の音

                           中村苑子

蕩(ほうとう)とは贅沢なことばだと思う。未来は放棄され、現在は徹頭徹尾、おぼれ、使い果たしてしまうことについやされる。使い果たす対象は、人生そのものだろう。絶望と背中あわせの悦楽。揺れ動く思い。そういえば蕩には水が揺れ動くという意味もあった。疲れたこころと、清冽な水。/私はこの句を清水哲男におしえられたが、清水はどういうわけか、風の音を風の色と覚えていた。句が詩人の内部でいつのまにか変形したらしい。放蕩や水の上ゆく風の色。水と風はほとんど同色となり、きらめく水面がいくぶん強調された詩的イメージににみちた句となる。では「風の音」はどうか。/放蕩と、風という清冽なものの対比に、もうひとつ、寂寥感がくわわる。眼を閉じて、耳を澄ます。聞こえるのは風の音である。(辻征夫)

[『別冊俳句・現代秀句選集』(1998)より辻征夫氏の許諾を得て転載しました・清水]


October 23101998

 鯛焼やいつか極道身を離る

                           五所平之助

者は『煙突の見える場所』などで知られた映画監督。本邦初の本格的トーキー映画『マダムと女房』(1931)を撮った人だ。「旅」と「カメラ」と「俳句」を趣味とした。その昔、前田普羅の「加比丹」同人だったこともある。「鯛焼」と「極道(ごくどう)」との取り合わせが面白い。それも取り合わせの妙というのではなく、しごく自然な時の流れのなかでのことなのだから、面白いというよりも泣き笑い的な淋しさがあると言うべきかもしれない。若いころにはそれなりに「ワル」だったと自認してきたが、いつしか「ワル」としての突っぱりにもくたびれてしまい、気がついたら、なんとふにゃらふにゃらと「鯛焼」なんぞを嬉しそうに食っている。……ザマはねえ。我が青春は、はるか遠くに過ぎ去ったという感慨だ。が、当今流行の赤瀬川原平風に言うと「老人力がついてきた」句ということになる。これからはますます老人の句や文芸が増えてきそうだが、あまりに早く、過ぎ去った年月を抒情するのは危険だ。余命が長すぎて、そこから先に進めなくなる。そういうことは、十二分に「老人力」がついてからにしたほうがよさそうである。『五所亭俳句集』(1969)所収。(清水哲男)


October 27101998

 かけそばや駅から山が見えている

                           奥山甲子男

まれた季節は、いつだろうか。蕎麦といえば普通は秋か冬かということになるが、この場合は駅のホームにある立ち食い蕎麦屋での句だから、無季としておく。作者が見ている山にも、季節感は書かれていない。そのあたりは、読者の想像におまかせなのである。そうした意味での明確な季節感はないのだけれど、まかされた読者の側では、ちゃんと季節感があるように感じられる。そこが面白い。ということは、誰にも駅のホームで「かけそば」を注文する作者の状況がわかり、それがあたかも自分の体験であるように感得されるからだろう。そこで、ある読者は「春」だと思い、別の読者は「秋」だと感じる。それで、いいのだ。とにかく、作者は急いでいる。乗り換えか、あるいはここで下車するのか、いずれにしてもゆっくり食事を取っているヒマはないのである。で、作者は急いで注文して、蕎麦が出てくるまでの束の間に所在なく遠くを見やると、そこには山が連なっていたというわけだ。目前の仕事に追われている目が、ほんの一瞬、見知らぬ「山」に感応する……。それだけの話だが、この種のことは誰にでも起きる。まさに人生の機微を巧みにとらえた句と言えよう。『火』所収。(清水哲男)


October 28101998

 信号の青つぎも青夕時雨

                           清水 崑

者の家から荻窪へ行く途中のバス停に、清水二丁目というのがあって、その標識に左に清水一丁目、右に清水三丁目とある。そこを通るとき、いつもこの句を思い出すのだ。作者が清水で、すべて清水だらけというのがおかしい(このインターネットの発信者も清水さんです)。ちなみに、そのすぐ近くには井伏鱒二の家があり、井伏は「清水町の先生」と呼ばれていました。河童の絵と政治マンガで知られる清水崑は文壇句会の常連で、『狐音句集』がある。この題も洒落てますね。音(おん)の「コオン」と狐の鳴き声の「コン」と「崑」。この句と句集については、車谷弘『わが俳句交遊記』で覚えた。冬の句では「古本の化けて今川焼愛し」が面白い。山から初時雨の便りが聞こえてきます。俳句では、そろそろ秋も終り。(井川博年)

[清水付記・もう三十年も前の鎌倉の飲み屋で、清水崑さんと同席したことを思い出した。仕事でもなんでもなく、たまたま店が混んでいたので、そういうことになったのだった。なにせ崑さんは著名人だったので恐縮していたら、にこにこと「同じ清水ですなあ」とおっしゃってくださり、気が楽になった。]


November 13111998

 酒断って知る桎梏のごとき夜長

                           楠本憲吉

ィスキー一本くらいは軽くあけていたというのだから、作者は相当の酒豪であった。ために肝臓を冒され、「断酒という苦界に追放」されてしまった。酒好きの読者には、解説など不要であろう。秋の「夜長」の実感が胸をついてくるようだ。他にも俳句ともつぶやきともつかぬ「酒飲めぬ街にやたらに赤信号」があり、これまた酒飲みの心にしみてくる。自嘲的自解に曰く。「私が胃をやられたとき、今はもう故人の伯父が、『可哀相になあ。「たこ梅」のカウンターでおでんを肴に熱燗一杯やる人生の楽しみが、おまはんにはのうなってしまいよった。』ということばが、いまさら実感として思い出される」。それでなくとも長い夜の季節を、作者はどうやり過ごしていたのだろうか。というわけで、ま、おたがい「ほどほどに」やりましょうや……。ただし、この「ほどほどに」という言葉を酒飲みが大嫌いなことを、酒を飲まない人は知らないのだから、世の中は厄介である。『自選自解・楠本憲吉句集』(1985)所収。(清水哲男)


March 2331999

 赤き馬車峠で荷物捨てにけり

                           高屋窓秋

季の句だが、私には春が感じられる。「赤き馬車」と「峠」との取り合わせから来ているのだろう。イメージは字句のとおりであるが、何を言いたい句かということになると、正直に言って解釈は難しい。私なりのそれは、作者の人生をもからめた人間一般の自棄の心を詠んだ句。そんなふうに、思われる。「赤き馬車」が里から峠まで積んできたせっかくの荷物を「捨てにけり」なのだから、事態を人生途上での自己放棄と解釈したのだ。この自己放棄も、みずからが積極的に志向したわけではないのに、そんな光景が遠くに(峠に)見えたとき、理由も無しになぜかストンと納得できたということである。老齢の幻想であり、しかし、まごうかたなき現実でもあると思う。こいつを肯定できるか、それともイヤだと思うか。トシの取り方は、句よりもはるかに難しい。高屋窓秋氏は、今年の正月に亡くなられた。新聞で訃報に接したとき、アッと声をあげた。掲句が収められている句集『花の悲歌』(1993)を、なぜか一面識もない私にも送っていただき、恐縮しながらも、私はお礼の手紙すら差し上げないでいたことを気にしていたからであった。きちんと読んでからと思っている間に、六年もの月日が経っていたことに愕然とした。この「荷物」を、やはり私も近い将来のいつの日にか、あっけらかんと峠に捨ててしまうのだろうか。(清水哲男)


August 1581999

 敗戦の前後の綺羅の米恋し

                           三橋敏雄

スコミなどでは、呑気に「終戦記念日」などと言う。なぜ、まるで他人事みたいに言うのか。まごうかたなく、この国は戦争に敗れたのである。敗戦の日の作者は二十五歳。横須賀の海軍工機学校第一分隊で、その日をむかえた。句が作られたのは、戦後三十年を経た頃なので、かつての飢餓の記憶も薄れている。飽食の時代への入り口くらいの時期か。それが突然、敗戦前後に食べた「綺羅(きら)の米」が恋しくなった。「綺羅」は、当時の言葉で白米のことを「銀シャリ」と言っていたので、それを踏まえているのだろう。なかなかお目にかかれなかった「銀シャリ」のまぶしさ、そして美味しさ。いまの自分は、毎日白米を食べてはいるが、当時のそれとはどこか違う。輝きが違う。あの感動を、もう一度味わいたい。飢餓に苦しんだ世代ならではの作品だ。若き日の三橋敏雄には、他に戦争を詠んだ無季の佳句がいくつもある。「酒を呑み酔ふに至らざる突撃」「隊伍の兵ふりむきざまの記録映画」「夜目に燃え商館の内撃たれたり」など。『三橋敏雄全句集』(1982)所収。(清水哲男)


August 2181999

 ねる前にねましたと書く日記帳

                           森家裕美子

者は十四歳。中学二年生。例の伊藤園の「おーいお茶」コンテストでユニーク賞を受けた作品だ。「日記買ふ」は冬の季語であり「日記始」は新年のそれだが、単に「日記帳」といえば無季である。が、私などは夏休みの日記に悩まされたクチなので、夏を想起してしまった。まだ寝てもいないのに、何時に寝ましたと書くのは、確かに変だ。でも、一日の終りの行為は寝ることにあるのだから、寝ましたと書かないと一日が終了しない。日記帳を、閉じることができない。しごく素朴な疑問をストレートに詠んだがための「ユニーク」さがある。裕美子ちゃんは、真面目な女の子なのだ。ひるがえって、実はこの問題は、このページで書いている他ならぬ私自身の問題でもある。ページが午前零時にオートマティックに次の日の内容に切り替わるので、寝る前に「今宵は大文字の送り火……」などと、次の日のことを書くときには、なんとなく後ろめたくなったりする。となると、私にも裕美子ちゃん並みの真面目さがあるということなのだろうか。この句に出会って、正直ホッとした。私だけが、ひとりでクヨクヨしているわけではなかったのだ。「自由語り」(1997)所載。(清水哲男)


November 01111999

 隅占めてうどんの箸を割損ず

                           林田紀音夫

阪は下村槐太門の逸材と喧伝された作者は、なによりも「叮嚀でひかえめでものしづか」(島津亮)な人だったという。そういう人柄だから、数人でうどん屋に入っても、必ず隅の席にすわりたい。人と人に挟まれてうどんを食べるなどは、どうにも居心地がよろしくないのである。でも、いつも隅の席を占められるとは限らない。酒席の流れだろうか。今宵は無事に隅にすわれた。やれやれと安堵し、そこまではよかったのだが、運ばれてきたうどんを食べようという段になって、割り箸が妙な形に割れてしまった。折れたのかもしれないが、とにかく、これでは食べられないという状態になった。そこで「ひかえめでものしづか」な人は、大いにうろたえることになる。店員に声をかけようとしても、忙しく立ち働く彼らを見ていると、なんだか気後れがする。でも、思いきって声をかけてみたが、相手には聞こえないようだ。しかし、何とかしなければ、せっかくのアツアツうどんがのびてしまうではないか。周りの連中は、彼の困惑に気がつかず、うまそうに食べている。当人が真剣であればあるほど、滑稽の度は増してくる。そのあたりの人情の機微を巧みにとらえた作品だ。無季の句ではあるが、だんだん寒くなるこの季節に似合っている。(清水哲男)


November 26111999

 ロボットと話している児日短か

                           八木三日女

後「前衛俳句」運動のトップランナーであった三日女(「満開の森の陰部の鰓呼吸」「赤い地図なお鮮血の絹を裂く」など)の近作だ(1995)。一読、ほほえましいような光景ではあるが、具体的に場面を想像してみる(たとえば「鉄腕アトム」と話している子供)と、不気味な句に思えてくる。アトムとまではいかないが、最近では人語に反応するロボット玩具が開発されており、句の場景も絵空事ではなくなってきた。不気味というのは、感情を持たない話し相手に感情移入できているという錯覚のそれである。ロボットと話すことで癒される心のありようは、不気味だとしか言いようがない。原理的に考えれば、ロボットに言語を埋め込むのは所有者であるから、ロボットとの対話は自身の一部との会話に他ならず、それもいちいち音声化する必要のない部分との対話である。対話型のロボットは、所有者に都合のよい「甘えの構造」の外在化でしかないだろう。そしてこのとき「日短か(「ひぃみじか」と関西弁で発音してください)」というのは、人類の冬の季節における「短日」の意味に受け取れる。世紀末にふさわしい一句と言うべきだ。(清水哲男)


December 21121999

 山ごーごー不安な龍がうしろに居り

                           阿部完市

季ではあるが、「山ごーごー」は荒れる冬山に通じる。しかも「不安な龍」とくれば、ちょうど1999年の年末期にも通じる。二十年以上も前に作られた句だから、もちろん2000年問題が意識されていたわけではない。が、なんだか今日の事態を予言したような句に見えてきてしまう。その意味でも、怖い作品だ。明けて2000年。何が起きるのか、何も起こらないのか。誰にも予測はつきかねるが、一つ言えることは、この「不安」の種は人がみずから蒔いたものであるということだ。この事実だけは動かない。したがって「山」も「龍」も、その責を負うわけにはまいらない。「自己疎外」という懐しい哲学用語が、極めて具体的によみがえってきた世紀末。単なる数字の行列を横切るだけで、過去これほどまでに社会的な不安が際立ったことはない。人間もたいしたことはないなと、いまごろは「山」も「龍」もがあざ笑っていることだろう。関連で、同じ作者の句をもう一つ。「いま憂季とや雪雲と何十の歌謡」。こちらは大晦日恒例の番組「紅白歌合戦」に通じていると読める。2000年まで、あと11日。『春日朝歌』(1978)所収。(清水哲男)


January 1512000

 春巻きを揚げぬ暗黒冬を越え

                           摂津幸彦

者には「暗黒の黒まじるなり蜆汁」を含む「暗黒連作」があり、これは最後に置かれた句。引用句からもわかるように、ここで「暗黒」は単に暗闇の状態を言う言葉ではなく、物質化した実体のように扱われている。「暗黒と鶏をあひ挽く昼餉かな」では、そのことが一層はっきりする。「暗黒」は、いわば暗闇のお化けなのだ。したがって「冬を越え」の主語は「暗黒」という実体である。軽い意味ではようやく暗い冬の季節が終わりに近づいた安らぎの気持ち、重い意味では自身の内面の暗闇が晴れようとしている安堵に向かう感情。それらの心持ちが、春巻きを揚げる行為のうちにというよりも、「春巻き」という陽性な名前を持つ食べ物があることに気がついたことのなかに込められている。春巻きを揚げている厨房の窓から、すうっと「暗黒」が冬山の向こうへと遠ざかっていくのが見えるような、そんな実体感を伴う句だ。でも、句への発想はふとした思いつきからでしかない。言葉遊びの世界。下手をすれば安手で読めたものではない作品になるところを、徳俵に足をかけ、作者はぐっと踏みこたえている。この踏みこたえぶりこそが、いつだって摂津幸彦の技の見せ所であった。『姉にアネモネ』(1973)所収。(清水哲男)


January 2912000

 無礼なる妻よ毎日馬鹿げたるものを食わしむ

                           橋本夢道

性読者よ、お怒りめさるな。奥さんとの仲はとてもよかったというのが、作者を知る人たちの一致した弁。句は、妻へのいたわりの反語的表現なのだ。「馬鹿なやつめ」が、愛情表現の反語に通じているのと同じこと。毎日の食卓に気の利いた料理ひとつ出せない貧乏生活を、妻に強いている自責の念が込められている。近代俳句の社会派を代表する夢道は、俳句弾圧事件のために、約二年間の獄中生活を余儀なくされた。代表作の一つ「大戦起るこの日のために獄をたまわる」(1941)は、すさまじいまでの反語表現による抵抗句だ。徳島県吉野川流域の小作農家に生まれ(1903)、十五歳で上京して深川の肥料問屋に奉公。その後いくたびか職をかえ、戦後は銀座月ヶ瀬の役員となった。で、ここで再度女性読者にアピールしたいことがある。何を隠そう。実は、この人は「蜜豆(あん蜜)」を発明し、世間に知らしめた一大功労者なのだ。はじめて蜜豆を売りだしたときのコピーに「蜜豆はギリシャの神も知らざりき」と書いて、これが評判となり、売れ行きが大いに伸びたという話が伝わっている。俳句の世界では自由律の権化のように思われている夢道だが、五・七・五の魅力はちゃあんと承知していたというわけだ。『無礼なる妻』(1954)所収。(清水哲男)


February 1122000

 旗日とやわが家に旗も父も無し

                           池田澄子

はや死語の感のある「旗日(はたび)」。広辞苑には「各家で国旗を掲げて祝う日。祝祭日」と書いてある。私のそれこそ「父」の世代の人々は、よく「旗日」という言葉を使っていた。戦前は今日の祝日を「紀元節」と言ったが、ことさらに「紀元節」とは呼ばずに、ただ「旗日」と言う人が多かったようだ。各家での国旗掲揚は義務づけられていたようなものだから、「とりあえず旗を出しとけや」と、そんなニュアンスも「旗日」という言葉にはあるようだ。作者はここで、とりあえずも何も、「旗日」と言い習わしていた父親も亡くなってしまったし、第一我が家には「旗」なんてないもんね、知らないもんねと嘯(うそぶ)いている。「旗」と「父」を同格に扱っているところに、皮肉がある。句の「旗日」は、特別に今日を指しているわけではない。が、いろいろな「旗日」のなかで、いちばん今日にふさわしい内容だと思う。嘯きのなかに、歴史的な根拠の無い祝日への怒りがこめられていると読める。わが家にも旗はない。買おうと思ったこともない。デパートでは風呂敷売り場に置いてあると聞いたことがあるが、本当なのだろうか。ご存知の方、ご教示乞う。『空の庭』(1988)所収。(清水哲男)


February 1822000

 すきとおるそこは太鼓をたたいてとおる

                           阿部完市

明な孤独感の表出。……と書いてみると、これでよいような、どこか間違っているような。「そこ」は「底」でもあり「其処」でもあるだろう。このとき、太鼓はどんな太鼓なのだろうか。私は、玩具の楽隊が叩くような小さくて赤い太鼓を想像している。大の男がそれを規律正しい足取りで叩きながら通る姿は、かぎりなく狂気に近い正気な行為に見えて、自分の心にも「こういうところがあるな」と納得できる。誰でもが、主にその幼児性において、狂気すれすれの生を生きているのだと思うし、ある日突然、それはかくのごときイメージとなって脳裏に明滅したりする。この句のよさは、妙に文学的に身をやつしていないところであり、加えて暗さが微塵もない点にあるだろう。まさに、単純にして素朴に「すきとおる」のみの世界。この力強さは、一行詩と言えなくもない表現様式に、なお俳句であることを主張している。俳句の修練を通過していない表現者には、このような「ポエジー」は書けないのだ。一読、不思議な世界には違いないが、何度か反芻しているうちに、いつしか我が身になじんでくるという不思議。俳句の力。『にもつは絵馬』(1974)所収。(清水哲男)


March 1532000

 瓦せんべい風をまくらにねむる町

                           穴井 太

季の句だが、風の強い春先ないしは野分けの季節を思わせる。「瓦せんべい」の名産地なのだろうが、私には見当がつかない。。町並みもまた瓦(屋根)のつづく古い土地で、風の強い夜には、人っ子ひとり歩いていない。町の人は、みんなもう眠ってしまっているかのようである。ごうごうと吹きすぎる風の音のみで、町は風をまくらに寝ているという感じがしてくるのだ。真っ暗な工場の倉庫では、ひりひりと瓦せんべいが乾いていることだろう。旅にしあれば、こんなことを思うことがある。ところで、余談。瓦せんべいは小麦粉で作りますが、有名な「草加せんべい」などは米粉製ですね。小麦粉せんべいのほうが、ずっと歴史は古く、源は遠く中国に発しているのだそうです。小麦粉製であれ米粉製であれ、せんべいは好物でしたが、どうも最近はいけません。職場でのおやつに出たりすると、小さく割ってから口に入れることにしています。若いころは、ビールの栓だって歯で抜けたのに……。「もう、あかんなア」という心持ちにならざるをえません。『天籟雑唱』(1983)所収。(清水哲男)


March 1732000

 鶏追ふやととととととと昔の日

                           摂津幸彦

面的にも面白い句だが、写生句でもある。戦後しばらくの間は、競うようにして鶏を飼ったものだ。少しでも、栄養不良を解消しようと願ってのこと。だから「昔の日」なのである。夜の間は鶏舎に収容しておいて、朝方に卵を生ませる。昼間は運動を兼ねてそこらへんの物を食べさせようというわけで、放し飼いにした。あのころは、表のどこにでも鶏がいた。まだ「バタリー方式」だなんて酷薄な飼い方も、一般には知られてなかった(私は百姓の息子だったので、雑誌「養鶏の友」で知ってましたけどね、エヘン)。「とととととと」は、そんな鶏たちの走り回る様子の形容であると同時に、夕刻に彼らを鶏舎に追い込むときの「とぉとぉとぉ……」という掛け声だ。なぜ「とぉとぉとぉ、ととととと」と言って追ったのか、その謂れは知らない。馬に止まれと命令するときに使う「ドウドウ」にしてもそうだが、誰か動物との対話に長けた先達の発明語なのではあるだろう。我が家は三十羽ほど飼っていたので、夕刻に何度「とぉとぉとぉ」を連呼したことか。鶏舎に追い込むのは、子供の仕事だった。ちょっと哀愁を帯びたトーンのこの掛け声を、京都の詩人・有馬敲さんが自演して、フォーク全盛時代にレコード化したことがあり、いまでも思い出して聞くことがある。過ぎ去ればすべて懐しい日々……。と、これは亡くなった岡山の詩人・永瀬清子さんの著書のタイトルである。『鹿々集』(1996)所収。(清水哲男)


May 0152000

 縄とびの純潔の額を組織すべし

                           金子兜太

心に縄とびをして遊んでいる女の子。飛ぶたびに、おかっぱの髪の毛が跳ね上がり、額(ぬか)があらわになる。この活発な女の子のおでこを、作者は「純潔」の象徴と見た。「純潔」は、いまだ社会の汚濁にさらされていない肉体と精神のありようだから、それ自体で力になりうる。「純真」でもなく「純情」でもなく「純潔」。一つ一つの力は弱かろうとも、かくのごとき「純潔」を「組織」することにより、世の不正義をただす力になりうると、作者は直覚している。このとき「すべし」は、他の誰に命令するのではなく、ほかならぬ自分自身に命令している。自分が自分に掲げたスローガンなのである。実は今日がメーデーということで、ふっとこの句を思い出した。メーデーのスローガンも数あれど、すべてが他への要求ばかり。もとよりそれが目的の祭典なので難癖をつける気などないけれど、句のようなスローガンがついに反映されることのない労働運動に、苛立ちを覚えたことはある。若き兜太の社会に対する怒りが、よく伝わってくる力作だ。無季句。『金子兜太全句集』(1975)所収。(清水哲男)


May 2352000

 恋文の起承転転さくらんぼ

                           池田澄子

分に宛てられた恋文を読んでいるのか、それとも、文豪などが残した手紙を読んでいるのか。いずれでも、よいだろう。言われてみれば、なるほど恋文には、普通の手紙のようにはきちんとした「起承転結」がない。とりとめがない。要するに、恋文には用件がないからだ。なかには用事にかこつけて書いたりする場合もあるだろうが、かこつけているだけに、余計に不自然になってしまう。したがって「起承転結」ではなく「起承転転」という次第。さながら「さくらんぼ」のように転転としてとりとめもないのだが、しかし、そこにこそ恋文の恋文たる所以があるのだろう。微笑や苦笑や、はたまた困惑や喜びをもたらす恋文の構造を分析してみれば、その本質は「起承転転」に極まってくる。「さくらんぼ」を口にしながら、このとき作者はおだやかな微笑を浮かべているにちがいない。同じ作者に「恋文のようにも読めて手暗がり」がある。「さくらんぼ」の転転どころではない「起承転転」もなはだしい手紙なのだ。もちろん、作者は大いに困惑している。『空の庭』(1988)所収。(清水哲男)


May 2552000

 蛙遠く跫音もせず暮る二階

                           芹田鳳車

語は「遠蛙」で春だが、初夏の景としても十分に通用する。でも、この人は元来が自由律俳句の荻原井泉水門だから、季語的分類に固執してもさして意味はないだろう。句意は明瞭だ。まことに森閑たる夕暮れの雰囲気が活写されている。鳳車(ほうしゃ)の代表作に、第一句集のタイトルともなった「草に寝れば空流る雲の音聞こゆ」があるが、これまた極めて静謐な情景だ。このように、鳳車句の特徴は静かな境地にある。心身を沈め澄ませて、感じられる感興を詠むのである。この場合で言うと、二階にいる家人の跫音(あしおと)にことさらに耳をそばだてているのではなく、みずからの静かな心身状態が自然に(ひとりでに)とらえた結果の気配なのだ。がつがつと素材を探し回るようなことはしていない。「雲の音」句についても、同様である。私たちが俳句の魅力にとらわれる一つの要因は、このように自分の心身を静かに保ち、そこに浮かび上がってくる何かを詠む充実感にあるのだろう。日常生活のあれやこれやを一切遮断して、心を澄ませてみたときに何が見え、何が聞こえるか。そうしたいわば自己発見の妙味に、多くの人が魅入られてきた。その典型を、私などはこの人に見る。『雲の音』所収。(清水哲男)


July 1172000

 針葉のひかり鋭くソーダ水

                           藤木清子

葉とは、この場合は松葉だろうか。たとえば、台風一過の昼さがり。澄んだ大気のなかに日が射してきて、庭の松葉の一本一本がくっきりと見えるほどに鮮やかだ。そして、テーブルの上には清涼感に満ちたソーダ水。その発泡も鮮やかである。すべてのものの輪郭がくっきりとしている情景に、作者の心も澄み切っている。生きる活力が湧いてくるようだ。作者には同じような心情の「蒼穹に心触れつつすだれ吊る」などがあるが、他方では「麻雀に過去も未来もなきおのれ」などの鬱屈した句も多い。1935年(昭和十年)に創刊された日野草城の「旗艦」に出句。新興俳句の最初の女性として将来を嘱望されたが、わずか四年にも満たない活動の後に、「ひとすじに生きて目標うしなへり」を残し、忽然として姿を消してしまった。現在に至るも生年も出身地も不明、生死も不明のままだ。最後の句から掲句を透視してみると、人生にきっちり折り目をつけないと気のすまぬ性格だったのかもしれない。なお藤木清子については、中村苑子がもう一人の幻の女流俳人・鈴木しづ子(当歳時記既出)と並べて、発売中の「俳句研究」(2000年7月号)に愛惜の思いを込めて書いている。『女流俳句集成』(1999・立風書房)所載。(清水哲男)


August 0682000

 魔の六日九日死者ら怯え立つ

                           佐藤鬼房

月「六日」は広島原爆忌、「九日」は長崎原爆忌。原爆の残虐性に対して、これほどまでに怒りと戦慄の情動をこめて告発した句を、他に知らない。死してもなお「魔」の日になると「怯え立つ」……。原爆による死者は、いつまでも安らかには眠れないでいるのだと、作者は言うのである。原爆投下時に、作者はオーストラリア北部のスンバワ島を転戦中だった。敗戦後は捕虜となり、連作「虜愁記」に「生きて食ふ一粒の飯美しき」などがある。だから、原爆忌や敗戦日がめぐってくると、おざなりの弔旗を掲げる気持ちにはなれなくて、心は「死者」と一体となる。弔旗は弔旗でも、句は死者と生者にむかって、永遠に振りまわしつづける万感溢れる「弔旗」なのだ。原爆の日から半年後の早春に、私は夜汽車で広島駅を通過した。小学二年生だったが、「ヒロシマ」というアナウンスに目が覚め、プラットホームや背後の街に目を凝らしたことをはっきりと覚えている。ホームにも街にも灯がほとんどなく、全体はよく見えなかった。大きな駅だという雰囲気は感じられたが、子供心にも「死の街」だと思った。生き残った被爆者の方々の平均年齢は、今年で七十歳を越えたという。『半迦坐』(1988)所収。(清水哲男)


August 0982000

 ひぐらしに寡婦むらさきの着物縫ふ

                           藤木清子

分のために縫っているのではないだろう。むらさきの着物は派手だから、「寡婦(かふ)」にはそぐわない。他家から注文のあった仕立物に精を出しているうちに、いつしか「ひぐらし」の鳴く夕暮れとなった。働く「寡婦」と「ひぐらし」の取り合わせが、寂寥感を演出する。そしておそらく、この着物の仕立てを注文したのは、作者自身なのだ。推定の根拠は、掲句の少し後に詠まれた「縁談をことはる畳なめらかに」にある。そしてこれまた推定でしかないが、着物を縫っている人は戦争未亡人だと思う。そこに、掲句のポイントがあるのではなかろうか。藤木清子には戦争を詠んだ句が多数あり、「戦死者の寡婦にあらざるはさびし」「戦争と女はべつでありたくなし」などが目につく。みずから戦争に与する意志が明確で、なんと好戦的な女性かと思われるムキもあるだろうが、当時の一般的な戦争に対する心情を代弁しているだけの内容だと読む。ほとんどスローガンなのだ。以前にも書いたけれど、彼女は戦争期に突然筆を折った後、消息すらわからなくなってしまった。戦後、生きのびた多くの俳人が戦争句を捨てたなかで、捨てようにも捨てられなかった彼女の句は、結果として「残ってしまった」のである。『女流俳句集成』(1999)所載。(清水哲男)


August 2082000

 墜ちてゆく 炎ゆる夕日を股挟み

                           三橋鷹女

季。しかし、「炎ゆる夕日」は夏の季語である「西日」に近い感じだ。初秋の「西日」は、外気の暑さも加わって、たしかに炎えているように見える。童謡の一節「ギンギンギラギラ、ユウヒガシズム」の、あの感じだ。さて、掲句の主語は何だろうか。落ちてゆくのは「夕日」であるが、「墜ちてゆく」のは作者自身だろう。「墜ちてゆく」の後に一字分の空白が入れられていることから、それと理解できる。つなげてしまうと、つづく「股挟み」の主語が作者であるだけに、「墜ちてゆく」主体は「夕日」と限定されてしまう。それにしても、激しい気性の感じられる句だ。このとき、鷹女は六十歳か、六十一歳か。どうせ老いが避けられないのであれば、あの真っ赤な夕日を道連れに「墜ちてゆく」、いや「墜ちてやる」の気概はすさまじい。彼女は、みずからを魚に擬して「一句を書くことは 一片の鱗の剥奪である」と言った。ならば、いつの日にかは確実に全身赤裸となるわけだ。この句は、自身の「赤裸」が近いと心得た作者が、渾身の力を込めて太陽にむしゃぶりついてやるの気迫に満ちている。むしゃぶりつくだけではなく、その上での「股挟み」だ。「夕日」は、必ずしも感傷の対象にはあらず。俳句に命を賭けた者にしか、こういう壮絶な俳句は書けないだろう。六十二歳の私はといえば、ただ脱帽も忘れて、シュンとするのみ……。『羊歯地獄』(1961)所収。(清水哲男)


September 1092000

 不漁の朝餉鍋墨につく静かな火

                           佐藤鬼房

漁かが不明なので、無季句としておく。「不漁」に「しけ」のルビ。漁師の生活は知らないが、早朝の漁から戻っての朝餉の場面かと思う。大漁であれば活気に満ちる朝餉の座も、沈欝な雰囲気に包まれている。不漁が、もう何日もつづいているのだ。自在鉤(じざいかぎ)で囲炉裏に吊るした鍋のなかでは、いつものようにグツグツと海の物が煮えている。が、みな押し黙っている。ときおり鍋墨(なべずみ)に移った小さな火片が、静かに明滅している。掲句の鋭さは、落胆した人間の視線の落とし所を、的確に捉えているところだ。心弱いとき、人は視線をほとんど無意識のままに弱々しいものに向けるようだ。茫然とした心は、知らず知らずのうちに静かで弱々しいものに溶け込んでいくのか。そこで、すさんだ心情のいくばくかは慰謝され治癒される。この視線の動きは人間のこしゃくな知恵によるのではなくて、自然にそなわった(換言すれば、天が与え給うた)自己救済へとつながる身体的機能の一つだろう。だから、この句が特殊なシチュエーションを描いてはいても、普遍性も持つのである。ところで現代では、もはや囲炉裏で煮炊きする生活は消えてしまった。実際に「鍋墨」を知らない人のほうが、多くなってきただろう。このときに、私たちの日常生活における「静かな火」は、どこにあるのだろうか。心弱い視線の現代的な落とし所は、どこにあるのか。合わせて、考えさせられた。『海溝』(1976)所収。(清水哲男)


September 2692000

 秋の箱何でも入るが出てこない

                           星野早苗

ンスのよいナンセンス句。こういう句をばらばらに分解して解説してみても、はじまらない。丸のみにして、作者に説得される楽しさを味わえれば、それでよい。……と言いながら、一つだけ。「秋の箱」でなくたっていいじゃないか。「春の箱」でも「夏の箱」でもよいのではないか。最初そう思って、他の三つの季節に入れ替えてみた。入れ替えて、一つ一つをイメージしてみた(私もヒマだ)。まずは「春の箱」だが、ふにゃふにゃしすぎており「何でも入る」けれど何でも出てくる感じ。「夏」だと、暑苦しくて何も入れたくない。「冬」にすると、箱の堅牢さは保証されるが、「何でも入る」というわけにはいかないようだ。となれば、やっぱり「秋の箱」。透明にして、容積は無限大。だから「何でも入るが出てこない」。むろん作者は、こんな面倒くさい消去法で「秋」をセレクトしたわけではない。パッとそんなふうに閃いたから、パッと「秋の箱」と詠んだのである。どんな句にも「パッ」はつきものだ。いや、「パッ」こそが命だ。理屈は、後からついてくるにすぎない。同じ作者に「高感度のキリン私が見えますか」がある。パッと「高感度」が光っている。ただし、これらの閃きにパッと感応しない読者もいるだろう。それはそれで仕方がない。どちらが悪いというものではない。『空のさえずり』(2000)所収。(清水哲男)


October 09102000

 体育の日を書き物で過ごしけり

                           森田公司

育と「書き物」などの机上の所業とは、対立的な振る舞いとして捉えられてきた。身体を使うか、使わないか。対立軸は、そこにある。考えてみれば「文武両道」なる精神も、そこに発している。「文弱」なども同様だ。だから、掲句も意味を持つ。みんなが身体を動かすことに自覚的な一日を、我一人は文章を書いて過ごした。よんどころない原稿の締切に追われたせいなのか、あるいは誘われた市民運動会なんぞに参加してやるものかという反骨心(ひねくれ根性)からか、それは知らない。いずれにしても、句は常識としての対立概念をベースに成立している。しかし、それこそひねくれ根性のせいか、私はこの常識を好きになれない。体育と「書き物」などの「知育」とは対立してはいない。むしろ、平行している。共存している。極められるかどうかは別にして、人は誰でも本質的に「文武両道」であらざるを得ぬ生き物だろう。それをことさらに「体育」と言い「知育」と言ってきたのは、何のためだろうか。決まってるジャン、国家のためだ。富国強兵、お国のためである。「体育の日」は、東京五輪(1964)の記念日だ。お国のために開かれたオリンピックを、永久に思い出させようとする企みに発した旗日である。ヒットラーの愛人が作ったベルリン五輪の記録映画『民族の祭典』は、その素晴らしい映像を梃子に、この二項対立概念を「民族」に説得する方便としての映画でもあった。そして、戦争がはじまる。はじめは「体育」の人が死んでいき、結局は「知育」の人も後を追わされた……。「旗日とやわが家に旗も父もなし」(池田澄子)。『新日本大歳時記・秋』(1999・講談社)所載。(清水哲男)


February 2722001

 灰となる椅子の残像異動期過ぐ

                           穴井 太

くの職場では、人事異動の季節。実際に動くのは四月だとしても、労働契約にしたがって、少なくとも一ヶ月前までには内示がある。いまの「椅子」から動きたい人、動きたくない人、さまざまだ。作者は中学教師だった。人事異動には昇進も含まれるが、この場合は転勤だろう。作者は動きたくなかった。だが、異動には頃合いというものがあり、そろそろ動かされても仕方がない立場ではあった。いつ内示があるかと、毎日びくびくしている。教師の世界は知らないが、異動を言い渡す役目は校長だろうか。だとすれば、校長の一挙手一投足までが気になる。うなされて、自分の「椅子」が灰になる夢を何度も見る。しかし結局は何ごともなく二月が過ぎていき、ようやく安堵の胸をなで下ろしたところだ。が、なで下ろしながらも、「灰となる椅子の残像」は見えている。よほど神経的にまいってしまっているのだ。この「残像」に思い当たるサラリーマンは多いだろう。穴井太には「風になった男」という小さな山頭火論があって、風まかせに歩いた自由律俳人の生き方に目を見張っている。見張ってはいるものの、とうてい山頭火のようには生きられぬのが自分の器量であり宿命でもある。このときに「春の雲おれの居場所は段畑」と詠んだ穴井太の心情は、切なくも読者の胸奥にしみ入ってくる。たしかに山の「段畑」は、ささくれた神経を解きほぐしてくれる最高の「居場所」にはちがいないが、作者がここから風となって遠くに吹いていくことは、ついにできないのだから。山を下りれば、そこには「椅子」があるのだから。『穴井太集』(1967)所収。(清水哲男)


March 1832001

 野遊びやグリコのおまけのようなひと

                           小枝恵美子

語は「野遊び」。春の山野で日を浴び、青草の上で遊び楽しむこと。現代語では「ピクニック」にあたるだろう。さて「グリコのおまけのようなひと」とは、いったいどんな人なのだろうか。いろいろと想像してみた。「おまけ」なのだからメイン・ゲストではなく、いてもいなくても差し支えないような人とも解せるが、しかしこの解釈では「グリコのおまけ」の本義(!?)からは外れてしまう。多くの子供たちにとって、グリコは本体よりも「おまけ」のほうが大事だったはずだからだ。少なくとも私は、「おまけ」目当てでグリコを買っていた。本体の飴の味は、森永ミルクキャラメルや古谷のウィンター・キャラメル(これがいちばん好きだった)に比べると、明らかに格下だった。となれば、あの「おまけ」の箱を開けるときのような期待感を持たせる楽しげな人という意味だろうか。でも、開けてみると大概は「なあんだ」というのが「グリコのおまけ」なので、期待は持たせるが中身は知れているような人なのか。あるいは女の子用の「おまけ」の箱の柄は華やかだったので、花柄プリントでも着ている女性を指しているのか。本物の野の花のなかで、人工的な花柄プリントは、むしろ似合わない。結局は、よくわからなかつた。が、わからなくても気になる句はある。「野遊び」の子供の菓子にグリコがあって不自然ではないし、作者の発想もそのあたりから来ているのだろう。とにかく、なんとなく読者の機嫌をよくさせる句だ。だいぶ前に、筑摩書房が『グリコのおまけ』という酔狂な本を作ったことがある。過去の「おまけ」のカタログ集みたいな本だが、そこに拙句「将来よグリコのおまけ赤い帆の」が載っている。編集者の話では、この句に写真を添えるために「赤い帆」の舟を探すべく、グリコの倉庫を必死に探索したそうだけれど、ついに発見できなかったという。代わりに「白地に赤のストライプの帆」の舟の写真が掲載された。白状すると、私は実景を詠んだのではない。「赤い帆」くらいなら必ずあるだろうと、確かめもせずに作ってしまった(元々はこの本のために作った句ではないが)のだった。罪深いことをしました。『ポケット』(1999)所収。(清水哲男)


April 3042001

 鳥篭の中に鳥とぶ青葉かな

                           渡辺白泉

葉の季節。軒先に吊るされた「鳥篭」のなかで、鳥が飛ぶ。普通に読んで、平和な初夏の庶民的なひとときがイメージされる。もう少し踏み込んで、青葉の自然界に出るに出られぬ篭の鳥の哀れを思う読者もいるだろう。いずれにしても、このあたりで私たちの解釈は止まる。それで、よし。ところで、この句は敗戦後三年目の作品だ。作者の白泉は、戦前の言論弾圧で検挙された履歴を持つ。戦前句には「憲兵の前で滑つてころんじやつた」「戦争が廊下の奥に立つてゐた」などがある。こういうことを知ってしまうと、解釈は一歩前進せざるを得なくなる。時こそ移れ、時代が如何に変わったとしても、白泉の時代揶揄や社会風刺の心は生きていると思うと、掲句をその流れにおいて読むということになる。すなわち、戦後民主主義批判の句であると……。主権在民男女平等などは、しょせん篭の鳥のなかで飛ぶ鳥くらいの自由平等じゃないかと……。こう読むと、せっかくの美しい青葉の情景も暗転してしまう。イヤな感じになる。俳人はよく「一句屹立」と言う。いわゆるテキストだけで、時代を越えて永遠の生命を得たいという夢を託した言葉だ。その意気は、ひとまずよしとしよう。だが、「そんなことができるもんか」というのが私の考えだ。あのメーテルリンクの教訓劇『青い鳥』の鳥だって、最後には逃げてしまい、いまだに行方不明なのだ。「一句屹立」の行き着くところは、束の間の青い鳥を自前の鳥篭で飛ばそうとすることでしかない。時代が変われば、解釈も変わるのだ。その証拠が、たとえば掲句である。白泉の仕込んだワサビは、もはや誰にも効かなくなった。『昭和俳句選集』(1977)所載。(清水哲男)


