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July 1271996

 かき氷くづしどうでもよかりけり

                           奥坂まや

性でなければ、まずは絶対に書けない句。で、このかき氷をどうしたか。作者はきっと、たいらげてしまったはずである。すねているのか、かなり怒っているのか、そのへんの事情はわからない。けれども、男の場合は「くづし」たりもしない。手なんかつけないのだ。奥坂さんは神田神保町の生まれだそうだが、こういうときには、私だったらそれこそ神田の「ランチョン」あたりで、ひとりビールを飲むだろう。(清水哲男)


July 1371996

 氷片を見つめ見つめて失いぬ

                           池田澄子

と人との付き合い方は難しい。ふとウィスキーグラスの中の氷片を見つめてしまった。カリリンという涼しげな音立てていた固体。形あるものもいつしか消えてしまう。でも、まあいいか。こんな句を作る女性ともう一杯。(八木幹夫)


June 2062001

 母棲んでしんかんたりや氷水

                           清水基吉

い日に、独り住まいの老母を訪ねた。「氷水」は一般的に「かき氷」のことを言うが、四十年ほど前の句であることを考え合わせると、氷片を浮かべた砂糖水のようなシンプルな飲み物ではなかろうか。冷たいグラスには、水滴が滴っている。「しんかん(森閑)」が、小気味よくも効いている句だ。ひっそりと暮らす老母の「しんかん」。その住まいに染み込んでいるような「しんかん」。出された氷水の「しんかん」。そして母と子のさしたる会話も交わされない「しんかん」に至るまで、それらすべてが重ね合わされて浮き上がってくる。とくに変わった様子もない母親の姿に安堵して、作者はこの静けさに満足している。職場ではもとより自宅でも味わえない静けさのなかで、かく詠嘆する大人となった子供の心は、かつては賑やかだった我が家の盛りの頃をちらりと思い出したかもしれない。「人に盛りがあるように、家には家の盛りがある」という意味のことを書いたのは、たしか詩人の以倉紘平であった。掲句を読んでいて、そういうことも思い出した。「氷水」を飲んでから、作者はどうしたろうか。私なら、母に甘えてちょっと昼寝をさせてもらうだろう。そういうことも、思った。尊いほどに美しい句だ。『宿命』(1966)所収。(清水哲男)


July 2972002

 冷淡な頭の形氷水

                           星野立子

かき氷
い日がつづきます。氷水など如何でしょう。私の好きな「宇治金時」。デザイン的に「冷淡な頭の形」を餡で覆って、冷淡に見えないように工夫された(のかどうかは知らないけれど、そんな気がする)発明品だ。掲句は、正直言ってよい出来ではない。でも、後世のために(笑)書いておくべきことがあるので、取り上げた次第。すなわち、立子は主に東京や鎌倉で暮らした人だったから、氷水(かき氷)というと「冷淡」とイメージしていたのだろう。面白い見方とは思うが、何を言っているのかわからない人も大勢いるはずだ。というのも、東京近辺の氷水はシロップを器に入れてから、その上に氷をかく。したがって、「頭」部は写真の餡を取り払った感じになり、氷の色そのものしか見えないので、なるほどまことに冷淡に写る。が、名古屋以西くらいからは、氷をかいた上にシロップを注ぐ。と、見かけはちっとも冷淡じゃなくなる。九州の一部の地方では、まずシロップを入れて氷をかき、その上に重ねてシロップを注ぐという話を聞いたことがあるが、真偽のほどは確認できていない。いずれにしても、俳句を読むときに厄介なのは、こうした地方的日常性や習慣習俗などをわきまえていないと、とんでもない誤読に陥ってしまうケースがよくあるということだ。当サイトでも、かくいう私が何度も誤読してきたことは、読者諸兄姉が既にご承知の通り。ましてや、時代を隔てた句となると、作者の真意をつかむのが余計に難しくなる。誤読もまた楽し、と思ってはみるものの、あまりのそれは恥ずかしい……。ところで写真の宇治金時は、一つ5,500円也。550円の誤記ではありません。何故なのかは、おわかりですよね。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