May 3152001

 幻が傘の雫を切つてをり

                           真鍋呉夫

れた傘を畳むときに、パッパッと「雫(しずく)」を切る。この動作について考えたこともないが、できるだけ家の中に湿気を持ち込まないようにする知恵だ。知恵とも言えない知恵のようだけれど、見ていると幼児などは切らないから、やはり暮らしのなかで覚えていく実利的知恵の一つではある。ところが、掲句で雫を切っているのは実利とは無関係の「幻」だ。そんなことをしても、何にもならない。その前に、幻に傘の必要はない。が、句の湛えている暗い存在感は気になる。こいつはどこから滲み出てくるのかと、考えた。たとえば幻を故人の姿に見立てれば、一応の筋は通る。しかし、淡泊に過ぎる。もっと、この句は孤独な感じがする。この孤独感は、おそらく「切つてをり」の「をり」に由来するのだろう。「いる」ではなくて「をり」。「いる」だと対象を時空的に客観視することになるが、「をり」の場合は「いま、ここでの行為」と、時空を一挙に作者に引き寄せるからだ。すなわち「幻」とは作者自身のことだと読める。自分のありようを自嘲して「幻」と比喩したとき、無意識に雫を実利的に「切つてを」る自分があさましくも思え、いまここで「切つてを」るうちに自嘲がいや増した瞬間を詠んだ句と取っておきたい。平たく言えば、しょせん「幻」みたいな存在の俺が、何で馬鹿丁寧にこんなことやってんだろう、というところ。そんな当人の滑稽感もあるので、ますます句が暗く孤独に感じられるのではなかろうか。五月尽。間もなく雨の季節がやってくる。『定本雪女』(1998)所収。(清水哲男)


June 1862001

 おおかみに螢が一つ付いていた

                           金子兜太

の性(さが)、狷介にして獰猛。洋の東西を問わず、物語などでの「おおかみ」は悪役である。ただし、腐肉を食べるハイエナとは違って、心底からは嫌われてはいないようだ。恐いには恐いけれど、どこか間が抜けていて愛嬌もある。犬のご先祖なので、ハイエナ(こちらは猫の仲間)には気の毒だが、陰険を感じさせないからだろう。この句も、もちろんそうした物語の一つ。「螢が一つ付いて」いる「おおかみ」の困ったような顔が浮かんできて、ますます憎めない。と同時に感じられるのは、彼の存在の尋常ではない孤独感である。目撃談めかして書かれてはいるが、この「おおかみ」は作者自身だろう。みずからを狼に変身させて、おのれのありようをカリカチュアライズすると、たとえばこんな風だよと言っている。ここ二十年ほどの兜太句には、猪だの犀だの象だの狸だのと、動物が頻出する。このことを指して、坪内稔典は「老いの野生化」と言い(「俳句研究」2001年7月号)、それが「おそらく兜太の理想的な老いである」と占っている。となれば、人は老いて木石に近づくという「常識」ないしは「実感」は、逆転されることになる。死に際まで困った顔をするのが人なのであり、木石に同化しようとするのは気休め的なまやかしだと、掲句は実に恐いことを平然と言っていることになる。まさに「おおかみ」。句集で、この句の前に置かれた句は「おおかみに目合の家の人声」だ。こっちも、孤独の物語としてハッとさせられる。「目合」には「まぐわい」、「人声」には「ひとごえ」とルビがふられている。兜太、八十二歳。ダテに年くってない表現の力。『東国抄』(2001)所収。(清水哲男)


September 1392001

 秋あつし宝刀われにかかはりなき

                           藤木清子

和十五年ころ、第二次大戦前夜。やむにやまれぬ大和魂。いつ日本が伝家の「宝刀(ほうとう)」を、欧米の列強相手に引っこ抜くかが、国民的な話題となっていたころの作だ。作者には掲句以前に「戦争と女はべつでありたくなし」などがあり、愛国心に男も女もないという気概を披歴している。が、女性には参政権もなかった時代だから、気概も徐々に空転して「われにかかはりなき」の心境に至ったのだろう。時の国家権力にいくら共鳴し近づこうとしても、しょせん女は排除される運命だと諦観した句と推定できる。勝手にしやがれ、なのである。このように、明らかに国家による女性差別の時代があった。そして、いきなりの男女同権、主権在民……。望ましいと言うよりも、しごく当たり前の時代が到来したわけだ。が、はしょって述べるしかないけれど、男女同権主権在民の「民主主義」が明確にしたのは、皮肉にもそんな権利では取りつくシマもない権力構造そのものの姿だった。藤木清子よ。あなたは女ゆえに、愛国者として権力に翼賛することを拒否されたわけではなかったのだ。抜けば玉散る氷の刃(やいば)。いつの時代にも、そんな見栄を実行に踏み切れるのは権力者だけである。したがって「正義」の名の下に真珠湾に奇襲をかけ、逆に「正義の報復」に原子爆弾を平然と投下した権力もありえたのだ。このことを思うと、われら女も男も「われにかかはりなき」とでも、お互いに可哀想にもつぶやきあうしかないのではないか。カネもヒマもない庶民には、テロリズムもまた、思弁的夢想の範疇でしか動かせない。「秋あつし」……。『女流俳句集成』(1999)所収。(清水哲男)


November 03112001

 定型やひもじくなればイモを食ひ

                           筑紫磐井

句で、単に「いも」と言えば「芋」のことで、里芋を指す。馬鈴薯や甘藷の「藷(いも)」ではない。「芋」は儀礼食として伝統行事に使われてきたから、そしてこの国の「いも」ではかなりの古株(縄文時代には、既に野生種があったという)だから、南米原産の新参の「藷」よりもはるかに格が上なのである。月見に供えるのも、里芋だ。でも、掲句の表記は「イモ」と片仮名である。片仮名にしたのは「里芋」ではないよということであり、「芋」も「藷」も含み込んだすべてのイモ類のことを言っていると受け取った。米が食えずに「ひもじくなれば」イモの類を食うのは歴史的に人の常であり、まさに「定型」。そして、もう一つ。ひもじい作句を比喩的に捉えれば、発想に貧すると必ず貧民がイモを食うような句に仕上げてしまう。これも「定型」。ぼかしてはあっても、むろん作者の力点は後者にかかっているのであり、飢えた人たちが「イモ」を食ったように、いわば定型の伝統的な根菜を食いつくすかのような俳句界の現状を、憂いつつ笑っている。作者は論客としても知られているが、しかし、散文でひもじい俳句作家たちを撃つ限界を心得ている。本物の戦争でも「地上軍」には「地上軍」をぶつけねば勝てないように、「俳句」にも「俳句」をもってするのが最も有効な手だてであることを。このところの磐井句は、そういう意味で見落とせない。次の句などは、無季ながら傑作だ。単なる揶揄や意地悪に終わっていないからである。「虚子・精子頭はでかく肝小さし」。一読、男なら誰しもが、ありもしない自分の「精子の肝」に思いが行ってしまうはずである。俳誌「豈」(2001年AUTUMUN号)所載。(清水哲男)


November 26112001

 人類の旬の土偶のおっぱいよ

                           池田澄子

い句ですね。無季ではあるけれど、この時代のいまの冬の季節にこそ、輝きを放つ句だと読める。テロ事件、報復戦争、それに加えて以前からの慢性的な不況、それに伴う失業者の増加。さらには陰惨な犯罪の多発など、どれをとっても、いまが人類の盛りなどとは、とうてい誰も思うまい。このときに「人類の旬(しゅん)」とはいつごろだったろうかと思い巡らすのは、自然な心の成り行きだろう。作者はそれを「土偶」の姿から縄文期に見たのであり、言われてみればそうかもしれないと納得できる。数多く出土しているこの泥人形たちの多くは、女性像である。それこそ「おっぱい」があるのでわかるわけだが、ではなぜ女性像なのかについては諸説があるようだ。が、なかでほぼ共通して見える解釈に呪術性との関連があり、これには素直にうなずけた。縄文人にだって知識も教養もあったが、男はもちろん当の女性にしてからが、妊娠出産の不思議さには呆然としていたに違いないからだ。妊娠姿の「土偶」もある。畏れの念がわくのも、ごく自然のことだったろう。で、女性像を人形に作るにあたってのいちばんの留意点は、誰が見ても女性とわかるところにあったはずだ。すなわち、女性の女性たる所以を形にすることである。それが「おっぱい」だった。初期の人形には、顔も手足もない。省略されたのではなく、女性を表現するのに、そんなものは必要がなかったからだろう。憶測にはなるが、縄文人には女性らしい顔つきや手足、さらには物腰などという物差しが無かったのだと思う。作者の言うように、女性像を乳房に集約できた時代は、たしかに「人類の旬」と言ってもよいのではあるまいか。「土偶のおっぱい」は、なるほど実に凛乎として見える。「俳句研究」(2001年12月号)所載。(清水哲男)


January 2012002

 獄凍てぬ妻きてわれに礼をなす

                           秋元不死男

語は「凍つ(いつ)」で冬。戦前の獄舎の寒さなど知る由もないが、句のように「凍る」感じであったろう。面会に来てくれた妻が、たぶん去り際に、かしこまってていねいなお辞儀をした。他人行儀なのではない。面会部屋の雰囲気に気圧された仕草ではあったろうけれど、彼女の「礼」には、夫である作者だけにはわかる暖かい思いが込められていた。がんばってください、私は大丈夫ですから……と。瞬間、作者の身の内が暖かくなる。さながら映画の一シーンのようだが、これは現実だった。といって、作者が盗みを働いたわけでもなく、ましてや人を殺したわけでもない。捕らわれたのは、ただ俳句を書いただけの罪によるものだった。作者が連座したとされる「『京大俳句』事件」は、京都の特高が1940年(昭和十五年)二月十五日に平畑静塔、井上白文地、波止影夫らを逮捕したことに発する。当時「京大俳句」という同人誌があって、虚子などの花鳥諷詠派に抗する「新興俳句」の砦的存在で、反戦俳句活動も活発だった。有名な渡辺白泉の「憲兵の前ですべつてころんじやつた」も、当時の「京大俳句」に載っている。ただ、この事件には某々俳人のスパイ説や暗躍説などもあり、不可解な要素が多すぎる。「静塔以外は、まさか逮捕されるなどとは思ってもいなかっただろう」という朝日新聞記者・勝村泰三の戦後の証言が、掲句をいよいよ切なくさせる。『瘤』所収。(清水哲男)


February 1822002

 汽笛一声ヒヨコが咲きぬヒヨコが

                           鳴戸奈菜

のため「猫の子」(春)や「鴉の子」(夏)などのように、「ヒヨコ」も季語になっているのかなと調べてみたが、季語ではなかった。鶏には、とくに繁殖期などはないのだろうか。子供の頃、三十羽ほどの鶏の世話をしていたくせに、まったく覚えていない。でも、あの小さくてふわふわとした愛らしい姿は、なんとなく春を想わせますね。この句、私は実景として読んだ。場所はたとえば、SLが常時走っていたころの山口線は無人駅近辺の農家の庭先だ。今でもあると思うが、駅と庭とが地続きになっている。庭では、たくさんのヒヨコたちが放し飼いにされている。のどかな春昼。そこに突然、発車合図の「汽笛一声」だ。驚いたのなんの。ヒヨコたちは、四方八方にめちゃくちゃに走り回ることになる。黄色い集団が、一斉にぱあっと四散するのである。その様子は、まさに「ヒヨコが咲きぬ」なのだ。下五(字足らずだが、空白の一字が埋め込まれている)で、もう一度「ヒヨコが」と言ったのは、ヒヨコが「咲く」と直感的に見えた自分の感覚に対する再確認である。本当に「咲く」んだよ、ヒヨコは……、と。センス抜群。ヒヨコには気の毒ながら、楽しくも素晴らしい句です。「俳句研究」(2002年3月号)所載。(清水哲男)


May 2152002

 わが死後の乗換駅の潦

                           鈴木六林男

季句。「潦(にわたずみ)」は、雨が降ったりして地上にたまった水。または、あふれ流れる水。水たまりのこと。季語ではないが、これからの長雨の季節を思わせる。郊外の駅だろう。通勤の途次、乗り換えの電車を待っている。構内のあちこちに、水たまりができている。すでに見慣れた光景でしかない。いつも、同じところにできる同じ形の水たまり……。普段は何気なく見過ごしているというか、さして気にも止めない変哲もない水たまりだけれど、ふと「わが死後」にもここに同じように変哲もなくありつづけるのだろうと思った。そんな思いにかられると、何の変哲もない潦がにわかに生気を帯びて新鮮なそれに見えてくる。あらためて、まじまじと見つめててしまうのだ。たとえばこれが山河に対してだったら、誰しもが自分の死後にもありつづけるのは当たり前だと感じるけれど、作者は生成消滅を繰り返す水たまりにこそ「永遠」を感じている。ここが句のポイントで、悠久の時間の流れのなかで考えれば、つまりは山河であれ何であれ、自然は水たまりのように生成消滅を繰り返すのが当たり前なのだ。ただ水たまりのほうが、人間の時間の間尺に基準を合わせると、わかりやすく短時間で生まれたり消えたりしているに過ぎない。この認識から、何を思うかは読者の自由。ルーティン化した通勤時間にも、ふと日常感覚から外れた何かを感じたり発見している人はたくさんいるだろう。『鈴木六林男句集』(2002・芸林書房)所収。(清水哲男)


September 0492002

 夜業の窓にしやくな銀座の空明り

                           鶴 彬

和十年(1935年)の作品。句意は明瞭で、いまどきの「残業」にも通じる内容である。最近では、また残業が増えてきたという。リストラのために、正社員の仕事量が増えてきたからだ。ただし、当時の町工場などでは労働環境が違う。その劣悪さについては、後に引用する句を参照していただきたい。季語は「夜業(夜なべ)」で、秋である。といっても、作者は川柳として作っているので、季節の意識は希薄だったかもしれない。俳句で「夜なべ」を秋としてきたのは、夜長感覚とそれに伴う寂寥感を重んじたためだろう。仄暗い秋灯の侘しさもプラスされる。川柳作家・鶴彬(つる・あきら)の句は、数年前に田辺聖子の近代川柳界を扱った小説『道頓堀の雨に別れて以来なり』を読んだとき以来、もっと知りたいと思ってきた。時の権力に苛烈に抗して「手と足をもいだ丸太にしてかへし」と、川柳得意の笑いを突き詰めた表現の壮絶さに打たれたからである。しかし、何度かあちこちの図書館で調べてみても見つからなかった。理由は、このほどやっと私が読むことのできた本でわかった。この句を発表してから二年後に、鶴は特高警察に逮捕され、翌年の九月、野方警察署留置場で赤痢に罹って、収監のまま豊多摩病院で非業の死を遂げている。二十九歳。べつに大新聞に書いていたわけではなく、一般的には無名の川柳作家が、かくのごとくに国家権力に蹂躙された事実を知った以上は、忘れるわけにはいかない。こうした作家を現代に掘り起こしてくれた方々に、深く謝意を表します。そして、もう二句。すなわち、劣悪な職場環境を詠んだ句に「吸ひに行く――姉を殺した綿くずを」「もう綿くずを吸へない肺でクビになる」がある。小沢信男編『松倉米吉 富田木歩 鶴彬』(2002・イー・ディー・アイ)所載。(清水哲男)


September 1892002

 秋雨の瓦斯が飛びつく燐寸かな

                           中村汀女

 籾摺り
は1935年(昭和十年)、東京大森での作。昔の台所は田舎ではもちろん、瓦斯(ガス)が来ているような都会のモダンな家でも、総じて北側など暗い場所にあった。ましてや、外は秋の雨だから、陰気な雰囲気である。「秋雨の瓦斯」とは、コックをひねると出てくる瓦斯の、普段よりもいっそう暗く湿ったような感じを言っているのだろう。タイミングを計って燐寸(マッチ)を擦ると、炎が瓦斯に燃え移るというよりも、句のように「瓦斯が飛びつ」いてくるというのが実感だ。着火したら、手早く燐寸を遠ざけねばならない。慣れているはずの主婦といえどもが、緊張する一瞬である。当時は恵まれた環境にあった主婦のビビッドな感覚を伝えた掲句も、もはや郷愁を呼ぶ台所俳句の一つになってしまった。自動点火のガス器具しか知らない世代には、よくわからないかもしれない。瓦斯といえば、最近読んだ宇多喜代子『わたしの歳事ノート』(富士見書房・2002)に、明治期(三十七年)の句が引用されていた。「瓦斯竃料理書もある厨哉」。新聞の懸賞に入選した俳句だそうだが、手放しの自慢ぶりが、いまとなっては可笑しくも哀しい。時代は変わった。台所も……。画像はTOKYO GASのHPより。句は『合本俳句歳時記・新版』(1974・角川書店)などに所載。(清水哲男)


October 23102002

 草原に人獣すなおに爆撃され

                           阪口涯子

季句。かつての大戦中の作品で、往時の作者は中国の大連にいた。作句年度は古いけれど、この世に戦争があるかぎり、掲句は古びることはないだろう。戦争は「人」のみを殺すのではない。「獣」もまた、殺されていく。殺されるという意味では、人も獣も同じ位置にある生き物なのであって、ひとくくりに「人獣」でしかない。果てしなく広がる草原の上空に、突如爆撃機の黒い編隊が現れ、容赦なく大量の爆弾を投下しはじめる。といっても、敵が何もない草原を攻撃するはずもないから、そこには町があり工場や学校があり、そして基地がある。むろん、人もいて獣もいる。それら攻撃対象を、まるで何もない場所であるかのようにアタックする感覚には、眼下に展開する風景はただの「草原」にしか見えないだろうし、攻撃される側にしても、その無防備に近い状態において、さながら「草原」に身をさらしているように感じられるということだ。すなわち「すなおに」爆撃されるしかないのである……。このときに「すなおに」とは、何と悲しい言葉だろうか。苛烈な現実を声高に告発するのではなく、現実を透明で無音の世界に引き込んでいる。この句には、爆撃の閃光もなければ轟音もないことに気がつく。しかし、現実として人獣は確かに死んでいくのである。今日、作者の涯子(がいし)を知る人は少ないだろうが、高屋窓秋の盟友であり、新興俳句の旗手であった。もっと読まれてよい俳人だ。『北風列車』(1950)所収。(清水哲男)


November 16112002

 蘭の香やむかし洋間と呼びし部屋

                           片山由美子

前に建てられた母方の実家に「洋間」があった。カーペットが敷かれ、シャンデリアが吊るされ、ソファが置かれ、ピアノと電蓄とがあった。大きなガラス窓が、障子に慣れた目には珍しかった。掛けられていた絵は、むろん「洋画」である。ただ、あまり使われていなかったようで、なんだかいつもヒンヤリとしていた記憶がある。ところで、作者の家には、まだこうした「むかし」ながらの洋間があるのだろう。他の部屋は和室だったわけだが、おそらく今ではそれらをリフォームして、みな洋式の部屋にして暮らしている。つまり、すべての部屋が洋間になってしまったわけで、とくに一室だけを「洋間」と区別して呼ぶことがなくなって久しいのだ。そんな部屋に、たまたま蘭を飾った。そしてその芳香に包まれた途端に、思い出されたのである。「むかし洋間と呼びし部屋」には、この「香」がよく漂っていたことが……。「蘭の香」は、同時に洋間そのものの香りでもあり、他の部屋にはない独特な香りだった。連れて、当時そのままの部屋のたたずまいと、往時そのままのあれこれのことを思い出し、しばし作者は懐旧の情に浸っている。香りが、思いがけない過去へと作者を誘ってくれたのだ。さて、句の季語は「蘭」であるが、歳時記によって季節の分類は異っている。夏によく咲くことから夏季とするものがあり、秋の七草のフジバカマを蘭と言ったことから秋季とするものなど、マチマチだ。しかし、現在では冬でも普通に蘭の花が見られる。というわけで、当歳時記としては無季に分類しておくことにした。ただし、掲句の作者は、前後に置かれた他の句から類推すると、秋季として詠んでいるようだ。「俳句研究」(2002年12月号)所載。(清水哲男)


April 0742003

 寂しきは鉄腕アトム我指すとき

                           清水哲男

アトム
うとう「鉄腕アトム」の誕生日が来てしまった。半世紀前に雑誌「少年」でアトムの未来の誕生日に立ちあったときには、とんでもない先の話だと思っていた。まず生きてはいられないと思ったのに、今日、こうしてその日を迎えている。とりあえず、めでたいことには違いない。アトムが誌面に誕生したときには、漫画は悪だった。教育の害になるというのが、世間の常識だった。だから、私(たち)はいわば隠れて熱中した。むろん、作者には憧れた。それが、どうだろう、今の変わりようは。マスコミはもてはやし、企業は一儲けを企み、みんながアトムにすり寄っている。なにしろ「正義の味方」なんだから、どのようにすり寄ろうとも、どこからも文句は出ないもんね。でも、初期のいくつかの作品を除いて、私はアトムが好きじゃない。手塚治虫の私的なアトムは、いつしか作者にもどうにもならない公的な存在に変わっていったからだ。それに連れて、アトムの正義も極めて薄っぺらな公的正義に陥ってしまっている。この公的正義ゆえに、現今のマスコミや企業も乗りやすいのだ。むろん手塚も気づいていて、ヤケ気味に書いたことがある。「ぼくはアトムをぼく自身最大の駄作の一つとみているし、あれは名声欲と、金儲けの為に書いているのだ」(「話の特集」1966年8月号)。当時の本音であり、深く寂しい苛立ちだ。その寂しさが、どんどん格好良くなっていくアトムの外見に具現されているというのが、私の見方である。TVアニメのアトムは、しばしば格好よく指をさす。何かの行動を決断したときだ。その決断の根拠は、しかし公的な正義にもとづくもので、アトムの(いや手塚の)心からのものではない。だから、指さす表情はとても悲しげであり、寂しく写る。「週刊現代」の取材で、一度だけお会いしたことがある。憧れの漫画家はまことに多忙で、インタビューは事務所から車の中、車の中から喫茶店へと移動しながらだつた。喫茶店で話していると、何人かの女子高生がサインをねだりに割り込んできた。話を中断した漫画家は、彼女らの紙切れやノートに実にていねいに署名し、一人が通学用のズックのカバンを差し出すと「ホントにいいの」と言ってから、マジックインキで五分くらいもかけて「リボンの騎士」を描き上げたのだった。私も便乗しようかと思ったのだが、止めにした。あまりにも、彼は疲れているように見えた。『匙洗う人』(1991)所収。(清水哲男)

[ おまけ ]現在、JR高田馬場駅で流れている発車ベルにはアトムの主題曲が使われています。お聞き下さい。22秒、動画はありません。要QuickTime。


May 0252003

 原節子・小津安二郎麦の秋

                           吉田汀史

優と監督と映画の題名(正確には「麦の秋」ではなく『麦秋』[1951・松竹大船]だが)を並べただけの句だ。しかし、こうして並べるだけで、ある世界がふうっと浮かんでくるのだから不思議だ。その意味で、手柄はやはり並べてみせた作者にあると言うべきだろう。良し悪しや好き嫌いはともかくとして、血縁や地縁などがまだ濃密に個人に関わっていた時代の世界。そこに漂っている静かな空気は、小津が好んだ中流以上の階級のものではあるけれど、常に懐しさと優しさに満ちていて、よくぞ日本に生れけりの感を観客にもたらしたものだった。ご存知のように、小津映画にはさしたるドラマ性はない。『麦秋』は、婚期を逸した原節子(といっても、二十八歳という設定だ)が、周囲の暗黙の反対を押しきって、妻を無くした医師の後添えとして結婚を決意するというだけの話だ。小津は、このようなどこにでもありそな日常をきめ細かく丁寧に描くことで、凡百のドラマ映画をしのぐ劇映画を撮りつづけた。ストーリー性よりもディテールの描写を大切にしたところは、どこか俳句作りに似ていないだろうか。事実、小津は俳句もよくした人であり、百句以上の句が残っている。たとえば「小田原は灯りそめをり夕心」などは、あまりにも小津映画的な句と言ってよいだろう。映画のタイトルに「麦秋」「早春」「彼岸花」「秋日和」「秋刀魚の味」など季節の言葉が多いのも、俳句との仲の良さを色濃く感じさせる。『一切』(2002)所収。(清水哲男)


October 04102003

 遼陽に夜も更けたる声ひとつ

                           山口和夫

季。「遼陽(りょうよう)」は、中国遼寧省の都市。さきごろ日本領事館の門前で、いわゆる脱北者の女性と子供を中国警官が引き戻す出来事のあった瀋陽の南側に位置する。遼・金時代には東京(とうけい)と称した。さて、いま遼陽と聞いて、ある歴史的なエピソードを思い浮かべられるのは、七十代以上の方々だろう。日露戦争時の最初の激戦地だ。ロシア兵23万、対する日本側は14万。日本軍はロシア側の損害を上回る3万人近い犠牲者を出しながらも、勝利する。まさに両軍、血みどろの闘いだった。このときに戦死した一人が橘周太歩兵第一大隊長で、死後は軍神として崇められ、「軍神橘中佐の歌」までが作られ大いに流行したという。前書も注釈もないが、掲句はおそらく、この歌を踏まえていると読む。「遼陽城頭 夜は闌(た)けて 有明月の 影すごく 露立ちこむる 高梁の  中なる塹壕 声絶えて 目ざめがちなる 敵兵の 肝驚かす 秋の風」。突撃命令が下る前の、寂として声も無い緊張の一瞬だ。そして歳月は流れゆき、現代人の作者ははるかなる古戦場に「声ひとつ」を聞いている。その声は、むろんお国のためにと死んでいった兵士の声でなければならない。それも決して勇ましい鬨(とき)の声などではなく、かそけくも悲哀の淵に沈んだ呻きのような苦しげな声である。時は移り人は代わり、もはや忘れられてしまったかつての大会戦の地に、なおも死者の声だけが彷徨っている……。勇ましい軍神の歌を踏まえつつ、作者は反対に戦争の空しさを訴えているのだ。いちおう無季としたが、遼陽の会戦は1904年(明治37年)八月末のことだったので、作者の意識には秋季があったと思う。『黄昏記』(2002)所収。(清水哲男)


October 13102003

 幾何眠く少女が使ふぶんまわし

                           筑紫磐井

季。おお、懐しや「ぶんまわし」。幾何などで円を描くときに使う文具、コンパスのこと。長い間、実際に使ったこともないし、この言葉もすっかり忘れていた。そういえば、他に「分度器」だとか「三角定規」だとかも。学校を卒業してしまうと、生涯無縁になる道具は他にもいろいろとありそうだ。ところで、この「ぶんまわし」という言葉を、私は方言かと思っていた。というのも、最初に使ったのは山口県の中学の時で、そのときはみんな「ぶんまわし」と言っていた。が、東京に出てきたら、誰も「ぶんまわし」と言わずに「コンパス」と呼んでいたからだ。で、この句に出会って念の為にと思い『広辞苑』を引いてみたら、ちゃんと出ていた。漢字には「規」が当てられ、「1・円を描くのに用いる具。コンパス。源平盛衰記37「急ぎ張りける程に―をあしざまにあてて」。2・まわり舞台」[ 広辞苑第五版 ]とある。なるほど、コンパスなる西洋の言葉が入ってくるまでは「ぶんまわし」が一般的で、方言などではなかったのだ。考えてみれば、コンパスに当たる和語があるのは当然である。西洋と接触する以前から、私たちの先祖は道具を使って円を描いていたのだから。さて、掲句。幾何の時間に眠気を払うように、「ぶんまわし」を使っている少女の姿が浮かんでくる。解法など見当もつかないのに、ただ闇雲に「ぶんまわし」をぶんまわしている。この少女像を澁谷や原宿あたりに繰り出してくる女子高生にだぶらせてみると、とても可笑しい。いっぱし小生意気な顔をしているけれど、そうか、学校ではこうやって「勉強」しているのか。まだまだ、可愛いもんだ。セレクション俳人12『筑紫磐井集』(2003)所収。(清水哲男)


October 28102003

 枇杷男忌や色もて余しゐる桃も

                           河原枇杷男

語は無い。無季句だ。もちろん「桃(の実)」は秋の季語だけれど、こういう場合の分類は忌日がメインゆえ、それを優先させる。では「枇杷男忌」が四季のいずれに当たるかということになるわけだが、それが全くわからない。なぜなら、枇杷男は現在関西の地に健在存命の俳人だからである。もっとも彼には「死にごろとも白桃の旨き頃とも思ふ」という句があって、西行の「花の下にて春死なん」じゃないけれど、どうやら桃の実の熟するころに死にたいという希求はあるようだが、希求はあくまでも希求であって確定ではない。勝手に自分の命日を決めてもらっては困る。……とまあ、ここまでは半分冗談だが、けっこうこれは方法的には恐い句だ。中身としては、人の忌日だというのにあまりにも健康そうに熟した桃が、恥じておのれの色艶をもて余している情景である。本当は喪に服して少しは青く縮こまっていたいのに、なんだかやけに溌剌として見えてしまう姿をどうしようもないのだ。おお、素晴らしき善なる桃の実よ。私が恐いというのは、やはり自分の命日を自分で作って詠むというところだ。辞世の句なら生きているうちに詠むのが当たり前だが、たとえ冗談や遊び半分、あるいは悪趣味のつもりでも、そう簡単に自分の命日を詠めるものではない。論より証拠、試してみればわかります。私も真似してみようと思ったけれど、すぐに恐くなって止めてしまった。よほど日頃から自分の死に対して、人生は生きるに値するかの答えの無い命題を真摯に考え、性根が坐っている人でないと不可能だと思われた。その意味で、掲句の方法は作者の生き方につながる文芸上の態度を明確に示したものだと言わなければならない。枇杷男を論ずるに際しては、欠かせない一句だろう。『河原枇杷男全句集』(2003)所収。(清水哲男)


November 21112003

 旅人われに雨降り山口市の鴉

                           鈴木六林男

季句。句とは裏腹に、今回の山口への旅は晴天に恵まれた。山道のあちこちが懐しく何度も立ち止まったが、深閑とした山の中で鴉(からす)の鳴き声が聞こえてきたときにも、思わず足が止まった。鴉の鳴き声など珍しくもないのにと思われるかもしれないけれど、都会の鴉とはかなり違う鳴き声だったからだ。実にのんびりと鳴いていて、気分がよくなる声だった。東京の鴉のように、ケンを含んだ声じゃない。「♪カラスといっしょに帰りましょ」と、歌いたくなるような声とでも言えばいいのか。こんな鴉を東京に移住させたら、苛烈な生存競争にひとたまりもなく敗れてしまうだろうな、などと余計なことも思った。掲句の鴉も、きっと同じようにのんびりとした声だったに違いない。「山口市」は、全国でいちばん辺鄙な場所に位置する県庁所在地だ。わずかに瀬戸内海に接している部分もあるが、山の中という印象がだんぜん濃い「町」である。昔から人口は少なく、現在でも14万人と私の住む三鷹市よりも少ないし、際立った産業があるわけでもない。戦後間もなく、そんな山口市を作者が訪ねたときの句である。わざわざ訪ねたのは、作者が高商時代を過ごした青春の思い出の地だったからだ。それもかつての大戦(フィリピンのバターン・コレヒドール要塞攻防戦に参戦)で九死に一生を得て引き揚げてきた身とあっては、私の呑気な旅などとは思い入れの度合が違うのだ。ただこうした註記が必要なところに、句として普遍性に欠ける恨みは残る。が、山河や建物よりも「鴉(の鳴き声)」に何よりも懐しさを覚えているところに、我が意を得たりの思いがした。たとえ降る雨は冷たかろうとも、青春懐旧の念のなかでは、かぎりなく優しく甘く感じられたことだろう。『荒天』(1949)所収。(清水哲男)


November 22112003

 掻爬了へ女寒がる首飾り

                           田川飛旅子

季句。えっ、「寒がる」とあるから冬の句じゃないの。そう思った読者は、もう一度読み直していただきたい。「掻爬(そうは)」は最近一般ではあまり使われない言葉になってきたが、本義は「組織を掻きとること」で、この場合は人工妊娠中絶を意味している。1975年(昭和五十年)の作。いわゆる性解放が進み、安直な堕胎が社会問題化しはじめたころだったろうか。もぐりの中絶医がはびこっているとも、よく聞いた。私は少年時代に、若い女性の三分の一がパンパンガールだと言われた基地の町近くに住んでいたので、どこからか「掻爬」についてのある程度のことは聞いていた。耳学問と言うのかしらん。そんなことはどうでもよろしいが、この句をはじめて読んだときには、作者は婦人科医かなと思った。掻爬した女性本人はもとより、関係当事者がこんな句を公表するはずはないと思ったからだ。でも、作者は技術者であって医者ではないと、後で知った。では、体験句だろうか、それともまったくの想像句なのだろうか。野次馬根性が動かないわけではないけれど、そんな詮索もまたどうでもよろしい。たった十七音で、これだけの影のあるドラマを描きえた作者の腕前に感心させられる。掻爬までの経緯によって愚かな女とあざ笑われようが、逆に周囲の同情を集めようが、句には術後の女性の哀しみが静かに滲み出ている。手術を「了へ」てやつれた姿のおのれを、なお半ば本能的に飾ろうとする性(さが)の痛々しさ。その象徴としての「首飾り」。見て見ぬふりをしたいところだが、作者は目をそらさなかった。作家魂のなせる業とでも言うべきか。このときに寒いのは外気ではなく、女性の身体と精神そのものだろう。真夏の句と読んでも、いっこうに差支えはない理屈だ。『邯鄲』(1975)所収。(清水哲男)


December 16122003

 一人身の心安さよ年の暮

                           小津安二郎

のとき(1932年)、小津安二郎満三十歳。『生れてはみたけれど』で映画界最高の名誉であったキネマ旬報ベストテン第一位に輝き、将来を大いに嘱望される監督になっていた。しかも「一人身」とあっては、家庭のあれこれを心配する必要もなく、年末なんぞも呑気なもんだ。我が世の春、順風満帆なり。そんな心持ちの句とも読めるけれど、実は自嘲の句である。いまでこそ三十歳独身などはむしろ当たり前くらいに受け取られるが、昔は違った。変人か能無しと思われても、仕方がなかった。私の三十歳のときですら、まだ同じような世間の目があったほどだ。生涯独身であった小津とても、人並みに異性には関心があった。同じ年の句に「わが恋もしのぶるまゝに老いにけり」があるから、片想いの女性が存在したようだ。が、自身日記に書きつけているように、どうも情熱一筋になれない性格であったらしい。すぐに、醒めた目が起き上がってきてしまう。まことに恋愛には不向きで厄介な気質である。そういえば小津映画は、いつもどこかで画面が醒めている。熱中して乗りに乗って撮ったのではなく、あらかじめ用意した緻密な設計図にしたがって撮った感じを受ける。でも実際には設計図にしたがったわけではなくて、天性の醒めた目に忠実にしたがった結果が独特の世界になったと見るべきだろう。あれが彼の乗っている姿なのだ。そんな醒めた目で自分を見つめるときに、落ち着き先は多く自嘲の沼である。年末なんてどうってことない、気楽なものさ。うそぶく醒めた目は、しかし家庭のために忙しく走り回っている人々を羨ましがっているのだ。都築政昭『ココロニモナキウタヲヨミテ』(2000)所載。(清水哲男)


January 1312004

 ピッチャーは冬田の狼 息白し

                           天沢退二郎

作「カムフラージュ」九句のうち。季語が二つ出てくるので、当歳時記ではまとめて「冬」に分類しておく。前書に「以下の九名(ナイン)、野球チームとは世を忍ぶ仮の姿也」とあるから、男の性格や気質、ありようなどを野球のポジションになぞらえて詠んだものだろう。餌を求めて里に下りてきた孤狼一匹、吐く息はあくまでも白く、眼光炯々として獲物を求めている図である。かつての田んぼ野球派としては、投手の気概をさもありなんと感じて、懐しくも力の入る句だ。田んぼ野球からプロ野球まで、投手の性格はこうでなければ勤まらない。「お先にどうぞ」などという優しい性格は、マウンドには不向きである。本当は心優しくても、マウンド上では必死の狼になる必要がある。まだ現役のときの江夏豊に聞いた話だが、彼の肩をいからせてのっしのっしと歩く姿までが、ほとんど演出だった。「そうでもしないと、なめられてしまう」。草野球でも同じである。野球に限らず、そんな演出が必要なポジションは、世の中にいろいろとありそうだ。だから「カムフラージュ」というわけか。作者は知る人ぞ知る野球狂で、とくに少年期に親しんだ職業野球や六大学、都市対抗の選手たちの話を聞いていると、その博覧強記たるや尋常ではない。このごろでは、床についてからふと往時のある球団のセンターのことを思い出し、次に「ではライトには誰がいたか」と思い出そうとして思い出せず、それが原因で寝られなくなるというのだから、これまた尋常じゃない。そんな詩人の詠んだ句である。もう一句。「辛酸を嘗め過ぎ捕手の下痢やまず」。ははは。なにせ相棒は狼なので、気苦労が多いからね。と笑っては、全国の捕手諸君に失礼か。俳誌「蜻蛉句帳」(21号・2003年12月)所載。(清水哲男)


March 1632004

 自分の田でない田となってれんげも咲く

                           三浦成一郎

語は「れんげ(蓮華草・紫雲英)」で春。いまでは化学肥料の発達で見られなくなったが、かつては緑肥として稲田で広く栽培されていた。この季節に紅紫色の小さな花が無数に田に咲いている様子は、子供だった私などの目にもまことに美しかった。春の田園の風物詩だったと言ってもよいだろう。その美しい情景が、もはや「自分の田でない田」に展開している。生活苦から手放した田と思われるが、他の動産などとちがって、売った田や山は、このようにいつまでも眼前にあるのだから辛い。「れんげも」の「も」に注目すると、自分が所有していたころには「れんげ」を咲かすこともできなかったのだろう。どうせ手放すのだからと、秋に種を蒔かなかった年があったのかもしれない。いずれにしても、他人の手に渡ってから美しくよみがえったのである。その現実を突きつけられた作者の胸の疼きが、ひしひしと伝わってくる。戦前の一時期に澎湃として起こったプロレタリア俳句の流れを組む一句だ。五七五になっていないのは、虚子などの有季定型・花鳥諷詠をブルジョア的様式として否定する立場からは当然のことだったろう。プロレタリア俳句の萌芽は、自由律俳句を提唱した荻原井泉水の「層雲」にあったことからしてもうなずける。リーダー格の栗林一石路や橋本夢道、横山林二などは、みな「層雲」で育った。「山を売りに雨の日を父はおらざり」(一石路)、「ばい雨の雲がうごいてゆく今日も仕事がない」(夢道)。掲句が発表されて数年後には京大俳句事件などが起き、言論への弾圧は苛烈を極めていく。俳句を詠み発表しただけで逮捕される。今から思えば嘘のような話だが、しかしこれは厳然たる事実なのだ。自由な言論がいかに大切か。こうした歴史的事実を思うとき、いやが上にもその思いは深くなる。「俳句生活」(1935年7・8月合併号)所載。(清水哲男)


July 0272004

 野外劇場男と女つと立ちて

                           岩淵喜代子

語は見当たらないが、「野外劇場」で催しをやっているのだから、夏と解しておいてよいだろう。近所の井の頭公園に野外音楽堂があるので、ああいうところを連想した。時刻も不明ながら、涼しくなってくる夕暮れ時以降だろうか。作者が催し物を観ていると、目の前あたりに坐っていた「男と女」が「つと」唐突に立ち上がったと言うのである。この「つと」というたった二文字の副詞が実によく効いていて、記憶に残った。「つと」立ったということは、お互いがあらかじめ立つことを示し合わせていたということになる。催しがつまらなかったりして、立とうかどうしようかと逡巡した様子は見えない。示し合わせた時間になったので、催しとは無関係にすぱりと立ち上がったのだ。その上に、この「つと」は二人の関係も暗示しているようである。誰か知っている人に見とがめられると困る関係。いや、二人で見物しているところは見られても構わないのだが、中座するところを見られると困るという事情がある。そんな関係。二人はなるべく早くその場から立ち去りたいので、互いに無言で「つと」立って足早に暗いほうへと消えてゆく。ミステリーめかして言え添えれば、彼らの野外劇見物はアリバイ作りだったのかもしれない。作者はむろん、そんなことをいろいろと思い巡らしたわけではないのだが、「つと」立った「男と女」の後ろ姿に、一瞬自分にも周囲の観客にもなじまない特異な雰囲気を感じて、こう書きとめてみたのだ。あまりにも互いの呼吸が合い過ぎた動作は、秘密裡のそれと受け取られやすく、かえって人目を引いてしまうということになろうか。『かたはらに』(2004)所収。(清水哲男)


July 0972004

 シャツ雑草にぶっかけておく

                           栗林一石路

季句だが、明らかに夏の情景だ。猛烈な炎天下、もうシャツなんて着てはいられない。辛抱しきれずにしゃにむに脱いで、そこらへんの雑草の上に、かなぐり捨てるように「ぶっかけておく」。まるで「ファィトーッ、イッパーツ、○○○○○○ !」みたいなシーンを思う人もいるかもしれないが、句の背景はあんなに呑気なものじゃない。工事現場でツルハシを振っているのか、荒地でクワを振っているのか。いずれにしても、生活をかけた過酷な労働を詠んだ句である。「ぶっかけておく」という荒々しい表現が、酷暑のなかの肉体労働者の姿を鮮明に写し出し、理不尽な社会への怒りを露にしている。失うものなど、何もない。そんなぎりぎりのところに追いつめられた労働者の肉体が、汗みどろになって発している声なき声なのだ。戦前のプロレタリア俳句運動の代表句として知られるこの一句は、現在にいたるもその訴求力を失ってはいない。これが俳句だろうかだとか、ましてや無季がどうしたのとかいう議論の次元をはるかに越えて、この力強く簡潔な「詩」に圧倒されない人はいないだろう。そして詩とは、本来こうあるべきものなのだ。根底に詩があれば、それが俳句だろうと和歌だろうと、その他の何であろうが構いはしないのである。くどいようだが、俳句や和歌のために詩はあるのではない。逆である。『栗林一石路句集』(1955)所収。(清水哲男)


November 27112004

 訣れきて烈火をはさむ火箸かな

                           神生彩史

時記編纂の立場だけから言うと、こういう句は実に困ってしまう。季語はないので無季句にははしておくが、それでよいのかという気持ちが吹っ切れない。どう考えても、この句の季節は冬だからだ。それはともかく、激しい気合いのこもった句である。「訣(わか)れきて」が「別れきて」ではないところに注目しよう。「訣」は「永訣」などというときの「訣」だから、作者は誰かと決別してきたことがうかがえる。憤然として帰宅し、その興奮が醒めやらぬままに、囲炉裏か竃か火鉢あたりの「烈火」を「火箸」で挟んでいる。「火箸かな」の「かな」は、火箸をつかんで怒りにぶるぶると震えている作者の「手元」を想像させ、俳句ならではの表現と言えるだろう。真っ赤に熾った炭火は顔面を焼くほどに強烈だし、普段ならおっかなびっくり慎重に火箸で挟んで移し替えたりするわけだが、このときの作者はがっちりと正面から烈火に向き合っている。訣れの際の、それこそ烈火のごとき感情を引きずっているので、これぞ人の勢いというものなのだ。たぶんフィクションだとは思うけれど、激しい怒りのありようを描いて卓抜である。神生彩史はかつての新興俳句の旗手的存在であり、その新鮮な詠みぶりは同時代の多くの俳人に影響を与えた。もっと広い世界で評価されてよい「詩人」である。『深淵』(1952)所収。(清水哲男)


December 18122004

 クリスマス妻のかなしみいつしか持ち

                           桂 信子

前の句だ。結婚して、何廻り目かの「クリスマス」。気がついてみたら、乙女時代のちょっと浮き浮きするような気分とは程遠くなっていた。結婚前には予測もつかなかった諸々の事情が身辺に生じてきて、もはやクリスマスをロマンチックに捉えることなどできない心境だ。その「かなしみ」。現代とは違い、昔の嫁は様々な社会的なしがらみにしばられていたので、精神的にも自由であることは難しかったろう。ましてや、クリスマスの頃は多忙を極める年の瀬だ。普段以上に何かと負担がかかり、ハッピー・ホリデーなどは完全に他人事でしかない。昔の「妻」が世間をはばからずに休めるのは、年も明けてからの女正月(「小正月」とも。冬の季語)くらいのものであった。ただ、当時は時局も戦争へと雪崩をうっていたので、女正月を祝う風習も形骸化していたのではあるまいか。掲句を詠んでからしばらくして、作者は夫に先立たれている。「夫逝きぬちちはは遠く知り給はず」。珍しい無季の句で、それだけに茫然としている様子が直裁に伝わってくる。また一方では、遠くにいる両親に早く知らせねばと、気丈な気遣いが芽生えているのが哀しい。作者は、一昨日(2004年12月16日)九十歳で亡くなられた。合掌。『月光』(1948)所収。(清水哲男)


March 0132005

 莨火を樹で消し母校よりはなる

                           寺山修司

季句としておくが、高校卒業の日を題材にした句だろう。すなわち「母校はなる」は卒業の意だ。しかし下五を「卒業す」としたのでは、あっけらかんとし過ぎてしまい、青春期の屈折した心情が伝わらない。たぶん作者は、高校生活をかなりうとましく感じていたのだろう。しかし、全部が全部うとましかったわけでもない。こんな学校なんて、とは思っていても、いざ卒業ということになると、去り難い気持ちもどこかに湧いてくる。式典が終了しクラスも解散、後は帰宅するだけというところで、校庭の片隅か裏門のようなところでか、クラスメートからひとり離れて「莨(たばこ)」に火をつけた。制服のカラーのホックを外し、第一ボタンを外して、不良を気取った例の格好で……。で、喫い終わった莨火を消すときに、地面で踏み消せばよいものを、わざわざ「樹」になすりつけたのである。この消し方に、母校への愛憎半ばした粘りつくような心情が込められているわけだ。さらっと「あばよ」とは別れにくい心情を、力技でねじ切るようにして樹に莨火をなすりつけている。このセンチメンタリズムは、たしかに青春のものである。今日は、全国の多くの高校で卒業式が行われる。現代の高校生は、どんなふうにして学校への複雑な思いを表現するのだろうか。いや、そもそも寺山修司のころのように、屈折した心情を抱いている生徒が多くいるのだろうか。現代俳句協会編『現代俳句歳時記・無季』(2004)所載。(清水哲男)


March 0632005

 黄の青の赤の雨傘誰から死ぬ

                           林田紀音夫

季句。人は死ぬ、誰でもいつかは。が、私たちの多くは普段そのことを強く意識して暮らしているわけではない。たまに何かのきっかけがあって、ふっと意識させられることだ。意識させられて、この免れ難い宿命に悲観したり暗澹としたり、あるいは逆に死の万人平等性に安堵したりするなど、そのときその人にとっての反応はさまざまだ。作者のきっかけは、雨の道でだった。読者諸兄姉は、どんな情景を思い浮かべるでしょうか。キーは「黄の青の赤の雨傘」。これを、他に黒もあれば茶もあるというふうに色とりどりの傘と読むか、あるいはこの三色の傘に限定して読むかによって、解釈は異なってくる。私は後者と読んで、傘をさしているのは小学生くらいの女の子だと想像した。色とりどりだと、老若男女すべてが含まれてしまい、ポエジーに鋭さが欠けてしまう。おおかたは歳の順番さ、みたいな答えを出されてもつまらない。雨の道で前を行く三人の女の子、まだこれからたっぷりの時間が残されている幼い三つの命。傘の色が違うように、これからそれぞれの人生も違っていくわけだが、しかし終局的には死の一点において行きつく先は同じである。ただ、お互いの死が早いか遅いかの違いは確実にある。その違いに着目したとき、作者は言い知れぬ人間存在の寂しさを感じたのだ。そんな作者の思いなどもちろん知るはずもなく、元気に屈託なく歩いてゆくちっちゃな三人の女の子……。現代俳句協会編『現代俳句歳時記・無季』(2004)所載。(清水哲男)


March 1032005

 戦争展煤け福助畏まり

                           森 洋

季句。60年前の今日の東京大空襲、午前0時8分の深川空襲からそれははじまった。米軍の下町焦土作戦はこうだった。まず先発隊が焼夷弾を落して、大きい炎の四角形を描く。後続隊はその四角形のなかを、まるでジグソー・パズルでも埋めていくように、少しの隙間もできないように炎で満たしたのである。2時間半の爆撃によって東京下町一帯は廃墟と化した。約2000トンの焼夷弾を装備した約300機のB-29の攻撃による出火は強風にあおられて大火災となり、40平方キロが焼失、鎮火は8時過ぎであった。焼失家屋は約27万戸、罹災者数は100万余人に達した。死者は警視庁調査では8万3793人、負傷者は同じく4万0918人となっている。資料によって差異が大きいが、「東京空襲を記録する会」は死者数を10万人としている。何度も書いたことだが,七歳の私はその四角形の外側(中野区)で真っ赤に灼けた空を眺めていた。空襲の夜空は何度も見たけれど、あの夜の異常な色彩はとくによく覚えている。地獄絵で見るような色だった。掲句がこの空襲と関係があるのかどうかはわからないが、そんな戦禍のなかで焼け残り煤けた福助が展示してあるのだろう。酷い目に遭いながらもなお膝も崩さず「畏(かしこ)ま」っている福助人形は、その謎めいた微笑の下で,人間の愚かさをあざ笑っているようにも思えてくる。現代俳句協会編『現代俳句歳時記・無季』(2004)所載。(清水哲男)


April 0942005

 俳諧はほとんどことばすこし虚子

                           筑紫磐井

季句。私の理解として、句の「俳諧」は「(現代)俳句」と同義だと読んでおく。口うるさく言えば「俳句」は「俳諧の発句」の独立したものだから、同義ではないけれど、句意からして、作者はそれこそ「ほとんど」同義としていると思われる。有季定型句への痛烈な皮肉だ。そう読む人も多いはずだが、ここには皮肉を越えて俳句表現の根底に関わる真摯な問題意識が含まれていると読めた。ヘボ句しかできない私を含めて、多くの有季定型句詠みは、こう言われてしまうとグウの音も出ないからだ。簡単に言ってしまうと、私なら私が自作を「句になった」と思うとき、その「なった」という根拠はたいていが「虚子すこし」というところに依存しているのではあるまいか。逆に、「ほとんど言葉」において「なった」という意識は稀薄だろう。つまり虚子的なるもの、予定調和的に働く季語だとか、あるいは花鳥諷詠の境地だとかに寄りかかってはじめて「なった」と感じているのではないか。したがって、このときに「ほとんど言葉」はどこかに置き去りになってしまう。でも、自己表現を自立させるためには、「虚子すこし」を担保にしては駄目なのだ。戦前の新興俳句や戦後の社会性俳句は、まさにこの点に着目して虚子を否定したのだったが、いつしかまたぞろ虚子を保険にしたような俳句が跋扈している。楽しみで詠めるのも俳句の良いところではあるけれど、その楽しみは可能な限り自分の言葉で語ってこそである。私たちはこのあたりで、「句になった」と判断する自分の物差しを疑ってみる必要がありそうだ。舌足らずに終わってしまうが、詳細については他日を期したい。現代俳句協会編『現代俳句歳時記・無季』(2004)所載。(清水哲男)


April 1442005

 玉浮子を引き込むものもこの世なり

                           つぶやく堂やんま

季句。作者は釣りをよくする人のようだが、こういう句は頭の中で作れそうでいて、そう簡単にはいかないだろう。やはり、実際に何度となく釣った経験のなかから、生まれるべくして生まれた思いなのだ。というのも、傍目で釣りを見ている人には、ぐぐっと浮子(うき)が引き込まれたときに、「やった」という思いくらいしか湧いてこないからだ。釣り人にもむろん「やった」の思いはあるけれど、しかし傍目の人とは違って、釣る人には「やった」の前のプロセスがある。いっかな引き込まれない浮子を辛抱強く見つめているのもその一つであり、むしろかかった瞬間よりも、その間のことを釣りと言ってもよいくらいだ。このときに浮子は、水面下の世界とのいわば対話の道具となる。釣り人は全神経を集中して浮子をみつめ、水の中で何が起きるのか、あるいは起こらないのかを知ろうとする。そうしているうちにだんだんと、傍目の人には別世界でしかない水中が、親和的な「この世」のように溶け込んでくる感じになる。そして突然、ぐぐっと浮子が引き込まれたとき、引き込んだ魚はまさに「この世」の手応えを伝えるのであり、それは「この世」そのものが引いたと同義に近くなっている。すなわち、「この世」が「この世」を引き込むのだ。カラフルで可愛らしい「玉浮子」だけに、クライマックスの怖いほどの思いが強く印象づけられる。『つぶやっ句・ぼんやりと』(1998・私家版)所収。(清水哲男)


August 2082005

 だけどこの子は空襲で死んだ草

                           小川双々子

季句だが、夏を思わせる。「空襲」ののちの敗戦は、折りしも「草」生い茂る夏のことだったからだろう。掲句を含む連作「囁囁記」のエピグラフには、旧約聖書「イザヤ書」の次の一節が引かれている。イザヤは、キリスト生誕の700年以上前に登場した預言者だ。「人はみな草なり/その麗しさは、すべて野の花の如し/主の息その上に吹けば/草は枯れ、花はしぼむ。/げに人は草なり、/されど……」。すなわち「囁囁記」の諸句は、このイザヤの言の「されど……」を受けたかたちで展開されている。なかでも掲句は,「されど」を「だけど」と現代口語で言い直し,言い直すことで、草である人の現代的運命の悲惨を告発している。「子」は小さい子供というよりも、「神の子」たる人間のことを指しているのではなかろうか。作者の父親は空襲の際、防空壕のなかで窒息死している。その父親がまず,作者にとっての「この子」であると読むのは自然だろう。たとえそうした背景を知らなくても,引用されたイザヤの言葉を頭に入れていれば、「子」が「空襲で死んだ」個々人に及んでいると読めるはずである。ちなみにイザヤ書の「されど……」以下の部分は、こうだ。「我らの神の言葉は永遠に立つ」。キリスト者である作者はこの言を受け入れつつも,しかしなお「だけど」と絞り出すようにして書きつけている。やがては枯れる運命も知らぬげに、いま盛んな夏草の一本一本が,掲句によってまことにいとおしい存在になった。『囁囁記』(1998・1981年の湯川書房版を邑書林が再刊)所収。(清水哲男)


August 2682005

 母許や文武百官ひきつれて

                           鈴木純一

季句。「母許」は「ははがり」と読む。「許(がり)」は「(カアリ(処在)の約カリの連濁。一説に、リは方向の意) 人を表す名詞や代名詞に付いて、または助詞『の』を介して、その人のいる所へ、の意を表す。万葉集14『妹―やりて』。栄華物語浦々別『夜ばかりこそ女君の―おはすれ、ただ宮にのみおはす』[広辞苑第五版]。掲句は要するに、権力の座にすわった男が,文武百官をひきつれて母親の許(もと)にご機嫌伺いに戻ったというのであるが、なんとなく現今の二世議員を想像させられて可笑しい。「私はこんなに出世しましたよ、お母さん」というわけだ。でも、微笑ましいと思ってはいけないだろう。なにしろ文武百官をひきつれての里帰りだから,当然この間の政治的空白は免れないからだ。父の選挙地盤を受け継ぎ,その父を実質的に仕切っていた母に頭の上がらぬ男の幼児性は、私たちが知っている権力者の誰かにも当てはまりそうで、冷や冷やさせられる。そしてまた、この文武百官たる連中がことごとくイエスマンであることも困りもの。中国の「鹿をさして馬と為す」の故事を持ち出すまでもなく、意見の相違する者を排除してゆく姿勢は、案外と子供っぽい人間性に存するというのが私の見方だ。「鹿」を「馬」だと言い張った権力者・趙高と、嘘と知りつつそれに従った百官たちもろとも、始皇帝亡き後の秦があっという間に滅んでしまったのはご承知の通りである。『平成物語 オノゴロ』(2005・豈叢書2)所収。(清水哲男)


October 02102005

 つかれはてて肉声こぼるや酒光る

                           成田三樹夫

季句。雑誌「en-taxi」(2005年11月号)が、「『七〇年代東映』蹂躙の光学」という特集を組んでいる。シリーズ「仁義なき戦い」などで人気を博した時代の東映回顧特集だ。そんな東映実録物路線のなかで、敵役悪役としてなくてはならぬ存在が、句の作者・成田三樹夫であった。クールなマスク、ニヒルな演技にファンも多かった俳優である。惜しくも五十五歳の若さで亡くなってしまったが、没後に句集が出ていることを、同誌で石井英夫が紹介していた。なかに掲句があるそうだが、作者が俳優とわかると、やけに心に沁みてくる。やっと仕事が終わってホッとした酒の席で、「つかれはてて」いたために、思わずも「肉声」をこぼしてしまったと言うのだ。このときに肉声とは、作者の地声でもあり本音のことでもあるだろう。俳優とという職業柄、人前ではめったに地声を出すことはないし、ましてや本音を洩らすこともない。それが、ぽろりと出てしまったのだ。肉体的にも精神的にも弱り切った様子が、これも少しはこぼしてしまったのであろう「光る酒」に刺し貫かれるようにして露出している。石井の文章には作者へのインタビューも紹介されていて、こうある。「ゴルフもやらなきゃマージャンもできない。およそ役者のやるような趣味は何もできません」。ストレス過剰も当然だったと言うべきか。次の句にも、常に張りつめていた人の気持ちがよく現われている。「一瞬大空のすき間あり今走れ」。遺稿句集『鯨の目』(1991・無明舎出版)所収。(清水哲男)


October 08102005

 通帳にらんで女動かぬ道の端

                           きむらけんじ

季句。この「女」のひとにはまことに失礼ながら、思わず吹き出しそうになってしまった。たったいましがた、銀行で記入してきたばかりの「通帳」なのだろう。記入したときにちらりと目を走らせた数字があまりに気になって、家まで見ないでおくことに我慢ができず、ついに「道の端」で開いてしまった。むろん、残高は予想外の少なさである。どうして、こんなに少ないのか。何度も明細を確かめるべく、彼女は身じろぎもしない。不動のまま「にらんで」いる。世の中には、本人が真剣であればあるほど、他者には可笑しく思われることがある。これも、その一つだ。道端で通帳をにらむという、そうザラにはない図を見逃さなかった作者のセンスが良く生きている。掲句はたまたま五七五の定型に近いが、作者は自由律俳句の人だ。第一回「尾崎放哉賞」受賞。「煙突は立つほかなくて台風が来ている」「職の無い日をスタスタ歩く」「妻よ南瓜はこの世に必要なのか」など。いずれも、ユーモアとペーソスの味が効いている。ところで「自由律俳句」についてだが、放哉や山頭火などの流れのなかの句は、たしかに伝統的な定型句とは異なる「律」で詠まれてはいる。けれども、こうした自由律にはまたそこに確固とした独自の定型的な「律」があるのであって、これを「自由な律」と称するのは如何なものかと思う。何か他に、適当な呼称を発明する必要がありそうだ。『鳩を蹴る』(2005)所収。(清水哲男)


October 29102005

 震度2ぐらいかしらと襖ごしに言う

                           池田澄子

震度
季句。「襖(ふすま)」は冬の季語だが、地震は何も冬に限らない。句は、家人との会話だ。揺れたのだが、ほどなくして治まった。腰を浮かすほどの揺れでもなかった。やれやれと「襖ごしに」、いまのは「震度2ぐらいかしら」と問いかける。問いかけるのだが、別に答えを求めているわけではない。たいした揺れではなかったと、むしろ自己納得のための独白に近い。襖ごしの部屋にいる人も「ああ」とか「そうだな」とか、適当に相槌を打ったことだろう。会話とも言えない会話。家族間では、けっこう頻繁だ。だから掲句は、読者のそんな思い当たりを誘って、微笑を呼ぶのである。それにつけても、この「震度」という数字を伴った用語は、短期間によく浸透したものだ。それまで体感的に「弱震」だとか「中震」だとか言っていたのを、気象庁が1996年(平成八年)から今のように十段階の数字として発表するようになった。以後、まだ十年も経っていない。浸透したのは、やはり数字のほうが明晰だからだろうか。でも、考えてみれば、この明晰さは地震計のものであって人間のそれではない。なのに私たち人間までが、むろん私もだが、掲句のように体感を数値化しようとする。つまり、気象庁の発表よりも早く数値化することで、早く落ち着きたいのである。厳密に言えば、できない相談をやっていることになるわけで、そんなところにもこの句から何とはない可笑しさが滲み出てくる所以があるのだろう。図版は気象庁のHPより。皮肉にも、地震計でないと震度をきちんと数値化できないことがよくわかる絵だ。『たましいの話』(2005)所収。(清水哲男)


November 16112005

 水風呂に戸尻の風や冬の月

                           十 丈

語は「冬の月」。この寒いのに「水風呂」に入るとは、なんと剛胆な人かと驚いたが、いわゆる「みずぶろ」ではなかった。柴田宵曲の解説を聞こう。「水風呂というのはもと蒸風呂に対した言葉だ、という説を聞いたことがある。橋本経亮などは、塩浴場に対する水浴場ということから起こったので、居風呂(すえふろ)という名は誤だろうといっている。いずれにしても現在われわれの入るのは水風呂のわけである。この句もスイフロで、ミズブロではない」。そうだろうなあ、いくらなんでもねえ。だとしても、寒そうな入浴だ。たてつけが悪いのか、風呂場の「戸尻(とじり)」が細く透けている。そこから冷たい冬の風が吹き込んできて、煌煌と照る月も見えている。冬の月は秋のそれよりも美しいとはいうけれど、この場合に風流心などは湧いてこないだろう。寒い思いが、いや増すだけである。昔の冬の入浴は、楽ではなかったということだ。と言いつつも、実は私の心には、この程度ではまだ極楽だなという思いはある。というのも、田舎にいたころの我が家の風呂には、戸尻の隙間どころか、屋根も壁もなかったからだ。まさに、野天風呂であった。夏など気温の高い季節ならともかく、冬には往生した。雪の降るなか、傘をさして入ったこともある。寒風に吹きさらされての入浴などはしょっちゅうで、あれでよく風邪をひかなかったものだと、我がことながら感心してしまう。「あおぎ見る星の高さや野天風呂」。当時の拙句であるが、まったく切迫感がない。温泉にでもつかっている爺さんの句のようで、いやお恥ずかしい。柴田宵曲『古句を観る』(1984・岩波文庫)所載。(清水哲男)


December 25122005

 折鶴は紙に戻りて眠りけり

                           高橋修宏

季句。しかし、何となくこの季節にふさわしいような気がする。「折鶴」のかたちに折られていた折り紙が、その形を解かれて「紙」に戻り、いま静かに眠っていると言うのである。この繊細なセンスは素晴らしい。ただの四角い一枚の紙が、鶴に折られると、もうただの紙ではない。形が与えられるばかりではなく、その形には折り手の願いや祈りも込められる。千羽鶴のためならなおさらだが、そうではなくとも、少なくとも鶴らしくあってほしいと願われるとき、折鶴にはそのようであらねばならぬという役割が生ずるわけだ。したがって、鶴の形をしている間は、寝ても覚めてもただの紙であることは許されず、常に鶴でありつづけなければならない。そこにはもとより、一枚の紙から鶴になった喜びもあるだろうが、その喜びと背中合わせのように、やはり役割を演じつづけるための緊張感がつきまとう。疲れるだろうなと、思う。そしてこのことは、私たち人間が役割を持つときとよく似ているなとも、思う。いや、逆か。社会的に役割を持つ人間が見るからこそ、折鶴のさぞやのプレッシャーを察するというのが順序だろう。ともあれ、そんな折鶴もいまは形を解かれ、残っている折り線がわずかに鶴であったことを示すのみで、羨ましいくらいに安らかに眠っている。これが、死というものだろうか。露骨ではないにしても、たぶん掲句は小さな声でそう問いかけているのである。『夷狄』(2005)所収。(清水哲男)


March 0832006

 雄鶏の一歩あゆめば九十九里

                           村井和一

季句。うわあっ、とてつもなくでっかい「雄鶏」の出現だ。「一歩」の幅が「九十九里」もあるニワトリだなんて。と、仰天する人は、実はいないだろう。誰もが、「九十九里」が地名であることを知っているからだ。実際には、この雄鶏は九十九里で飼われているわけで、一歩もあゆまなくとも、そこは九十九里なのである。けれども、作者があえて地名を実際の距離に読み替えてみることで、眼前の雄鶏がいきなりゴジラ以上に巨大になってしまったのだ。想像するだに、ものすごい。遊び心の旺盛な楽しい句だ。句集の解説者・大畑等によれば、作者の句作の源にあるのは、落語と雜俳(ざっぱい)だという。「蕪村や芭蕉ではなく雜俳なのである。一見、低俗粗悪の価値観と見なされているこのことばにこそ作者の方法がある」。さも、ありなん。機会を見て他の句も紹介したいが、「自分の人生を俳句でなぞるようなこと」や「俳句を人生の足しに」したくないと言う作者の面目躍如たる句がふんだんにある。だが、正直に言って,いまの俳句界の趨勢からすると、こうした句はなかなか受け入れられないだろう。その根拠をたどれば、明治国家の性急な近代化路線にまで行き着くが、大畑も指摘しているように、現在にまで及ぶ子規の俳句革新運動が切り捨てたもののなかに、こうした雜俳的遊びの精神も含まれていた。以来、この国の俳人たちは急に糞真面目になり、にこりともしなくなってしまったのだ。俳句ばかりではなく、日本文学からほとんど笑いや楽しさが消えてしまった状態は、私たちの日常生活に照らすだけでも、ずいぶんと変てこりんであることがわかる。『もてなし』(2005)所収。(清水哲男)


May 1152006

 行く道も気づけばいつか帰り道

                           高野喜久雄

季句。作者は鮎川信夫、田村隆一らと同じ「荒地」の詩人で、この五月一日に七十八歳で亡くなった。訃報に接して、高野さんがホームページを持っておられたことを思い出し、行っていろいろと読んでいくうちに、掲句を含む「寒蝉10句」を見つけたのだった。決して上手な句ではないけれど、亡くなられた現実を背景にして読むと、切なさがこみあげてくる。自分では希望を抱いて前進してきたつもりの道が、「気づけばいつか帰り道」だったとは……。一般的には、高齢者によくある感慨の一種とも取れようが、よく知られた初期詩編の「独楽」に書かれているように、このような「気づき」は若い頃からの作者に特有のものだった。「独楽」全行を引いておく。「如何なる慈愛/如何なる孤独によっても/お前は立ちつくすことが出来ぬ/お前が立つのは/お前がむなしく/お前のまわりをまわっているときだ//しかし/お前がむなしく そのまわりを まわり/如何なるめまい/如何なるお前の vieを追い越したことか/そして 更に今もなお/それによって 誰が/そのありあまる無聊を耐えていることか」。そして、もう一句。この詩をもっと作者自身に引き寄せて書けば、こういうことになるのだろう。「彫りながら全てを木屑にかえす朝」。……ご冥福をお祈りします。合掌。「高野喜久雄HP・詩と音楽の出会い」所載。(清水哲男)


May 1252006

 目覚めるといつも私が居て遺憾

                           池田澄子

季句。その通りっ、異議なしっ。「私」は邪魔くさい、「私」は面倒だ。「目覚める」ことは我にかえることだからして、毎朝「我」の存在にに気づかされる「私」は、それだけでもう、かなり疲れてしまう。「私」だから満員電車に乗って会社や学校に行かなければならないのだし、「私」だからみんなのパンを焼いたりゴミを出したりしなければならないのだ。この事態は、まことにもって極めて「遺憾(いかん)」なことではないか。「遺憾」とは、「思い通りにいかず心残りなこと。残念。気の毒」[広辞苑第五版]の意だ。この言葉は政治家の無責任な常套語みたいになっているので、その感じで読めば、掲句は滑稽な感じにも読める。だが、ある長患いの人が言っていた。「朝になると、病人の自分に嫌でも気づかされるんですよ。で、がっかりするんです。眠っている間に見る夢は、元気な時代のものが多くて、とても楽しいのに」と。また、ある高齢者は「夢の中ではスタスタと歩いている自分がいるんです。でも、目が覚めるとねえ……」とつぶやいた。こうした読者にとっては、掲句はとても切実で、切なく真に迫ってくるだろう。作者の池田さんには、早起きは苦手だとうかがったことがある。なにも好きこのんで、朝っぱらから「遺憾」な思いをすることはない、ということからなのだろう(か)。『たましいの話』(2005)所収。(清水哲男)


May 1952006

 日をにごり棒で激しくたたく鶏

                           高岡 修

季句。ただ「日をにごり」という措辞からすると、梅雨時の蒸し蒸しとした午後の一刻がイメージされる。むろん、想像句だろう。決して愉快な句ではないけれど、この情景も人間の持つ一面の真実を表現している。どろんとした蒸し暑さのなかで、不意に湧いてきたサディスティックな衝動。その衝動のおもむくままに、そこらへんにいた罪もない無心の「鶏(とり)」を棒で激しくたたいている。そして、このこと自体はフィクションであっても、「たたく」という行為は覚えのあるものなので、句のイメージのなかに入り込んだ作者は、自分の発想に惑乱しているのだ。鶏相手の打擲(ちょうちゃく)だから、力の優位性は一方的なのであるが、一方的であればあるほど、たたく側に生まれてくるのは一種の恐怖心に近い感情である。少年時代に短気だった私はよく腹を立て、小さくて弱い子をたたいたこともあるので、たたいているうちに湧いてくる恐怖心をしばしば味わった。凶暴な自分に対する恐れの気持ちも少しはあるが,それよりもこのまま狂気の奈落へと転落してしまいそうな、曰く言い難い滅茶苦茶な心理状態に溺れていきそうな恐怖心だった。掲句は、そうしたわけのわからない人間の感情的真実を、一本の棒と一羽の鶏とを具体的に使うことで、読者に「わかりやすく」手渡そうとしているのだと読んだ。『蝶の髪』(2006)所収。(清水哲男)


August 1182006

 昆虫のねむり死顔はかくありたし

                           加藤楸邨

虫は「こんちゅう」と読み、死顔は「しにがお」と読む。昆虫は、季題「虫」とは本意から言っても、ここで用いられた意味から言ってもまったく異なる。これはあくまで、昆虫一般であり、その意味では、この句は無季の句である。この句、1946年(昭和二十一年)の作。終戦直後の混乱が世を覆う中、この年、楸邨自身は中村草田男から公開質問状「楸邨氏への手紙」を示され戦中の俳人としての動向について戦争責任を問われる。当時の楸邨の暗い心の風景がこの句に映し出されている。しかし、そういう「知識」を捨ててこの一句にあたるとき、あらゆる昆虫のさまざまな顔がしずかに浮び上がり、作者の「かくありたし」の願いが切実に読者に迫る。「もの」のリアルから発するということが何よりも大切で、その実感を生かすためには、季題もリズムも定型も独自のかたちに変えることを辞さないという楸邨の優先順位が見えてくるのである。句集『野哭』(1948)所収。(今井 聖)


October 05102006

 運動会の地面をむしろ多く見る

                           阿部青鞋

の頃は一学期のうちに終えてしまう学校も多いようだが、運動会といえば九月末から十月にかけて行われるのが相場。朝早くから学校に出向いて観客席を確保した経験を持つ人も多いのではないか。茣蓙やビニールシートをコーナーぎりぎりに広げたので、駆けて来る子が勢いあまって観客席に飛び込むハプニングもあった。地べたに座り込んで競技を追う目線を思うと「地面をむしろ多く見る」という捉え方はもっともで、そう言われて初めて土を蹴立てて走ってくる日焼けした脚や、スタートラインに並ぶ運動靴、競技と競技の合間のがらんとしたグラウンドなどが、現実味を帯びた記憶として甦ってくる。運動会を詠むのに運動会の高揚した気分や競技ではなく冷たい地面に着目する。「むしろ」という比較表現でその上に展開している情景を暗黙のうちに立ち上がらせる手腕。青鞋(せいあい)の句は固定観念にとらわれた見方をすっとずらし、在るがままの風景を見せてくれる。「水鳥の食はざるものをわれは食ふ」「ゆびずもう親ゆびらしくたゝかえり」『俳句の魅力』(1995)所載。(三宅やよい)


October 20102006

 古仏より噴き出す千手 遠くでテロ

                           伊丹三樹彦

季の句。「仏」の持つ従来の俳句的情緒を逆手にとって、情況に対する危機感を詠じた。海の彼方の国のテロが、瞬時に我々の現実となり得る現代をこの句は描いている。作者は日野草城主宰誌「青玄」に参加、草城没年(1956)に主宰を継承。「青玄」は、2005年に創刊六百号を迎えたあと、本年一月に終刊した。草城の拓いた同時代詩としての俳句の在り方を継いで、作者は現代語による表記を標榜。現代語の多様性がもたらす切れの位置の複雑さを、作り手の側から明確に示すために「分かち書き」を提唱、雑誌全体で実践してきた。「千手」と「遠く」の間の空白の一マスがそれである。同じ無季の句でやはり状況を詠った「屋上に洗濯の妻空母海に」(金子兜太)と並べて置いてみると、日常に隣接している暴力即ち「政治」を描くに当って、まず視覚的な構成から入る兜太作品に比べ、この句は、「仏」の持つ聖性が、むしろ観念としてテロを相対化していることがわかる。いわゆる「人間探求派」と「新興俳句派」という、両者の出自に関わる違いと言えなくもない。観念派と目される「人間探求派」が実は視覚的現実に重きを置き、「新興俳句派」のイメージや言葉が実は従来の俳句的情緒を梃子にしていることがうかがえる。二人とも俳句の新しい可能性を拓くために固定的な手法と闘ってきた現代俳句の闘将である。『樹冠』(1985)所収。(今井 聖)


October 23102006

 鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ

                           林田紀音夫

季句。難解な作品の多い紀音夫句のなかでは、比較的わかりやすい一句だ。この句が有名になったのは、むろん「鉛筆の遺書」の思いつきで、世間の抱く漠然たる遺書への固定観念をくつがえしてみせたからである。遺書を筆で書くか、せめて万年筆で書くか。世の中ではなんとなくそう思われているようだし、作者もそう思っていたのだが、いざ自分を書く身に置いてみたら、どうもいつまでも残りそうな墨痕淋漓の書き物などと自分の思いとはつり合わない。少しだけ書き残したいことはあるのだけれど、かといってそれは子々孫々にまで伝えたいというほどのことじゃない。加えて、自分のような存在は、死んだらすぐにも忘れて欲しいという気持ちがある。そこで「鉛筆」書き「ならば」という仮定が生まれたというわけだが、いまこれを書いている私の目の前には、先日亡くなった松本哉からの葉書が貼ってある。二十年近くも前のもので、彼の絵に短い文章が添えられた「絵葉書」だ。気に入って貼ってあったのだが、先日葬儀から戻ってしみじみと見てみようとしたところ、絵はかすれ気味ながら残っているのに、文字はすべて消え去っていることに気がついた。毎日漫然と見ていたので、迂闊なことにいつごろ完全に消えたのかは定かではないけれど、その文字はまさに「鉛筆」で書かれていたのは記憶している。林田紀音夫の予測通りに、鉛筆の字は消えてしまうのである。超微細な砂粒と化して、時々刻々とそれらの文字たちはおのれを削り落としていたのだ。そんなわけで鉛筆書きの文字の実際の消滅を前にして、ふっと揚句を思い出し、その発想の奇ならざることを思うと同時に、作句時の作者の一種暗い得意の気分もしのばれたのであった。『林田紀音夫全句集』(2006)所収。(清水哲男)


November 09112006

 生き急ぐ馬のどのゆめも馬

                           摂津幸彦

調の無季句。「馬のどのゆめも馬」と、反復のリズムが前のめりに断ち切られ「生き急ぐ」不安そのものを表している。家畜としての馬が生活の周辺から消えた今、馬と言えば走る宿命を負わされた競走馬だろう。数年前の秋の天皇賞、稀代の逃げ馬と称されたサイレンススズカははるか後方に馬群を引き離す天馬のような走りを見せたものの4コーナー手前で減速、ついには立ち止まってしまった。前脚の骨が砕けたのだ。走るために改良されたサラブレットは骨折すると生きてはいけない。予後不良と診断されたサイレンススズカは翌日命を絶たれた。彼ばかりでなくどの競走馬も常に死の影を引きずっている。厳しい戦いを勝ち抜いても、引退後生き残れる馬は一握りにすぎない。「生き急ぐ」宿命を背負わされた馬は馬群にあれば先行馬に追いすがり、トップにたてばひたすら逃げ続けるしかない。「馬」と「馬」の字面に挟まれた厩舎でのつかの間の眠り。夢に放たれてもなお馬は馬と競い合っているのかもしれない。作者は直観的に掴み出した馬のイメージを俳句に投げ入れることで、その背後にある実像まで描いてみせた。この句に漂う哀愁は馬の哀しみでもある。摂津は四十九歳で急逝。今年は没後十年にあたる。『摂津幸彦全句集』(1997)所収。(三宅やよい)


November 15112006

 胸張つて木枯を呼ぶ素老人

                           佐藤鬼房

かにも鬼房。「素老人」は「すろうじん」であろう。鬼房には生前一度だけ、中新井田でお会いしたことがある。手書きの名刺を、緊張しながらおしいただいた。白い長髪を垂らして毅然とした痩躯の風貌は、氏の俳句から私が勝手に抱いていたイメージを裏切るものではなかった。まさしく「胸張つて」木枯でも炎暑でもやってこい、といった強い印象を与える「素老人」であった。もちろん奢っていたわけではない。“社会性俳句”や“新興俳句”など、この際どうでもよろしい。「素」になった老人にとって、木枯も寒冷も炎暑も恐るるにたりない。「素老人」は強引に「素浪人」に重ねても許されるだろう。逃げも隠れもせず、敢然として木枯を「呼ぶ」というふうに、激烈なものと向き合っているのだ。だからといって、嫌味のある老獪ぶりを誇示しているわけではなく、同時に己れを厳しく鼓舞している。ドラムを叩いて嵐を呼ぶ湘南あたりのアンちゃんがかつていたけれど、やからとはまったく別の、北の重心の低さ確かさがしたたかに感じられる。鬼房の第一句集『名もなき日夜』(1951)の序文で、西東三鬼は「鬼房は彼の詩友達と遠く離れゐて、極北の風と濁流に独り立つ。風化せず、押し流されず独り立つ」とすでに書いていた。鬼房は「極北の風と濁流」を貫き、みちのくで終生独り立ちつづけた、愚直なまでに。「切株があり愚直の斧があり」という代表句があるが、おのれをも「愚直の斧」たらしめて生きぬいた。掲句は1991年の作。句集『瀬頭』拾遺三句のうちの一句として、第十一句集『霜の聲』紅書房(1995)巻末に収められた。(八木忠栄)


November 22112006

 枯山を巻きとる祖母の糸車

                           安藤しげる

車は正確には糸繰車、糸取車などと呼ばれる。綿や繭から糸を紡ぎ出し、竹製の軽い大きな車を手で廻しながら巻きとっていく。子供の頃、うちでも祖母が背を丸めて、眠たそうな様子でよく糸繰りをしていた。左手の指先から綿を器用に細い糸状に紡ぎ出し、右手で廻す車で巻きとる。じっと見ていると、まるで手品のようで不可思議だった。今はもうどこでも用無しになってしまい、民俗資料館にでも行かなくてはお目にかかれない。わが家ではその糸を染め、手機(てばた)で織りあげて野良着や綿入れを、祖母や母が自分たちで縫いあげていた。しげる少年もおばあちゃんの糸繰り作業に目を凝らしていたことがあるのだろう。野山はもう枯れ尽きている。黙々とつづけられているおばあちゃんの作業は、寒々とした深夜までつづく――としてもいいだろうが、枯山は目の前に見えていたい。私は冬の午後日当りのいい部屋か縁側で、好天に誘われるようにのんびりあわてず、おばあちゃんがクルリクルリと車をまわしていて、近くに見えている枯山までが、一緒に巻きとられてゆくような、そんな夢幻めいた錯覚を楽しんでいたい。指先から繰り出される小さな作業だが、枯山までも巻きとるという大きさがこの句の生命である。巻きとられることで、さびしい枯山も息を吹き返してくるようにも感じられる。しげるには「高炉火(ろび)流る視野えんえんと枯芒」「螺子(ねじ)の尾根を妻子を連れて鉄工ゆく」など、職場の製鉄所を詠んだ力強い骨太の句が多い。今井聖が句集に寄せて「重い」とも「時代との格闘の痕」とも記している点が頷ける。掲句は「糸車」の軽さのなかに、重たい「枯山」を巻きとってみせた。句集『胸に東風』(2005)所収。(八木忠栄)