July 0872007

 氷屋の簾の外に雨降れり

                           清崎敏郎

供の頃、母親のスカートにつかまって夕方の買い物についてゆくと、商店街の途中に何を売っているのか分からない店がありました。今思えば飾り気のない壁に、「氷室」と書かれていたのでしょう。その店の前を通るたびに、室内に目を凝らし、勝手な空想をしていたことを思い出します。氷屋というと、むしろ夏の盛りに、リヤカーで大きな氷塊を運んできて、男がのこぎりで飛沫を飛ばしながら切っている姿が思い浮かびます。掲句に心惹かれたのは、なによりも視覚的にはっきりとした情景を示しているからです。冷え切った室内の暗い電球と、そこから簾(すだれ)ごしに見る外の明るさの対比がとても印象的です。先ほどまで暑く陽が差していたのに、降り出した雨はみるみる激しくなってきました。夕立の雨音の大きさに比べて、簾のこちら側は、あらゆる音を吸収してしまうかのような静けさです。目にも、耳にも、截然と分けられた二つの世界の境い目としての「簾」が、その存在感を大きくしてぶら下がっています。夏の日の情景が描かれているだけの句なのに、なぜか心が揺さぶられます。それはおそらく、傘もささずに急ぎ足で、簾のそとを、若かった頃の母が走りすぎていったからです。『現代の俳句』(1993・講談社)所載。(松下育男)


July 1972009

 お互いにそれは言わずにかき氷

                           川阪京子

週に引き続いて子供の句です。この句は作者が高校2年生のときに詠まれたもの。ことさら意味を解説するまでもなく、こんなこともあるなと、だれしも思いつくことのできる、平明な句です。友人との喧嘩のあとでしょうか。理解のすれ違いが原因のようです。語り合えば双方の誤解が解けると、わかってはいても、意地を張り続けてみたい時はあるものです。それでも一緒にかき氷を食べているところを見ると、お互いを思う心は、かなり深いようです。仲がよいからこそぶつかってしまう。人と人とのつながりとは、なんとも不思議なものです。相手の怒り方も、この先どのように和解してゆくかも、予想はついているのです。だから今、そのことを言い出す必要もないと、お互いがわかっているのです。そのうちにまた接近することは間違いがない。そんな関係性にもたれながら、氷小豆と氷イチゴでも食べているのでしょうか。「ひとくち頂戴」と、相手の氷にスプーンを持ってゆけないのが、多少つらいところです。『ことばにのせて』(2008・ブロンズ゙新社)所載。(松下育男)


May 1452010

 素老人新老人やかき氷

                           村上喜代子

老人とは言えても素老人とはなかなか言えない言葉。もちろん素浪人とかけている。近所の公園は朝五時ごろから老人天国。老人に占拠されたような状態である。犬の散歩、野良猫に餌をやる人、運動をする人。運動する人はいくつかに分類できる。自分で体操する人、みんなでラジオ体操する人、走りまわる人、歩きまわる人。その中にゴミを拾っている人も見かける。女性も男性も全部老人ばかりである。町が本当に占拠されることはないのだろうか。怒りの老人が老人解放戦線を組織して立ち上がる。老人が保守だと誰が決めたのだ。老人という言葉に定義はない。自分が老人だと思えば老人であり、自分から見て老人だと思える人は自分にとっては老人である。僕は今年還暦になる。まぎれもなく老人である。季語かき氷はまことに巧みな斡旋だが、すぐ崩れるようで切ない。「俳句」(2009年9月号)所載。(今井 聖)


July 1472016

 かき氷前髪切った顔同士

                           工藤 惠

しぶりに会った友達同士、顔を見合わせて「髪切った?」同時に言って何となく笑いあう。向かい合ってかき氷を食べていても前髪を切った互いの顔を正面から見るのがまぶしくて、下を向いてかき氷を一匙一匙丁寧にすくって食べる。そんな光景が目に浮かぶ。前髪を切ると、 顔がむき出しになる気恥ずかしさがあって美容院でも「前髪、切りすぎないでくださいね」と美容師に念押しする女の子をよく見かける。色鮮やかなかき氷はなんといっても若者の食べ物。私などはあの氷の山を食べつくす気力はもうない。『雲ぷかり』 (2016)所収。(三宅やよい)




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