November 23112006

 きょうは顔も休みだ

                           岡田幸生

日は勤労感謝の日。祝日法の規定によると「勤労をたっとび、生産を祝い、国民互いに感謝しあう日」らしいが、能力主義のはびこる今の世の中、毎日喜びをもって働いている人がどのくらいいるだろう。家族のため、生きるため、気にそぐわない職を続けている人も多いのではなかろうか。仕事に身をすり減らす日常を離れて本来の自分に立ち返れるのが週末の休みや今日のような祝日だろう。1962年生まれの作者は「短い言葉で世界を穿つ」魅力に惹かれ、感覚とひらめきで作る自由律俳句を始めたという。句集に収められた作品は韻律も形も様々だが、掲句の場合、きょうは/(2・1)/顔も(2・1)/休みだ(2・2)と三節に分かれ、2音と1音の反復、最後は2音の連続のリズムに落ち着く形で内容が凝縮されている。「きょうは」という限定で普段は毎日出勤して緊張を強いられた生活を送っている様子が、「顔も」という表現で心身ともにのびのび開放して休みを楽しんでいる気分が伝わってくる。休日の電車で、通勤時に見かけるサラリーマンがセーターにジーパンのラフなスタイルで家族と並んで座っているのに出くわすことがある。スーツに身を固め会社に向う緊張した面持ちとは違う和やかな表情。きっと顔も休みなのだろう。四六時中、仕事に追われている人たちにとって今日が祝福の一日でありますように。『無伴奏』(1996)所収。(三宅やよい)


December 04122006

 白鳥来る虜囚五万は帰るなし

                           阿部宗一郎

者は1923年生まれ、山形県在住。季語は「白鳥」で冬。遠くシベリアから飛来してきた白鳥を季節の風物詩として、微笑とともに仰ぎ見る人は多いだろう。しかしなかには作者のように、かつての抑留地での悲惨な体験とともに、万感の思いで振り仰ぐ人もいることを忘れてはなるまい。四千キロの海を越えて白鳥は今年もまたやってきたが、ついに故国に帰ることのできない「虜囚(りょしゅう)五万」の無念や如何に。ここで作者はそのことを抒情しているのではなく、むしろ呆然としていると読むのが正しいのだと思う。別の句「シベリアは白夜と墓の虜囚より」に寄せた一文に、こうある。「戦争そして捕虜の足かけ十年、私は幾度となく死と隣り合わせにいた。いまの生はその偶然の結果である。/この偶然を支配したのは一体何だったのか。人間がその答えを出すことは不可能だが、ひとつだけ確実に言えることは、その偶然をつくり出したものこそ戦争犯罪人だということである。/戦争を引き起こすのは、いついかなる戦争であろうとも、権力を手にした心の病める人間である」。いまや音を立ててという形容が決して過剰ではないほどに、この国は右傾化をつづけている。虜囚五万の犠牲者のことなど、どこ吹く風の扱いだ。そのような流れに抗して物を言うことすらも野暮と言われかねない風潮にあるが、野暮であろうと何だろうと、私たちはもう二度と戦争犯罪に加担してはならないのだ。それが、これまでの戦争犠牲者に対しての、生きてある人間の礼節であり仁義というものである。まもなく開戦の日(12月8日)。『君酔いまたも征くなかれ』(2006)所収。(清水哲男)


December 06122006

 湯殿より人死にながら山を見る

                           吉岡 実

語のない句だが、句柄から春でも夏でもないことは読みとれる。秋から冬へかけての時季と受けとりたい。土方巽や大野一雄に敬愛され、暗黒舞踏に対して一家言もっていた吉岡実は、北方舞踏派の公演を山形へ観に出かけたことがあった。その折の羽黒山参拝をテーマに「あまがつ頌」という詩を書いた。掲出句はそのなかに挿入された俳句七句のうちの一句。「湯殿」は風呂であるが、ここでは湯殿山のことでもある。風呂で裸になった人が山を見上げている、その放心して無防備な姿は、死にゆく者のような不吉なふぜいと見ることもできるだろう。あるいは湯殿山(1500M)にいて、そこに連なる月山(1984M)を見上げている、どこやら不吉な図でもある。月山をはじめとして、ミイラ仏の多い一帯である。(私の祖父はよく「ナムアミダブツ・・・」と呟きながら湯船に沈んでいた。)「あまがつ頌」は詩集『サフラン摘み』(青土社・1976)に収められた。親しかった高柳重信を訪ねた吉岡実が、出来たばかりのこの詩集を渡すと一瞥して「自分には一寸つくれない奇妙な句だと感じ入ったように言った」と後に吉岡実は書き、同時に「芭蕉の『語られぬ湯殿に濡す袂かな』に挑戦を試みた」とも書いている。芭蕉の句を十分に凌駕しているではないか。掲出句と一緒に収められた他の句、「干葉汁すする歯黒の童女かな」は「羽黒」、「葛山麓糞袋もたぬかかし達」は「月山」、「雪おんな出刃山刀を隠したり」は「出羽」、「喪神川畜生舟を沈めける」は「最上川」を、それぞれ言い換えて冴えわたっている。いずれも身の引き締まるすさまじさ! 吉岡実は若い頃に俳句や短歌も実作していただけでなく、生涯にわたってそれぞれにきわめて強い関心をもちつづけた。句集『奴草』(2003)所収。(八木忠栄)


December 09122006

 赤く蒼く黄色く黒く戦死せり

                           渡辺白泉

車の中での高校生らしき二人連れの会話。「日本とアメリカって戦争したことがあるんだって」「うそ〜、それでどっちが勝ったの?」……つい最近知った実話である。そんな彼等が修学旅行で広島へ長崎へ、遺された悲惨な光景に涙を流す。しかしそれは映画を観て流す涙と同質のものであり、やがて乾き忘れられていくのだ。体験していないというのはそういうことだろう。かくいう私も昭和二十九年生まれ、団塊の闘士世代と共通一次世代のはざま、学生運動すら体験していない。〈白壁の穴より薔薇の国を覗く〉〈立葵列車が黒く掠めゐる〉〈檜葉の根に赤き日のさす冬至哉〉鮮やかな色彩が季題を得て、不思議な感覚で立ち上がってくる白泉の句。しかし掲句にあるのは、燃えさかり、溢れ出し、凍え、渦巻く、たとえようもない慟哭に包まれた光景であり、それは最後に燃え尽きて暗黒の闇となり沈黙するが、読むものには永遠に訴え続ける。前出の会話は、宇多喜代子さんがとある講座で話されていたのだが、その著書『ひとたばの手紙から・戦火を見つめた俳人たち』の中で初めてこの句にふれ、無季だからと素通りすることがどうしてもできなかった。季題の力が、生きとし生けるものすべてに普遍的に訪れる四季に象徴される自然の力だとすれば、その時代には、生きているすべての命にひたすら戦争という免れがたい現実が存在していた。今は亡き、藤松遊子(ゆうし)さんの句を思い出す。〈人も蟻も雀も犬も原爆忌〉『ひとたばの手紙から』(2006・角川学芸出版)所載。(今井肖子)


January 1612007

 森番に革命の歌山眠る

                           松橋昭久

命とは、国家や社会の組織の急激な変革をいうとある。「革命」という言葉で、血がたぎるような興奮を覚える世代はいつ頃までなのだろう。おそらく、理想に燃えて学生運動に深く関わった世代だろうか。革命に関わり、勝利を手にしたものが幸福を得るとは限らない。掲句では「森番」という、現役や世俗から遠く離れた厭世的な姿が、すべてを象徴している。森番の過去に何があったというのだろう。しかし、彼には繰り返し口にする歌がある、それだけで充分なのだと思い直す。森番は満天の星を背負い、暗く大きな口を開けているような冬の山へ向かって、子守唄を聞かせるようにいつまでも低く歌うのだろう。「山眠る」とは、中国『臥遊録(がゆうろく)』の「冬山惨淡(さんたん)として眠るが如し」を出典に持つ、山の静かに深く眠るような姿を擬人化させた季語だが、ここではじっと無言で森番の歌に聞き入る同志のようなたたずまいがある。たったひとつきり繰り返す革命の歌を思うとき、彼の過去がほんの少しだけ顔を出す。『雪嶺』(2006)所収。(土肥あき子)


March 2332007

 燈を遮る胴体で混み太る教団

                           堀 葦男

季の句。映像的処理は遠近法の中で行われている。そういう意味ではこれも「写生」の句だ。まあ、「太る」の部分は観念ではあるけれど。オウム真理教の事件はまだ記憶に新しい。麻原彰晃が選挙に出ていた頃、同僚の高校講師が、オウムの教義に感心したと話していたのを思い出す。「宇宙の気を脊椎に入れると浮遊できるってのは説得力あるんですよ」この人、英語を教えてたけど、自分で修業して僧侶の資格を取った真面目を絵に描いたような人だったな。俳句はあらゆる「現在」を視界に入れていい。百年経っても変わらない不変の事象を詠もうとする態度はほんとうに普遍性に到る道なのだろうか。一草一木を通して森羅万象を詠むなんて、それこそ胡散臭い宗教の教義のようだ。「現在」のうしろに普遍のものを見出そうとするならまず「現在」に没入する必要がある。その時、その瞬間の「状況」すなわち「私」に拘泥しない限り時代を超えて生き抜いていく「詩」は獲られない。五十年以上前のこの作品が今日的意味を持って立てる所以である。そのとき季語はどういう意味を持つのだろうか。「写生」と季語とは不可分のものだろうか。子規の句の中の鶏頭や糸瓜が一句のテーマであったかどうかを考えてみればわかる。この句、「燈を遮る胴体で混み」の「写生」の角度が才能そのもの。平畑静塔『戦後秀句2』(1963・春秋社)所載。(今井 聖)


April 2542007

 灯台は立たされ坊主春の富士

                           小林恭二

句評論で活躍している小林恭二に、『春歌』という一冊の尋常ならざる句集がある。「初期句集」と記され、九十三句を収めた句集らしくない趣きの句集。加藤裕将の楽しい挿絵多数。あとがきに「大学二年で俳句を始め、卒業と同時に本格的な句作から手をひきました」とある(在学中は「東大学生俳句会」の一員だった)が、時どき彼の俳句を目にすることがある。中学校時代に「立たされ坊主」をよく経験した者(私)にも、ほほえましく享受できる句である。近くに灯台があり、遠方に富士山が見えていると解釈すれば、ゆるやかな春の光と風のなかに突っ立っている灯台と、彼方にモッコリと立っている(聳えているのではない)富士山とのとり合わせが、いかにも駘蕩としていて、対比的で好ましいのどかな風景になっている。灯台を富士山に重ねる解釈も成り立つだろうけれど、ここはやはり両者が同時に見えているワイド・スクリーンとしてとらえたほうが、春らしい大きな句姿となる。さらに穿った解釈が許されるならば、作者は「東大は立たされ坊主」というアイロニーを裏に忍ばせているのかもしれない。小林恭二は「俳句研究」に毎号「恭二歳時記」を五年間にわたって連載中だが、同誌四月号のインタビューで「(句作を)毎日やっていればまた別なのかもしれませんけれども、二年とか三年に二句詠む、三句詠むなんて、もう面倒臭くて」と答え、実作者としての目は「限りなくゼロに近い」と述懐している。句集には「昼寝覚マッチの頭燃え狂ふ」「ひねくれば動く電気仕掛の俳句かな」などがある。『春歌』(1991)所収。(八木忠栄)


May 0352007

 體内を抜ける爆音基地展く

                           三谷 昭

用機ジェットの離着陸の音。地続きでありながら壁の向こうに広がる土地は治外法権の場所である。空を見上げる作者の身体を爆音が貫いてゆく。基地展くは「ひらく」と読むのだと思うが、おそらく米軍基地拡張を意味しているのだろう。講和条約締結以降在日米軍使用延長と基地拡大に対する反対闘争が、各地で起こっていた。その中でも最大規模のものは基地の測量を強行しようとする国側とデモ隊が衝突した砂川事件だった。基地内へ入ったと、逮捕された人達に対する判決。それは日米安保体制と平和憲法の矛盾を突く裁判でもあった。駐留を許容した政府の行為を「平和憲法の戦争放棄の精神に悖る(もとる)のではないか」と9条違反を主張し、被告は無実とした地裁の判決は最高裁で、「安保条約は司法判断に適さない」と差し戻され有罪判決が下される。以後憲法と基地の矛盾は法の外側に置かれてきた。三谷昭は戦前西東三鬼、平畑静塔とともに「京大俳句」弾圧事件で特高に逮捕された苦い経験を持つ。軍用機の爆音が頭上を過ぎる一瞬、作者の身を貫いてゆくのはやり場のない悲しみと怒りだったろう。政治的な主義主張を前面に押し出さない表現だからこそ、読み手はこの句を自分の感覚に引き寄せ現在に重ねてみることができる。今日は憲法記念日。この句から半世紀を経た今も日常のすぐそばで基地は機能し続け、憲法9条はその存続自体が危ぶまれている。『現代俳句全集 4巻』(1958)所載。(三宅やよい)


May 2352007

 雨のふる日はあはれなり良寛坊

                           良 寛

季。良寛が住んだ越後は雨の多い土地である。梅雨時か秋の長雨か、季節はいずれであるにせよ、三日以上も雨がつづくことは珍しくない。托鉢に歩き、その途次に子どもたちと手毬をついたり、かくれんぼをしたりしてよく遊んだと伝えられる良寛にとって、雨の日はつらい。里におりて子どもたちと「ひふみよいむな 汝(な)がつけば 吾(あ)は歌ひ あがつけば汝は歌ひ つきて歌ひて・・・・」と手毬に興じた良寛にとって、恨みの雨であるかもしれない。しかし、良寛に恨みの心は皆無である。それどころか、自らを「良寛坊」などと自嘲的に対象化し、「あはれ」とも客観視して見せている。良寛持ち前のおおらかさや屈託のなさは感じられても、「哀れ」や「せつなさ」が耗も感じられないところは、さすがである。いささかも哀切ではなく、湿ってもいない。雨の日は庵にいて歌を詠み、のんびり書を読み、筆をとって楽しむことが多かった。訪れる人もなく、好きな酒を独りチビチビやっていたかもしれない。「良寛坊」を、読者が自分(あるいは誰か)と入れ替えて読むのも一興。良寛の漢詩、和歌、長歌などはよく知られているが、俳句は「焚くほどは風が持てくる落葉かな」が知られているくらいで、いわゆる名句はあまりないと言っていい。父以南は俳人だった。良寛の句は手もとにある全集に八十五句収められ、編者・大島花束は「抒情詩人としての彼の性格は、俳句の方ではその長足を伸ばすことが出来なかったらしい」と記している。『良寛全集』(1989)所収。(八木忠栄)


May 2852007

 広げては後悔の羽根孔雀なり

                           本田日出登

季句ではあるが、孔雀が羽根を広げるのは春から初夏にかけてが一般的らしいから、いまごろの季節の句として読んでも差し支えはなさそうだ。羽根を広げるのは雄で、求愛のためである。威嚇性はない。自分の身体を覆って余りあるほどの大きさに広げるのだから、相当に体力を消耗しそうである。見ているだけで「男はつらいよ」と思ってしまう。しかし、広げなければ雌は振り向いてもくれない。だから渾身の力を込めて広げているのだろうが、そうすれば必ず求愛が成就するというわけでもない。思いきり広げたのに、あっさりと拒絶されたりして、しょんぼりなんてことはよくあるのだろう。作者はそこに着目して、「後悔」という人間臭い心理を持ち込んでいる。この着眼によって「孔雀なり」とは孔雀そのものであると同時に、人間である作者自身でもあることを暗示している。となれば、作者の「後悔の羽根」とは求愛のための衣装にとどまらず、生きてきた諸場面でのおのれのアピール行為全般に及ぶ。これまでに力を込めて、何度自身をアピールしてきたことか。それが失敗したときの後悔ばかりが、思い出されてならないのである。このときに、決して孔雀も人間も誇らかな生き物ではありえない。華麗な孔雀の姿に、かえって哀しみを覚えている。この感性や、良し。『みなかみ』(2007)所収。(清水哲男)


June 0262007

 雷のごと滴りのごと太鼓打つ

                           村松紅花

語は季節を表す言葉だが、十七音の短い詩を俳句にするために適当にポケットから出してくっつける言葉ではなく、そこから俳句が生まれるという思いをこめて季題と言う、と俳句を始めた時に教わった。四季折々の自然の中で得る感動から俳句が生まれる時、そこには頭で考えていることを越えた何かがある、と感じることはよくある。しかしこの句、雷、滴り(したたり)、共に夏季だが、雷の句でも滴りの句でもない、太鼓の句である。天に轟くかと思えば地の底から響き、ときに咆哮し、ときに囁く太鼓のリズムのうねりの中に作者はいる。体の芯を揺さぶられるような強い感動が、一句となったのだろう。じっと目を閉じて、太鼓の音が作り出す世界に身をゆだねているうち、作者の中に存在している多くの言葉の中から自然に、雷、滴り、が浮かび出て、感動をそれらの季節の言葉に託して句が生まれた。縁打ち(ふちうち)を聞きながら、滴り、を得たところで句になったのではないかと思われるが、二つの言葉は、重量感と清涼感、激しさと静けさ、正反対でありながら、共に水を連想させ、その言葉の選択も絶妙である。そして、できあがった句には、太鼓の響きと共に夏の空が広がってくる。『破れ寺や』(1999)所収。(今井肖子)


June 0762007

 赤ん坊のかなしみ移る赤ん坊

                           和泉香津子

育所や小児科の待合室で隣り合わせた赤ん坊の一人が泣き始めると、じっとその様子を見ていた近くの赤ん坊の目が潤み、真っ黒な瞳にみるみる涙がせりあがってくるそんなシーンが想像される。言葉がまだ話せない赤ん坊だからこそ、喜び、怒り、苛立ち、といった感情はストレートに伝わるのだろう。風邪のように、かなしみが「移る」と表現したところに発見がある。夜泣きしている赤ちゃんも抱っこしているお母さんがイライラしているとよけい激しく泣く。赤ちゃんは柔らかい身体全体に感情を探知するアンテナを持っているみたいだ。掲句の中心になるのは「赤ん坊」という初々しい生命体に宿る「かなしみ」という感情だろうが、ひらがな書きのこの言葉に漢字を当てるとしたらどれだろう。漢和辞典を調べてみると「哀」は心に哀れさを生じさせる感情で反対語は「楽」になっている。「悲」はものに感じて心がせつなく思う気持ち、不幸などに遭って泣きたくなる気持ちで反対語は「喜」になっている。赤ん坊の状態を思うと、どちらも当てはまるようにも思うが、「悲しみ」が近いだろうか。今まで母親の胎内にしっかり抱かれていた赤ん坊にとっては一人で寝かされることもかなしみの種なのだろうか。おしめも濡れていない、ミルクもやったばかりの赤ん坊が理由もなく泣き出すのは空漠とした世界に生み落とされた心細さに耐えかねて泣いているのかもしれない。『現代俳句12人集』(1986)所載。(三宅やよい)


June 0962007

 眼のほかは長所なき顔サングラス

                           吉村ひさ志

どいこと言うなあ…クスッとしつつ思った。眼のほかに長所がない、と断言しているのだ。しかしよく考えると褒めているのだとわかってくる、よほど素敵な眼の持ち主なのである。目、でなく、眼であるから、その眼差しにまた表情のある魅力的な女性(おそらく)なのだろう。これがもし、眼のほかに、であったとしたら、まああえて長所をあげるなら眼だね、と、「長所なき顔」が強調される。それを、眼のほかは、と、限定の助詞「は」にしたことで、魅力的な眼が強調され、サングラスをはずしたその眼をあれこれ想像しつつ、個性的であろうその女性への作者の親愛の情もうかがえる。成瀬正としに〈サングラス瞳失せても美しや〉という正攻法の一句があるが、掲句の味わいは捨てがたい。句集に並んで〈団扇手に今は平和な老夫婦〉とある。団扇という季題も効いているが、やはり、「は」という助詞がうまく働いている一句と思う。あとがきに、「大方の季題を理解し、見たまま、思ったことを五・七・五で表現するのには、五十年の句歴が必要であるとの思いである。」とある作者だが、昨年二月急逝されたと聞く。享年八十歳。あとがきにはまた、句集の名は、作者が愛した故郷群馬のぶな林からとった、とも。〈踏む音の独りの時の登山靴〉『ぶな(木ヘンに無)林』(1999)所収。(今井肖子)


June 2562007

 涙について眼科医語る妙な熱気

                           金子兜太

日、大学時代の仲間が東京から京都に転居するというので、送別会をやった。そこに先月緑内障の手術を受けたばかりの大串章も来ていて、みんなで「とにかく目の病気はこわいな」と、にぎやかな「目談義」となった。大串君によると、手術前のひところには、悲しくもないのに「涙」が止まらなくなって困ったそうだ。最初にかかった眼科医は紫外線にやられたせいだという診断だったが、次の医者は緑内障だから即刻手術せよとのご託宣。度胸が良い彼は、ならばと両眼を一度に手術してもらい、すっきりした表情をしていた。よかった。で、その後で掲句を読んだものだから、なんだかヤケに生々しく感じた。作者の実感だろう。目の前の眼科医は、おそらく目にとっての涙の効用を語っているのだ。しきりに「涙」という言葉を連発して、だんだんと話に熱がこもってくる。それももとより物理的な効用の話で、寂しさや悲しさといった精神作用とは無縁なのである。相槌を打っているうちに、作者はこんなにも精神作用とは無関係な涙の話に熱を込められる人に、感心もしているが、どこかで呆気にとられてもいる。その感じを指して「妙な熱気」とは言い得て妙というよりも、こうでも言わないことには、二人の間に醸し出された雰囲気がよく伝わらないと思っての表現ではなかろうか。どことなく可笑しく、しかしどことなく身につまされもするような小世界だ。俳誌「海程」(2007年4月号)所載。(清水哲男)


July 1972007

 淋しい指から爪がのびてきた

                           住宅顕信

頭火や尾崎放哉の自由律俳句は、彼らの特異な生き方を加味して読まれるケースが多いようだ。季語の喚起力や定型を捨てた代わりに作者の人生を言葉の裏づけにしているとも言える。掲句の住宅顕信(すみたくけんしん)もまた、若くして不治の病に侵され26歳の若さで他界した。「ずぶぬれて犬ころ」「降りはじめた雨が夜の心音」などの句がある。この欄に載せようと、掲句を選んだあと、「淋しいからだから爪がのび出す」という放哉の句と似ているのに気づき、その類似について考えていた。放哉に私淑していた顕信がそれを知らないはずはない。が、顕信には顕信の現実があった。その現実を境涯と言い換えてもいいと思うが、そこから考えると類想で片付けられないものも見えてくる。掲句の「指から爪がのびてきた」には手を頭の上にかざしてじっと見入っている病臥の長い時間が感じられる。放哉もまた病魔に冒されていたが、「からだから爪がのび出す」という突き放した表現に荒々しさも感じられる。処し様のないこの激しさが放哉を小豆島の孤独な生活へ追い込んでいったのかもしれない。境涯から読むことは、似ている両句の違いを理解する一助にはなるだろう。しかし彼らの境涯を知らずにそれぞれの句を読んで心を動かされる読者もいるだろう。それは両句とも爪がのびる何気ない生理現象に焦点をあてることで、人間が共通して持っている「淋しさ」への道をひらいているからこそ人を魅了するのかもしれない。『住宅顕信 全俳句集全実像』(2003)所収。(三宅やよい)


August 0682007

 子の墓へうちの桔梗を、少し買いそえて持つ

                           松尾あつゆき

日広島忌。松尾あつゆき(荻原井泉水門)は三日後の長崎で被爆し、三人の子供と妻を失った。「すべなし地に置けば子にむらがる蝿」「なにもかもなくした手に四枚の爆死証明」。掲句は被爆後二十二年の夏に詠まれた。作者の置かれた状況を知らなくても、「少し買いそえて」の措辞から、死んだ子に対する優しくも哀切な心情がよく伝わってくる。この無残なる逆縁句を前にして、なお「しょうがない」などと言える人間がいるであろうか。「老いを迎えることのできなかった人びとの墓前に佇む時、老年期を持てることは一つの『特権』なのだ、という思いに強くとらわれる」(「俳句界」2007年8月号)と、私と同年の天野正子は書く。老いが「自明の過程」のように語られる現在、この言葉の意味は重い。「子の墓、吾子に似た子が蝉とっている」。掲句と同時期に詠まれた句だ。生きていれば三人ともに二十代の大人になっているはずだが、死者はいつまでも幼くあるのであり、そのことが作者はもとより読者の胸を深くゆさぶってくる。今朝は黙祷をしてから、いつもより少し遅いバスに乗って出かける。『原爆句抄』(1975)所収。(清水哲男)


August 1582007

 敗戦の日の夏の皿いまも清し

                           三橋敏雄

日八月十五日は「敗戦の日」。あれは「終戦(戦いの終わり)」などではなかった。昭和二十年のこの日がどういう日であるか、知らない若者が今や少なくない。若者どころか、十年近く前に、この日を知らない七十歳に近い女性に会って仰天したことがある。「八月六日」や「八月九日」を知らないニッポン人は、さらに全国で増えている。敗戦の日の暑さや空の青さについては、あちこちで語られたり書かれたりしてきたが、ここで敏雄の前には一枚の皿が置かれている。おそらくからっぽの白っぽい皿にちがいない。それは自分の心のからっぽでもあったと思われる。皿はせつないほどに空白のまま、しかも割れることなく消えることなく、いつまでも自分のなかに存在しつづけている。皿は時を刻まず、新たにごちそうを盛ることもない。悲しいまでに濁りなく清々しい。「清し」には「潔(いさぎよ)い」という意味もある。万事に潔くないことが堂々とまかり通っている昨今を思う。「清し」という言葉には、八月十五日の敏雄の万感がこめられていただろう。敏雄は句集『まぼろしの鱶』(1966)の後記にこう書いている、「敗戦を境に、世の新たな混乱はまた煩憂を深くさせた」と。「いまも清し」という結句をその言葉に重ねてみたい思いに駆られる。この国/私たちは現在、この「皿」に見掛け倒しの濁った怪しげなものをあからさまに盛りつけようとしてはいないか? 冗談ではなくて、私には「皿」の文字が「血」にも見えたりする。掲出句とならんで、よく知られている句「手をあげて此世の友は来りけり」も収められている。『巡禮』(1979)所収。(八木忠栄)


August 2982007

 鬼灯のひとつは銀河の端で鳴る

                           高岡 修

年の浅草のほおずき市では千成ほおずきが目立った。あれは子どもの頃によく食べたっけ。浅草で2500円で買い求めた一鉢の鬼灯が、赤い袋・緑の袋をつけて楽しませてくれたが、もう終わりである。子どもの頃、男の子も入念に袋からタネを取り出してから、ギューギュー鳴らしたものだったけれど、惜しいところでやたらに袋が破れた。鳴らすことよりも、あわてず入念になかのタネをうまく取り出すことのほうに一所懸命だったし、その作業こそスリリングだった。今も見よう見まね、自分でタネを取り出して鬼灯を鳴らす子がいることはいるのだろう。掲出句を収めた句集には、死を直接詠ったものや死のイメージの濃厚な句が多い。「父焼けば死は愛恋の火にほてる」「死螢が群れ天辺を明かくする」など。女性か子どもであろうか、心ならずも身まかってのち、この世で鳴らしたかった鬼灯を、銀河の端にとどまり銀河にすがるように少々寂しげに鳴らしている――そんなふうに読みとってみると、あたりはシンとして鮮やかに目に映る銀河の端っこで、鬼灯がかすかに鳴っているのが聞こえてくるようだ。その音が銀河をいっそう鮮やかに見せ、鬼灯の鳴る音を確かなものにし、あたりはいっそうシンと静まりかえったように感じられてくる。ここでは「ひとつ」だけが鳴っているのであり、他のいくつかは天辺の果てで鳴っているのかもしれないし、地上のどこかで鳴っているのかもしれない。儚い秋の一夜である。高岡修は詩人でもある。第二句集『蝶の髪』(2006)所収。(八木忠栄)


September 2092007

 長き夜の楽器かたまりゐて鳴らず

                           伊丹三樹彦

誌「青群」に収録された伊丹三樹彦と公子の「神戸と新興俳句」の対談が面白い。十代の頃より日野草城の主宰する「旗艦」に参加した三樹彦が新興俳句の勃興期をリアルタイムで経験した話を収録している。少年だった三樹彦は数ある俳誌の中で俳句雑誌らしからぬダンスホールやヨットの見える鎧窓などをデザインしたハイカラな表紙に引かれ「旗艦」に参加したという。戦前の神戸は横浜と並ぶ国際港で、異国文化が真っ先に入ってくる場所でもあったので、モダンなものを詠み易い雰囲気があったのだろう。川名大の「新興俳句年表」を調べると、掲句は昭和13年の作になっている。「周りはもうみんな灯を消してしまっているのに、その楽器店だけは煌々と照らしておりまして、音を発する楽器がまったく音を発しない。そういう存在になって、なんとなく不気味であるというふうな…」という印象のもとに書かれた句であると対談の中で作者が述べている。年表には同時期の作として「燈下管制果実の黒き種を吐く」が並んでいるので、今のように灯りが煌々とつく街にある楽器店とは様子が違うのだろう。部屋の隅に鳴らない楽器が固まって置かれている情景を想像するだけでも説得力のある句であるが、時代を語る夫妻の対話をもとに句の背景を知って読み返すとまた違う印象があり、貴重な資料であると思う。俳誌「青群」(第5号 2007/09/01発行)所載。(三宅やよい)


October 03102007

 地下鉄に下駄の音して志ん生忌

                           矢野誠一

今亭志ん生が、八十三歳で亡くなったのは一九七三年九月十一日。したがって、掲句はここでは少々タイミングがズレてしまったわけだが、まあ、志ん生に免じてお許し願いたい。作者は志ん生の法要へ向かう際、地下鉄の階段で行きあった人の下駄の音を聞いて、故人への懐かしい思いを改めて強くした。あるいは法要とは関係なく、ある日地下鉄の階段から響いてくる下駄の音を聞いたとき、元気な頃に下駄で歩いていた志ん生をふと思い出した。あッ、今日は志ん生の命日だよ! どちらの解釈も許されていいだろうが、いずれにせよ作者の並々ならぬ故人への親愛の情が、下駄の音にからみながら響いてくる。地上はようやく秋の涼しい空気におおわれてきた。地下鉄の空気さえもどこやらひんやりと澄んで感じられて、下駄の音もいつになく心地よい。まるで志ん生の落語の磊落な世界に、身をゆだねているような心地であったのかもしれない。下駄の甲高い音と志ん生独特の高い声が重なる。志ん生も「声色やコーモリ傘の日より下駄」という下駄の句を詠んでいる。永井荷風の姿がちらつく。誠一には『志ん生のいる風景』(青蛙房)『志ん生の右手』(河出文庫)他がある。東京やなぎ句会での俳号は徳三郎。誠一は「あの人は晩年は貧乏でなかったはずだけど、いくらお金ができてもそれらしい生活っていうのは似合わない人だった」(小沢昭一との対談)と志ん生を語っている。『友あり駄句あり三十年』(1999)所載。(八木忠栄)


October 06102007

 歩きつづける彼岸花咲きつづける

                           種田山頭火

月の終わりに、久しぶりに一面の彼岸花に遭遇、秋彼岸を実感する風景だった。すさまじいまでに咲き広がるその花は、曼珠沙華というより彼岸花であり、死人花、幽霊花、狐花などの名で呼ばれるのもわかる、と思わせる朱であった。かつて小学校の教科書に載っていた、新美南吉の『ごんぎつね』に、赤いきれのように咲いている彼岸花を、白装束の葬式の列が踏み踏み歩いていく、という件があったが、切ないそのストーリーと共に、葬列が去った後の踏みしだかれた朱の印象が強く残っている。この句の場合も、彼岸花が群生している中を、ひたすら歩いているのだろう。リフレインも含めて、自然で無理のない調べを持つ句。その朱が鮮やかであればあるほど寂しさの増していく野原であり、山頭火の心である。「種田山頭火」(村上護著)には、「いわゆる地獄極楽の揺れの中で句作がなされた」(本文より)とあり、〈まつすぐな道でさみしい〉と掲句が並んでいる。思いつめた心とはうらはらに、こぼれ出る句は優しさも感じさせる。定型に依存することのない定型句、自由律であるというだけでない自由律句、どちらも簡単にはいかないなあ、と思うこの頃。『種田山頭火』(2006・ミネルバ書房)所載。(今井肖子)


October 14102007

 涙腺を真空が行き雲が行く

                           夏石番矢

画や音楽の魅力を、詩や俳句に引き移してみるという試みは、容易ではありません。たいていの場合、思うほどにはその効果を出すことができないものです。ジャンルの違いは、それほどに単純なものではないようです。せいぜいが発想のきっかけとして、利用するに留めておいた方がよいのかもしれません。掲句の「雲」から、マグリットの絵を連想した人は少なくないと思います。連想はしますが、句は、独自の表現空間を広げています。作者が、絵画を発想のきっかけにしたかどうかはともかく、言葉は、その持てる特性を見事に発揮しています。目につくのは、「涙腺」と「真空」の2語です。叙情の中心にある「涙」という語を使いながらも、あくまでもしめりけを排除しています。真空と雲が、乾いた空間にひたすらに流れてゆく姿は、日本的叙情から抜け出ようとする意気込みが感じられます。雲は、どの季節にもただよっていますが、句に満ちた大気の透明感は、つめたい秋を感じさせます。それにしても、涙腺を流れてきた真空と雲は、頬を伝ってどこへ、こぼれて行ったのでしょうか。『現代の俳句』(2005・講談社)所載。(松下育男)


October 25102007

 君はきのふ中原中也梢さみし

                           金子明彦

季句。梢は「うれ」と読ませている。一句の中心をどこに絞り込むのか。一人の詩人が残した透明な詩と強烈な個性が、季語に変わって人々の様々な連想を磁石のように引き付ける。今年は中原中也生誕100年。10月 22日が彼の忌日にあたる。「君はきのふ中原中也」この不思議な措辞は、ナイーブな心を持った友人に「きのう君は中原中也のように振舞ったね。言葉に妥協を許さず、悲しいぐらいに粗暴になったね」と語りかけているのか。それとも「きのふ」というのは遠くて長い輪廻転生の時間で、自分のすぐ近くにいる生き物に「君は中原中也の生まれ変わりだね。」と、話しかけているのか。そしてふっと視線をそらした先には木の葉を落とした樹がその細い枝先を虚空に伸ばしている。「梢(うれ)さみし」は青空に冷たく際立つ梢の形容であるとともにそれを見つめる作者の心の投影でもある。せつなさの滲む口調が直に心にふれてくる中也の詩を思い起こさせる。「町々はさやぎてありぬ/子等の声もつれてありぬ/しかはあれ、この魂はいかにとなるか?/うすらぎて 空となるか?」(臨終)作者の金子明彦は下村槐太の「金剛」に所属。その後林田紀音夫らとともに「十七音詩」を創刊した。『百句燦燦』(1974)所載。(三宅やよい)


October 31102007

 無駄だ、無駄だ、/大雨が/海のなかへ降り込んでいる

                           ジャック・ケルアック

藤和夫訳。原文は「Useless,useless,/theheavyrain/Drivingintothesea」の三行分かち書きである。特に季語はないけれど、秋の長雨と関連づけて、この時季にいれてもよかろう。たしかに海にどれほどの大雨や豪雨が降り込んだところで、海はあふれかえるわけではなく、びくともしない。それは無駄と言えば無駄、ほとんど無意味とも言える。ケルアックは芭蕉や蕪村を読みこんでさかんに俳句を作った。アレン・ギンズバーグ同様に句集もあり、アメリカのビート派詩人の中心的存在だった。掲出句を詠んだとき、芭蕉の「暑き日を海に入れたり最上川」がケルアックの頭にあったとも考えられる。この「無駄だ・・・」は、単に海に降りこむ大雨の情景を述べているにとどまらず、私たちが日常よくおかすことのある「無駄」の意味を、アイロニカルにとらえているように思われる。その「無駄」を戒めているわけでも、奨励しているわけでもなさそうだけれども、「無駄」を肯定している精神を読みとらなくてはなるまい。この句はケルアックの『断片詩集(ScatteredPoems)』に収められている。同書で俳句観をこう記している。「(俳句は)物を直接に指示する規律であり、純粋で、具象的で、抽象化せず、説明もせず、人間の真のブルーソングなのだ」。これに対し、自分たちビート派の詩は「新しくて神聖な気違いの詩」と言って憚らないところがおもしろい。佐藤和夫『海を越えた俳句』(1991)所載。(八木忠栄)


November 15112007

 練乳の沼から上がるヌートリア

                           小池正博

年前だったか小春日和の川べりを歩いているときに巨大ネズミのような生き物が川面にぬっと顔を突き出したので、心臓がずり落ちるほど驚いたことがある。後で調べてヌートリアという名前を初めて知った。関西や中国圏に多く住んでいるらしいが、もともと軍事用の毛皮をとるために移入して養殖された帰化生物ということだ。「ヌートリアと冬日を分かち合ひにけり」と大阪に住む俳人ふけとしこが詠んでいる。今は作物を荒らしたり堤防に巣穴を作ったりして危険ということで、駆除の対象になっているらしい。人間の勝手で移入されて、生態系に害を与えると駆除される。沖縄のマングースをはじめ、人間の浅知恵に振り回されて生きる動物たちも楽ではない。ねっとりと白く汚染された練乳のような沼から顔を出すヌートリア。まったく私たちの生きる世の中だって練乳の沼と同じぐらい底の見えない鬱屈に覆われた場所なのだから、お互いさまと言ったところか。沼から上がるヌートリアの姿に実在感がある。作者は連句に造詣の深い川柳作家。俳人の野口裕と立ち上げた冊子「五七五定型」からは同じ韻律をもつ詩型を従来にない視点で捉えようとする二人の意欲が伝わってくる。「五七五定型」(第2号2007/11/10発行)所載。(三宅やよい)


December 14122007

 無方無時無距離砂漠の夜が明けて

                           津田清子

漠の句だから無季。無方向、無時間を無方、無時と縮めていうのはかなり強引だが、この強引さが現場での感動の強さをそのまま表している。清子は誓子門の逸材。誓子は切れ字「や」「かな」を極度に嫌った。古い俳句的情緒を否定し、同時代の感興を俳句に盛ろうとした。この切れ字否定と同時代的感興を盛ること。この二点では誓子は新興俳句運動の先鞭となったが、季語使用については遵守を唱え、やがてその運動とは一線を画した。季語遵守でありながら、旧情緒否定ということは、「写生」という方法の中で現実のリアリティを求めていくということ。しかし、それはどうしても季語があらねばならないという必然性は薄い。現実の風景を構成していく上で季節感の果たす意義を認めたとしてもである。この句、海外詠だから季語は無くても当然という理屈では解決できない問題点を提起する。そのとき、その瞬間の自分の感動を、自分の五感とのなまの触れあいを通して表現するという方法を字義通り実践すると季語はどうしても一義的な要件ではなくなる。感動の核の中で季語の存在意義は薄れてくるのである。別冊俳句「平成秀句選集」(2007)所載。(今井 聖)


January 0112008

 妻よ天井を隣の方へ荒れくるうてゆくあれがうちの鼠か

                           橋本夢道

けましておめでとうございます。末永くよろしくの思いとともに、自由律の長〜い一句を掲句とした。子年にちなんで、ねずみが登場する句を選出してみたら、あるわあるわ150以上のねずみ句が見つかった。以前猫の句を探したときにもその数に驚いたが、その需要の元となるねずみはもっと多いのが道理なのだと納得はしたものの、現代の生活ではなかなか想像できない。しかし、〈長き夜や鼠も憎きのみならず 幸田露伴〉、〈新藁やこの頃出来し鼠の巣 正岡子規〉、〈鼠にジヤガ芋をたべられて寝て居た 尾崎放哉〉、〈しぐるるや鼠のわたる琴の上 与謝蕪村〉、〈寒天煮るとろとろ細火鼠の眼 橋本多佳子〉などなど、それはもう書斎にも寝室にも台所にも、家でも外でもそこらじゅうに顔を出す。どこにいても決してありがたくない存在ではあるが、あまりに日常的なため、迷惑というよりも「まいったなあ」という感じだ。掲句の屋根の上を走るねずみの足音にもにくしみの思いは感じられない。荒々しく移動していくねずみに一体なにごとが起きたのか、天井を眺めて苦笑している姿が浮かぶ。おそらく呼びかけられた妻も、また天井裏続きのお隣さんもおんなじ顔をして天井を見上げているのだろう。『橋本夢道全句集』(1977)所収。(土肥あき子)


January 0712008

 売春や鶏卵にある掌の温み

                           鈴木しづ子

戦後まもなくの句。この「鶏卵」は、客にもらったものだろう。身体を張った仕事と引き換えに、当時は貴重で高価だったたまごを得た。まだ客の掌の温みの残ったたまごを見つめていると、胸中に湧いてくるのは限りない虚脱感と自己憐憫の哀感だ。フィクションかもしれないし、事実かもしれない。しかし、そんなことはどうでもよいことだ。ここに現れているのは、戦後の飢餓期にひとりで生きなければななかった若い女性の、一つの典型的な心象風景だからである。もはや幻の俳人と言われて久しい作者については多くの人が言及してきたが、私の知るかぎり、最も信頼できそうなのは『風のささやき しづ子絶唱』(2004・河出書房新社)を書いた江宮隆之の言説である。この本の短い紹介文を書いたことがあるので、転載しておく。「その作品は『情痴俳句』とハヤされ、その人は『娼婦俳人』と好奇の目を向けられた。敗戦直後の俳壇に彗星のように現われ、たちまち姿を消した俳人・鈴木しづ子。本書は、いまなお居所はおろか生死も不明の『幻の俳人』の軌跡を追ったノンフィクション・ノベルである。『実石榴のかつと割れたる情痴かな』『夏みかん酸っぱしいまさら純潔など』。敗戦でいかに旧来の価値観が排されたにせよ、それはまだ理念としてなのであり、若い女性が性を詠むなどは不謹慎極まると受け取る風潮が支配的だった。スキャンダラスな興味で彼女を迎えた読者にも、無理もないところはあるだろう。しかし、彼女への下卑た評価はあまりにもひどかった。著者の関心は、これら無責任な流言から彼女を解き放ち、等身大のしづ子を描き、その句の真の意味と魅力を確認することに向けられている。そのために、彼女の親族や知人に会うなど、十数年に及ぶ歳月が費やされた。彼女の俳句にそそいだ愛情と才能を、スキャンダルの渦に埋没させたままにはしたくなかったからだ。戦時中は町工場に勤め、そこで俳句の手ほどきを受け、名前を知られてからは米兵相手のダンサーとなり、のちに基地のタイピストとして働いた。離婚歴もあり、これらの経歴を表面的につきまぜた『しづ子伝説』は現在でも生きている。著者は彼女の出生時から筆を起こし、実にていねいに『伝説』の数多の虚偽から彼女を救いだしてゆく。同時に折々の作句動機に触れることで、しづ子作品を再評価しているあたりも圧巻だ。これから読む人のために、本書の結末は書かないでおくが、才能豊かで意志の強い若い女性が時代や世間の波に翻弄されてゆく姿はいたましい。いかに彼女が『明星に思ひ返へせどまがふなし』と胸を張ろうともである」。掲句は結城昌治『俳句つれづれ草』所載。(清水哲男)


January 3112008

 山々をながめて親を手放す日

                           佐藤みさ子

きてゆく限り人間は一人。日々「家族」に囲まれて孤独を紛らわせていても、いつか親は子と別れ、子は老いた親を見送る日が来る。「手放す日」とは親との永遠の別れの日なのか、親を他所へ送り出す日なのか。いずれにせよ子供を独立させるのとは違うやるせなさが漂う。「山々をながめて」という何気ない行為が親を手放すという尋常ならざる出来事とつながっていることで日常に隠されている恐ろしさ、さびしさを際立たせる。俳句の季語のように共通普遍なイメージを喚起させる言葉の力学を用いない川柳は、普段の言葉で日常の深い裂け目を書いてみせる形式である。「味方ではないが家族が二、三人」「何ももう産まれぬ家に寝静まる」など、シニカルな視点で現代の家族の距離感や空白感が描かれている。親族の肩書きを持っていても心が離れれば近くにいて遠慮がないだけに致命的な戦いになってしまうこともある。ただならぬ関係のまま形だけ持続している家族だってあるだろう。いま、この世の中で家族とはどういう存在なのか。自らの身を時代の鏡にうつしだして語られる言葉は人が本来有している淋しさを感じさせるとともに私たちが身を置く人間関係の痛い部分に直に触れてくるようだ。『呼びにゆく』(2007)所収。(三宅やよい)


February 1222008

 翼なき鳥にも似たる椿かな

                           マブソン青眼

句の「翼なき鳥」という痛ましい姿に、デュマ・フィスの椿姫を重ねる読者は私だけではないだろう。『椿姫』は、社交界で「椿姫」とうたわれた美しい娼婦マルグリットと青年アルマンの悲恋の物語であるが、その名のゆえんは、ドレスの胸元に月の25日は白い椿、あと5日間を赤い椿を付けていたということからだった。この艶やかな描写に今でもはっと息をのむ。日本から西洋に渡った椿は、寒い季節でもつややかな葉や花を鑑賞することができることから「東洋のバラ」と呼ばれ、社交界ではこぞって椿の切り花を手にしていたといわれる。情熱の花として愛されているヨーロッパの椿に引きかえ、日本では美しくもあるが花ごと落ちることで不吉な側面も持っており、掲句が持つ印象は更に陰翳を濃くする。椿の樹下はまるで寿命の尽きた鳥たちの墓場でもあるように。〈鯉幟おろして雲の重みかな〉〈ああ地球から見た空は青かった〉『渡り鳥日記』(2008)所収。(土肥あき子)


February 2122008

 牡丹雪紺碧の肉天奥に

                           大原テルカズ

先にひらひらと舞う牡丹雪。大きな雪片が牡丹の花びらに似ているのでこの名がついたのだろう。「牡丹」という言葉に触発されて雪でありながら紅が連想され不思議に美しい。牡丹雪が降ってくる空は重たい灰色の雲で覆われてはいるが、その奥に青空の一部が覗いている。説明してしまえばそれだけだが、この句は景を描写しているのではない。仕掛けられた言葉の連想の背後には作者の存在が光っている。「紺碧の肉」は青空の表現としては異質であるが、内面の痛みを読み手に感じさせる。牡丹雪を降らせる雲の切れ目は彼自身の心の裂け目なのだろう。「彼が秘かに貯えてきた多くの財宝─幼なさ、卑しさ、愚かさ、古さ、きたならしさ、ひねくれ、独り、独善、恣意と彼が呼ぶところのもの」を俳句に結晶させた。と、句集の序文で高柳重信が述べている。戦後の混乱の暮らしの中で彼自身が掴み取った精神の履歴が、従来の俳句に収まらない言葉で表現されている。「ポケットからパンツが出て来た淋しい虎」「血吐くなど浪士のごとしおばあさん」作者にとって俳句は混乱した現実を自分に引き寄せる唯一の手段であり、句になった後はもはや無用と振り返ることもなかっただろう。『黒い星』(1959)所収。(三宅やよい)


April 2542008

 雨季来りなむ斧一振りの再会

                           加藤郁乎

雨の趣きとは異なって「雨季」には日本的ではない語感がある。鉞(まさかり)というと金太郎が浮かぶが斧というとどういうわけかロシアとか東欧が浮かぶ。僕だけだろうか。だからこの句、全体からモダニズムが匂う。雨季が今来ているところであろうよ、が雨季来りなむ。斧一振りはフラッシュバックへの導入。斧で殺されたトロツキーや、シベリア抑留捕虜の伐採の労働が瞬時にイメージされては消える。「再会」は記憶の中の過去との再会。そこは雨季がまさに訪れようとしている。歴史の流れと自分の過去が共有する「時間」を遡るのだ。モダニズムへの憧憬と深い内省と。この句所収の句集『球体感覚』の刊行年、一九五九年とはそんな年ではなかったか。「雨季来りなむ」と「斧一振り」と「再会」はそれぞれ現実的意味としての連関をもたないが、全体としてひとつのイメージを提供する。雨季との再会や人物との再会と取る読みもあろうが、僕はそうは取らない。もちろんこの雨季は季語ではない。『球体感覚』(1959)所収。(今井 聖)


April 3042008

 真実の口に入れたし春の恋

                           立川志らく

ーマにある、あの「真実の口」である。サンタ・マリア・イン・コスメディン教会の柱廊にあって、今や観光スポットの一つ。一見無気味な海神トリトーネの顔が口をあけていて、そこへ手を突っこむ。「ウソつきは噛まれる」という愉快な言い伝えがある。私も旅行した際、右手を突っこんだが、幸い噛まれなかった。噛まれなかったことも含めて、その時の私の印象は「がっかり」の一言。ローマ時代の下水溝の蓋だったという説がある。ま、どうでもよろしい。掲出句は恋人同士で手を入れたわけではない。「入れたし」だからまだ入れていなくて、恋人の片方が相手の「真実」をはかりかねていて、試してみたいという気持ちなのだろう。女の子同士や夫婦の観光客が、陽気に手を入れたりしているようだが、そんなのはおもしろくもない。愛をまだはかりかねていて「入れたし」という、ういういしい恋人同士だからスリリングなのだ。しかも、ここは「春の恋」だから、あまりねっとりと重たくはない気持ちがうかがわれる。「真実の口」は言うまでもなく映画「ローマの休日」で有名になってしまった。志らくは映画監督と劇団員の合同句会を毎月開催していて、その宗匠。志らくの「シネマ落語」はよく知られているが、シネマ俳句も多い。「抹茶呑む姿はどこか小津気どり」「晩春や誰でもみんな原節子」などの句があり、曰く「小津は俳句になりやすいが、黒澤は俳句になりません」と。「真実の口」はミッキー・カーチスに似ている、とコメントしている。ハハハハ♪「キネマ旬報」(2008年2月上旬号)所載。(八木忠栄)


May 0852008

 今生のラジオの上のイボコロリ

                           中烏健二

が子供の頃ラジオは生活を彩る大事な電化製品だった。夕暮れ時の商店街のあちこちからは相撲や野球の中継が流れてきたし、中学になると深夜ラジオのポップな音楽やおしゃべりにうつつを抜かした。掲句のラジオは寝床で気軽に聞けるトランジスタラジオではなく、茶の間に置かれた旧式の箱型ラジオだろうか。ラジオの上にひょいと置かれたまま忘れられているクスリ類としては、常備薬として出番の多い「正露丸」や「メンソレータム」でなく、痛い魚の目やイボができたときだけ集中的に使う「イボコロリ」を選んだのは絶妙の選択と言っていい。ラジオの上に「イボコロリ」がある風景は、たとえその事実がなくとも、ああ、そうなんだよねぇ。と自分が住んでいた家に重ねて共感を呼び起こす説得力を持っている。たまたまそこに置いた家族の誰かがいなくなったとしても、片付けられずにそこにあるものがどの家庭にもあるだろう。埃をかぶったラジオもイボコロリも家族の視界にありながら半ば存在しないものとして、四季を通じてそこに在り続ける。些細で具体的なものに焦点を絞ることで、「今生」の生活の内部にありながら生活の外側で持続する時間を感じさせる無季句だと思った。「ぶるうまりん」(2007/11/25発行 第7号)所載。(三宅やよい)


May 1652008

 玻璃くだる雨露病児へ蝌蚪型に

                           香西照雄

世辞にも形の良い句とは言えない。雨露で切れる。破調だがリズムはある。それにしても言葉がぎくしゃくと硬い。流麗な言葉の自律的な結びつきを嫌って、凝視への執着をそのまま丁寧に述べた感じだ。雨露が蝌蚪のかたちに見えるという比喩が中心。玻璃の内側に病気の子どもを閉じ込めて、外側を無数の雨滴が降りてくる。蝌蚪型は比喩だから季語ではないという見方もあろうが、蝌蚪の季節だからこその比喩だという見方もできよう。そう思えば季感はある。蝌蚪型という素朴で大胆な把握はまさに草田男譲り。口あたりの良い流麗な句にない魅力がある。形式のリズムのよろしさが内容より出しゃばると、一句は軽く俗な趣になる。その軽さを「俳諧」と見誤ってはいけない。定型もリズムも季語も「写生」という方法もみんな一から見直すように仕掛けられたこの句のような立ち姿にこそ「文学」が存するのではないか。「俳句とエッセイ」(1987年10月号)所載。(今井 聖)


June 1862008

 ひそと動いても大音響

                           成田三樹夫

季にして大胆な字足らず。舞台の役者の演技・所作は、歌舞伎のように大仰なものは要求されないが、ほんの少しの動きであれ、指一本の動きであれ、テンションが高く張りつめた場面であれば、あたかも大音響のごとく舞台を盛りあげる。大声やダイナミックな動きではなく、小さければ小さいほど、ひそやかなものであればあるほど、逆に観客に大きなものとして感じさせる。舞台の役者はその「ひそ」にも圧縮されたエネルギーをこめ、何百人、何千人の観客にしっかり伝えるための努力を重ねている。たかだか十七文字の造形が、ひそやかな静からゆるぎない巨きな動を生み出そうとしている。舞台上の静と動は、実人生での静と動でもあるだろう。特異な存在感をもった俳優として活躍した三樹夫は、舞台のみならず映画のスクリーン上の演技哲学として、こうした考え方をしっかりもっていたのであろう。ニヒルな存在感を「日本刀のような凄みと色気を持ち合わせた名脇役」と評した人がいた。三樹夫は惜しくも五十五歳で亡くなった。私は縁あって告別式に参列した際、三樹夫に多くの俳句があって遺稿句集としてまとめたい、という話を耳にした。死の翌年に刊行された。「鯨の目人の目会うて巨星いず」「友逝きて幽明界の境も消ゆ」などの句がならぶ。インテリで文学青年だった。掲出句はどこやら尾崎放哉を想起させる。「大音響」といえば、富澤赤黄男に「蝶墜ちて大音響の結氷期」があった。皮肉なことに、赤黄男のほうが演技している。『鯨の目』(1991)所収。(八木忠栄)


June 1962008

 どうしても子宮に手がゆくアマリリス

                           松本恭子

んなで聞こう/楽しいオルゴールを/ラリラリラリラ/しらべはアマリリス(『アマリリス』岩佐東一郎作詞)アマリリスの名前を知ったのは教室で習った唱歌からだったが、実際に花を見たのはだいぶ後からだったように思う。このあいだ歩いた茗荷谷の細い路地では大きな赤い花を咲かせたアマリリスの鉢植えが戸口のあちこちに置かれていた。「子宮」という生々しい言葉に一瞬ぎょっとなるけど、アマリリスという優しい花の名前が幾分その衝撃を和らげている。「どうしても子宮に手がゆく」という表現に女に生まれ女の身体に向き合っている哀しみにも似た感情が託されているのだろう。デビューのときにはレモンちゃんの愛称で親しまれ、そのすがすがしい青春性が話題になった作者だが、掲句を含む句集では「私」の感情を中心に身体を通して対象をとらえる主情的な俳句が多かったように思う。「白昼夢機械いぢれば声の出る」「どこまでもゆけると思ふ夜の鹿」『夜の鹿』(1999)所収。(三宅やよい)


June 2562008

 蝋の鮨のぞく少女のうなじ細く

                           高見 順

にかぎらず、レストランのウィンドーにディスプレイされている食品サンプルの精巧さには驚かされる。みごとなオブジェ作品である。昔は蝋細工だったが、現在は塩化ビニールやプラスチックを素材にしているようだ。食品サンプルはもともと日本独自のものであり、その精巧さはみごとである。目の悪い人には本物に見えてしまうだろう。掲出句の「蝋の鮨」は鮨屋のウィンドーというよりは、鮨からラーメンまでいろいろ取りそろえているファミリー・レストラン入口のウィンドーあたりではないか。蝋細工のさまざまなサンプルがならんでいるなかで、とりわけおいしそうな鮨に少女は釘付けになっているといった図である。たとえファミリー・レストランであるにしても、鮨の値段は安くはない。食べたいけれど、ふところと相談しているか、またはその精巧さに感心しているのかもしれない。作者は店に入ろうとしてか、通りがかりにか、そこに足を止めている少女の細いうなじが目に入った。少女の見えない表情を、うなじで読みとろうとしている。作家らしい好奇心だけでなく、やさしい心がそこに働いている。どこかしらドラマの一場面のようにも読めそうではないか。鮨と細いうなじの清潔感、それを見逃さない一瞬の小さな驚きがここにはある。江戸前の握り鮨は、鬱陶しい雨期や炎暑の真夏にはすがすがしい。高見順が残した俳句は少ないが、小説家らしい句。鮨の俳句と言えば、徳川夢声に「冷々と寿司の皿ある楽屋かな」、桂信子に「鮨食うて皿の残れる春の暮」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


July 1672008

 雲ひとつ浮かんで夜の乳房かな

                           浅井愼平

季句。季語はないけれども厳寒の冬ではなく、春あるいは夏の夜だろうと私には思われる。まだ薄あかるく感じられる夜空に、白い雲が動くともなくひとつふんわりと浮かんでいる。雲というものは人の顔にも、動物の姿などにも見てとれることがあって、それはそれでけっこう見飽きることがない。雲は動かないように見えていて、表情はそれとなく刻々に変化している。この句の場合、雲はふくよかな乳房のように愼平には感じられたのであろう。対象を見逃さない写真家の健康な想像力がはたらいている。遠い夜空に雲がひとつ浮かんでいて、さて、目の前には豊かな乳房があらわれている――という情景ととらえてもよいのかも知れない(このあたりの解釈は分かれそうな気がする)。そうだとしても、この句にいやらしさは微塵もない。夜空の雲を見あげる写真家の鋭いまなざしと、豊かな想像力が同時に印象深く感じられる。カメラのピントもこころのピントもぴたりと合っていて、確かなシャッターの音までもはっきりと聞こえてきそうである。「色のなき写真の中のレモンかな」という別の句にも、同様に写真家によるすっきりした構図といったものが無理なく感じられる。『夜の雲』(2007)所収。(八木忠栄)


August 1482008

 戦死せり三十二枚の歯をそろへ

                           藤木清子

は学徒出陣で海軍に配属され、鹿児島県の志布志湾に秘密裡に作られた航空基地で敗戦の日を迎えた。同年齢の義父は、広島の爆心地で被爆した後郷里に戻り静養していた。九死に一生を得た二人とも戦争についてほとんど語らなかったが、戦死した同世代の青年達をいつも心の片隅において生涯を過ごしたように思う。祖国の土を踏むことなく異国の地で果てた若者たちはどれほど無念だったろう。私が小さい頃、街には戦争の傷痕がいたるところに残っていた。向かいの病院は迷彩色を施したままであったし、空襲の瓦礫が山積みになった野原もあった。戦後63年を経過し、戦争の記憶は薄れつつある。三十二枚の健康な歯をそろえながら飢えにさいなまれ、南の島や大陸で戦死した青年達の口惜しさは同時代を生きたものにしかわからないかもしれない。そうした人々への愛惜の気持ちがこの句を清子に書かせたのだろう。事実だけを述べたように思える言葉の並びではあるが、「そろへ」と中止法で打ち切られたあとに、戦死したものたちの無言の声を響かせているように思う。『現代俳句』上(2001)所載。(三宅やよい)


October 16102008

 硝子器に風は充ちてよこの国に死なむ

                           大本義幸

識はなくとも篤実な人柄を感じさせる俳人がいる。この作者の俳句を読むとしみじみと懐かしさがこみあげてくる。「熱き尿放つ京浜工業地帯の夜の農奴よ」「旗を灯に変えるすべなし汗の蒲団」など時代のやるせなさを詠じた句も多いが、重苦しい現実との闘いを経ても作者の心はへし折れることはない。「朝顔にありがとうを云う朝であった。」抒情溢れる句が生み出す優しい強さに力づけられる。掲句について大井恒行は解説で「ついに風が充ちないことを知りながら、なお、充ちてよと願わざるを得ないのである。」と書き綴っている。「硝子器」とは現実に息詰まりそうになる自分自身であろうが、その内側にある精神はすがすがしい風に充たされ、解き放たれることを乞わずにはいられない。純粋なものへの憧れを抱き続ける心がこの国の情けない姿に悲嘆しつつも、「この国に死なむ」とすべてを受け入れようとしているのだろう。苦しみの底にこそ軽やかな精神が存在する。作者がたどってきた複雑な人生の色合いが俳句に織りなされた一冊だと思う。『硝子器に春の影みち』(2008)所収。(三宅やよい)


December 07122008

 入れものがない両手で受ける

                           尾崎放哉

由律俳句といっても、その表れ方は作品によってさまざまです。ですから読み手も作品ごとに、受け止め方を変えなければなりません。今日の句に限っていうなら、この短い作品には、もともと具体的なものや人、あるいは季語があったのに、なんらかの理由で取り払われてしまったのではないかと、感じさせるものがあります。読者としては、とうぜん失われたものがなにかということに思いを馳せることになります。作者はいったい何を受け取ろうとしていたのか。あるいはどんな姿勢をとっていたのか。手の形はどうしていたのか。しばらく考えをめぐらせたあとで、そんな詮索が意味のないことであると知るのです。結局、作者が詠みたかったのは、失われた「入れもの」自体であったと気づくのです。何ものも媒介するものがなく、この世をじかに受け止めていることの心細さ、といってしまっては解釈が単純すぎるでしょうか。五七五という熱い「入れもの」を手放した作者の思いを、両手でじかに受け止めさせられているのは、ほかならぬ読者なのかもしれません。『底のぬけた柄杓』(1964・新潮社)所載。(松下育男)


December 19122008

 卵落した妻睨れば妻われを視る

                           野宮猛夫

には「み」のルビあり。貧しさの中で、とげとげしくなる夫と妻。卵を落した妻をとがめる視線を夫が送れば、妻はあんたこそなによと夫を鋭く見返す。「オイ、もったいないじゃないか」「そんなこと、あんた、わたしに言えるの?」無言のうちに交わされる二種類の視線、「みる」が夫婦の関係、生活を浮き彫りにする。卵の貴重さも時代を映す。貧しさがテーマの句は「社会性俳句」の時代にはデモやストの句と並んでひとつの典型だった。しかし、それらの多くは貧しい庶民の「正しさ」「美しさ」を強調したため、政治宣伝のポスターのような図柄になった。ヘルメットを被りハンマーをもった青年が「団結」と叫んでいるようなどこかの国のポスターと同じである。「社会性俳句」は個別の内面に入ることを為し得なかったために「流行」に終わる。人間の、自己の心理を自己否定のようにえぐりだすこんな句は俳句の可能性を確実に拡げている。こんな切迫した瞬間の感覚に季節感の入り込む余地はない。『地吹雪』(1959)所収。(今井 聖)


December 29122008

 五徳なるものが揃ひて村滅ぶ

                           福田 基

五徳
得(ごとく)はもう茶の道具くらいにしか使われない。昔はどこの家にもあって、その上に薬缶や鉄瓶を置いていたものだ。五徳というくらいだから、なにやらありがたい道具のように思えるが、なんのことはない。大昔のそれは輪を上にして使っており、「竈子(くどこ)」と呼ばれた。それが安土桃山期の茶道の発達とともに、それまでとは逆に爪を上にして使われるようになった。だから「くどこ」を逆にして「ごとく」と呼んだのだという。したがって「五徳」は当て字。仁・義・礼・智・信の五徳などとは、何の関係もないのである。句ではしかし、実際の道具としての五徳と観念的な五徳との両義がかけてある。村中、どの家にも五徳がある。すなわち、五つの徳目が全て揃っている。なのに、村は滅びつつある。それはすなわち、全てを備えるには至難の徳目が容易に揃ったことで、もはや村には求め極めるものが消失してしまい、逆に自壊の方向に向かっているということなのだ。何であっても、極まればあとは崩れるしかない。なんとも皮肉たっぷりの句だけれど、過疎地をこのように捉えた句はめずらしく、作者の哀感もよく伝わってくる。福田基は昭和八年生まれ、林田紀音夫直門。あとがきに「われ老いたり、心身とも老いたり」とあるのが、私などには身につまされる。『回帰回想』(2008)所収。(清水哲男)


January 1912009

 餅切てゐるらし遠のく思ひのよろし

                           河東碧梧桐

を切る音を久しく聞かない。今はスーパーで、手ごろな大きさに切ってある餅を売っていたりする。といって、掲句の「餅切る」は、雑煮や汁粉のために少量を切っているのではないだろう。昔は正月に入ってからもう一度餅を搗き、保存食として「かき餅」にしたものだ。箱状の容器に薄く伸べた餅を、包丁で細く短冊状に切ってゆく。たくさん切るのだから、この単純作業には手間がかかる。面白い作業ではない。厨のほうから、そういうふうにして餅を切る音というか気配が伝わってきた。切っているのは、おそらく作者の妻だろう。その人は、何か深刻な「思ひ」を抱えているのだ。さきほど、聞かされたばかりである。いかし、しばらく静かだった厨から餅を切る音がしはじめた。そこで、作者がようやくほっとしている図だ。餅を切るという単純作業に入ったということは、その間だけでも「思ひ」は遠のくはずだからである。でも、この「よろし」は作者自身の自己納得なのであって、切っている当人の心持ちは「よろし」かどうかはわからない。こうした自己納得は日常的によく起きる心象で、こんな気持ちを繰り返し育てながら、誰もが生きている。大正六年の作。冬の句だろうが、とりあえず無季句に分類しておく。短詩人連盟刊『河東碧梧桐全集・第一巻』(2001)所収。(清水哲男)


February 0122009

 一月二月丸暗記しています

                           阿部完市

いもので2009年も1月がすでに終わってしまい、あたりまえのことながら、切れ目もなしに2月がやってきました。ちょうどそんな時期に、1月2月が並んだこのような句に出会いました。とはいうものの、この句は決してあたりまえに出来上がっているわけではありません。いったい、「丸暗記」が1月2月とどう繋がっているのでしょうか。受験期の最後の追い込み勉強としての丸暗記がここに置かれていると、考えられないわけではありません。しかし、そのような詮索はなんの意味もないようです。特に、「しています」という言い方が、なんともとぼけた味を醸しています。この句が目に留まったのは、生真面目に書かれた多くの句の中にあって、身をずらすような書かれ方をしていたからなのです。句の内容よりも、創作の姿勢そのものが作品の魅力になっているという点では、作者の特異な才能を認めざるをえません。型を熟知しているものにしか、型を破ることは出来ないからです。思い出せば昨年の暮れ、明治大学の講堂で行われた世界の詩人が集まった朗読会で、この作者の朗読をじかに聴いたのでした。読まれてゆく句はどれも、意味の関節を次々にはずしてゆくような内容でした。朗読とは、もっともかけ離れた位置にある作品を、滔々と読み続ける姿に、ひたすら感心して聴いていたのでした。「俳句」(2009年1月号)所載。(松下育男)


February 1222009

 名前からちょっとずらして布団敷く

                           倉本朝世

く布団に小学校のころ使ったノートの細長い空欄を思った。試験用紙もそうだけど、何度あの欄に名前を書き入れたことか。名前はほかでもない私の証。だけど、名前で呼ばれる私と内側に抱える自分とのずれは誰もが感じていることだろう。その名前から少しずらして敷く布団は季語としての布団じゃなくて、毎朝毎晩押入れから出し入れして敷く生活用品としての布団だろう。その布団にくるまれて眠るのは名前で呼ばれる昼間の私をはずれて夢の世界に入ること。「名前」と「布団」違う次元にあるようでどこか近いものを並べて日常に隠された違和感をするする引き出してくるのが川柳の面白さ。「煮えたぎる鍋 方法は二つある」なども、方法という言葉を置くと台所の鍋がこんなにも怖いものになるのかと、言葉の力を感じさせる句である。『なつかしい呪文』(2008)所収。(三宅やよい)


March 0632009

 切株があり愚直の斧があり

                           佐藤鬼房

ちのくの土着の想念を背負って屹立する俳人である。「愚直」は愚かなほどまっすぐなこと。愚直が自己投影だとすると「愚」は自己否定だけれど、「直」は肯定。「愚直な私」と書いたら、半分は自分を褒めていることになる。作品で自己肯定をみせられるほど嫌味なことはない。自己否定するのなら、「愚かでずるい私」くらいは踏み込んで言ってもらいたい。だからこの句の愚直を僕は自己投影とはとらない。これは斧のことであり他者のことである。斧が深くまっすぐに切株に刺さっている風景に託して、ただ黙々と木を伐り、田を耕すしかない他者について言っている。こういう「愚直」を作者は認め自らもそうありたいと願っているのである。『名もなき日夜』(1951)所収。(今井 聖)


March 2032009

 男根担ぎ佛壇峠越えにけり

                           西川徹郎

ぎも越えるも具体的な動作だから、まずそういうふうに読んでみると、担がねばならぬほどの巨大な男根を肩に乗せて、作者が佛壇峠という峠を越えてゆく。佛壇で一度句が切れれば、佛壇が男根を担いで峠を越える図になるのだが、「けり」という止めかたもあり、まずは佛壇では切れないと踏んだ方がよさそうだ。肩に乗せた男根とは何ぞや。ああ、これは自分の性的な意識の象徴だと思ってみる。そうすると佛壇峠は倫理観の象徴かもしれない。略歴をみると、作者は僧侶。それで少し納得が行く。性への衝動と、倫理観でそれを抑制しようとする自己の内部のせめぎあいが峠越えか。おもわず噴出しそうな図柄を見せておいて、何か人間の本質的な暗部へとこの句は誘っているのかもしれない。細谷源二の「氷原帯」を出自とする作者だが、虚子系の俳人吉本伊智朗の句に「縛されて仏壇がゆく接木畑」がある。こちらも不思議な佛壇の存在感である。『西川徹郎全句集』(2000)所収。(今井 聖)


April 2342009

 珈琲や湖へ大きな春の虹

                           星野麥丘人

琲は作者自身によってブラックとルビが振ってある。珈琲(ブラック)や、と濃く熱く入れた飲み物に詠嘆しているわけで、しかも珈琲を飲んでいる眼前の湖に淡く大きな虹がかかっている。阿部青鞋に「天国へブラック珈琲飲んでから」という句があったように思うが、この句は青鞋の思いに答えたかのような色合いである。春の虹は夏の虹に比べると色も淡く、たちまちのうちに消えてしまう性質を持っているようだが、それだけに美しく名残惜しいものだろう。ゆっくりと珈琲を飲み終わるころには虹は失せて、すっかり元の光景に戻っているのかもしれない。麥丘人(ばくきゅうじん)の句は事実だけを述べているようで、なんともいえない老年の艶のようなものがあり、この句も口に入れると淡々と解ける和菓子のような味わいだ。日々の生活に追われるなかで麥丘人の句を読むと肩の力がほんの少し抜けるような気がする。『燕雀』(1999)所収。(三宅やよい)


May 2752009

 ひねれば動く電気仕掛の俳句かな

                           小林恭二

句は思うように、満足のいく作品はなかなかできない。ひねってもたたいても、なかなか……。いっそ電気仕掛でポンとできあがる俳句というものがないものか。四苦八苦した挙句にできたのが掲出句かもしれない。シロウトはシロウトなりに、専門家は専門家なりに、そんな空想にあそぶこともあろう。苦しまぎれのわりにつらい句ではない。むしろユーモラスに仕上がっているのはさすがである。いや、四句八句して戯れながらできた俳句かもしれない。無季句だが、春夏秋冬を通じて電気仕掛を所望したい気持ちを読みとることができる。「電気仕掛」が懐かしい響きをともなって愉快ではないか。たしかに電気文化の時代があったよなあ。今どきなら「コンピューター仕掛」とでもなるのだろうけれど、二十年ほど前の作ゆえ「電気」。「電気仕掛」が切実でありながら、同時にユーモラスな電磁波を放っている。俳句は「詠む」とも「ひねる」とも言われる。世におびただしい俳句が日々量産されているけれど、「ひねれば動く電気仕掛」とは、飽くことなく量産されている俳句に対する、強烈なアイロニーを含んでいるようにも解釈できる。恭二の初期句集『春歌』には「遊戯する胸に皺ある怪獣よ」「はっきり言ふお前は異常な日時計だ」など、奔放な無季句がいくつもおどっている。『春歌』(1991)所収。(八木忠栄)


July 2972009

 夏の月路地裏に匂うわが昭和

                           斎藤 環

は本来秋の季語だが、季節を少々早めた「夏の月」には、秋とはちがった風情を思わせるものがある。しかも路地裏で見あげる月である。一日の強い日差しが消えて、ようやく涼しさが多少戻ってきている。しかし、まだ暑熱がうっすらと残っている宵の路地だろうか。「わが昭和」という下五の決め方はどこやら、あやうい「くせもの」といった観なきにしもあらずだが、ホッとして気持ちは迷わず昭和へと遡っている。大胆と言えば大胆。「路地裏」と「わが昭和」をならべると、ある種のセンチメンタリズムが見えてくるし、道具立てがそろいすぎの観も否めないけれど、まあ、よろしいではないか。こんなに味気なくなった平成の御代にあって、路地裏にはまだ、よき昭和の気配がちゃんと残っていたりするし、人の心が濃く匂っていたりする。そこをキャッチした。同じ作者には「大宇宙昭和のおたく「そら」とルビ」という句もある。同じ昭和を詠んでいながら、表情はがらりとちがう。作者は1961年生まれの精神科医。そう言えば、久保田万太郎に「夏の月いま上りたるばかりかな」という傑作があった。『角川春樹句会手帖』(2009)所載。(八木忠栄)


August 0682009

 蛇口ひねれば黙祷といふテレビ

                           渡辺信子

月六日広島へ原爆投下された朝である。八時十五分の投下時間になると広島の平和の鐘とともに「黙祷」と、祈りが捧げられる。死者を悼むとはどういうことなのだろう。戦後生まれの私にとって戦争はおそろしいという感覚以外、子供の世代に伝えるものを持たなかったように思う。テレビを通じて運ばれてくる「黙祷」の声に何を持って和することができるのか。この時期になるたびに思う。原爆投下で家族を失った義母は追悼番組が始まると「見とうない。」と、テレビを切っていたそうだ。ちょうど朝食の後片付けの時間、蛇口をひねったら聞こえてきたテレビの声に作者は手を止めることなく汚れた皿を洗い続けるのかもしれない。その日常の行為に作者の鎮魂がこめられている。昭和二十年三月十日、義母と同年齢の作者も家族を失った。「私の中で生きつづける母、弟、妹、空襲に遭って東京の下町に消えた近隣の人々、戦場に散った人々、その鎮魂をと祈りつつ生きてまいりました。俳句を作る中で言霊をいただいて歩んでこられたことに、感謝しております。」と帯には作者の言葉が書かれている。『冬銀河』(2009)所収。(三宅やよい)


August 2882009

 子馬が街を走つていたよ夜明けのこと

                           金子兜太

由ということを思った。権力からの自由、反権力からの自由、季語からの、定型からの自由、あらゆる既成のものからの自由。好奇心と走る本能に衝き動かされて夜明けの都市を子馬は歓喜して走る。仔ではなくて子。いたよの「よ」。夜明けのことの「こと」。どれもが素朴荒削りなつくりで、繊細すぎる言葉の配慮を超えたエネルギーが溢れる。子馬が季語か否かなどは要らざる詮索。『日常』(2009)所収。(今井 聖)


September 1392009

 二科を見る石段は斜めにのぼる

                           加倉井秋を

語は「二科」、というか美術展覧会一般として秋の季語になっています。たしかに、涼やかな風に吹かれながら絵画を観賞しに行くには、秋が似合っています。かならずしも上野で開催されているわけでもないのでしょうが、斜めにのぼるという言葉から思いつくのは、西郷さんの銅像に行く途中の、京成線ちかくの広い階段です。あのあたりでは実際に絵を描いている人もおり、通りすがりに描きかけの絵を、覗いて見たくもなります。斜めにのぼったのはおそらく、その日、それほどに急いではいなかったからなのでしょう。二科展で絵を楽しむ時間だけでなく、行き帰りの歩行も、それなりに楽しみたかったからなのです。ちょっと子供っぽくもあるこんな動作を、休日にしてみたいと思ったのは、毎日急き立てられるように生きている反動でもあります。帰りにはおいしいコーヒーを飲んで、それからどうしようかと、次の石段に足を持ち上げながら、考えているのでしょうか。『日本名句集成』(1992・學燈社)所載。(松下育男)


October 01102009

 名月やうっかり情死したりする

                           中山美樹

年の中秋の名月はこの土曜日。東京のあちこちでお月見の会が催されるようである。仲秋の名月ならずとも、秋の月は水のように澄み切った夜空にこうこうと明るく、月を秋とした昔の人の心がしのばれる。今頃でも「情死」という言葉は生きているのだろうか。許されぬ恋、禁断の恋、成就できない恋は周囲の反対や世間という壁があってこその修羅。簡単に出会いや別れを繰り返す昨今の風潮にはちと不似合いな言葉に思える。それを逆手にとっての掲句の「うっかり」で、「情死」という重さが苦いおかしみを含んだ言葉に転化されている。ふたりで名月を見つめるうちに何となく気持ちがなだれこんで「死のうか」とうなずき合ってしまったのだろうか。霜田あゆ美の絵に素敵に彩られた句集は絵本のような明るさだけど、そこに盛り込まれた恋句はせつなく、淋しい味わいがある。「こいびとはすねてひかりになっている」「かなかなかな別れるときにくれるガム」『LOVERS』(2009)所収。(三宅やよい)


October 02102009

 昨夜夢で逝かしめし妻火吹きおり

                           野宮猛夫

夜夢の中で死なせてしまった妻が今火吹き竹で火を起こしている。夢の中でどんなに悲嘆にくれておろおろしたことだろう。亡骸に向かって、あれもしてやればよかった、これも聞いてやればよかったと後悔ばかりがこみ上げて自分を責めて責めて。それにしてもどうしてあんな夢を見たのだろうか。伴侶への愛情というものが、それを表現する直接的な言葉を用いていないにもかかわらず切々と響いてくる。何より発想が斬新。そういえば私もそんな夢を見たことがあると読者を肯かせながら、それでいて誰もこれまでに詠むことのなかった世界。そんな「詩」の機微はいたるところに転がっているのだ。昨夜は音律本位でいえば「きぞ」と読むべきかもしれないが、日常感覚を重視するという意味でふつうに「さくや」と僕は読みたい。『地吹雪』(1959)所収。(今井 聖)


October 05102009

 さんま食いたしされどさんまは空を泳ぐ

                           橋本夢道

えを詠んだ句を、私は贔屓せずにはいられない。あれは心底つらい。いまでも鮮明に覚えているが、敗戦直後は三度の食事もままならず、やっと粥が出てきたと思ったら、湯の中に米が数十粒ほど浮かんでいるという代物だった。これでは腹一杯になるはずもないと、食べる前から絶望していた記憶。いつか丼一杯の白飯を食べてみたいというのが人生最大の夢だった記憶。掲句は有名な「無礼なる妻よ毎日馬鹿げたものを食わしむ」を第一句とする連作のうちの一句だ。「さんま」が食いたくて、矢も盾もたまらない。今日の読者の多くは、空を泳ぐさんまの姿を手の届かぬ高価な魚の比喩として理解し、たいした句ではないと思うかもしれない。無理もない。無理もないのだけれど、この解釈はかなり違う。なぜなら、この空のさんまは、作者には本当に見えているのだからだ。飢えが進行すると、一種の幻覚状態に入る。ときには陶酔感までを伴って、飢えていなければ見えないものが実際に見えてくるものだ。子供が白い雲を砂糖と思うのは幻覚ではなく知的作業の作るイメージだが、これを白米と思ったり、形状からさんまに見えたりするのは実際である。元来作者はイメージで句作するひとではないし、句は(糞)リアリズム句の一貫なのだ。つまり壮絶な飢えの句だ。いまの日本にも、こんなふうに空にさんまを見る人は少なくないだろう。今日の空にも、たくさんのさんまが泳いでいるのだろう。それがいまや全く見えなくなっている私を、私は幸福だと言うべきなのか。言うべきなのだろう。新装版『無禮なる妻』(2009・未来社)所収。(清水哲男)


October 11102009

 墓のうらに廻る

                           尾崎放哉

ちろん季はありません。無季の句です。もしもこれを句というのなら、ということですが。現代詩にも、たまに限りなく短いものがありますが、ではこの一行が「句」であって「詩」ではないのはなぜなのでしょうか。人それぞれに解釈の方法があるでしょうが、「詩」をこれほどに短くするときには、おそらく、それ相応の世界の広がりを作品の奥に持たせようとします。もっと力みがはいるはずです。対して句のほうは、ただの行為をあるがままのものとして作品としてしまいます。そんなことができるのは、たぶん「句」だけです。詩で真似しても、ここまで徹底することは出来ません。で、なぜ墓の裏に廻ったのでしょうか。普通に考えるなら、墓石に彫られた戒名や命日を確認するためです。「うらに廻る」という行為が、コノヨの外を覗き込むという意味を持たせているのかもしれません。形式が自由なわりに、句から想像される事柄はずいぶんと限られています。それでもこの句にひかれるのは、動きそのものが、妙な実感を伴っているからなのです。『日本名句集成』(1992・學燈社)所載。(松下育男)


February 0422010

 春がくる少し大きい靴はいて

                           浮 千草

日は立春。まだまだ寒いけれども陽射しは明るさを増し、昼の時間も長くなってゆく。「少し大きい靴はいて」という表現に春よこい、春よこい♪と、昔なつかしい童謡がまず頭にめぐってきた。そして山之口貘の「ミミコの独立」なども。とうちゃんの大きな下駄をはいて自分のかんこをとりにいくんだ、と歩き出すあの一節。「こんな理屈をこねてみせながら/ミミコは小さなそのあんよで/まな板みたいな下駄をひきずって行った」そんなかわいい場面が思い浮かぶ。春の訪れによちよち歩くみよちゃんや、ミミコを想像するのも楽しい。掲句は「大きい靴」で大きなとは違うのだが冷たく身の縮む冬が去り、春そのものが大きな靴をはいてやってくる。と擬人化して考えてもゆたかでゆったりした気分になる。大きな靴と春は似合いだ。作者は柳人。句集には「ものわすれ増えてこの世はももいろに」「おばさんにはなったが大人とも言えず」ユニークな川柳の作品が並ぶ。『夢をみるところ』(2009)所収。(三宅やよい)


February 2422010

 大井川担がれて行く冬の棺

                           榎本バソン了壱

井川は静岡県中部から駿河湾に注ぐ、全長百六十八キロの川。その昔、架橋や渡船が禁じられていた川だから、人足が肩車や輦台(れんだい)で渡したことで知られる。担がれて渡るのは人ばかりではなく、棺だって担がれて渡ったであろう。冬の水を満々とたたえた、流れの速い大河を、棺がそろそろと慎重に担がれて行く。寒々とした冬である。命知らずの猛者たちが棺を担いで渡る様子が、大きなスケールと高いテンションを伴って見えて印象深い。掲出句は本年1月に刊行されたバソン了壱の第一句集『川を渡る』のなかの一句。東京から京都の大学へ通う新幹線が渡る百十一の川をネットで確認し、番外一句を加えて川を詠みこんだ百十二句の俳句を収めている。尋常ならざるアイディアと、尋常ならざる俳句の人である。しかも、全句を多様なスタイルの筆文字(左利き)で自ら書いたという、コンパクトでユニークな句集である。「小さな事件に悩み、喜んでいるささやかな自分を川という鏡に映して、反問している」、それが句集全般を支配している、と前書で本人は述懐している。掲出句よりもバソン了壱らしい句は、むしろ「秋刀魚焼く女の脂目黒川」とか「安藤川一二三アンドゥトロワ」などのほうにある、と言っていいかもしれない。ともかく、「冬の棺」が担がれ去って行くことで、いよいよ冬も去り春が近いことを暗示している。もう二月尽。『川を渡る』(2010)所収。(八木忠栄)


February 2622010

 幽霊が写って通るステンレス 

                           池田澄子

々に何々が映る、或いは写るのは俳句の骨法のひとつ。物をして語らしめるということ、その手段として物と物との関係をあらしめることが、短い形を生かす方法であるとしてこの形が多用されてきた。その場合は被写体とそれが写る場所(素材)の関係が「詩」の全てとなる。水面や窓などの常套的な「場所」に対して作者はステンレスというこれまでの情緒にない素材を用いた。そして、その光る白い色彩に「幽霊」を喩えた。幽霊のごとき色彩であるから、これは直喩の句。見た感じをそのまま書いた「写生句」である。「写生」とは見たまま感じたまま、そのままを詠うこと。それが子規の「写生」であったはずなのに、いつからか「写生」が俳句的情緒を必要条件とするようになった。こういう句が「写生」の原点を教えてくれる。この句が無季の句であるか、「幽霊」が季語になるのか、季感をもつのか、そんなことは末梢のこと。『ゆく船』(2000)所収。(今井 聖)


April 0942010

 骸骨ふたつ 紅茶も花も今朝のまま

                           室生幸太郎

の句、1979年の作品なので、なんとなくモダニズムふうな仕立ての意図だろうと思うが、孤独死、虐待死が日常的な今日においては世相そのものである。モダンなイメージに現実が追いついたのだ。毎年、日露戦争の死者の数を超える自殺があると聞くと、映画でみたあの二百三高地の累々たる死者のありさまを想像しておぞましい気持になる。この作者の傾向からいって「花」は桜ではないだろう。机の上の花瓶に生けられた一般的な花だ。「俳句研究」(1979年10月号)所載。(今井 聖)


April 1842010

 蝋涙や けだものくさきわが目ざめ

                           富沢赤黄男

季句です。蝋涙は「ろうるい」と読みます。普通の生活をしている中では、とてもつかうことのない言葉です。なんだか明治時代の小説でも読んでいるようです。辞書を引くまでもなく、その意味は、蝋がたれているように涙を流している様を表現しているのかなと、思われます。文学的な表現だから、いささか大げさなのは仕方がないにしても、蝋燭の流れた跡のように涙の筋が残っているなんて、いったいどんなことがあったのだろうと、心配になってきます。「けだもの」という、これもインパクトの強い単語のあとに、「くさき」と続けるのは、自然な流れではあるけれども、ちょっと意味がダブっているような気もします。それにしても、生命が最も力の漲っているはずの目覚めのときに、すでにしてたっぷりと泣いているというのです。おそらく世事のこまごまとした悩みからではなく、命あることの悲しみ、そのものを詠いあげているのでしょう。あるいはそうではなく、日々の平凡な目覚めこそが、実はそのようなものなのだと、言っているのでしょうか。『俳句大観』(1971・明治書院)所載。(松下育男)


April 2542010

 朝寝して頬に一本線の入る

                           蜂巣厚子

語は「朝寝」、春です。このところのあたたかくなった陽気につつまれて、いつまでもぐずぐずと布団の中にいることを言うようです。でも今日の句、いつまでも布団の中にいることには、なにか別に理由がありそうです。頬に一本線が入ったというのは、まちがいなく涙の流れた跡でしょう。思えば、先週採り上げた句、「蝋涙や けだものくさきわが目ざめ」(富沢赤黄男)と、同じ場面を描いていることになります。それにしても出来上がった作品は、ずいぶん印象を異にしているものです。あらためて、創作というものが持つ幅の広さに感心してしまいます。先週の句が、絵の具を分厚に塗りこんだ油絵なら、今日の句は淡い水彩画ともいえるでしょうか。先週の句には、どこかこちらが一方的に驚かされているようなところがありましたが、今週の句には、もしできることなら、この人に手を差し伸べて、なにかをしてあげたいという、そんな心持になってきます。「朝日俳壇」(「朝日新聞」2010年4月19日付)所載。(松下育男)


May 2752010

 雷が落ちてカレーの匂ひかな

                           山田耕司

はじめから天気が悪い。いよいよ雨の季節の到来だろうか。どしゃぶりの雨に空がゴロゴロ鳴り始めると犬が恐がって家中を走り回る。幼いころ裏庭の灯籠が雷の直撃を受けて真二つに裂けたことがある。落雷の瞬間の物凄い音と、翌日ぱっくり割れた石を見た恐ろしさは忘れない。今でも雨模様の空を遠くから雷が近づいてくると犬ばかりでなく落ち着かない気持ちになる。掲句を一読、落雷をカレーの匂いと結び付ける発想にびっくり。そう言われてみれば、ぴかっと落雷が落ちた瞬間、黄色っぽく照らし出される風景がカレーびたしに思えてくるから不思議だ。落雷への常套的な思い込みを捨てて感覚を働かせた結果、視覚が味覚へつながり奇抜に思える言葉が飛びだしてきたわけで、こちらも五感を働かせてイメージしてみればなかなか説得力がある。おじる気持ちも落雷なんて、カレーまみれになるだけさ、と思えば度胸がつくかも。掲句を含む句集には、そんな具合に楽しい大風呂敷があちこちに広げられている。「手をひつぱる鬼は夕焼け色だつた」「少年兵追ひつめられてパンツ脱ぐ」『大風呂敷』(2010)所収。(三宅やよい)


May 3052010

 永遠はコンクリートを混ぜる音か

                           阿部青鞋

遠もコンクリートも、どの季節に属しているとも思えませんので、この句は無季句です。永遠を定義しようとする試みは、正面から向かうのはどうも無理なようですから、とんでもないもので説明するしか方法はないようです。たとえばこれを、「永遠はなべの底か」でも「永遠はキリンの咀嚼か」でも、最後を疑問形にしてしまえば、そこそこ意味がありそうに見えます。どんなふうに言ってみたところで、永遠を理解することなど、所詮できはしないのだという人の悲しみが、含まれてしまいます。死と愛が、詩の普遍のテーマであるなら、永遠はどちらにも寄り添うことのできる都合のいいテーマであるわけです。今からずっとずっと先、さらにそれよりも遠い未来があるということを考えているだけで、人は誰しも詩人になるしかありません。それにしても、どうして永遠がコンクリートを混ぜる音なのでしょうか。見ていても、いつまでも終わらないからだと、単にそれだけの意味なのでしょうか。まあ、いろんな解釈はあると思いますが、どれが正解かなんて、永遠の前でどんな意味を持つでしょう。『俳句鑑賞450番勝負』(2007・文芸春秋)所載。(松下育男)


June 0362010

 階段のひとつが故郷ハーモニカ

                           長岡裕一郎

校の階段、二階へあがる家の階段、錆びた手すりのついた公園の階段。記憶の中にしまいこんでいたそれぞれの階段が胸のうちによみがえってくる。掲句には屋内に閉ざされた階段より子供の遊び場にもなる公園の階段が似つかわしい。無季の句には永遠に持続する時間と風景が隠されている。この句の場合、学校にも家にも置きどころのない心と身体を階段に寄せてハーモニカを吹いている少年のさびしさが想像される。くぐもった音色が感じやすい少年の心持ちをなぐさめてくれる。そんな感傷的なシーンには薄暮がしっくり調和する。「ハーモニカ」が引き金になって読み手の心にも二度と戻らない時への郷愁をかきたてるのだろうか、長い間手にしていないハーモニカのひやりとした感触を思い出して懐かしくなった。『花文字館』(2008)所収。(三宅やよい)


June 2562010

 母が泣く厨のマッチ火星へ発つ

                           土居獏秋

建的な夫、または婚家の姑や小姑にいびられている母が厨で煮炊きのマッチをする。点火したマッチはそのままロケットになって火星へ旅立つ。初版1965年の金子兜太著に載っている作品だから少なくともそれ以前の作。厨で泣くという設定がいかにも古い時代の「母」の典型を思わせるが、その母の手元からマッチがロケットになって火星に飛んでいくという発想はどこか泥臭くて、いびられている女の現実離脱願望が出ていてリアルだ。その現実から半世紀近く経った今は、誰がどこで泣いていて、そこで何を夢想するのだろう。泣かされているのは老人か、幼児虐待の幼児か、引きこもりの青年か、ニートの群れか。『今日の俳句』(1965・光文社)所載。(今井 聖)


July 1472010

 つめたい爪で戦争がピアノ弾いてゐる

                           天沢退二郎

ではなく、「つめたい爪」がピアノを弾いている、ととらえている。その「爪」は戦争のそれである。「つめたい」といっても、それを冬の季語などと堅苦しく限定することは、この場合むしろナンセンスであろう。戦争は「熱い」とするのが一般的かもしれないが、いっぽうで「冷たい戦争」「冷戦」という言い方がある。擬人化された戦争が鋭く尖った冷酷な爪をかまえて、ピアノの鍵盤をかきむしっているという、モンスターめいた図は穏やかではない。いや、戦争が冷たかろうが熱かろうが、穏やかであるはずがない。戦争というバケモノが恐ろしい表情と風体で、現に世界の各地で激しく、また密かにピアノを怪しく弾いているではないか。愚か者どもによるピアノ演奏を止めるのは容易ではないどころか、ますます激昂して拍手を送る徒輩さえいる。そういえばポランスキーの「戦場のピアニスト」という映画があった。また、古い記憶を遡って、粟津潔の映像作品「ピアノ炎上」(1973)を想起した。消防服を着た山下洋輔が燃えているピアノを弾いて、燃え崩れるまで弾きつづけたもので、今もパソコンで映像にアクセスすることができる。退二郎は高野民雄らと「蜻蛉句帳」を出しつづけている。同誌に「帆船考」として退二郎は掲句の他に、自在に詠んだ「列島をうそ寒き夏の這い登る」など六句と、「ふんどしを締めて五月の猫走る」など十五句を一挙に発表している。「蜻蛉句帳」44号(2010)所載。(八木忠栄)


August 0582010

 広島や卵食う時口ひらく

                           西東三鬼

句は「広島や卵食ふ時口ひらく」掲句は『続神戸』文中引用ママ。三鬼の『続神戸』には掲句が出来たときの様子が次のように書き綴られている。「仕事が終わって広島で乗り換えて神戸に帰ることになり、私は荒れはてた広島の駅から、一人夜の街の方へ出た。〜中略〜私は路傍の石に腰かけ、うで卵を取り出し、ゆっくりと皮をむく。不意にツルリとなめらかな卵の肌が現われる。白熱一閃、街中の人間の皮膚がズルリとむけた街の一角。暗い暗い夜、風の中で、私はうで卵を食うために、初めて口を開く。−広島や卵食う時口ひらく−という句が頭の中に現れる。」ゆで卵を食べるためひらいた口に三鬼は閃光に焼かれた人達の声なき叫びを感じたのかもしれない。明日は八月六日。原爆投下から65年目の暑い朝が訪れる。『神戸・続神戸・俳愚伝』(1976)所収。(三宅やよい)


August 2682010

 雀噴く百才王の破顔より

                           摂津幸彦

頃の百才は暗い話題が多いが、これだけの年月を生き抜くのは簡単ではない。長寿の記録だけが残り当人が行方知れずであったり、死を隠されていたりというのは寂しすぎる。身分制度が厳しく着るもの、食べるもの、髪型まで制限されていた江戸時代であってさえ、百才を越した老人はそんな取り決めごとは無視してよく、農民であっても武士へ文句が言えたと白土三平の『カムイ伝』で読んだことがある。百までたどりつけば人間を超越した存在になるのだから何をしても天下御免の「百才王」というわけだろう。そうした老人が皺くちゃの顔をくずして破顔一笑するならば、その僥倖を人に分け与えるかのように沢山の雀が噴き出すとは、なんて豪勢な光景だろう。雀たちの可愛く元気なありさまを百才王の笑顔に寄せたところに愛情を感じる。『摂津幸彦全句集』(1997)所収。(三宅やよい)


October 21102010

 とうさんの決して沸騰しない水

                           久保田紺

うさんの中にある水って何だろう。とうさんをこう定義しているぐらいだから、かあさんにも、ねえさんの内部にも水はあって、それはぐらぐらと沸騰したり、体内を忙しく駆け巡ったり、身の裡から溢れだしたりするのかもしれない。川柳は前句付から発展した詩型だから、発想の手掛かりとなる題がどこかに隠されているのだろう。その隠されたものを読み手が自分に惹きつけてあれこれと考えをめぐらすのが、句を読み解くことにつながるように思う。俳句は句を味わう、とよく言うが題ならずとも求心力として季語の存在は大きい。鑑賞においても川柳と俳句では違いがある。この句の場合、隠されているのは「かなしみ」や「怒り」といった感情や「死」や「離別」など人生で否応なく遭遇する事件へのとうさんの反応かもしれない。沸騰しないかわりに沈黙の咽喉元へ水はせりあがってきているのだ。同じ17音の韻律ではあるが、川柳は俳句とは違う言葉の働かせ方を見せてくれる。『銀色の楽園』(2008)所収。(三宅やよい)


October 24102010

 老人はそれぞれ違ふ日向もつ

                           塚原麦生

たしの家の近所には大きな団地があります。昔からある団地で、月日とともに住んでいる人たちも年をとってきます。休日にバスに乗り込むと、多くの老人が吊革や棒につかまって危なっかしげに立っていることに気づきます。でも、座っているのはさらに年上の老人ばかりです。もうこうなってしまうと、全席がシルバーシートのようなものです。と、ここで気がつくのは、老人という言葉から受け取る印象です。子供のころには、年をとったら穏やかな老年を迎え、みんな平穏な心持になってのんびりと日向ぼっこをしていられるのだろうと無責任に考えていました。でも、もちろんそんなわけはあるはずがないのです。車窓から深く差し込む日差しの中に座っている老人も、あるいはつり革につかまってよろけている老人も、当たり前のことながらそれぞれに固有の人生を持ち、固有の欲にとらわれ続けているわけです。あたる日の暖かさは同じでも、皮膚に感じる暖かさの種類は、老人それぞれに違っているわけです。『俳句入門三十三講』(2003・講談社)所載。(松下育男)


October 28102010

 病院の廊下の果てに夜の岬

                           澤 好摩

い先日、病院の廊下に置かれた長椅子に座って順番待ちをしていたら、忘れていた記憶が次々とめぐってきた。思えば何人もの近親者を病院で見送っている。自分自身の入院もそうだけど、病院にいい思い出はない。朝の検温から始まって、抑揚のない一日が過ぎ、早い夕食が終わるとあっという間に消灯時間になってしまう。横たわって天井を見るしかない病人に長い長い夜が始まる。夏であろうと冬であろうと一定の温度に管理された空調と白い壁に閉ざされた病院に季節はない。暗い蛍光灯に照らしだされた廊下の果てには真っ暗な夜が嵌めこまれた窓がある。外へ出てゆくのも儘ならぬ身体で歩いてゆけば廊下は岬のように夜に突き出してゆくのかもしれぬ。季語のないこの句には「病院」が抱える時間と空間が濃密に感じられる。日常の世界と違う病院の内部を貫く廊下の延長線上に岬を想う感覚の鋭さが病院にいる不安と孤独を際立たせるのだ。『澤好摩句集』(2009)所収。(三宅やよい)


November 12112010

 墓碑銘を市民酒場にかつぎこむ

                           佐藤鬼房

季の句。昭和二十六年刊行の句集に収録の作品だから、まだまだ戦後の混沌と新しい社会への希望が渦巻いていた頃。墓碑銘を市民酒場にかつぎこむイメージは、市民革命への希求がロシア革命への憧憬を根っこに持っていた証だ。強くやさしい正義の赤軍と悪の権化の独裁との闘い。この頃の歌声喫茶で唄われたロシア民謡。赤提灯を市民酒場と呼び、卒塔婆を墓碑銘と呼ぶモダニズムの中に作者の青春性も存した。60年を経て、プロレタリア独裁も搾取も死語となった今どういう理想を僕らは描くのか。どういうお手本を僕らは掲げるのか。或いはそんなものは無いと言い放つのか。『名もなき日夜』(1951)所収。(今井 聖)


December 12122010

 あたためて何包みたき掌か

                           能村登四郎

識してそうしたわけではないのですが、これまでの選句を見直してみれば、わたしはすでにいくつも能村さんの句をここにとりあげてきました。それはもちろん、句の見事さによるものですが、それだけではなく、もっと手前の、ものの見方や感じ方のところで、すでに能村さんに捕らえられてしまっているのかもしれません。今日の句も、ああいいなという感想をまず持ちます。でも、ああいいなというのは、描かれた掌の優しさによるものなのか、このような句を詠むことのできる作者のあたたかさのためなのか、判然としません。火鉢か、あるいは焚き火にでも手を広げてあたためているのでしょう。あたたまった手のひらを、自分のためだけではなく、何かを包んであげたいという思いへ広げてゆく。そんな思考の向き方に、読者はもう十分に温まってしまいます。『鑑賞歳時記 第四巻 冬』(1995・角川書店)所載。(松下育男)


December 16122010

 ふるさとの母には猫のお取り巻き

                           内田真理子

節を表す言葉はないが、陽のあたる縁側に何匹もの猫に取り囲まれているおばあさんの姿が思い浮かぶ。家族は遠い町へ出て行ってしまって一人でくらしているけれど、畑で採れた白菜を干したり、枯葉を掃いて焚火をしたりしているとうちの猫やら近所の猫やらが足元にすりよってくる。そんな猫たちはふるさとの母親になくてはならないお友達であり、家族なのだろう。「取り巻き」と言えば力のある人にコバンザメのようにすりよってゴマをする、あまりいい意味にはつかわれない。だけどそれが猫で、しかも「お」を付けたもったいぶった言い方が猫たちと母のほのぼのとした関係を想像させる。作者は柳人。「ともだちになれると思うなつめの木」「歳月を馬に曳かせて油売り」『ゆくりなく』(2010)所収。(三宅やよい)


December 23122010

 鬱という闇に星撒く手のあらば

                           四ッ谷龍

ら命を断つ人は10数年連続で年間3万人を超えるという。朝夕の通勤途上、人身事故での電車の遅延は日常の一部となり、その慣れがおのれの感受性を摩滅させてゆくようで恐ろしい。子供からおとなの世界にまで蔓延する「うつ」は正体不明の「もののけ」のようなもので、その閉塞感が暗雲のごとく現代社会全体を覆っている。と、宗教学者の山折哲雄がどこかに書いていた。掲句の「鬱」も行きどころをなくして淀み、人を不安に陥れてゆく闇。つなぐ手を失ったまま個々に切り離された生き難い世の中に「星撒く手」という後半部の願いが眩しく感じられる。まことに生きる希望を撒いてゆくそんな手があるならばどれだけ救われるだろう。闇に閉ざされた人を救うのは人の結びつき以外にはなく、手を差し伸べる優しさ以外ない。今ほどその煌めきが恋しい時代はないのではないか。句にこめられた切実な思いが心に響く。『大いなる項目』(2010)所収。(三宅やよい)


December 30122010

 明日より新年山頭火はゐるか

                           宮本佳世乃

年も余すところ一日となった。明日は朝から掃除、午後はおせち料理に頭を悩ませ、夜は近所の神社へ初詣に出かけることにしよう。平凡だけど毎年変わらぬやり方で年を迎えられるのを幸せに思う。それにしてもこの句「明日より新年」というフレーズに「山頭火はゐるか」と不思議な問いかけが続く。山頭火は放浪の人だからせわしない大晦日も、一人酒を飲んで過ごしていたかもしれない。だとすると家族と過ごす大晦日や正月に縁のない孤独な心が山頭火を探しているのだろうか。そんな寂しさと同時に「さて、どちらへ行かう風がふく」と常にここではない場所をさすらっていた山頭火のあてどない自由が「明日より新年」という不安を含んだ明るさに似つかわしく思える。『きざし』(2010)所収。(三宅やよい)


January 1312011

 一月の魯迅の墓に花一つ

                           武馬久仁裕

者が中国へ旅したときに作った句。国内での吟行とは違い海外で句を詠むとなると日本での季節の順行や季の約束ごととは違う世界へ出てゆくことになる。作者は「俳句と短文の織り成す言葉による空間を満足の行く形で作ってみたくなったからである」とこの句集を編むに至った動機をあとがきで述べている。風習の違いや物珍しさで句を詠んでも単なるスナップショットで終わってしまう。(もちろんそれはそれで楽しさはあるのだが)作者は現在の中国を旅して得た経験と歴史や文学で認識していた中国を重ねつつ「日常であって日常でない」世界を描き出そうとしている。一月、と一つという簡潔な数字の図柄が世間の人々に忘れられたかのような寂しい墓の風情を思わせる。その墓の在り方は「藤野先生」や「故郷」といった魯迅の作品に流れる哀感に相通じているように思える。真冬の魯迅の墓に添えられた花の種類は何だったのだろう。「玉門関月は俄に欠けて出る」「壜の蓋締めて遠くの町へ行く」『玉門関』(2010)所収。(三宅やよい)


February 0222011

 憶い出にもたれて錆びる冬の斧

                           高岡 修

かなる「憶い出」なのだろうか。それは知る由もないけれど、句全体の表情から推察するに明るく楽しいという内容ではあるまい。その「憶い出」に、まがまがしくもひんやりとした重たい斧がドタリともたれたまま、使われることなく錆びつつある。それは作者の心のありようか、あるときの姿かもしれない。さらに、この「憶い出」は斧自身の憶い出でもあろう。錆びる斧も錆びるナイフも本来の用をなさない。「錆びた」ではなく、「錆びる」という進行形に留意したい。ここでは思うように時は刻まれていない。いや、意に反して「錆びる」という逆行した時のみが刻まれているのである。詩人でもある修は、句集のあとがきで「詩・短歌・俳句・小説という文学ジャンルにおいて俳句はもっとも新しい文学形式である」と断言している。そうかもしれない。いちばん古い(旧弊な)文学形式は小説ではあるまいか、と私は考えている。掲句とならんで「愛のあと野に立ちくらむ冬の虹」がある。斧と言えば、誰しも佐藤鬼房の「切株があり愚直の斧があり」を想起するだろう。修は加藤郁乎の「雨季来りなむ斧一振りの再会」を新興俳句以降の代表句五句の一つとしてあげている。掲句を含む最新句集『蝸牛領』と既刊三句集をあわせ、『高岡修句集』(2010)としてまとめられた。(八木忠栄)


March 1832011

 ひばり鳴け母は欺きやすきゆゑ

                           寺田京子

というものは欺きやすいものであろうか。女は弱しされど母は強しという。男からみると恋人や妻は強く恐い存在であり、母は無条件で許してくれる存在である。金子兜太の句に「夏の山国母いてわれを与太と言う」。与太と言われようと子は母の愛情を疑うことはない。この句は娘という立場から母をみている。同性から見た母は息子から見た母とはかなり違うのだろう。ひばり鳴けという命令調にその微妙な感じがうかがわれる。『冬の匙』(1956)所収。(今井 聖)


March 2332011

 うらなりの乳房も躍る春の泥

                           榎本バソン了壱

もとの辞書によると、「うらなり」は「末生り/末成り」と書いて、「瓜などの蔓の末に実がなること。また、その実。小振りで味も落ちる」とある。「うらなり」は人で言えば顔色がすぐれず元気のない人、という意味合いもあるが、この句では「乳房」を形容していると思われる。「小振りで味も落ちる乳房」という解釈こそ、バソン了壱好みの解釈と言えそうである。春の泥は、雪が溶ける春先のぬかるみだから、いよいよ春を迎えて心がはずみ、気持ちがわくわくと躍動する時季である。豊かな乳房が躍るのは当然過ぎるけれど、「うらなりの乳房」だって躍動せずにはいられないうれしい時季であり、そこに着目したところに春到来の歓びが大きく伝わってくる。じつは春泥をよけながら、やむを得ず跳びはねているのかもしれない。近年は道路の舗装が進み、よほどの田舎道でないかぎりぬかるみに遭遇する機会は少なくなった。ところで、春泥に躍っているのは何も乳房(女性)だけではない。男性だって躍る。――「春泥に子等のちんぽこならびけり」(川端茅舎)、ほほえましい春泥の図である。バソン了壱には他に「地平線幾度書き直し冬の旅」「この狭き隙間に溢るる臓器学」などがある。『少女器』(2011)所収。(八木忠栄)


March 2432011

 真っ青な危ない空があるばかり

                           広瀬ちえみ

載句は川柳。震災以降、福島原子力発電所の危機的状況が連日報道されている。息詰まるニュースに今まで関心を持たずに過ごしていた原子力発電がいったん制御不能に陥ればどれだけ危険かを思い知らされることになった。東京では計画停電が実施され、毎日変わる電車の運行に頭を悩ませてはいるが、おおよその生活に支障はない。それに比べ都会への電力を供給するため作られた原発の回りの人達はどれほどの恐怖と緊張にさらされていることか。災害復旧の大きな支障となっている現在の状況が一刻も早く落ち着いてくれることを祈るばかりだ。これからどんな世の中になるかわからないが、便利さに慣れ切った自分の在り方を少しずつでも変えていきたい。空は今日も晴れわたっているが、まだ、間に合うだろうか。『広瀬ちえみ集』(2005)所収。(三宅やよい)


May 1952011

 遠雷や生命保険の人が来る

                           渡辺隆夫

本邦雄に「はつなつのゆふべひたひを光らせて保険屋が遠き死を賈りにくる」(「日本人霊歌」)という短歌があるが、たぶんそれを踏まえて作られているのだろう。確かに尋常に考えれば自分の命に値段をつけているわけで、保険というのはコワイしろものだ。塚本の短歌は光っているのは保険屋の汗であるが、掲句の場合は光るものは遠雷である。遠雷は遠來にひっかけてある。普通に考えれば何でもない文脈だが、読み手が塚本の短歌を思い浮かべるだろうことを想定して作られた句だと思う。作者は川柳人。もとの材料にちょいと毒や仕掛けがさりげなく盛られている。季語や故事来歴を逆手にとって詠む。「月山が死後の世界だなんて変」「亀鳴くと鳴かぬ亀来て取り囲む」なんて図を想像するとおかしくなってしまう。大真面目な俳人がおちょくられている。『魚命魚辞』(2011)所収。(三宅やよい)


June 0962011

 孔雀大虐殺百科辞書以前

                           九堂夜想

字ばかりの表記。百科事典にはあらゆる分野にわたっての知識を集めこれを五十音順に配列したものだけど、昔は応接間の書棚に学校の図書館に高級そうな背表紙がずらりと並んでいるのを目にしたものだ。思えばパソコンのない昔は何かを調べるにあたってはあの重い本を棚から引き出し、項目を追い、必要な部分を書きうつしていたわけで、百科事典と言えばずっしり持ち重りする感触が思い出される。そういえば何十年も百科事典を開いていない。百科事典のもとになる百科全書が編集されたのはフランス革命の頃らしいが、「百科辞書以前」とは、人間の知識の尺度で測れない「むかし」と言った感触が込められているのだろう。人間の繁栄以前にあった孔雀の王国が何物かに虐殺されて消滅した禍々しさが感じられる。人間もやがては思いもよらぬ生物によってその終焉が語られる時が来るだろうか。こんな神話的世界が書けるのも俳句。今更ながらに俳句の懐の深さを感じさせられる。『新撰21』(2009)所載。(三宅やよい)


June 2362011

 微熱あり黒く輝くハイヒール

                           久保純夫

込むほどではない、さりとて何かしらだるく熱っぽい。頭がぼうっと霞がかかったよう。普段通りの生活をしているが瞼の裏が熱くて上ずった感じがするそんなうす雲のかかった脳裏に浮かぶハイヒールは幻想なのか、現実なのか。フェティシズムの中でも女の靴に欲望を示す男が多くいることは知られているが、この句にはあのとがった踵で熱っぽい頭を踏みつけてもらいたい。そんな怪しい欲望さえ感じられる。「微熱あり」と最初に置いてしまうとどんな妄想でも受け入れてしまう難しさがあるが、黒いハイヒールの残酷な輝きは、かえってなまなましい現実を意識させる。季語の共感に寄りかからないこの句の場合、読み手の側へ黒く艶のあるハイヒールがくっきりと浮き出てくれば成功というところか。『比翼連理』(2003)所収。(三宅やよい)


July 2572011

 老犬の目覚めて犬に戻りゆく

                           菊池麻美

んだ途端に、人間にも通じるなと思った。仔犬や若い犬は、寝ているときも犬そのものだ。犬としか見えない。だが老いた犬の場合には、まさか他のものと見間違うほどではないにしても、精気が感じられないので、ボロ屑のようにも思えてしまう。それが目覚めてのそりと起き上がり、動きはじめると、だんだん本来の犬としての姿に戻っていくと言うのである。この姿の移り行きは、人間の老いた姿にも共通しているようで、もはや私も他人のことは言えないけれど、多くの老人の昼寝のあとのそれと似ている気がする。実際、たとえば九十歳を過ぎたころからの父の昼寝姿を見ていたころには、あまり生きている人とは映らなかった。ボロ屑のようだとは言わないにしても、精気のない人の寝姿はいたましい。半分くらいは「物」のようにしか見えないのだ。それが起き上がってくると、徐々に人間らしくなってきて安心できた。この句、作者は犬に託して人間のさまを言いたかったのかもしれない。俳誌「鬼」(26号・2011)所載。(清水哲男)


August 1482011

 戦争が廊下の奥に立ってゐた

                           渡辺白泉

ころで、明日の「終戦記念日」は秋の季語ですが、「戦争」はどうなのでしょうか。「時の流れ」がどの季節にも限定できないように、「戦争」も同様に、季節からまぬがれているのかもしれません。だからこの有名な句を前にしても、特段、季節の風を感じません。あるいは、生きている者の親密な息のぬくもりが感じられません。ただ廊下があって、その奥があって、そこに戦争が立っているのだなと、書かれたままに読むだけです。それでもその無表情な戦争が、頭の中を去ってゆかないのはなぜなのでしょうか。どれほど巧みに感情を込めた表現も、どんなに大きな叫び声も、とても歯が立たないもの。文学という器には到底押し込めることのできないものを表現しようとすれば、こうしてただ、そのものを立たせているしかなかったのでしょう。見事な句です。『現代俳句の世界』(1998・集英社) 所載。(松下育男)


October 19102011

 信濃路や澄むとにごると椀ふたつ

                           中村真一郎

に季語はない。じつは真一郎がこの句を作ったのは、学生時代の夏の終りころだったという。そのころは信州追分村の油屋旅館で夏を過ごしていた。大学三年の晩夏、旅館近くに住む堀辰雄も佐々木基一もたまたま留守で、自分ひとりになってしまった。夕食の粗末な膳に向かうと、少々の料理に澄まし汁と味噌汁がならべて出された。ふたつの椀がことさら侘しく感じられ、室生犀星あてのハガキに添えた一句だという。季語はないけれど、今の時季に掲げてもおかしくはない。追分村のシーズンオフのひっそりした旅館で、うそ寒い膳を前にした学生の姿が見えてくる。椀がふたつ出るなんてことがあるのだろうか? 料理が粗末だからせめてもと、ふたつの椀が膳にならべられたということかもしれない。食べきれないほどたくさんの料理がならべたてられる昨今のそれとは、隔世の感がある。余計なことを詠まずに「澄むとにごる」とだけした中七に、俳句の妙味が感じられる。真一郎には親友福永武彦が突然女子大生と結婚した際に詠んだ句として「木枯しや星明り踏むふたり旅」がある。『俳句のたのしみ』(1996)所載。(八木忠栄)


November 24112011

 寝釈迦には星の毛布が似合ひけり

                           津山 類

釈迦といえば『ビルマの竪琴』を思い出す。僧になった水島上等兵の奏でる「埴生の宿」を耳にした日本兵が、巨大な寝釈迦のまわりを探しまわるシーンだ。千葉県館山で同じような寝釈迦を見た。座っている仏様を見なれた目には寝釈迦はゆったりくつろいでいるように見える。冒頭の映画のシーンでは水島上等兵は釈迦の腹の中に隠れていたが、その寝釈迦にも背中あたりに小さな戸があり、出入りできる様だった。うっそうとした森に囲まれ横になる仏様にとって夏は涼しくていいが、冬だとさぞ寒かろう。掲句のように満天の冬星が寝釈迦の毛布だと思えば冬枯れた景色も暖かく思える。「葛城の山懐に寝釈迦かな」の 阿波野青畝の句の寝釈迦は山懐に包まれている安らぎがあるが、この句の寝釈迦は冬空に合わせてサイズが大きく伸びてゆくようである。『秘すれば花』(2009)所収。(三宅やよい)


December 29122011

 悲しみはつながっているカーブする

                           徳永政二

011年も終わりに近づいている。自分が生きてきた中で今年は今までと違う一年だったと思う。3月11日の東日本大震災の津波と原発事故。私は現地へ行ったわけでもなく、被災した人たちから直接話を聞いたわけでもないが、深く心に突き刺さった出来事だった。いや「だった」と過去形ではなくそれは今も続いている。一度起こったことは片付くなんてことはない、それは形を変えていつまでも続くのだ、と言ったのは夏目漱石の『道草』の主人公だったと思うが、そうした現実から滲みだしてくる悲しみが人の心を伝わって双曲線を描きながら自分に帰ってくる。それが言葉になって表現できるようになるのはいつだろうか。川柳は俳句にはない直接性があり、時折ダイレクトな言葉の手ごたえを感じたいときには川柳を読む。いかようにも読める句かもしれないが、わたしには今年を終るにあたって一番心に響く句であった。この句が収録されている句集は沢山の写真と組み合わされて構成されているが、この句に添えられた写真もいい。灰色の空に突き出た太い帆先に一人たたずむ男が遥か遠方を見ている、その孤独な姿がこの句と実によく響き合っている。『カーブ』(2011)所収。(三宅やよい)


January 2912012

 分針は太き泪となる日暮

                           守谷茂泰

しかに分針というのは、秒針や短針よりも太くできています。つまりそれだけ人が見やすいようにしてあるということです。よほどのことがないかぎり、秒針を見る必要などありませんし、また今が何時かはたいてい把握していますから、短針を見る機会もあまりありません。つまり時計というのは、ほとんどの場合分針を見るということなのです。それだけ分針は、人によりそった「時」といえます。その分針が泪のようだというのですから、垂直に垂れ下がっているのでしょう。つまり「30分」を指しており、日暮れというのですから、時刻は「5時半」なのでしょうか。ちょうど一日の仕事を終えて、帰り支度をしている時刻です。一日に起きるべきことはひととおり起き、どんな日だったかの結論が出ている頃です。掲句にあるいちにちは、おそらく辛いものであったのか、あるいは切ないものであったのでしょう。帰り道に腕時計を見る目には泪がたまっています。さて時刻はというと、分針はその太さの中で、これも目にいっぱいに泪をためています。分針のゆっくりとした動きが、なぜか作者の不器用な生き方に重なって見えてくるのです。それでも時がたてば分針は、確実に上に向いて動いてゆきます。同様に作者の思いも、分針を追いかけるようにして、泪をぬぐえるところへ移ってゆければと、思います。『現代歳時記』(1997・成星出版)所載。(松下育男)


February 1022012

 あたたかき老犬と見る火星かな

                           的野雅一

季の句。あたたかきは老犬にかかるから犬の体のあたたかさ、あるいは老犬の人柄?のあたたかさだから春季の暖かとは別。「と」は大いなる主観。老犬が火星をみるわけはないので作者がそう感じているというほどのこと。無季の主観句であるこの句の魅力は老犬と作者と火星の登場する舞台設定。老犬が象徴するのは「命の短さ、尊さ」つまり瞬間。火星が示すのは「永遠」。瞬間と永遠の間に作者が立っている。その設定が魅力なのだ。間に立っていた作者はちょうど二年前の春に早世。今は永遠の側に立っている。『エチュード』(2011)所収。(今井 聖)


March 0132012

 松林だっただっただっただった

                           広瀬ちえみ

月11日から一年がめぐろうとしている。あの日、あの時に家族や故郷を失った人たちの哀しみ、無念さは言葉に尽くしきれるものではないだろう。「だった」の繰り返しに、身近な松林を起点にあの津波で一瞬にして失われたあらゆる海岸の松林への思いが込められている。人がその木陰に憩い、海水浴に遊んだ松林は無残にもなぎ倒され二度と戻ってはこない。作者は仙台市在住の川柳人。震災当日は長年務めた学校で激しい揺れに襲われたと書いている。「何が起きたのかと思うような激しい揺れだった。それでも何が起きたのかわからないまま死ねないと思った。Sさんに助けられ廊下の窓から逃げた。」四階建の校舎はしなるように揺れ、グランドには亀裂が入り、建て増しした繋ぎ目が十センチ以上離れてしまったという。その後の混乱は想像に難くない。それでも遠くの地で無事を気遣う同人の暖かい呼びかけに応えつつ共に雑誌を編集し、3か月後に刊行した。「花咲いて抱き合う無事と無事と無事」「うれしかり生姜を下ろすことさえも」「垂人」15号(2011)所載。(三宅やよい)


April 0642012

 畳を歩く雀の足音を知つて居る

                           尾崎放哉

由律の中でも短律といわれる短い文体が得意な放哉のこと。どうしてこの句「畳を歩く雀の足音」としなかったのだろうか。その方が「もの」に語らせて余韻が残るのに。放哉は「知つて居る」までいうことでそういう境涯にある「私」をどうしても言いたかったのだとだんだんわかって来る。しかしそこまで言わなくても上句だけで十分境涯もわかるのにと読者として思い返したりもする。言わずもがなのところをどうして言わないではおられなかったのか。一句を真中に置いての作者との対話は飽きることがない。俳句を読むうれしさを感じる時間である。『大空』(1926)所収。(今井 聖)


April 1342012

 落日の目つぶし鏡拭く沖縄

                           隈 治人

縄の落日が目にまぶしい。まぶしさを通り越して目つぶしのような強烈な光線だ。目つぶしで一端切る。鏡を拭くのは拭いても拭いても鏡から消えない沖縄の存在感を言っている。「目つぶし」がこの句の核。沖縄がテーマのようだが実は「目つぶし」の方が強烈な詩語だ。この句の「沖縄」は「目つぶし」がなければ生きてこないが、「目つぶし」の方は「沖縄」が無くても他の言葉とうまくやっていける。そんな気がする。こういう核になる語から探していく作り方もあろう。『感性時代の俳句塾』(1988)所載。(今井 聖)


May 0252012

 自由への道出口なし嘔吐蠅

                           榎本バソン了壱

れが俳句?――といぶかしく思われる御仁は多いだろうけれど、れっきとした俳句である。(俳人はこういう句は間違っても作らないだろう。)畏れ多くも、サルトルの著書のタイトルを列挙しただけだが、ちゃんと五・七・五の定形であり、夏の季語も入っている。句意も妙に辻褄が合っているし、下五「嘔吐蠅」は「オートバイ」の駄洒落。「ガリマール版人文書院フランス装実存主義への憧憬」と添え書きがあるが、私などの学生時代には、あの「人文書院フランス装」が大抵の書店には必ず並んでいた。「実存主義」に遅れはとらじと買いこんで貪り読んだ、青い日々が懐かしい。「私が影響を受けたフランスの文学、美術、映画、街区、生活、極めて個人的なさまざまな記憶を掘りおこして、俳句にしてみようと考えた」と後書にある。なるほど、ランボオ、ヴェルレーヌに始まって、ゴダールあり、オペラ座やエスカルゴを経て、クスクスまでと幅広い。48句は「AKB48への対抗である」と鼻息も荒い。ちなみにランボオを詠んだ句は「少年は地獄の季節駆け抜けり」。各句とも例によってユニークな筆文字で書き添えられていて楽しめるし、さらにひるたえみ嬢による仏訳もそれぞれに付されている。『佛句』(2012)所収。(八木忠栄)


June 0662012

 骨酒やおんなはなまもの老女(おうな)言う

                           暮尾 淳

酒は通常焼いたイワナを器に入れて熱燗をなみなみ注ぎ、何人かでまわし飲みするわけだが、季節を寒いときに限定することはあるまい。当方は真夏、富山県の山奥の民宿で何回か骨酒の席を経験したことがある。特にとりたてておいしい酒とは思わないが、座が盛りあがる。一度だけ、見知らぬ若い女性と差しで飲んだこともあった。しかし「なまもの」などという言い方をすると、女性からクレームをつけられるかもしれませんよ、淳さん(おとこはひもの?)。中七を平仮名書きにしたところに、作者が込めた諧謔的な本音があるように思われる。てらいもあるのかもしれない。「なまもの」はおいしいが、中毒するという怖さもある。「なまもの」だからといって、「刺身」などではなく「骨酒」を持ち出したあたり、なるほど。酒に浸され、まわし飲みの時間が経過するにしたがって(おんなも一緒に飲んでいるのだろう)、次第に魚の身が崩れ、骨が露出してくる姿に、「おんな」にも飲まれる哀れと怖さを感じているのかもしれない。ここは老女に「おんなはなまもの」と言わせたのだから、いっそう怖いし、皮肉も感じられる。句集の解説で、林桂は「暮尾さんの俳句の文体は、俳句的修辞への悪意とも憎悪ともつかないものがあって緊張している。最初から俳句表現に狎れることを拒否した緊張感だ」と書く。他に「もういいぜ疲れただろう遠花火」などがある。『宿借り』(2012)所収。(八木忠栄)


June 2262012

 死ねない手がふる鈴をふる

                           種田山頭火

頭火は58歳で病死したがその5年前に旅の途中で睡眠薬を大量に飲んで自殺を企てている。結局未遂に終りそのまま行乞の旅を続ける。本来托鉢行とは各戸で布施する米銭をいただきながら衆生の幸せや世の安寧を祈ることだろう。だから鈴をふる祈りには本来は積極的な行の意味があるはずだ。死にたい、死ねないと思いながら鈴をふるのは得度をした人らしからぬことのように思える。しかしながらそこにこそ「俗」の山頭火の魅力が存するのである。「俳句現代」(2000年12月号)所載。(今井 聖)


June 2962012

 流れに沿うて歩いてとまる

                           尾崎放哉

々に沿って歩いてきました、または歩いていきました、くらいが大方の詩想。凡庸な作家はここまでだ。「とまる」が言えない。行きにけり、歩きけり、流れけり。みんな流して終る。「春水と行くを止むれば流れ去る」誓子の句の行くの主語は我、流れ去るのは春水。二者の動きを説明した誓子に対して放哉は我の動きを言うだけで水の動きも言外に出している。放哉の方が上だな。『大空』(1926)所収。(今井 聖)


July 0572012

 親殺し子殺しの空しんと澄み

                           真鍋呉夫

月の5日、真鍋呉夫氏が亡くなった。文庫版の句集しか読んだことはないが、俳壇の中にある俳人とは違う時空を広げる句に心惹かれるものがあった。「親殺し」「子殺し」の記事が日々新聞にあふれている。余裕のない世間に孤立しがちな苛立ちを一番身近にいる対象にぶつけ、憎み傷つけてしまう愚かしさ。人を殺めるのは瞬間であっても、一線を越えた後の地獄は文学の中で繰り返し語られてきた。親殺し、子殺しの横行する現代、同時代を生きている誰もが多かれ少なかれ追い詰められた空気を共有している。しかし、そんな人間たちの頭上に広がる空はしんと澄みわたり人間の愚行を見下ろしているようだ。その絶景は、地球を覆う人間がことごとく滅亡した終末の空へとつながっているのかもしれない。『雪女』(1998)所収。(三宅やよい)


July 0672012

 鳥葬図見た夜の床の 腓返り

                           伊丹三樹彦

葬図でなくて鳥葬そのものだったらもっと良い句だったのにと考えたあとで思った。しかし鳥葬の実際を目の当たりにできるのかどうかと。岩の上などに置かれた遺体を降りてきた鳥が啄む瞬間など、現実として行われているにしてもプライベートな厳かな儀式でとても見ることなど許されないのではないか。死者の尊厳。そんなことを考えていて柩の窓のことをふと思った。参列者へのお別れとして柩の窓から死者の顔を見る。見る側は見納めとして見るのだが見られる側はどうなのかな。もう意識はないのだからどうでもいいのか。知人は両親共亡くしたあと「こんどは俺が死顔を見られる番だ」と語った。その知人も過日亡くなり僕は柩の窓からお顔を見てきた。ほんとうに嫌だったら遺言しておく手もあったのだから、まあ、そんなことは彼にとってはどっちでもよかったのだと思った。やっぱり鳥葬じゃなくて鳥葬図くらいで良かったのかもしれない。『伊丹三樹彦研究PARTII』(1988)所載。(今井 聖)


July 2072012

 凍死体運ぶ力もなくなりぬ

                           原田 喬

んざりするほど暑い日が続くと、句集を開くときでさえ、わずかな涼感を求めるようにページを繰る。不思議なことにそんなときには吹雪や凩の句ではなく、やはり夏季の俳句に心を惹かれる。遠く離れた冬ではあまりにも現実から離れすぎてしまうためかもしれない。掲句には奥深くを探る指先にじわりとしみるような涼を感じた。人間が直立二足歩行を選択してから、踵は身体の重さを常に受け止める場所となった。細かい砂にじわじわと踵が沈む感触は、地球の一番やわらかい場所に身体を乗せているような心地になる。あるいは、波打際に立ったときの足裏の、砂と一緒に海へと運ばれてしまうようなくすぐったいような悲しいような奇妙な感触を思い出す。暑さのなかに感じる涼しさとは、どこか心細さにつながっているような気がする。〈ひらくたび翼涼しくなりにけり 前書:田中裕明全句集刊行〉〈この星のまはること滝落つること〉『巣箱』(2012)所収。(土肥あき子)


July 2772012

 草の中滑走路は取り返しがつかない

                           上月 章

が自然で滑走路が文明というふうに対比させ、対峙させると草は良い役で滑走路が悪役という図式になるのか。いつも自然は文明に蹂躙されるということか、そんな簡単な句なのか。どうもちょっと違うような気がする。制空権を取るために、また日本本土爆撃を可能にするためにサイパン島は死闘の島となった。この島を獲るのは滑走路をつくって日本を爆撃するためだ。東京大空襲の爆撃機はこの島の滑走路から飛び立ったのだった。そんな戦略としての「取り返しのつかなさ」の方が現実感をもって読める。滑走路を原発に換えて考えたらというような読みに僕は価値を置かない。『感性時代の俳句塾』(1988)所載。(今井 聖)


August 2282012

 バリカンに無口となって雲の峰

                           辻 憲

憶を遡れば、小学生の時はいつも母がバリカンでわがイガグリ頭を刈ってくれた。(中学生になってからは、母による「虎刈り」がいやで、隣村の床屋さんまで出かけた。プロによる理髪は気持ち良かった。)頭髪が伸びると「ゴンマツ頭はみっともねエ」と母が言い、畳にすわらされてバリカンでジョキジョキ……。時々母の手のリズムが狂うと、バリカンが頭髪を食うから「痛ッ!」と叫ぶ。そうすると、バリカンで頭をゴツンとやられる。「タダでやってもらって、男の子は我慢しろ!」。相手は凶器(?)を持っているのだから、下手に逆らえない。「無口」になって我慢せざるを得なかった。あげくの果てが「虎刈り」である。掲句でそんな少年の日のことをありありと思い出した。憲さんの「無口」も実体験であろう。外はカンカン照りで、雲の峰(入道雲)がモクモク。一刻も早く飛び出して行って、友だちと_取りとか水遊びでもしたいのに、しばらくは神妙に我慢していなければならない忍耐の時間。イガグリ頭とバリカンの取り合わせが懐かしい。「虎刈り」の時代も過去の思い出話となってしまった。國井克彦に「バリカンや昭和の夏のありにけり」がある。憲は征夫の実弟で、句会ではいつも高点を獲得している。憲の句に「本郷の猫のふぐりのみぎひだり」がある。「OLD STATION」14号(2008)所収。(八木忠栄)


September 0592012

 天の川の下に残れる一寺かな

                           永田青嵐

詞に「浅草寺」とある。おっとりと左に浅草寺を見て、右に東京スカイツリーを眺望しているという、今どきの呑気な図ではない。「一寺」は関東大震災後の焦土のなかに、どっかりと残った浅草寺のことなのだ。掲句は「震災雑詠」として大正13年「ホトトギス」に34句発表されたなかの一句。大震災後の暗澹とした精神にとって、夜空に悠揚と横たわる天の川は恨めしくも、またどこかしら気持ちのうえで救いになっていたのかもしれない。天変地異の後にあっても、天の川は何事もなかったかのように流れている。「残れる一寺」もせめてもの救いであろう。しかも作者青嵐は、大正12年の関東大震災当時の東京市長だった。未曾有の大被災を蒙った地の首長として、雑泳にこめられた感慨はいかばかりだったか。もちろん俳人然として惨状をただ詠んでいたのではなく、復興作業の陣頭で奔走していた。ところで、「3.11」の復興に奔走しながら、詩歌をひそかに心に刻んだ今どきの首長はいたのだろうか? 都知事は何と言ったか! 青嵐(秀次郎)は東京市長を二期つとめ、68年の生涯に2万句を残した。多産の役人俳人だった。他に「震災忌我に古りゆく月日かな」がある。加藤郁乎『俳の山なみ』(2009)所載。(八木忠栄)


September 0692012

 路地の露滂沱たる日も仕事なし

                           下村槐太

日は白露。日差しはまだまだ厳しいが朝晩は少し涼しくなってきた。昔は大通りの一本裏手に入れば雑草の生い茂る空き地がひょいとあったものだ。まるで涙をたたえるように道そばの草に透明な露が光る。失業してあてどもない身に、あふれんばかりに露を宿した草が圧倒的な勢いで迫ってくる。同時期に作られた失業俳句でも冨澤赤黄男の「美しきネオンの中に失職せり」は職を辞した直後の解放感や高揚感が華やかな孤独となって一句を彩っているようだ。仕事にありつけぬ日々が続けば暮らしは立ちゆかない。あてどない生活の重さが我が身にのしかかってくる。赤黄男の句に較べ槐太の句には生活の重圧と焦燥感が感じられる。作者は職業だけでなく俳句においても流転の人生を歩んだ人だった。「俳句研究」(1976)所載。(三宅やよい)


September 2192012

 洞窟夜会 赤葡萄酒に 現世の声

                           伊丹公子

まれた地について知識などぬきにしてこの一句だけで見ると、「洞窟夜会」とはなんて素敵な造語だろう。岩肌が蝋燭の火で見えるような背景でのパーティだ。雪を掘って作ったかまくらの中に灯を置くのは日本版夜会。これと同じようなものか。異国だから着てるものも派手。肌の色と服の色と葡萄酒の赤がお似合いだ。こんなところに入りこんだらそれこそ夢か現かわけのわからない心境になるに違いない。声も外国の言葉で意味が不明なところが「現世の声」という違和感を誘発している。かまくらもいいけどこんな場所にも迷いこんでみたい。『伊丹公子全句集』(2012)所収。(今井 聖)


November 05112012

 逝くものは逝き巨きな世がのこる

                           藤木清子

の女流俳人と言われる人が二人いる。一人は敗戦後すぐに句集を出した鈴木しづ子で、もう一人がこの句の作者である藤木清子だ。彼女は日中戦争時代に、日野草城の「旗鑑」や「京大俳句」に句を寄せている。二人とも人目に触れる場所での活動期間は短く、いわば「一閃の光芒を放って消えた短距離ランナー」(宇多喜代子)であり、俳句をやめてからの消息は一切不明のままだ。清子に至っては、写真一枚すら残っていない。句の文字面の意味は明瞭だが、しかし、いまひとつ真意を捉えにくい句だ。それはおそらく「巨きな世」の指し示す世界が、現代の常識とは大きくずれているせいではないかと愚考する。戦前のあの時期で「巨きな世」といえば、たいていの人が思い浮かべたのは万世一系の天皇家を頂点とする「不滅の」世界だったろうからである。兵士などの逝くさだめの者は死んでいくのだけれど、巨きな世は永久に安泰である。皮肉でも風刺でなく、素朴にそういうことを言いたかったのではあるまいか。しかし現代的な感覚で読むと、皮肉が辛辣に利いていて、デスペレートな気分の作者像が浮かんでくる。逆に、この句から「万世一系」の世を思えと言われても、そうはまいらない。時代をへだてての句を読むのは難しい。そのサンプルのような句だと思った。宇多喜代子編著『ひとときの光芒・藤木清子全句集』(2012・沖積舎)所収。(清水哲男)


December 12122012

 貰ひ湯の礼に提げゆく葱一把

                           伊藤桂一

はすっかり見られなくなったようだけれど、以前は「貰い湯」という風習があった。やかんやポットのお湯をいただきに行くのではなく、「もらい風呂」である。私も子どもの頃、親に連れられて近所の親戚へ「もらい」に行った経験が何回かあるし、逆に親戚の者が「もらい」にやってきたこともある。そんなとき親たちはお茶を飲みながら世間話をしているが、子供はそこのうちの子と、公然としばし夜遊びができるのがうれしかった。掲句は農家であろうか、手ぶらで行くのは気がひけるから、台所にあった葱を提げて行くというのである。とりあえず油揚げを三枚ほど持ってとか、果物を少し持って、ということもあった。葱を提げて行くという姿が目に見えるようだ。そこには文字通り温まるコミュニケーションが成立していた。桂一は九十五歳。作家や詩人たちの会の集まりに今もマメに出席されていて、高齢を微塵も感じさせない人である。京都の落柿舎の庵主をつとめるなど、長いこと俳句ともかかわってきた人であり、長年にわたって書かれた俳句が一冊にまとめられた。他に「日照り雨(そばえ)降る毎にこの世はよみがへる」「霜晴れて葱みな露を誕みゐたり」などがある。『日照り雨』(2012)所収。(八木忠栄)


January 2112013

 ちちははもおとうとも亡しのつぺ汁

                           八木忠栄

ちははもおとうとも亡し……。八木忠栄に少し遅れて、私も同じ境遇になった。「のっぺ(い)汁」は、作者の故郷である新潟の家庭料理として有名だ。父母も弟も健在だったころには、よく家族みんなで食べたことを思い出している。思えば、そのころが家の盛りだったなアというわけである。正月や盆などの年中行事に食されることが多いそうだから、のっぺ汁はそのときどきの思い出を喚起してくれる料理でもあるだろう。この句を読んで、さて我が家の料理では何が該当するだろうかと考えてみた。が、残念なことに、何も思い当たらない。私の故郷である山口で有名なのは下関のフグ料理くらいで、我が家のような寒村暮らしには無縁であった。フグどころか、当時は海の魚を口にしたことはなかった。つまり私には、掲句のように食べ物から家族を思いだすよすがはないのである。寂しい話だが、仕方がない。それにしても弟に先に逝かれるのはこたえるな。作者に「弟勝彦を悼む、二句」があり、一句は次のようだ。「元天体少年おくる冬の岸」。合掌。『海のサイレン』(2013)所収。(清水哲男)


February 0722013

 ふりそそぐひかり私の逆上がり

                           徳永政二

かった冬を抜け、ようやく立春を迎えた。これからは一日一日日が長くなり、日差しは明るさを増してゆくだろう。本格的な春がどんどん近づいてくる。「光の春」はロシアで使われていた言葉らしいが、緯度の高い国々に住む人たちにとって春は希望そのもの。降り注ぐ光に春を待つ気持ちが強く反応し、この言葉が生まれたのだろう。鉄棒を握って「えいっ」とばかりに足を振り上げて回る逆上がり。まぶしい青空がうわっと顔に降りかかりくるっと回転する。逆上がりが苦手な私はなかなか回転出来なかったので、あおむけの顔に日の光を存分に浴びた覚えがある。眩しい日差しと手のひらの鉄の匂い。もうすぐ春がやってくる。掲句は川柳フォト句集のうちの一句。『カーブ』に引き続き、写真と川柳のセンスあるコラボレーションがふんだんに楽しめる。「春がくる河馬のとなりに河馬がいる」「あの人もりっぱな垢になりはった」『大阪の泡』(2012)所収。(三宅やよい)


February 1722013

 手にゲーテそして春山ひた登る

                           平畑静塔

にゲーテ。これは、持つ自由、読む自由、自由に言葉を使える軽やかさがあります。春山をひたすら登る。これは、歩く自由。野に解き放たれた犬のように、春山を登る喜びがあります。俳句としては例外的に接続詞「そして」を入れていますが、句の中に自然になじんでいて、軽やかな調べを作っています。「そして」は順接なので足し算的な意味がありますが、掲句では同時に、失われたものを取り返す意味もあるように読めます。掲句は、『月下の俘虜』(酩酊社・1955)所収ですが、作者は、昭和15年2月、京都府特高に連行され、一年間京都拘置所で拘留。「足袋の底記憶の獄を踏むごとし」。昭和19年、軍医として中国西京に赴き、昭和21年3月帰還。「徐々に徐々に月下の俘虜として進む」「冬海へ光る肩章投げすてぬ」「噴煙の春むらさきに復員す」。新興俳句弾圧事件で投獄されながら、執行猶予付きで他より早く保釈されたのは、軍医としての「手」を必要とされたからでしょうか。しかし、ほんとうに春はやってきて、手にゲーテをかむように読み、足に春山を踏みしめて、失われていた自由を取り戻せた、春の句です。以下蛇足。「手にゲーテ」とはいかにも三高京大ですね。うらやましい教養主義です。それがキザではないのがいいなあ。(小笠原高志)


March 1432013

 鶴帰るとき置いてゆきハルシオン

                           金原まさ子

ルシオンは睡眠薬。ごく普通に処方される薬のようで海外旅行に行くとき、季節の変わり目などで寝つきが悪いときなど私も処方してもらった覚えがある。なんと言っても「ハルシオン」という音の響きの良さ、楽曲や芝居の題名のようだ。鶴の優雅さと白妙の羽の白さが睡眠薬の錠剤の色を連想させる。鶴が置いてゆくハルシオンは良く効きそうだ。西東三鬼の句に「アダリンが白き軍艦を白うせり」という句があるが、アダリンは芥川龍之介も用いていたらしい。昔の睡眠薬は強い副作用を伴ったようだが最近はだいぶ改良されたと聞く。それでも睡眠薬という言葉は不安定な心の在り方と「死」を連想させる。神経を持つ動物は必ず眠るというが、自然に眠れなくなるのは動物としての機能が阻害され、脳が覚醒してしまうことで、眠りを意識して不眠が昂じるとはやっかいなことだ。掲句には「うつせみの世は夢にすぎず/死とあらがいうるものはなし」とヴィヨンの「遺言詩集」の言葉が添えられている。『カルナヴァル』(2013)所収。(三宅やよい)


March 1832013

 強風や原発の底に竹の根

                           夏石番矢

どもの頃「地震のときは竹やぶに逃げろ」と教わった。関東大震災で怖い目に遭った母親からだったかもしれない。たしかに竹やぶのある土地は、竹の根が張り巡らされているので、少々の地震くらいではびくともしないように思える。しかしそれは表面に近い土地の部分について言えることであり、地下深くの竹の地下茎が腐って水を含み地盤沈下の原因になることが多いと言われている。つまり、竹やぶは決して地震に強いとは言えないわけだ。原発周辺の竹やぶをざわざわと揺さぶっている不気味な強風のなかで、作者はこの言い伝えを思い出したのだろう。そして原発の底に触れている無数の竹の根を想像している。一見頑丈そうなその環境が、実はそうではないと知っている作者は、とくに福島原発がダメージを受けた後だけに、不安な気持ちを押し隠すことができないでいる。この句を拡大解釈しておけば、すべての世の安全対策に対する疑念ないしは皮肉を提出しているということになるだろう。『ブラックカード』(2012)所収。(清水哲男)


May 0252013

 ウーと出てマンボと続く潮干狩

                           佐山哲郎

ういう俳句の良さを伝えるのは難しい。まず「ウー、マンボ!」とマラカス両手に軽快に身体を揺する曲の出だしを知らないと、このワクワク感が読み手に伝わらないだろう。頭の中で鳴り響くマンボのリズムにのって熊手とバケツを提げ、ズボンをまくり上げて海に入ってゆく。開放感にあふれた気分に青い海と空が眩しい。映画の1シーンとして背後にこの曲を流してみれば昔懐かしい日本映画と言った雰囲気。これから潮干狩りを思うたび私の中ではこの曲が流れそうである。「マンボ五番「ヤア」とこどもら私を越える」川柳の中村富二の句にあるが、こちらも同じ曲を主題にしていると考えられる。いずれもレトロな昭和の記憶を引き出す句である。『娑婆娑婆』(2011)所収。(三宅やよい)


May 0352013

 木魚ぽんぽんたたかれまるう暮れて居る

                           尾崎放哉

覚の作品。「まるう暮れて」がこの句の眼目。放哉は酒で身をもちくずし最後は寺男をして死んだ。放哉が幼少から青年期まで暮らした鳥取市立川町は近くに中川酒造という大酒造会社があって放哉はその脇を通って鳥取一中に通った。その通学路は寺の多い道である。鳥取市は池田藩三十二万五千石の城下町なので古い寺は多くそれは城周辺に集中している。鳥取一中は城跡にあったのだ。放哉にとって酒と寺との縁は生涯続いた。『大空』(1926)所収。(今井 聖)


May 1252013

 おもいきり泣かむここより前は海

                           寺山修司

983年5月4日。寺山修司が逝ってから三十年が経ちました。俳句、短歌、詩、脚本、劇団主宰、映画監督、競馬評論、批評。「ぼくの職業は寺山修司です。」このマルチ表現者の出発が俳句であったこと、そして、寺山の句作は十五歳から十九歳の間に限られ、「二十歳になると、憑きものが落ちたように俳句から醒めた」事実はランボーのようです。掲句は無季ですが、昭和27年1月刊の自選句集「べにがに」所収なので、青森の冬の海を情景としているのかもしれません。しかし、俳句は読み手のものでもあるので、それぞれの場所の好きな季節をイメージして読んでいいと思います。私は、波打ち際、砂と海、人と海、といった境界に着眼します。これは、人間と自然という境界でもありながら、人の流す涙が、あたかも川の流れのように海に注いでいく情景です。波打ち際に立って泣くとき、心に流れる泪川は瞳という河口から海へ注いでいく、そこに浄化作用(カタルシス)を感じていく。十七歳の寺山には、そんな思いがあったかもしれません。後年、寺山は、自身の少年時代の句作について、「一連の句に共通しているのは翳りのなさである。それは、私の単独世界であるよりは、『少年の世界』の一般的な表出にすぎなかった」と自己省察しています。つづけて、「それでも、そこにはまさしく私のアリバイがあったような気がするから不思議なものである。青森の田園の片隅にとりのこされた一人の少年は、いまも『次の一句』を思いうかべて瞑想にふけっていることだろう。そして、彼をおいてけぼりにしてきた、もう一人の私だけが年をとり、豚箱入りし、離婚をしたり、賭博や酒に耽溺したりしてきたのである。」これは、映画『田園に死す』で、坊主頭の中学生の私と映画監督になった私とが、田圃の中で将棋を指している一シーンに重なります。『寺山修司俳句全集』(1986)所収。(小笠原高志)


May 2252013

 老いてなお浮雲の愁いおお五月

                           伊藤信吉

齢をどんなに重ねても、人の思いは浮雲のように行方定まらないものかと思われる。自分でも齢を重ねるにしたがって、そのあたりのことはますます頷けるような気持ちがしている。若者の愁いにせよ、高齢者の愁いにせよーー人はまともに生きているかぎり、愁いがなくなることはないのかもしれない。信吉は九十五歳で亡くなったが、掲句は亡くなる二年前の作である。「老いてなお」という表現に、作者の深い思いや苛立ちといったものが感じられる。けれども諦念はしていない。「おお五月」という結句に「老い」を易々とは受け入れない、きっぱりとした気持ちが強く感じられて、むしろすがすがしいし、健やかである。私は伊藤さんに頻繁にお会いしたわけではないけれど、飾らず構えない、さっぱりとしたお人柄だった印象が残っている。エッセイでご自分の句を「演歌俳句」と書いたことがある。生前唯一の句集に『断章四十六』がある。1936年〜2003年までの俳句を収めた全句集『たそがれのうた』(2004)があり、掲句はそこに収められている。晩年の句に「上州ぞ吹くぞさびしいぞ空っ風ぞ」がある。上州群馬の人だった。(八木忠栄)


June 1262013

 かばやきのにほひや街のまひる照り

                           網野 菊

どきの下町であろうか、鰻屋が焼くあの「かばやきのにほひ」である。あたりに遠慮なく広がるおいしい香りはたまらない。かばやきのタレ作りは、その店その店で企業秘密とされる。味もさることながら、どうして独特な脂まじりの匂いがおいしいのだろうか? あの匂いをいやがる日本人は少ないと思う。焼鳥や秋刀魚を焼く匂いの比ではない。しかも街は夏のかんかん照りである。この「照り」が「にほひ」をいっそう引き立てている。ところで、鰻を扱った傑作落語はたくさんある。かばやきの匂いと言えば、ケチの噺のまくらとして登場するこんな小咄がある。ーーあるお店(たな)で昼どきになると、隣の鰻屋のかばやきの旨い匂いをおかずにして、そろっておまんまを食べる。月末に鰻屋が「嗅ぎ料」として勘定をもらいに来た。そこで主人は袋に入れた小銭をジャラジャラ鳴らして、その音だけを「嗅ぎ料」として支払った。どっちもどっちで、しかもじつにシャレているではないか。作家・網野菊を知る人は今や少ないだろうが、多くの俳句を残した。他に「短夜のはかなくあけし夢見かな」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


June 2162013

 履歴書に残す帝国酸素かな

                           摂津幸彦

なで終わるのだから、帝国で切れずに帝国酸素と一気に読むかたちだろう。履歴書が出てくるから帝国酸素は会社名という想定だろう。実際にありそうな社名だが実在したかどうかはどちらでもいい。帝国酸素という社名から作者は大戦前の命名という設定なのだ。「残す」だから過去に存在したという意味が強調される。帝国が滅びてその名が社名に残っている。そこを突くアイロニーがこの句の狙いだ。「酸素」にはそういう空気はその後もつながっているという仕掛けもあるのかもしれぬがそれは作者の想定外かもしれない。定型のリズム575をその区切りで意味を繋げないで転がして思わぬ効果を狙う。この句で言えば「かな」はただゴロの良さによって口をついて出るあまり意味のない切れ字だ。俳句という枠の中で何かを言うという作り方ではなく湧いてくる言葉の片々をパズルのように並べてみて一句の効果を計る作り方だ。『摂津幸彦選集』(2006)所収。(今井 聖)


August 0582013

 息を吸い息吐くことも戦なり

                           暮尾 淳

悼句である。詠まれている伊藤信吉は、2002年8月3日に97歳で没した。作者はその伊藤と公私ともに親しく兄事した詩人だ。句は、次第に呼吸困難におちいってゆく伊藤の様子を描いているが、呼吸など意識したこともなかった私などにも、この句が少しわかりかけてきた。いかにもこの句が言うような「戦(いくさ)」は、そう遠い日のことではなかろうと、身体が先に納得しているような気がする。というのも、近年徐々に脚が弱ってきて、だんだん一歩一歩を意識させられるので、いずれはそれが呼吸器にも及ぶであろうと、身体が覚悟しているような気分があるからだ。いずれにしても、ほとんどの人がいつかは己の一呼吸一呼吸を意識させられるようになる。ああ、人間は呼吸して生きているのだ。とう変哲もない理屈に納得するときが、最期のときだとは……。盛夏の候、元気な人は元気なうちに人生を楽しんでおくべし、である。句集『宿借り』(2012)所収。(清水哲男)


August 0882013

 日の丸の白地に赤がかなしけれ

                           長澤奏子

いむかし「白地にあかく/日の丸そめて/ああ美しい/日本の旗は」と歌った思い出がある。今ネットで調べるとこの歌は明治44年作になっている。作られた時代背景を思うと、1910年の日韓併合の翌年になる。朝鮮半島を足掛かりに大陸へ出てゆく体制を作るうえでも国旗、国歌、国への忠誠をより強化する意図があったのだろう。日の丸の意味はその人の抱える経験、思想、信条によってもさまざまな意味に解釈されるだろう。本来、日の丸の赤は太陽を象徴しているそうだ。戦後廃されたが、昭和16年に作られた上記の一番に続く二番は「勢い見せて/ああ勇ましい/日本の旗は」日本の勢いにまかせて大陸に渡った155万以上の人たちは終戦とともに置き去りにされた。作者の場合は幼児期に上海に渡り、昭和21年3月に長崎に引き揚げ、その後は広島で暮らしている。「かなしけれ」と静かに呟いてはいるが、7歳での引き揚げ体験には筆舌に尽くしがたい思いがあっただろう。日の丸の赤があの戦争で流された血で染まっているように思える。『うつつ丸』(2013)所収。(三宅やよい)


August 1182013

 乾坤のこの一球ぞ甲子園

                           松本幸四郎

台上で見得を切る幸四郎、その人の句です。歌舞伎はもとより、演劇・映画でご活躍中ですが、なかでも、蜷川幸雄演出「リア王」の凋落ぶりと、デビット・ルヴォー演出「マクベス」の陰影のある演技が印象的です。もちろん、代表作「ラ・マンチャの男」は圧倒的ですが、この方の演技は、声が低くなった時も、はっきりと伝わってくる滑舌のよさと節回しの巧みさにあると感じてきました。聞くところによると大のジャイアンツファンで、球場に足を運ばれることもあるそうです。掲句は『仙翁花』(2009)に所収されている「甲子園六句」の中の一句。すり鉢状の球場で、四万人を超える視線は投手の投げる一球に、打者の打つ一球に、野手が捕獲する一球に、一点集中して注がれています。ふだんは舞台上で観客の視線を一身に浴びている作者が、甲子園球場では、マウンド場に向けて熱いまなざしを注いでいる。観客を熱くさせる役者であり続けるためには、まず、自身が熱い観客でなくてはならないということでしょう。今夏も甲子園から、千両役者が生まれることを祈ります。(小笠原高志)


August 1382013

 うぶすなや音の遅るる揚げ花火

                           村上喜代子

と光の関係を理解してはいても、夜空に広がった花火を目にしてから、その光が連れてくる腹の底に響くような音に身をすくめる。鉦や太鼓など大きな音が悪霊を追い払うとされていたことから、花火には悪疫退散の意味も込められていたことがうなずける。歌川広重の浮世絵「名所江戸百景」の「両国花火」を見るとその構図はおどろくほど暗い。時代は安政5年。安政2年の大地震のあと、初めて開催された花火だといわれる。画面の半分以上が占められる夜空には鎮魂も込めて打ち上げられた花火の、火花のひとつひとつまで丁寧に描かれている。花火に彩られた夜空は、ふたたび漆黒の沈黙を広げる。それはまるで、なつかしい記憶をよみがえらせたあと、大切に保管するための重い蓋を閉じるかのように。〈三・一一赤子は立つて歩き初む〉〈ひぐらしは森より蝉は林より〉『間紙』(2013)所収。(土肥あき子)


August 1582013

 水際に兵器性器の夥し

                           久保純夫

のところ必要があって戦争に関する書籍を30冊余り読んだ。戦地から帰還できた人達の背中には遠い異国で戦死した人々の無念が重くのしかかっている。戦線の攻防は川や海で、繰り広げられる。戦闘が終わった水際に、戦死者の身体や武器が夥しく投げ捨てられている。戦いの終わったあとの静寂を戦死者の局部と打ち捨てられた武器の並列で言い放つことで、名前も過去も剥ぎ取られ横たわっている骸と水漬く兵器がなんら変わりのないことをえぐりだす。前線で命を落とすのは大上段から号令を発する上層部からは遠い名のない人間ばかりである。今回、さまざまな記録を読んでいたく考えさせられたが、幼い頃山積みにされた戦死者を写真で見たときのおびえをいつまでも忘れたくないと思う。『現代俳句一00人二0句』(2003)所載。(三宅やよい)


August 1882013

 月光を胸に吸い込む少女かな

                           清水 昶

さんの『俳句航海日誌』(2013・七月堂)が上梓されました。2000年6.13「今は時雨の下ふる五月哉」に始まり、2011年5.29「遠雷の轟く沖に貨物船」に終わる927句が所収されています。日付順に並ぶ一句一句が、海へこぎだすサーフボートのように挑み、試み、言葉の海を越えていこうとしています。所々に記された日誌風の散文は、砂浜にたたずんで沖をみつめるのに似て、例えば「現代詩が壊滅状態にある現在、俳句から口語自由詩を再構築する道が何処にあるのかを問わなければ、小生にとって一切が無意味なのです。」という一節に、こちらもさざ波が立ちます。句集では、「少年」を詠んだ句が10句、「少女」が7句。少年句は、「湧き水を汲む少年の腕細し」といった少年時代の自画像や「少年の胸に負け鶏荒れ止まず」といった動的な句が多いのに対し、少女句は、「ゆうだちに赤い日傘の少女咲く」「草青む少女の脚の長きかな」というように、そのまなざしには遠い憧憬があります。なかでも掲句(2003年8.19)は憧憬の極みで、少女は月光を吸って、胸の中で光合成をしているような幻想を抱きます。少年の動物性に対する少女の植物性。少女を呼吸器系の存在として、その息づかいに耳を遣っているように読んでしまうのは的外れかもしれません。ただ、この一句に翻弄されて、言葉の海の沖の向こうに流されました。ほかに、「『少年』を活字としたり初詩集」。(小笠原高志)


September 0192013

 海風に筒抜けられて居るいつも一人

                           尾崎放哉

正十四年八月二十四日。放哉は、小豆島、南郷庵に入ります。翌年、四月七日午後八時、ここで死去。享年四十二。この七ヶ月半に残されたのは、二百二句。庵の入り口の石段を三つ四つ上ると、低い塀の上に大松が一本枝を垂れていて、この大松の根方に、荻原井泉水筆の「入れものが無い両手で受ける」の小さな句碑があります。『入庵雑記・海』冒頭を抜粋すると「庵に帰れば松籟颯々、、至つてがらんとしたものであります。芭蕉が弟子の句空に送りました句に『秋の色糠味噌壺も無かりけり』とあります。、、全くこの庵にも、糠味噌壺一つ無いのであります。、、時々、ふとした調子で、自分はたつた一人なのかな、と云ふ感じに染々と襲はれることであります。八畳の座敷の南よりの、か細い一本の柱に、たつた一つの脊をよせかけて、其前に、お寺から拝借して来た小さい低い四角な机を一つ置いて、、一日中、朝から黙つて一人で坐つて居ります。」文中の「一人、一つの、一つ、一日中、一人」という単数形に、詩人を生きた証を読みます。掲句は「海風に筒抜けられて居る」で切れます。人は、口から肛門までが一本の管ですが、放哉は、自身を一本の筒ととらえ、海風が自身の内側をなでて通過する実感で、自身が「居る」ことを確かめています。『笈の小文』の風羅坊が、また一人、ここで海風を受けて居ます。『尾崎放哉全集』(1972)所収。(小笠原高志)


January 2212014

 二十のテレビにスタートダッシュの黒人ばかり

                           金子兜太

の量販店のフロアーなら二十のテレビどころの数ではないから、これは街角の電気店の風景。ふと足を止めた視線の先に、スタートの位置に身を屈める黒人の姿が映し出された二十のテレビ画面がある。この句は俳句を作る上で一般的に避けるべきとされるさまざまなタブーを破っている。まず無季句であること。字余りであること。スタートダッシュという長い名詞を用い、しかもカタカナ語が二語出てくること。テレビを通して観る対象だから、間接的な把握になること等々。それら従来の作句方法の「要件」を歯牙にもかけず、(それら一つ一つに「挑戦する意識」があったらとてもこれだけまとめての掟破りはできない)とにかく作者の感じた「現在只今」が優先される。街角も、観ている側も、映し出されている画像も、二十のテレビそのものも、全てひっくるめて状況そのもの。このとき読むものはそこにまぎれもなく呼吸して動いている作者を見出すのである。『暗緑地誌』(1972)所収。(今井 聖)


January 2612014

 遥かなる瀬戸の海光探梅す

                           小尻みよ子

梅は、宋代の漢詩に使われて以来、連歌、俳諧に用いられるようになった晩冬の季語です。つぼみのなか、梅の開花を探しに行く、風雅な冬のお散歩です。掲句(平成11年作)は、遥か向こうに瀬戸内の穏やかな海の光を見て探梅しているので、のどかな丘陵でしょう。ところで、平成12年作に「海望む吾子の墓所や木の葉降る」があり、「瀬戸の海光」は亡き息子がつねに見続けている遥かな先であることがわかります。1987年5月3日午後8時15分、兵庫県西宮市にある朝日新聞阪神支局に侵入した目出し帽の男が散弾銃をいきなり発射、支局員だった小尻知博記者(当時29歳)が命を奪われました。「未解決今日もあきらめ明日を待つ」「知博に会いに行く道今日も過ぎ」「おもいだす地名も辛し西宮」。句集前半の84句に季語はほとんどありません。それが、平成5年作「夢叶はざりし子の忌近づく雉子の声」同6年作「来し方をゆさぶる真夜の虎落笛」と、季語を読み込むことで句に変化が現れてきます。決して忘れることのできない不条理な悲しみを、季語が共鳴しているようです。「探梅す」の掲句にいたっては、ややもすると内向きになりがちな気持ちを外に向かわせてくれている作者の心持ちをたどることができます。季語が、前向きに生きる応援をしています。なお、句集の中で特筆したいのは、加害者に対する怨みの一言もない点です。高貴な心に触れました。『絆』(2002・朝日新聞社)所収。(小笠原高志)


March 0232014

 雛の間の無人の明るさの真昼

                           林田紀音夫

もいない雛の間の真昼。赤い雛壇に、白い顔の殿方と姫君が座っています。笛や太鼓や箏などの楽器と、黒い漆塗りの器が細やかに配置されていると、静寂の中に華やぎがあります。真昼の雛の間には、作者と人形たち以外は誰もいない。その明るさを詠まれる雛たちは幸せです。掲句は、昭和63年、作者64歳の作。しかし、昭和49年に上梓された第二句集『幻燈』を読むと、つねに亡き人の存在が見え隠れしていた苦悩を辿ることができます。「風の流れにつねにひらたく遺体あり」「海のまぶしさ白骨の人立ちあがり」「水平線藍濃く還れない戦死者」(これは、「愛国」を掛けているのか?)「抽斗(ひきだし)いっぱいの遺影軒には鳩ねむり」。みずからも昭和20年の春、最後の現役兵として入営した記憶を忘れることができません。例句もふくめて、この頃までの句作の多くが無季破格です。戦争の記憶には、有季定型には納まりきらない不条理があると推察します。しかし、それから歳月を経て掲句では、平明の境地を獲得しています。「雛の灯を消してひとりの夜に戻す」も。『林田紀音夫全句集』(2006)所収。(小笠原高志)


April 3042014

 春雨や物乞ひどもと海を見る

                           横光利一

乞ひども、などという言葉遣いは、今日ではタブーであろう。「二月二十八日、香港」という前書きがあるから、かの国の「物乞ひども」であろう。利一は1936年から半年間ヨーロッパへ旅行した。途中、香港に寄っている。その時代にかの国の「物乞ひ」たちに向けられた、日本の作家の一つの態度がうかがえるようである。まだ冷たい春雨に降りこまれ、旅の無聊を慰めるように九龍の浜から、香港島を望んで目の前に広がる海をぼんやり眺めているのだろう。どこかしら心が沈んでいて、不安な気持ちが読みとれるようだ。これからヨーロッパへ向かうというのに、今の自分は「物乞ひども」といったいどれだけちがうというのか。二日前に日本で起きた「二・二六事件」のことは台湾で知ったらしい。事件のことも頭にあって、香港の海を前に茫然自失しているのかもしれない。このヨーロッパ旅行から帰国して書いたのが、代表作「旅愁」だった。俳句をたくさん残した利一が、やはり物乞いを詠んだこんな句もある、「物乞ひに松の粉ながれやむまなし」。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


June 1962014

 犬を飼ふ 飼ふたびに死ぬ 犬を飼ふ

                           筑紫磐井

心ついた時から何匹の犬と出会ったことだろう。家族が動物好きだったので犬と猫は絶やしたことがなかった。犬はシビアに家族の順位を決めるので五人兄弟の末っ子の私などは犬以下の存在で噛まれたり追いかけられたり散々だった。そんな犬たちも次々老いて死んでいったが一度犬を飼うと死んだ後の寂しさを埋めるように、また犬を飼い始めてしまう。結局最後は自分の老いと考え合わせて、最後まで面倒見切れないと判断した時点で「飼う」というサイクルも終わりを迎える。「犬」と「飼う」という言葉の繰り返しで、犬と人間の付き合いを、飼い主より先に死んでしまう犬への哀惜を、ひしひし感じさせる句だと思う。『我が時代』(2014)所収。(三宅やよい)


July 1472014

 老人は青年の敵強き敵

                           筑紫磐井

書に「金子兜太」とある。ちょうどいま新刊の『語る 兜太ー我が俳句人生』(岩波書店)を読んでいるところで、この句を思い出した。水も滴るよい男(古いね)を指して「女の敵」と言うように、この句の「敵」は最高の賛辞である。人の褒め方にもいろいろあるが、「敵」という許せない存在も、レベルが上がってくると、許すどころか畏敬の対象にまで変化を遂げるのだ。この人のようになりたいとかなりたくないとかのレベルを超えて、「敵」はもはや、この句の範疇で言えば、「青年」の批評や批判の外に、あるいは憧憬や羨望の外に悠然と立っている。そして、こうした人物の存在はもとより希少である。それが「もとより」であることは、ちなみにこの前書を他の誰それに変更して読んでみると、はっきりわかるだろう。老人について書かれた最古の文章であるキケロの老人論に私たちが鼻白むのは、キケロがこの句を半ば一般論として押しつけようとしているからなのだ。『我が時代』(2014)所収。(清水哲男)


July 1772014

 やわらかくきっぷちぎられ水族館

                           長岡裕一郎

季の句だが水族館の醸し出す雰囲気が涼しげで句の雰囲気が夏を思わせる。炎天を逃れて薄暗い館内に入ると明るい水槽では魚たちが自在に泳ぎ回っている。この頃は深さによって棲み分ける魚たちの生態も見られるように数十メーターの高さのある大きな水槽が設置された水族館も多く、水族館での楽しみ方も増えた。動物園や映画館など入口でちぎって渡される半券はどこも柔らかいように思うが、ひらがなの表記に続けて接続する「水族館」の「水」の効果で手の内で湿る半券のやわらかな感触が伝わってくる。人それぞれの思い出の中に水族館はあるだろうが、掲句を読んで、私は幼い頃よく行った須磨水族館を思った。窓の外には須磨の浜が広がっていた。今も海水浴客でにぎわっているだろうか。『花文字館』(2008)所収。(三宅やよい)


October 01102014

 里芋の煮つころがしは箸で刺す

                           大崎紀夫

たちがふだん「里芋」と呼んでいる芋にも種類があって、ツルノコイモとかハタケイモをはじめ、品種が多いようだ。山形県ではじまった、この時季の「芋煮会」なるものはどこでも行われるようになってきた。里芋にはいろいろなレシピがあるわけだが、素朴な「煮っころがし」が最もポピュラーで、好まれていると言っていい。丸くてぬめりがあるから、お行儀よく箸でつまむよりは、手っとり早く箸で刺したほうが確実にとらえて口に運べる。掲出句はお行儀よく構えることをせず、そのことを詠んだもの。「本膳」という落語がある。庄屋に招かれた村人たちが、あらかじめ手習いの師匠から「本膳での食べ方は私の真似をするように」と教わって出かける。席で師匠が里芋の煮っころがしをうっかりとりそこなって転がすと、村人がいっせいに箸で里芋をつついてそれを転がすという、にぎやかなお笑いの場面がある。ついでに、落語家の間では「ライスカレーは匙で食う」という、当たり前すぎて笑える言い方がある。釣師でもある紀夫には「ぎぎ釣るやぎぎぎぐぎぐぎぐうと泣く」という妙句がある。『俵ぐみ』(2014)所収。(八木忠栄)


October 26102014

 薪在り灰在り鳥の渡るかな

                           永田耕衣

者自ら超時代性を掲げていたように、昔も今も変わらない、人の暮らしと渡り鳥です。ただし、都市生活者には薪も灰も無い方が多いでしょう。それでもガスを付けたり消したり、電熱器もonとoffをくり返します。不易流行の人と自然の営みを、さらりと明瞭に伝えています。永田耕衣は哲学的だ、禅的だと言われます。本人も、俳句が人生的、哲学的であることを理想としていました。私は、それを踏まえて耕衣の句には、明るくて飽きない実感があります。それは、歯切れのよさが明るい調べを 与えてくれ、意外で時に意味不明な言葉遣いが面白く、飽きさせないからです。たぶん、意味性に関して突き抜けている面があり、それが禅的な印象と重なるのかもしれません。ただし、耕衣の句のいくつかに共通する特質として、収支決算がプラスマイナス0、という点があります。掲句の薪は灰となり、鳥は来てまた還る。たとえば、「秋雨や我に施す我の在る」「恥かしや行きて還つて秋の暮」「強秋(こわあき)や我に残んの一死在り」「我熟す寂しさ熟す西日燦」「鰊そばうまい分だけ我は死す」。遊びの目的は、遊びそのものであると言ったのは『ホモ・ルーデンス』のホイジンガですが、それに倣って、俳句の目的は俳句そのものであって、つまり、俳句を作り、俳句を読むことだけであって、そこに 意味を見いだすことではないことを、いつも意味を追いかけてしまいがちな私は、耕衣から、きつく叱られるのであります。『永田耕衣五百句』(1999)所収。(小笠原高志)


November 17112014

 昔々勝手にしやがれという希望

                           甲斐一敏

うか、もうゴダールの映画『勝手にしやがれ』は、「昔々」の域に入っているのか。調べてみたら1959年の製作だから、五十年以上も昔のフィルムである。見ていない人には説明の難しい映画だが、ストーリーとしては、官憲に追われた街のチンピラやくざ(ジャン・ポール・ベルモンド)がガールフレンドのアメリカ娘(ジーン・セバーグ)の密告で追いつめられ、最後は路上で警察の銃弾を受けて虫けらのように死んでいく、という単純なもの。しかしこのストーリーの画面上の展開技法は従来の映画の文法を打ち破る画期的な作品で、当時の若い映画ファンの度肝を抜いたのだった。ああ、映画はこんなに自由なメディアなのだ。見ていて、体中の神経や筋肉の緊張がが解き放たれるような気分であった。作者が「希望」と言っているのは、思想的な問題もさることながら、そうした自由気ままな雰囲気から触発された多くのことを指しているのだと思う。日本語のタイトルは「勝手にしやがれ」だが、原題は『A BOUT DE SOUFFLE』で、直訳すれば「息切れ」とでもすべきだろうか。これを大胆に改変した日本語のタイトルは、秀抜である。この絶妙な日本語タイトルとあいまって、若者の「希望」はなお色濃くなったと言ってもよさそうだ。『忘憂目録』(2014)所収。(清水哲男)


December 11122014

 飲食のあと戦争を見る海を見る

                           吉村毬子

食時に食事時にテレビをつければイスラム国での戦闘の画面が映し出され、次のニュースでは南半球のリゾート地でのバカンスに切り替わる、一つの部屋にいながらにしてテレビは次々と世界で同時的に起こる映像を映し出す。漫然と通り過ぎる画像を食事をしながらリビングで見る生活が歯止めなく流れてゆく。掲載句ではそうした現実を踏まえつつ、現実から少し浮遊したところで書きとめている印象だ。句に意味づけをするつもりははないのだけど、無季であるだけに「いんしょく」と読むか「おんじき」と読むかで句の色合いが変わってくるように思う。「おんじき」と読むと「飲食のあと」の言葉の響きに終末感が漂う。戦争と海の概念性が増し「見る」主体に「わたくし」ではない超越的な神の目を思わずにはいられない。日常的な飲食のくり返しの果てに戦争を見て、海に全てのものが飲み込まれてゆくのを見る、そんな怖さを感じさせられる。『手毬唄』(2014)所収。(三宅やよい)


January 1512015

 祖父逝きて触れしことなき顔触れる

                           大石雄鬼

寒のころになると「大寒の埃の如く人死ぬる」という高浜虚子の句を思い出す。一年のうちでもっとも寒い時期、虚子の句は非情なようで、自然の摂理に合わせた人の死のあっけなさを俳句の形に掬い取っていて忘れがたい。私の父もこの時期に亡くなった。生前は父とは距離があり、顔どころか手に触れたことすらなかった。しかし亡くなった父の冷たい額に触れ、若かりし頃広くつややかだった額が痩せて衰えてしまったことにあらためて気づかされた。多くの人が掲句のような形で肉親と最後のお別れをするのではないか。掲載句は無季であるが虚子の句とともにこの時期になると胸によみがえってくる。『だぶだぶの服』(2012)所収。(三宅やよい)


January 2612015

 俺が老いるとは嘘のようだが老いている

                           田中 陽

者は口語俳句のベテランとして知られる。老年近くになってくると、誰しもが感じる泣き笑いの実相だろう。老いを自覚するのは、突然だ。第三者が冷静に観察しつづければ、老いは徐々に訪れるのかもしれない。が、当人にしてみれば、たいていはこんなはずではないのにと思うさなかに、老いは容赦なく姿を現す。そして老いは、ひとたび出現するや、どんどん進行していくような気がする。それは外観的にもそうだが、内面でも深化していく。外側から内側から泣き笑い現象が進行していき、泣こうがわめこうが、がんじがらめに縛り上げられることになる。余人は知らず、私の場合にはそんな印象だった。そしてやがては、同じ作者の最新句集『ある叙事詩』にあるように「だれが死んでもおどろかない おれが死んでも」の心境に至るのである。『現代俳句歳時記・無季』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


January 3012015

 ふくろうはふくろうでわたしはわたしでねむれない

                           種田山頭火

(ふくろう)は夜行性の猛禽類である。灰褐色の大きな翼で音を立てずに飛翔し小動物を捕獲する。その鳴き声は「ボロ着て奉公」とか「ゴロスケホーホー」などと聞こえてくる。漂浪の俳人山頭火が野宿をしながらそのゴロスケホーをじっと聴いている。梟のほうはそれが本性なのだから眠れないのだが、山頭火の方は淋しくて眠れないのか物を思って眠れないのかやはり闇の中で起きている。誰にだって寝付かれぬ夜はある。他に<だまつてあそぶ鳥の一羽が花なのか><百舌鳥のさけぶやその葉のちるや><啼いて鴉の、飛んで鴉の、おちつくところがない>など。『山頭火句集』(1996)所収。(藤嶋 務)


April 1042015

 マラケシュに水売る男つばくらめ

                           中島葱男

ラケシュはモロッコ中央部の都市。アトラス山脈のうち最も険しい大アトラス山脈の北に位置し、「南の真珠」と呼ばれてきた。そんな地方に生を受け一生をそこに埋める土着の生活がある。その日その日を糧を得るだけ働き明日の事を考えない。この男も水売りとして何疑う事なく日々を過ごしている。そんな男の傍らを翼を展ばしたつばくらめがすいすいと飛んでいる。そして又明日は旅の鳥となって山脈を越えてゆくのであろう。さて土着と旅と二つの営みの選択をどう選ぼうか。他に<うぶごえはそのみどりごのゆめはじめ><草清水きららの石を積みにけり><月天心まつすぐ跳ねるマサイ族>など。「丘ふみ游俳倶楽部」(2008年号)所載。(藤嶋 務)


May 0352015

 ピアノは音のくらがり髪に星を沈め

                           林田紀音夫

髪のピアニストが、音の光を奏でています。十指で鍵盤を叩くと、それは88本の弦に響き、流線型の黒い木箱が共鳴するとき、音は深く混ざり合う。単純ではないその音色に、人は喜びや楽しさに加えて、切なさや鈍痛をも耳にします。「音のくらがり」のないところに、「星」をみることはできません。ロマン・ポランスキー監督作品に、「戦場のピアニスト」という映画がありました。ポーランドの国民的作曲家であったユダヤ人のシュピルマンは、第二次世界大戦のさなか弾圧と逃亡の日々を過ご しますが、隠れ家でひそかにピアノを弾いていたところをドイツの将校に見つかります。しかし、その音色が美しかったので、連行されずに生き延びます。当時、ワルシャワには30万人のユダヤ人がいた中で、生き残れたのは22人。シュピルマンは、その一人です。聞いたところによると、シュピルマンの息子は、日本人女性と結婚して、現在、日本の大学で日本の政治を研究しているそうです。今日は憲法記念日です。憲法が国家の倫理なら、それは積極的なアクセルを踏もうとする合理主義にブレーキをかけるはたらきでしょう。国家という乗り物に必要な装置は、アクセルではなくまず第一にブレーキです。倫理とは、いいことをする正義ではなく、いいことをしようとする積極的な正義に対して待ったをかける 落ち着いたおとなしさです。日本の憲法は、人類の歴史で初めて、大人の落ち着きを成文化しました。憲法記念日の今日、砲弾ではなく、ピアノの音が永続できる日であることを願います。『林田紀音夫全句集』(2006)所収。(小笠原高志)


May 2152015

 シャツ干して五月は若い崖の艶

                           能村登四郎

子兜太のよく知られた句に「果樹園がシャツ一枚の俺の孤島」がある。揚句の「シャツ」もそうだけど、今の模様入りのカラフルなシャツではなく、薄い綿のランニングといった下着のシャツだろう。張り切った肉体の厚みをはっきりと浮き立たせるシャツは若い男性の色気を感じさせる。爽やかな風にたなびくシャツ、「若い」は五月と崖の艶、双方を形容するのだろう。なまなましい岩肌を露出させた崖の艶はシャツの持ち主である若者の張りきった肌をほうふつとさせる。若葉の萌え出る五月、美しく花の咲き乱れる五月はやはり生命感あふれる若者のものなのだろう。『能村登四郎句集 定本枯野の沖』(1996)所収。(三宅やよい)


May 2252015

 雀のあたたかさを握るはなしてやる

                           尾崎放哉

かの拍子で雀が地に落ちて人の手に拾われる事がある。孤独の境地に生きる放哉も雀のを拾ってしまう。そして手のひらに温め愛しんだ。親鳥がどこか近くで鳴き騒いでいる。生き延びるには彼らの元へ送りかえさねばならぬ。名残惜しいがそっと放してあげた。お帰り、君の世界へ。人家近くに暮す雀は繁殖期になると屋根の瓦の隙間、壁の穴などに巣を作る。子が生まれ餌運びに親鳥が忙しく巣を出入りする。孵化した雛は最初は眼も開かず羽も生えていないが、15日ほどでもう巣立ってゆく。順調にゆくものもあれば落伍するものもあり、人間と同じである。他に<わが顔ぶらさげてあやまりにゆく><たまらなく笑ひこける声若い声よ><風に吹きとばされた紙が白くて一枚>などが身に沁みた。村上譲編『尾崎放哉全句集』(2008)所載。(藤嶋 務)


May 2552015

 「お父さん」と呼ぶ娘も 後期高齢者に

                           伊丹三樹彦

意は明瞭。この事実には「ほう」と思うが、おおかたの読者の感想はそこらあたりで終わってしまうのではなかろうか。この事実に、もっとも愕然としているのは作者当人である。伊丹三樹彦は1920年生まれだから、今年で95歳だ。後期高齢者の娘さんがあっても、べつに不思議ではない。不思議ではないけれど、作者にしてみれば、この事実を突きつけられることで、現在のおのれの老いをいわば客観的に示された思いになる。多くの局面において老人にとって、いや誰にとっても、年齢はあくまでも「他人事」なのである。年齢を意識させられるのは相対的な関係においてなのであり、普段はわが事として受けとめつつも、半分以上は自分に引きつけて考えることもない。普段おのれの老いを認めてはいても、それだけのことであり、精神的にぐさりと年輪を感じることはあまりない。しかし、このような身内(子供)の老いを客観的につきつけられると、何か不意打ちでも食らったかのような衝撃が走る。小さいころから「お父さん」と呼びつづけていた子供がここにきて「急に」老いてしまった……。この娘はいつだって、自分とは比較するきにもならないほど、若い存在であった。その思いが急に我が身を老いさせる。このようなことは、起きそうでいてなかなか起きるものではないだろう。思わずも、読者にどう思われようとも、句にしておきたいと思った作者の気持ちがよくわかるような気がする。『存命』(2015)所収。(清水哲男)


May 2952015

 青鷺の常にまとへる暮色かな

                           飛高隆夫

鷺は渡りをしない留鳥なので何時でも目にする鳥である。東京上野の不忍池で観察した時は小さな堰に陣取り器用に口細(小魚)を抓んでいた。全長93センチにもなる日本で最も大きな鷺であり、餌の魚を求めてこうした湖沼や川の浅瀬を彷徨いじっと立ち尽くす。その姿には涼しさも感じるが、むしろ孤独な淋しさや暮色を滲ませているように感じられるのである。他にも<藤垂れて朝より眠き男かな><耳うときわれに妻告ぐ小鳥来と><よき日和烏瓜見に犬連れて>などが心に残った。「暮色」(2014)所収。(藤嶋 務)


June 1162015

 ぎりぎりの傘のかたちや折れに折れ

                           北大路翼

月11日は「傘の日」らしい。台風や雨交じりの強風が吹いたあと、道路の片隅にめちゃくちゃになったビニール傘が打ち捨てられているのを見かける。まさに掲句のように「ぎりぎりの傘のかたち」である。蛇の目でお母さんが迎えにくることも、大きな傘を持ってお父さんを駅に迎えに行くこともなくなり、雨が降れば駅前のコンビニやスーパーで500円のビニール傘を購入して帰る。強い衝撃にたちまちひしゃげてしまう安物の傘は便利さを求めて薄くなる今の生活を象徴しているのかもしれない。掲句を収録した句集は新宿歌舞伎町を舞台に過ぎてゆく季節が疾走感を持って詠まれているが、傘が傘の形をした別物になりつつあるように、実体を離れた本意で詠まれがちな季語そのものを歌舞伎町にうずまく性と生で洗い出してみせた試みに思える。「饐えかへる家出の臭ひ熱帯夜」「なんといふ涼しさ指名と違ふ顔」『天使の涎』(2015)所収。(三宅やよい)


July 1972015

 毒死列島身悶えしつつ野辺の花

                           石牟礼道子

月12日の夜は、大分で地震がありました。今月に入って、根室で震度3、盛岡で震度5弱、栃木でも震度4など、列島は揺れています。これに加えて、口永良部島の噴火や、箱根、浅間山、昨年は木曽の御嶽山の惨事がありました。霧島では、火山性地震が急増している一方で、同じ鹿児島県の川内原発1号機では、原子炉に核燃料を搬入する作業が完了しました。他の誰でもない石牟礼道子氏が「毒死列島」という言葉を句にするとき、それは誇張ではない実質を伝えます。「身悶え」という言葉も同様に、日本人の営みは、この土地とじかにつながっていて、この土地の身内として自身の営みを続けてきた実感を伝えています。以下、句集の解説から、上野千鶴子氏との対話を抜粋します。「3.11のときに何を感じられたのですか。」「あとが大変だ、水俣のようになっていくに違いないって、すぐそう思いました。」「水俣と同じことが福島でも起こる、と。」「起こるでしょう。また棄てるのかと思いました。この国は塵芥のように人間を棄てる。役に立たなくなった人たちもまだ役に立つ人たちも、棄てることを最初から勘定に入れている。役に立たない人っていないですよね。ものは言えなくても、手がかなわなくても、そこにいるだけで人には意味がある。なのに『棄却』なんて言葉で、棄てるんです。」「人間がやることは、この先もあんまりよくなる可能性はないですか。」「あまりない。いや、いいこともあります。人間にも草にも花が咲く。徒花(あだばな)もありますけど。小さな雑草の花でもいいんです。花が咲く。花を咲かせて、自然に返って、次の世代に花の香りを残して。」『石牟礼道子全句集 泣きなが原』(2015)所収。(小笠原高志)


August 0382015

 火薬工場の真昼眼帯の白現われ

                           杉本雷造

ういう句に出会うと、おそらくは人一倍反応してしまうほうだ。父親の仕事の関係でしばらく、花火工場の寮に暮していたことがあるからだ。花火といえば、この時季がかき入れ時。と同時に、事故の多発期。いまよりもずっと脆弱な管理体制下にあった昔の花火工場では、真夏の事故には、いわば慣れっこ、ああまた「ハネたか」という具合であったが、ときには死者も出る。飛び散った肉片を集めるために、警官達が割りばしをもって右往左往していた姿は忘れられない。そんな環境の工場に白い眼帯をした者が現れたら、誰しもが事故と結びつけて反応してしまう。このような反応は、その職場によってさまざまだろうが、その怪我が工場とは無関係なことがわかったあとでも、「よせやい、この暑いのに」と笑ってすますまでにはちょっと時間がかかる。無季に分類せざるを得ないが、私の中では夏の句として定着している。『現代俳句歳時記・無季』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


August 0682015

 広島に生まれるはずはなかったのだ

                           武馬久仁裕

季句。1945年8月6日 午前8時15分。原爆が投下された直後、その悲劇に遭遇した人の口からこの言葉がうめきごえと共に洩らされたかもしれない。あの戦争では偶然のなりゆきで生死を分け、家族と離ればなれになって筆舌に尽くしがたい苦労を背負い続けた人が何万人もいたことだろう。広島、長崎と引き起こされた悲劇。人は生まれる場所を自分で決めることは出来ない。広島に生まれるはずはなかったけど広島に生を受け、原爆にさらされた人。亡くなった人。今は戦後であるが、次に始まる戦争前だと捉える人も多い。憲法をないがしろにする安全保障関連法案が衆議院で強行採決され、きな臭い匂いが高まっている。小さな火種をきっかけに戦争はある日突然始まり、争いはたちまちのうちに拡大してゆく。いまこそ自分が生まれた場所が再び戦争の惨禍に巻き込まれないよう小さな声でも発言していくことが必要なのだろう。『武馬久仁裕全集』(2015)所収。(三宅やよい)


August 0982015

 たいようは空であそんで海でねる

                           てづか和代

日記の一行のような句です。夏休みに、海水浴に行った思い出でしょうか。童女は、波にたわむれ、海にただよい、砂浜のパラソルの下で寝ころんで、雲の流れを追います。太陽は、強烈な光を放射していて、目をつぶっても瞼の薄皮を突き抜けて、目の中はオレンジ色の光です。午後になって再び、波にたわむれ、海にただよい、砂浜のパラソルの下で寝ころんで、雲の流れを追います。さっきはまぶしくて目をつぶってしまったけれど、いまは、わきあがり始めた入道雲をじっと見続けることができます。午前中にパラソルの前方にあった太陽は、今、パラソルの後方にあるからです。このとき、8才のてづか和代さんは、たいようは空であそんでいることをしりました。夕方、民宿の窓から海に沈む夕日を見て、和代さんも、すっかり眠くなりました。またあしたあそびましょう。なお、掲句は、各国の児童が参加したハイク・コンテストから優秀作品をまとめた『地球歳時記』(1995)所載で、英訳も付記しておきます。The sun Plays in the sky and Goes to sleep in the ocean(小笠原高志)


August 1482015

 飯盒の蓋に鳥の餌終戦日

                           望月紫晃

盒(はんごう)は、キャンプ・登山など野外における調理に使用する携帯用調理器具・ 食器である。平和な日本の今では趣味のキャンプ等に登場するが、臨戦態勢の戦時中では水筒とともに命を繋ぐ欠かせない容器であった。南方戦線を渡り歩いた私の父はさして威力も無い銃と飯盒一つを携えて投降したと言う。その時、一瞬一瞬に怯える命から開放された。命あることの喜びに包まれて、作者は今飯盒の蓋で鳥に餌をやっている。小鳥よ楽しく囀れよ、もう戦争は懲り懲りだ。明日は八月十五日。他に森功氏の<小さな駅で一人の兵士が泣いていた>、若月恵子氏の<今日よりは帯解く眠り蚊帳青し>、八住利一氏の<なげ出した三八銃に赤とんぼ>など戦争の1,000句が所載されている。『十七文字の禁じられた想い(塩田丸男編)』(1995)所載。(藤嶋 務)


August 2782015

 キリンでいるキリン閉園時間まで

                           久保田紺

リンや象を檻の前のベンチに座ってぼーっと見ているのが好きだ。檻の内部にいる象やキリンは餌の心配がないとはいえ狭い敷地に押し込められて飼い殺しの身ではある。もう出られないことはわかっていてもキリンはキリン、象は象、の姿で人間の目にさらされる。キリンらしいふるまいを求める人間には付き合いきれない「キリンでいるのは閉園時間までさ」ともぐもぐ口を動かしながら人間を見下ろすキリンの心の声を聞きとっているようだ。キリンを見る人間と見られるキリンの関係に批評が入っている。同時に少し横にずらせば、「医者でいるのは病院にいる時間だけさ」「先生でいるのは学校にいる間だけ」と私たちの日常の比喩になっているようにも思える。「尻尾までおんなじものでできている」「別嬪になれとのりたまかけまくる」日常につかりながらも日常から少し浮き上がって自分も含めた世界の在り方を見る、川柳の視線の置きどころが面白い。『大阪のかたち』(2015)所収。(三宅やよい)


September 1392015

 あやまちはくりかへします秋の暮

                           三橋敏雄

りは、謝れば許してくれます。しかし、過ちは、そうはいきません。昭和59年(1984)の作です。前年末に第二次中曽根内閣が組閣された時代です。この内閣は、8月15日に全閣僚が靖国神社を参拝し、また、第三次中曽根内閣では防衛費1%枠を撤廃しました。作者は、このような右傾化の時代状況を深く憂慮していたものと思われます。それは、句集で掲句の直前に「戦前の一本道が現るる」があるからです。作者は戦後しばらく、戦没遺骨を収集しそれを輸送する任務を遂行しました。察するに、戦前の悲惨を骨身にしみ込ませているはずです。「永遠に兄貴は戦死おとうとも」。これらを踏まえて掲句を読むと、作者の意志は、対句である「戦前の一本道が現るる」とともに逆説にあります。そして、これらの句は、現内閣に対しても突きつけられうる警句といえるでしょう。他に「冬の芽の先先国家秘密法」。『畳の上』(1988)所収。(小笠原高志)


October 09102015

 色鳥やおざぶごと母ひつぱつて

                           山本あかね

になると色々な小鳥が渡って来る。庭木も疎らになって枝々の輪郭が露わである。あら今日はこんな鳥が庭先にと、出入りする様々に色付いた小鳥たちの観察も楽しい。こんな小鳥たちが色鳥と言はれる。居間には何時もの様に母がお茶を飲んでいる。近頃は置物の様にちゃぶ台の指定席には母が鎮座している。あら、尉鶲かしら、もうちょっと縁に寄れば母にも見える。つと衝動的に見せたい!と座布団ごと母を縁側に引きずった。背負わずとも母は軽かった。秋の空は底なしに青く明るい。他にも<たくあんをこまかくきざみ大文字><年忘いづれはみんな死ぬる顔><いもうとに薄荷パイプの赤を買ふ>と鋭く日常を切り取る。『あかね』(1995)所収。(藤嶋 務)


January 2212016

 うたはねば冬のヒバリはさびしき鳥

                           筑紫磐井

らかに空高く唄う春の雲雀あり。オスの囀りである。美しい声、うららかな空、昇り詰めて一気に落ちて来る様など見飽きない楽しさがある。それに引替え唄っていない雲雀の何と淋しいことか。ましてや冬の雲雀となれば。いや唄っているのに気付かれぬ事が多い冬の雲雀でもある。その他筆者の自分史というか青春のアリバイとも言える叙述が諸々と治まっている。いや青春に対しての「青い冬」の叙述だったのかも知れぬが。<さういふものに私はなりたくない><恋人よ血が出ぬほどにかまいたち><昭和 あゝ 島倉千代子のうたふ恋>。『我が時代』(2014)所収。(藤嶋 務)


February 1822016

 泣きながらそっと一マスあけはった

                           久保田紺

保田紺さんは大阪の川柳人。四十七歳のときに末期ガンの宣告をうけながらも九年の歳月を生き、数冊の句集をだした。紺さんの「ここからの景色」というエッセイに次の一文がある。「命を限られてからの日々は、確かに辛いものでした。でも決して不幸なことばかりではありません。霧がかかっていた視界は良好となり、好きなものと嫌いなもの。嫌いだと思っていたけど好きなだったもの。必要だと思っていたけれどもそうでなかったもの、そんなものが全部わかるようになりました」句集全体に漂う独特のユーモア、哀愁、やさしさは死への恐怖や不安を乗り越えてのものだった。例えば掲句、泣きながらあけたこの一マスにどれほどの断念があったことか。敬愛してやまない紺さんは闘病やむなく先月亡くなられた。『大阪のかたち』(2015)所収。(三宅やよい)


April 0642016

 さくらさくらわが不知火はひかり凪

                           石牟礼道子

知火海は熊本県と鹿児島県にまたがる八代海のことである。水俣病でよく知られた水俣湾は、不知火海の水俣市沿いを言う。桜が咲き乱れている季節である。光をいっぱいに受けている不知火の海面は凪で、いっそう光り輝いているのであろう。未曾有の工場排水によって、住民が長年苦しんだ惨い歴史をもつ海には、それでもこの季節にふさわしく、光を受けてウソのように何事もないかのごとく、静かに凪いだ水面が広がっている。道子は俳人ではないけれど、あの穴井太と出会って交流するなかで、1986年に句集『天』を刊行している。(原告とチッソが和解するのは10年後だった。)掲出句と、もう一句「祈るべき天とおもえど天の病む」を引用して、酒井佐忠は「彼女の心の底には、いつも桜花が春風に花びらを揺らすように、キラキラと水面を光り輝かせるかつての『不知火の海』がうごめいている」(「抒情文芸」157号)と評している。これら二句は『天』に収められたもの。『石牟礼道子全句集・泣きなが原』(2015)所収。(八木忠栄)


April 2842016

 どないもこないも猫掌に眠りけり

                           矢上新八

猫の恋」があり「猫の子」が季語としてある。猫とはなんとまあ季節に従順な生き物なのか。野生や本能を失いつつある人間とは比べて思う。この頃は野良猫でも地域猫と呼んで去勢や避妊手術を施すことも多いと聞くが、私が子供のころは空き地や電柱の下に空き箱に入れて捨てられた猫や親からはぐれた生まれたばかりの子猫がみいみい鳴いていることが多かった。たまりかねて拾って帰っても「捨ててらっしゃい」と親から厳命されて元の場所に返しに行ったことも一度や二度ではなかった。生まれたての子猫を掌に載せて、おまけにすやすやねむっているの「どないもこないも」できない気持ちはよくわかる。「しゃーないなあ」と家猫にしたのだろうかこの人は。関西弁が柔らかい句集。『浪華』(2015)所収。(三宅やよい)


May 2752016

 目つむりていても吾(あ)を統(す)ぶ五月の鷹

                           寺山修司

とは、タカ科の比較的小さ目のものを指す通称である。タカ科に分類される種にて比較的大きいものをワシ、小さめのものをタカとざっくりと呼び分けているが、明確な区別ではない。日本の留鳥としてオオタカ、ハイタカ、クマタカなどの種がいて、秋・冬には低地でみられる。冬の晴れ渡る空に見つけることが多いので鷹だけだと季語は「冬」の部である。荒野を目指す青春の空に大きく鷹が舞っている。五月のエネルギーが、羽ばたけ、羽ばたけと青年の心を揺さぶる。飽きずに眺める大空には舞う鷹、目をつむっても残像が舞っている。今この新緑の中に何かに魅せられた様に多くの青年達が旅立ってゆく。青年修司は二十歳で俳句を断ち別の思念へと旅立って行った。他に<恋地獄草矢で胸を狙い打ち><旅に病んで銀河に溺死することも><父を嗅ぐ書斎に犀を幻想し>など修治の青春性が残されている。「俳句」(2015年5月号)所載。(藤嶋 務)


May 2952016

 不器用は/如何なる罪ぞ/五月闇

                           鵜澤 博

かに怒っています。手先の不器用さにではありません。自分が、あるいは目をかけている人が、人間関係に不器用なんでしょう。相づちを打てない。愛想笑いをしない。納得のいかない意見には同意しない。旧態依然の悪弊には従えない。この、真っ当な心根のどこが罪なのか、と問うています。ところで、五月闇は、梅雨時の夜、月明かりが厚い雲に隠された闇のことです。ここから、昼の闇にも汎用される使われ方もありますが、掲句の場合は心象風景の闇でしょう。かつて、受験勉強で燃え尽きた新入生は、学生生活にすぐにはなじめず、五月病にかかりました。五月闇は、同じ心のやみですが、それとはちょっと違った意味合いがあります。新入社員たちは新人研修を終えて、それぞれの部署に配属されました。そこには独自の社内ルールが適用されていて、一般常識からみれば到底受け入れることのできない掟に縛られていることもあるでしょう。その現実に直面したとき、純粋さは、不器用さとしてもて余されてしまう。21世紀を迎えても、湿潤な気候風土の日本の社会には、五月闇が存在しています。なお、句集の表記は、横書き三行分けです。『イヴ仮説』(2002)所収。(小笠原高志)


June 0962016

 住み着いてから貧乏と知った猫

                           板垣孝志

の川柳ばかりを集めたアンソロジーの中の一句。猫と孫の俳句は犬も食わないと言われるが、愛情が勝ち過ぎてべろべろになってしまうからだろうか。それに俳句では季語と猫の兼ね合いが難しいが、川柳の猫は輪郭がはっきりしている。適度な距離感をもって猫が生き生きと動き回っている。可愛い写真やエッセイも楽しくお薦めの一冊である。さて掲句は朝日新聞で連載中の「吾輩は猫である」よろしく迷い込んで住み着いたものの自分のエサも危ういぐらい貧乏だと気づいた猫の感想だろうか。猫は冷静な観察者なのだ。飼い主べったりの犬とは違うドライさで飼い主も環境も分析しているのだろう。『ことばの国の猫たち』(2016)所収。(三宅やよい)


July 0572016

 人類の旬の土偶のおっぱいよ

                           池田澄子

房や腰まわりが強調された土偶は多産をもたらす象徴とされ、日本では縄文時代に多く作られた。母神信仰の象徴である土偶には乳房や妊娠線までもが描かれているという。「おっぱい」の語源には諸説あるが、なかでも「ををうまい=なんたる美味」が略されたといわれる説が好ましい。生まれて一番最初に向き合うもっとも大切なものの名にふさわしく、ふっくらとやわらかな語感を声に出せば、今も懐かしさと愛おしさに包まれる。掲句では、乳房のある土偶を前にして、人々が活気づき、輝いていた時代に思いを馳せる。人間ではなく人類としたことで、厳しい環境を経て二足歩行を覚え、道具を手にして生き延びてきた歴史にまでさかのぼる。子を生み、育てることが一大事だった時代にこそ、人類の豊穣があったのだと気づく。そして、掲句は無季である。私は力強い太陽が容赦なく照りつけるこそふさわしいと感じていたが、以前清水哲男さんが掲句を鑑賞した際には「冬の季節にこそ輝きを放つ句」とされていた。あるいは、生きものたちの恋の季節である春を思ったり、雨が緑の艶を深める梅雨の時期に重ねる読者もいるだろう。それぞれに手渡されていくときに、季節が邪魔になることもあると知る一句である。『たましいの話』(2005)所収。(土肥あき子)


August 0782016

 さようなら秋雲浮かべ麹町

                           清水哲男

日、立秋です。秋の始まるこの日、日曜の増俳もさようならとなりました。長い間、拙文をお読み頂き、ありがとうございました。さて、先週日曜の午後、清水さんにお電話しました。「この句は、麹町にあるFM東京のパーソナリティーをお辞めになった時の句ですか」「そうそう」「何年の何月ですか」「忘れたなあ」「1980年の半ばくらいまででしたよね」「うん」「何年続けられたんですか」「12年半」「朝の9時頃までの放送だったと思いますが、スタートは何時からでしたか」「7時から9時まで」「その頃は相当な早起きですよね」「4時に起きていた」「始発で出勤ですか」「家の近くはバスも通っていないんで、タクシーと契約してたんだ」「その頃は就寝も早かったでしょうね」「うん。9時とかね」「私は、坂本冬美さんがゲストだった放送のことをよく覚えているんですが」「坂本冬美は、アマチュアのコンクールに出ていた時から注目してたんだ。それに優勝して、まだ、新人の頃だね」「他に印象に残っているゲストはいますか」「うーん、、、マスゾエさんかなぁ。新進気鋭の国際政治学者で切れ味がよかったね」「あの時代としてはかなり右寄りの発言を堂々と喋っていましたね」「そうそう。政治のコメンテーターとして、番組のレギュラーだったんだ」「ところで、ラジオのパーソナリティーになられたきっかけは何だったんですか」「ラジオに原稿を書いていたんだけど、ディレクターから、書くより喋る方が手っ取り早いからやってみないかって言われてね」「では、この句に解説を加えるとすればいかがでしょう」「そのまま。自分のために作った句だよ」「もう一句教えて下さい。私の好きな句に〈ラーメンに星降る夜の高円寺〉があって、何人かでこの句を話題にした時、この句は秋か冬の句だろうねということに落ち着いたのですが、句集の配列では〈さらば夏の光よ男匙洗う〉の次にあるので、夏の句かなとも思うんですがいかがですか」「忘れた」「無季ということでいいですか」「うん。」「それでは最後に、今年の阪神タイガースについてどう思われますか」「過渡期だね。いろいろ動かしているんじゃないかな」「たしかに全球団の中で一番選手の入れ替えが激しいですよね」「金本がフロントから言われてるんじゃないの?」「昔のストーブリーグのフロントとは大違いですね」「フロントも若くなったんじゃないの?何年後かを見据えた長期の展望を持つようになったんじゃないかな」。学生時代、ラジオから聞いていた声を受話器で聞けたしあわせな通話でした。以下、恐縮ですが私事のお知らせをお許しください。10月15日(土)から11月18日(金)まで、ユジク阿佐ヶ谷という小さな映画館で、『映像歳時記 鳥居をくぐり抜けて風』(池田将監督)を公開します。私の企画・脚本・プロデュースです。増俳を執筆しているうちに、観る歳時記を作りたくなり、三年かけて完成しました。イギリス生まれの少女が、熊野に住んでいる祖父と神社を旅する映画で、南方熊楠が、鎮守の杜の中で見つけた粘菌類のはたらきについて考えています。映画を観た後に、俳句を投句してもらおうと思っています。それらをHPに掲載させていただきます。また、映画館内吟行句会も計画しています。映画を観て、俳句を作る。ユジク阿佐ヶ谷の館長には、30年間上映させてほしいとお願いしましたが、とりあえずひと月という事になっています。みなさんが、銭湯に通うようにこの映画にひたっていただければ、長期上映となり、ユジク阿佐ヶ谷を俳句仲間のサロンにすることも可能になります。これに関しては、館長さんの了承を得ていますので、どうかみなさん、お越しください。詳しくは、『映像歳時記 鳥居をくぐり抜けて風』をご覧下さい。最後に、俳句を読み、文章を書く機会を与えてくださった清水哲男さんに感謝申し上げます。さようなら。『匙洗う人』(1991)所収。(小笠原高志)


August 0882016

 被爆後の広島駅の闇に降りる

                           清水哲男

「増殖する俳句歳時記」は当初の予定通りに、20年が経過したので、本日をもって終了します。最後を飾るという意味では、明るくない自句で申し訳ないような気分でもありますが、他方ではこの20年の自分の心境はこんなところに落ち着くのかなと、納得はしています。戦後半年を経た夜の広島駅を列車で通ったときの記憶では、なんという深い闇のありようだろうと、いまでも思い出すたびに一種の戦慄を覚えることがあります。あの深い闇の中を歩いてきたのだと、民主主義の子供世代にあたる我が身を振り返り、歴史に翻弄される人間という存在に思いを深くしてきた人生だったような気もしております。みなさまの長い間のご愛読に感謝するとともに、この間ページを支えつづけてくれた友人諸兄姉の厚い友情にお礼を申し上げます。ありがとうございました。(清水哲男)




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